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電脳維新――これは犯罪か、それとも維新か。現代版二・二六事件勃発――  作者: 吉田梅之助


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EP10 拝金主義者、執行

「あれ、皆さんは?」


 若い技術者が一人、戸惑った顔で立っていた。


「臨時のメンテで来てます」哲平がすぐに答える。

「あれ、今夜の作業予定はないはずですが……」


 技術者の視線が、開いたラックと、挿さったデバイスに移った。表情が、戸惑いから疑念に変わっていく。

「……これ、本部に確認させてもらっていいですか」


 タイジが静かに技術者の背後に回り込んだ。技術者が振り返る前に、首筋に注射器を押し当てる。短い呻き声とともに、男はその場にずるずると座り込んだ。


「進行は」哲平が画面を見つめる。「六十」


 技術者が床に伸びている姿を見て、タイジが小さく息を吐いた。

「気づかれるの、早すぎますね」

「想定の範囲内だ」宮内の声が応じる。「むしろ、ここからが本番だ」


「本番?」

「彼に不審者として通報されるのが一番厄介だった。だが彼が消えた今、まだ館内の誰も騙されたままだ。このタイミングで、こっちから情報を流す」


 宮内の指示で、哲平はタブレットを操作し、施設の管理システムへ偽の警報を送り込んだ。


「不活性ガス検知系統に異常を検出しました。安全のため、該当区域への立ち入りを禁止し、全館避難を開始してください」


 無機質な放送が流れる。


「ガスって消火用のやつですか。ガス漏れの噓を、向こうの放送設備で流させたんですか」哲平が訊く。

「本物のガスを撒くより、よっぽど安全だ」宮内が言う。「全員が避難する。お前らも、避難する一人になればいい」


 廊下のあちこちで、警備員や夜勤の社員たちが、戸惑いながらも出口へ向かって歩き出していた。


「進行、九十五……」哲平が画面を見つめる。

「百」タイジが囁いた。「完了です」

「デバイスを抜け。あとは、人の流れに乗って出ろ」


 二人はデバイスとタブレットを回収し、倒れた技術者をその場に残して、サーバールームを出た。避難する社員の群れに混じり、誰に呼び止められることもなく、正面玄関から外へ歩いていく。


「お疲れさん」


 駐車場の隅、トクジさんがバンの窓から手を上げた。二人が後部座席に滑り込むと、バンはゆっくりと、避難する人々の流れに逆らわない速度で、敷地を出ていった。


「拍子抜けするくらい、静かな脱出でしたね」哲平が呟く。

「静かな方がいいんだよ」トクジさんが笑う。「映画みたいな脱出は、現実じゃ捕まる側のものだ」

「宮内さん」哲平がインカムに言う。「これで、ケイト・モリスは詰むんですか」

「分からない」宮内は静かに答えた。「ただ、彼女が決定的な証拠を手にする前に、時間を稼いだだけだ」


 バンが走り出す。次の目的地は、渋谷のCEO室だった。


 同日の夜、午後十時。渋谷『ネクスト・プルート』本社最上階、CEO室。


 そこは、経営数字だけが支配する聖域であるはずだった。しかし今、ガラス張りの部屋には、行き場を失った恐怖と死臭に近い焦燥感が充満していた。


 鶴見玲央は、窓ガラスに背中を預け、たった一人で部屋に入ってきた男を見つめていた。


「……宮内くん。なぜ、君がここにいる。セキュリティはどうした」


 宮内は社員証で扉のロックを解除し、何の躊躇もなく部屋に入ってきていた。最上階の警備員は、トクジさんの古巣に残る伝手によって、今夜だけ別の場所へ呼び出されている。


 鶴見の声は、もはや震えていなかった。窓に背を預けたまま、ゆっくりと顔を上げる。


「君が……この異常事態の首謀者か」


 宮内はゆっくりと、まるで重要な会議のプレゼン資料を並べるかのように、ノートPCをデスクの上に置いた。


「ステークホルダーへの説明責任の時間です、鶴見社長。私は株主でも、投資家でもない。……あなたのシステムの、最も現場に近いユーザーです」


「ユーザー?」鶴見が鼻で笑った。「システムを乗っ取ったテロリストが、何を偉そうに。君が何をしたか分かっているのか。市場を混乱させ、株価を操作し、国全体の経済への信頼を毀損させた。君の行為は、結局、自分の首を絞めるだけだ!」


 宮内の眼鏡が、室内の照明を反射して白く光る。


「経済への信頼? 信頼とは何ですか。株価のグラフが右肩上がりであること? それとも、あなたが『パーパス』という言葉で煙に巻いてきた、現場の疲弊を放置しないこと?」


 鶴見の喉がヒュッと鳴った。だが、ここで這いつくばるほど彼は安っぽい人間ではない。震える手でスーツの乱れをただし、長年身にまとってきた「強者のロジック」を引っ張り出した。


「聞いてくれ。私を殺せば、日本の経済インフラは崩壊するんだぞ!株価はさらに暴落し、海外の資本は逃げ出す。国力が、GDPが致命的に毀損するんだ! 結局は君たちの生活品質が、日本国民全員の生活が今よりさらに貧しくなる! 私の命は、この国の経済を回すための重要な駆動力なんだ!」


 宮内は小さく息を吐き、眼鏡を中指で押し上げた。


「ご立派なプレゼンテーションです、社長。一点だけ、訂正させてください。あなたは、自分の立場を根本的に見誤っている」


 宮内は鶴見の胸倉を掴み、力任せにデスクの上に組み伏せた。


「――余談に付き合ってもらえますか。あなたと会社の関係は、法律上、雇用ではありません。委任です。そして委任という契約は、元来、無報酬が原則だった。特約がなければ報酬は請求できない」


「……何の話をしている」


「なぜだと思います? 委任とは、もともと、すでに足りるだけの富を持つ者が、信頼に応えて対価を求めず人のために働く――そういう関係だったからです。医師も、弁護士も、聖職者も、根は同じ。足りている者が、足りていない者のために動く。それが、この言葉の出自です」


「……寓話だ。会社は慈善事業じゃない」


「もちろん、貴族がいた時代と今では事情が違う。誰にでも無償労働を強いろとは言いません。ですが――その根にあった精神くらいは、少しは残っていてもよかったんじゃないですか。社会のために。この国に生きる人間のために。あなたは『株主への説明責任』という言葉を、数えきれないほど口にしてきた。その同じ口で、現場や、この国の生活者への責任を語ったことが、一度でもありますか」


 鶴見は答えられなかった。


「私が訊いているのは、それだけです、社長。あなたにそれがありますか」


「……そんな理屈で、人を殺すのか。私を殺したところで、貧困層の暮らしは一円も良くならないんだぞ!」

 宮内は地を這うような声で囁いた。


「昔、サッチャーというイギリスの首相が、あなたと同じようなことを言っていましたね。『貧困層が望んでいるのは、貧しい者が豊かになることじゃない。富む者が、自分たちと同じ高さまで落ちてくることだ』と。格差そのものを憎む者たちへの、強烈な皮肉です」


「……だったら分かるだろう。君がやっていることも同じだ。妬みだ。富裕層を引き下げたいだけの、嫉妬の論理だ」


「いえ、社長。半分しか合っていません」


 宮内は鶴見の胸倉をさらに強く押さえつけた。

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