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第2話 雪平鍋と卵焼き

第2話 雪平鍋と卵焼き


一人暮らしを始めて二日目の朝、志乃は炊飯器に残っていた冷たいご飯を茶碗へよそい、昨夜の具沢山味噌汁を弱火にかけた。煮えすぎた大根は角が崩れ、油揚げは汁を吸って膨らんでいたが、蓋を開けると味噌とごぼうの匂いが六畳の台所へ広がった。向日葵模様の半袖シャツへ着替えようとしたとき、机の上のパソコンからTeamsの通知音が鳴った。志乃は片方の腕を袖へ通したまま椅子に座り、老眼鏡を探すのも待てずに画面へ顔を近づけた。


「おねしょしなかったよ」


届いていたのは、それだけだった。志乃は三度読み返し、昨日買った六回分吸収の紙おむつと中敷きパッドが無駄になったなどとは考えなかった。濡れた布団を干す場所がない部屋で、直樹がどんな朝を迎えるのか一晩中気になっていたため、肩から力が抜けると半分だけ着たシャツの裾まで一緒に落ちた。すぐに通話をかけて紙おむつの具合や水を何杯飲んだか確かめたくなったが、志乃はキーボードを人差し指で一文字ずつ押した。


「よかったね。ちゃんと眠れた?」


直樹から「眠れた」と返事が届き、そのあとに鍋を買いに行きたいと書かれていた。新しいアパートには、志乃の家から持たせた古い片手鍋が一つあるだけで、味噌汁を作れば麺をゆでられず、湯を沸かせば卵を焼けない。志乃は財布の中身を確かめ、雪平鍋とフライパンなら大型スーパーで比べたほうが安いと答えた。外では朝から蝉が鳴き、昨夜干した薄桃色の布巾がまだ湿っていた。


「一緒に行く?」


「行く。今日は最後まで見る」


昼前、直樹は青いTシャツに黒いジャージのズボンをはき、志乃の家まで歩いてきた。寝癖は水で押さえたらしく、額のあたりだけ髪が濡れ、肩には買い物袋を折り畳んで入れた灰色の鞄を掛けていた。二人は平らな道を歩いて大型スーパーへ向かい、途中の自動販売機の前で直樹が立ち止まると、志乃は水を一気に飲まないよう言いかけた。しかし直樹は小さな麦茶を選び、蓋を一口分だけ開けた。


「少しずつ飲むから、大丈夫だよ」


「分かっているならいいの。お母さんだって、何でも言いたいわけじゃないのよ」


「でも、だいたい言うよね」


大型スーパーの自動扉が開くと、冷房の冷たい風と総菜売り場の揚げ油の匂いが一緒に流れてきた。日曜日でもないのに店内は混み、買い物カートの車輪が床の継ぎ目を越える音、子どもの泣き声、特売を知らせる放送が重なっていた。直樹は入口で立ち止まり、鞄の紐を両手で握った。いつもなら「もう帰る」と言い、必要な物を買わないまま外へ出るところだったので、志乃は急がせず、入口脇に積まれた箱入りティッシュの値札を眺めるふりをした。


「見られている気がする」


「誰に?」


「分からない。みんなが、俺が何をするか見張っている」


直樹のこめかみには細かな汗が浮かび、腹を押さえる手にも力が入っていた。緊張が強くなると神経性の下痢が始まり、予定が崩れたり音や人の動きが重なったりすると、その場に立っていることさえ難しくなる。志乃は「誰も見ていない」と否定しかけたが、直樹には現実の体の反応として起きているのだと思い直した。近くにあるトイレの場所を確かめ、鍋売り場までの順番を一緒に決めた。


「最初にトイレへ行って、それから鍋を見る。途中で休みたくなったら、椅子を探そう」


「帰らなくてもいい?」


「帰りたくなったら帰ってもいいよ。でも、今日は雪平鍋を一つ見るところまで行ってみよう」


直樹はトイレから戻ると、志乃の隣に並んで生活用品売り場まで歩いた。途中で洗剤の見本を配る店員に声をかけられ、肩を跳ねさせたものの、黙って逃げずに会釈をした。鍋売り場には銀色の雪平鍋が何種類もぶら下がり、同じように見えて直径も重さも値段も違っていた。志乃が一番安い鍋へ手を伸ばすと、直樹は持ち手を握り、自分で重さを確かめた。


「これは重い。こっちなら持てる」


「少し高いよ」


「毎日使うから、持てるほうがいい」


「それなら、自分で決めたほうにしなさい」


フライパンは、卵を一個焼ける小さなものを選んだ。志乃は二十六センチのほうが野菜炒めにも使えると言ったが、直樹は狭い流しで洗いやすい二十センチを譲らなかった。二人は売り場で少し言い合い、隣にいた年配の男性が大鍋を落として大きな音を立てると、直樹の顔から血の気が引いた。それでも彼はカートから手を離さず、深く息を吐いてからレジへ向かった。


「最後まで買えたね」


「まだレジがある。袋にも入れないといけない」


「そうだった。お母さんが先に終わったことにしちゃいけないね」


会計を済ませ、雪平鍋とフライパンを袋へ入れ終わると、直樹は店の外のベンチへ座り込んだ。Tシャツの背中は汗で濃くなり、麦茶のボトルを持つ手も震えていた。何事もなく買い物を楽しんだようには見えなかったが、途中で帰らず、自分で選んだ道具を持って店の外まで出た。志乃は鞄から塩飴を二つ出し、一つを直樹へ渡した。


「その経験が、やがて君の血となり肉となる。今日できたことは、ちゃんと直樹の中に残るからね」


「明日もできるとは限らないよ」


「明日できなくても、今日できたことはなくならないよ」


志乃の家へ戻ると、昼を過ぎていた。台所には朝の味噌汁が鍋に残り、表面に薄い膜が張っていたので、志乃は水を少し足して温め直した。直樹が買ったばかりのフライパンを使いたがったため、洗剤で軽く洗い、卵を二個溶いて卵焼きを作らせた。形は途中で崩れ、黄色い塊のようになったが、焼けた卵の甘い匂いが立つと、直樹は箸で端をつまんだ。


「おいしい」


「自分で焼いたからでしょう」


「お母さんが塩を入れたからだよ」


志乃は塩鮭も焼き、朝の具沢山味噌汁を二つの椀へよそった。大根、ごぼう、ニンジン、豆腐、油揚げ、小松菜が入り、汁より具のほうが多くなっていた。直樹は卵焼きと塩鮭を交互に食べ、味噌汁を飲み終えると、空の椀を志乃へ差し出した。以前のように同じ家で毎日食べる夕食ではなくても、向かい合って食べれば箸が皿へ当たる音までよく聞こえた。


「お代わりするの?」


「する。今日はお腹がすいた」


「スーパーであれだけ頑張ったものね。ごぼうも残さず食べなさいよ」


二杯目の味噌汁を受け取った直樹は、湯気へ顔を近づけ、しばらく黙っていた。窓の外ではオシロイバナが今を盛りと咲き乱れ、赤や白の花が午後の日差しの中で揺れていた。直樹の横顔には買い物中の強張りがまだ少し残り、額には乾いた汗の跡が白く見えた。それでも椀を両手で持つと、口元がゆるんだ。


「神様は本当に、あふれるほどに愛してくださる」


志乃は、こんないい子がどうして、と言いかけた。どうして水中毒になり、毎晩おねしょをし、人混みの中で見張られていると感じ、買い物一つにこれほど力を使わなければならないのか。その言葉を口にすれば、直樹の今日一日の努力より、できないことのほうを大きくしてしまう気がした。志乃は椀の底へ沈んだ小松菜を箸で拾い、代わりに別の言葉を選んだ。


「大丈夫だよね。結果は必ずついてくる」


「何の結果?」


「直樹が今日一つ積み重ねた結果。すぐには見えなくても、なくならないよ」


食後、直樹は雪平鍋とフライパンを灰色の袋へ入れ、自分のアパートへ帰る支度をした。志乃は塩鮭の残りを包んで持たせようとしたが、直樹は今日は自分で何か買って食べると言った。玄関には朝から出したままの自転車の空気入れが転がり、二人でまたいで外へ出ると、夕方の空気には温められたアスファルトとオシロイバナの甘い匂いが混じっていた。直樹は袋の中の鍋がぶつからないよう、胸の前で大切に抱えた。


「帰ったら連絡する」


「トイレが詰まったり、困ったことがあったりしたら、まず看護師さんにも相談するのよ」


「分かってる。でも、お母さんにも話すよ」


直樹が平らな道を曲がるまで、志乃は玄関前に立っていた。小さくなっていく青いTシャツを見ながら、明日も同じようにできる保証はないと分かっていた。人混みから途中で帰る日も、神経性の下痢で外へ出られない日も、見張られている感覚に耐えられない夜も来るだろう。それでも今日、直樹は最後まで買い物をし、自分で雪平鍋とフライパンを選び、卵焼きを作り、二杯の味噌汁を食べて、自分の部屋へ帰っていった。


夜、Teamsに「無事に帰った」と届いた。続けて「トイレが詰まったけど直した」と書かれ、そのあとに「今日は、いろいろありがとう」と送られてきた。志乃は台所に残った卵焼きの端をつまみ、少し冷たくなったそれを食べながら、「こちらこそ楽しかった。ありがとう」と返した。洗い桶の中には、古い鍋と鮭を焼いた網が重なっていた。


「ほんとによく頑張ってるね。すばらしい」


画面の向こうから「どういたしまして」と返事が来た。志乃はパソコンを閉じず、しばらくその文字を眺めていた。息子は支援を必要とし、明日も何かに失敗するかもしれないが、志乃が安心を与えるだけの存在ではなかった。今日一日を最後まで歩いた直樹の「ありがとう」は、六畳間に一人残った志乃の夜も、内側から温めていた。


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