EP03 二月二十六日、午前三時
二月二十六日、午前三時。世界が最も深い眠りに沈む時刻。渋谷の地下で、宮内の網膜に無機質なコードの羅列が反射している。
「警視庁の初動監視システム、完全停止を確認」
インカム越しに、六本木にいる新城の冷たい声が響く。
「了解。これより本丸を落とす」
宮内はエンターキーを押し込んだ。標的は、フレッシュ・リンガスをはじめ国内の物流・小売各社の基幹システムを陰で支える、外資系クラウド基盤ベンダー『アトランタス』。
新城が穿った保守用バックドアは、本来決済システムから隔離されているはずの開発系ネットワークへの、細い裂け目に過ぎない。宮内はそこから、半年がけで集めた退職者の使い回しパスワードと、内部文書の断片を足がかりに、権限を一段ずつ食い破っていく。セグメンテーションという名の防火壁を、力ではなく忍耐で溶かしていくような作業だった。
宮内の画面に、見慣れない警告ウィンドウが浮かんだ。
「新城さん」インカムに声を送る。「アトランタス側のSOCが、こっちの侵入経路に気づきかけてます」
「対処できるか」
「今、おとりを作ってます」
宮内はキーボードを叩いた。別の踏み台サーバーから、わざと目立つ異常通信を発生させる。しばらくして、監視ログの追跡先が、本来の侵入経路から逸れていくのが見えた。
「食いついた」宮内が短く言う。「シンガポール発の攻撃だと思ってる」
「本物はどっちだ」
「もちろん、こっちです」
「お前、こういう仕事、楽しんでないか」
「楽しんでません。ただ、得意なだけです」
やがて最後のゲートが落ちる。数分後、国内最大級の決済インフラと数千万件の顧客データが、一介の会社員の手の中にあった。
同時刻、物理空間でも二つの天誅が執行されていた。
東京都世田谷区。高い塀に囲まれた大河内厳の豪邸。外周に沿って停まった黒いバンから、十数人の男たちが音もなく降りた。哲平の部隊三人と、鷲尾が寄越した皇道一新会の男たち。
「思ったより、警備が増えてますね」
哲平が双眼鏡を覗く。「物価高で世間が荒れてるからか。先月、警備会社と新規契約したらしいっす」
「上等だ」
皇道一新会の班長格、四十がらみの男が拳を鳴らす。「俺たちは喧嘩の方が得意でね」
自宅警備のセンサーは新城の遠隔操作で、すでに沈黙している。門扉脇、警備員二人が立っていた。
「おい、お前ら――」
一人が声を上げかけた瞬間、皇道一新会の男が背後から首を絞め落とす。もう一人は哲平の仲間がバールで膝を割った。
「ぐあっ……!」
うずくまった警備員の口を、別の男が即座に塞ぐ。
「館内にもう二人いる。庭師のふりした見張りも一人」
哲平が部下に指で合図する。玄関ホール。出てきた制服姿の警備員が、特殊警棒を構える間もなく、皇道一新会の男に組み付かれた。壁に叩きつけられる鈍い音。続いて二階から駆け下りてきたもう一人を、哲平自身が体当たりで階段下まで転がす。
「……っ、てめえら――」
「黙れ」
哲平が膝で押さえつけ、首筋に注射器を打ち込んだ。男の身体から力が抜けていく。全員を制圧するまで、九十秒もかからなかった。
「綺麗な手際だ」皇道一新会の班長が口笛を吹く。「トクリュウの連中も、見直してやらんといかんな」
その時、皇道一新会の若い男の一人が、リュックから何かを取り出した。布製の旗――『皇道一新会』の文字が染め抜かれている。
「ちょっと待て」哲平が割って入った。「何やってんだ」
「現場に残すんですよ。総裁の指示でしょ」
「いや、それはダメだ」
「は?親父から聞いてないんですか」
「聞いてる。だが今はダメだ。警察の偽装工作と矛盾する」
班長が間に入る。
「……まあいい。今夜は持って帰れ。チャンスはまだある」
若い男は不満げに旗をリュックへ戻した。哲平はその様子を一瞬だけ見つめ、何も言わずに二階へ向かった。
大河内厳の寝室。キングサイズのベッドで、高級なシルクのシーツに包まれて眠る男。原材料高を隠れ蓑に便乗値上げを繰り返し、買えない奴の自己責任」と公言していた顔には、傲慢な弛みが浮かんでいた。
哲平は一切の躊躇なく、大河内の顔面に分厚い防刃テープを叩きつけた。
「んぐっ……!?」
跳ね起きた巨体を、三人の男が体重をかけて一瞬でベッドに縫い付ける。結束バンドが手首と足首に深く食い込んだ。唇が忙しなく震え、声にならない言葉を漏らした。
「俺たちの食卓から奪った金で寝るベッドは、ふかふかか?」
哲平は冷たい目で見下ろし、手にしたバールを容赦なく大河内の胸板に振り下ろした。鈍い肋骨の砕ける音。大河内の巨体が痙攣し、やがて動かなくなった。
部屋の外で、皇道一新会の班長が静かに言った。
「いい仕事だ。だが、てっぺい――旗の話、忘れんなよ」
*
港区・六本木。超高級ホテルの最上階へ向かう非常階段。新城貴明は足音を殺し、踊り場で足を止めた。階段の上から、警備員の声が聞こえた。
「……了解です。最上階、異常なしです」
トランシーバーに応える声。足音が近づいてくる。新城は咄嗟に死角へ身を寄せた。胸ポケットから警視庁の身分証を取り出す。
「お疲れ様です」
警備員が踊り場に姿を見せた瞬間、新城は先に声をかけた。
「……どなたですか」
「警視庁サイバー犯罪対策課です。本日未明、このホテル周辺で不審な通信機器の使用報告がありまして。確認だけさせてください」
新城は身分証を一瞬だけ見せ、すぐにしまった。
「あ……はい、どうぞ」
警備員は怪しむことなく頷いた。階級と地位の鎧は、こういう瞬間にこそ機能する。
「最上階に、外国籍のお客様がいらっしゃいますね。どなたか教えていただいても」
「はい、ザッカリー・メイナード様です」
「その階のセキュリティカメラ、念のため一時的に止めていただけますか。捜査の都合上」
「えっ、それは……。どういう法的根拠で?」
警備員が一瞬、躊躇する。
「五分で済みます。テロ関連の可能性がある案件なので」
新城は表情を変えずに言った。「責任は警視庁が持ちます。私の名刺をお渡ししておく」
「……分かりました」
警備員は無線で本部に連絡し、最上階のカメラを止めた。
「ご協力、感謝します」
新城は一礼し、警備員が降りていくのを見送った。足音が完全に消えるまで、十秒。新城はすでに死んでいるはずの天井のレンズへ、小さく頷いた。記録上、カメラはホテル側が「正当な手続き」で止めたことになる。新城自身のハッキングの痕跡は、その下に隠れて消える。
最上階のスイートルームへ続く廊下。新城は静かに歩を進めた。手にはワイヤーが仕込まれた特殊な絞殺具。標的は、外資系ギグワークプラットフォーム『ブービー』日本法人代表、ザッカリー・メイナード。
電子ロックを解除して寝室に踏み込むと、高級な香水の香りが漂っていた。メイナードは若い女を侍らせて熟睡している。新城は女の首筋に麻酔薬を押し当てて気絶させると、振り返ってメイナードの首にワイヤーを巻きつけた。
「……What the――」
目を覚ましたメイナードが叫ぼうとした瞬間、新城はワイヤーを軽く一度だけ引いた。
「う!ぐぐううぅぅぅ……」
声が消える。喉から漏れるのは、空気が抜けるような薄い音だけだった。新城は男の充血していく目を、表情も変えずに見下ろした。
「ギグワーカーは管理できても、自分の頸動脈までは管理できないってことだな」
言い終えると同時に、ワイヤーを最後まで締め上げた。




