EP11 国力なんか、知ったことか
「サッチャーが嘲笑したのは、格差を憎むあまり、全員で貧しくなろうとする人間です。俺は、それじゃない。あなたに言わせてもらえば――あなたという人間は、その台詞の、語られなかった後半そのものだ。『富裕層がより豊かになるなら、貧困層は貧しいままでいい』。あなたはその言葉を口にしたことは一度もない。だが、あなたの三十年間の行動そのものが、それを証明してきた」
「……屁理屈だ」
「屁理屈で結構です。あなたが好きな言葉で言えば、データがそれを裏付けています」
宮内は小さく息を吐き、眼鏡を中指で押し上げた。
「物質的に豊かであることが、幸せなんでしょうか。そうかもしれません。ただ、あなたの言う『経済力』が下がれば、私たちは本当に不幸になるんですか。GDPが日本より低い国の人間は、全員、日本人より不幸なんですか。あなたたちは、数字という檻で人の心を縛りつけて、精神的な貧困を量産してきただけです。あなたたちが国力』を守るために見捨ててきた練馬の老夫婦は、今夜、あなたの投資口座から流れた金で、久しぶりに温かい飯を食べています。あなたたちの言う『国力』の中に、彼ら彼女らの生存は入っていなかったんですよ」
「俺を殺しても、何も変わらないんだぞ……!」
背後から、哲平の声が言葉を叩き割った。インカムを通して、宮内の耳にだけ届く声だった。
(はあ? 知らねーよ。てめーらが不幸になるのが、俺らの幸せなんだよ)
宮内はノートPCのEnterキーを叩いた。
鶴見の胸元で、金属的な、ごく微細な警告音が鳴る。スマート・ペースメーカーが、外部から送り込まれた致死的なオーバークロック信号を受信した。
「ぐっ……あ、あ……!」
鶴見の呼吸が止まった。身体が激しく痙攣し、デスクの上の高級なペン立てが床に落ちて鈍い音を立てる。
苦悶に歪む鶴見の瞳に、ストップ安の株価ボードが映り込む。
数秒の痙攣ののち、鶴見の身体から力が抜け、デスクの上に沈黙した。
「トクジさん、こっち片付きました」宮内はインカムに向けてそう言った。
「……終わったか」
トクジさんが懐からスキットルを取り出し、一口だけ呷った。
「ああ。すべて終わった」
宮内は鶴見の遺体を椅子に座らせ直すと、遠隔から管理ログを書き換え、ペースメーカーの通信履歴を消去した。物理的に壊す必要はない。残るのはただの、デジタル時代の自然死だ。
「なあ、宮内」インカムから、哲平の声が届く。「これで世界は変わったのか?」
「さあな」宮内は眼鏡を拭きながら答えた。「だが、少なくとも今夜は、練馬の団地で泣いている老夫婦が、腹を満たして眠れるだけの金は動いた。それだけで十分だ」
宮内は証拠を一切残さず、消えるようにCEO室を後にした。
翌朝。テレビの街頭ビジョンが、三人の大資本家の死を報じていた。大河内厳とザッカリー・メイナードの死は、依然として「物盗り目的の押し入りによる殺人事件」として捜査が続けられている。一方、最後に世を去った鶴見玲央の死因は、「会議中の急性心不全」として処理されたままだった。
*
一週間後。
『電脳維新』と呼ばれた事件の爪痕は、奇妙な形で社会に定着していた。
配送プラットフォーム『ブービー』は、メイナード不在のまま機能不全に陥り、一時的に事業を停止せざるを得なくなった。その空白を埋めるように、地元の商店街や配送組合が独自の配送システムを構築し始めている。大手チェーンによる価格操作は、今やSNSによる「グラム単価監視」の目にさらされ、露骨な値上げは即座に拡散され、不買運動の対象となるようになった。
練馬区中村橋駅前。夕暮れ時、スーパー『テンドウ』には、今日も長い行列ができている。
宮内健介は、仕事帰りにそこに並んでいた。彼のカゴに入っているのは、特売の鶏肉と、少しだけ安くなった野菜。
列の先で、いつもの老夫婦が買い物をしている。
「おじいちゃん、今日はいいお肉が買えたわねえ」
「ああ、お肉屋さん、急に値段を下げてくれたからな。不思議なもんだ」
宮内はその会話を聞きながら、静かに列を進める。
彼は今も『ネクスト・プルート』の経営企画室で働いている。鶴見の死後、会社は解体的な再編を余儀なくされた。宮内はそのまま残留し、今は現場の社員たちの賃上げを主張する、少しだけ「面倒なマネージャー」として扱われている。
その時、一人の自転車配達員が駅前を通り過ぎた。手作りのロゴが入った質素なリュックを背負っている。哲平だ。
二人は一瞬だけ、視線を交わした。
挨拶も、会釈もしない。重油の匂いのする地下室で謀略を分かち合ったことも、資本主義の王たちを断罪したことも、ここでは「なかったこと」として処理されている。
哲平はわずかに顎を引くと、夜の街へと消えていった。
宮内はレジに並び、会計を済ませた。
店員がバーコードをスキャンする。レジから警告音は鳴らない。しかし、その価格は、かつてないほど「適正」だった。
「合計で、二千円になります」
店員の言葉に、宮内は千円札二枚を出す。
喉の奥の乾きは、もう感じない。ただ、重油の匂いがする冷たい地下室の記憶だけが、今も胸の底に硬く沈んでいる。
彼は袋を提げ、中村橋の路地裏へと歩き出す。
ふと見上げた東京の空は、相変わらず霞がかかっていて、星ひとつ見えない。しかし、その地面に生きる人々の食卓は、ほんの少しだけ、温かかった。
「国力なんてどうでもいい」
宮内は誰に聞かせるでもなく、夜風に呟いた。
「俺たちが、今日、腹一杯食えれば、それでいいんだ」
背後で駅の発車ベルが鳴る。
電車が、日常という名の歯車を回し始める。
宮内健介は、その日常というノイズの中に、完全に溶け込んでいった。




