第1話 六畳間と秘密の王国
第1話 六畳間と秘密の王国
八月の朝、志乃は青い朝顔の付いたマグカップを一つだけ洗った。四日前まで流しには息子の直樹が使った皿や茶碗も並んでいたが、今朝は食パンを載せた白い皿しかない。向日葵模様の半袖シャツに灰色の七分丈ズボンを着た志乃は、濡れた手を腹のあたりで拭き、直樹が寝ていた和室を見た。脱いだ服もゲームのコードもなくなった六畳間には、畳の縁が玄関までまっすぐ続いていた。
「広くなったはずなのに、どうして歩きにくいのかね」
壁際には、直樹が置いていった古いゲームの攻略本が一冊残っている。志乃は拾い上げたものの、片づける場所を決められず元へ戻した。トースターから焦げた匂いがして、慌てて台所へ戻ると、食パンの角が黒くなっていた。直樹がいれば嫌がる焼き加減だったが、志乃はマーガリンを塗り、冷たい麦茶で流し込んだ。
四十九歳の直樹は、支援を受けながら一人暮らしを始めたばかりだった。新しいアパートまでは自転車で約十分で、志乃の家の前からほとんどまっすぐな道が続いている。坂の多いこの町で、七十二歳の志乃が急な上り坂を通らずに行ける物件が見つかったこと自体、最初は奇跡だと思った。家賃が住宅扶助の基準内に収まり、特別訪問看護指示書によって日曜日以外は毎日、訪問看護も入ることになっている。
それでも直樹は、台所が狭い、洗濯物を干す場所がないとこぼした。志乃も、収納が少ない、必要なものをそろえるお金がないと口にした。部屋が決まる前は、直樹が暮らせる場所さえあればよいと願っていたのに、手に入ると奇跡は当たり前になり、足りないものばかりが大きく見えた。
「人間って勝手だねえ。見つかった日は、神様が用意してくださった道だと思ったのに」
志乃は焦げたパンの耳をかじりながら、空いた席へ話しかけた。直樹は八月初め、水を大量に飲んだことで意識を失い、救急車で運ばれて緊急入院している。退院して間もない息子を別の部屋で暮らさせることが正しいのか、志乃には今も分からなかった。少し静かになると、病院の白いベッドで目を閉じていた直樹の顔が浮かび、飲み込んだパンが喉の途中で止まった。
直樹は今も毎晩おねしょをする。同居していたころは、朝になると志乃が濡れた布団を庭へ運び、物干しざおへ掛けていた。昨日も志乃は、6回分を吸収するパンツ式紙おむつと中敷きのパッドを買い、直樹の荷物へ入れた。しかし新しいアパートには庭も物干し場もなく、濡れた布団をどこで乾かすのか決まっていない。
「紙おむつをはいたって、漏れる日は漏れるのよ。布団が濡れたら、あの子はどうするつもりなの」
志乃は立ち上がり、玄関の棚から自転車の鍵を取った。今から行けば十分で着く。布団が濡れていないか確かめ、洗濯物があれば持ち帰り、薬と水の量も見てくればよい。そう考えたところで、机の上のパソコンから通知音が鳴った。
志乃は携帯電話を持っていない。Web小説を書き、オンラインゲームをするための光回線とプロバイダー料金だけで、毎月一万七千円を超えているからだ。直樹との連絡には、支援者にパソコンへ入れてもらった無料のMicrosoft Teamsを使っている。老眼鏡をかけて画面を開くと、直樹から「起きた」と三文字だけ届いていた。
「起きた、じゃ分からないでしょう。布団は濡れたの。薬は飲んだの。朝ご飯は食べたの」
志乃は通話ボタンを押し、直樹を呼び出した。しばらくして画面に映った直樹は、青いTシャツを着て、寝癖の付いた髪を片手で押さえていた。背後には畳んでいない段ボールと、昨日持たせた紙おむつの袋が見える。
「布団は?」
「濡れた」
「ほら、やっぱり。今から取りに行くから、玄関へ出しておいて」
「今日は看護師さんが来る。相談する」
志乃は、自転車の鍵を握ったまま口を閉じた。直樹が母親ではなく、訪問看護師へ相談すると自分で決めたのは初めてだった。布団を干す場所がない事実は変わらず、直樹一人で解決できるとも思えない。それでも、母親が来るまで何もしないとは言わなかった。
「朝ご飯はどうするの」
「パンを買う。ヨーグルトも買う」
「バナナは青いのを選ばないのよ。カフェオレは糖分が多いから、一日一本まで。水も一気に飲んじゃ駄目だからね」
「分かってる。あとで写真を送る」
直樹が通話を切ると、画面には志乃の顔だけが残った。呼び戻そうと思えば、もう一度ボタンを押せる。自転車で十分走れば、狭い台所も濡れた布団も自分の目で確かめられる。しかし、それを毎日続ければ、住む部屋が二つになっただけで、親子の暮らしは何も変わらない。
午前十時を過ぎたころ、訪問看護師の高田がやって来た。白いポロシャツに紺色のズボンを着た高田は、柑橘の制汗剤と外の熱気を一緒に連れてきた。志乃が扇風機を向けると、台所に干した薄桃色の布巾が風に持ち上がった。高田は血圧計を出しながら、志乃が握っている自転車の鍵を見た。
「直樹さんのところへ行くんですか」
「布団が濡れたのよ。干す場所もないのに、放っておけるわけがないでしょう」
「直樹さんは、どうすると言っていますか」
「今日来る看護師さんに相談するって。でも、相談したって物干し場が生えてくるわけじゃないわよ」
高田は志乃の腕へ血圧計の帯を巻いた。圧迫された腕の先で、自転車の鍵が小さく鳴る。高田は、濡れた寝具の扱いも紙おむつの使い方も、直樹の支援者たちと一緒に方法を考える必要があると話した。志乃が一度だけ布団を持ち帰れば今日の問題は片づくが、明日も明後日も同じことが起きる。
「お母さんが全部引き取らない方法を、みんなで話すための一人暮らしでもありますよ」
「話しただけで、暮らせるなら苦労しないわ」
「だから話して、できることを分けるんです。志乃さん一人が抱えなくてもよい形を作りましょう」
高田の言葉を聞きながら、志乃は掌を開いた。鍵のぎざぎざした跡が赤く残っている。直樹の命に関わることまで他人へ任せるのは、薄い氷の上へ息子を置くようなものだった。それでも志乃自身が先に倒れれば、直樹は突然、何の準備もなく一人になる。
「死ぬときは死ぬのさ」
志乃が口にすると、高田は記録を書く手を止めた。その言葉は直樹の命をどうでもよいと思っているからではない。自分が一日中見張っていても防げないことはあり、人の生死まで母親一人で握ることはできないと、何度も自分へ言い聞かせるうちに口癖になっていた。
「投げ出すという意味ではありませんよね」
「自分のできることは丁寧にするよ。紙おむつも買ったし、看護師さんにもつないだ。Teamsだって使えるようにしてもらった。あとは神様に委ねるしかないもの」
高田が帰ったあと、志乃は自転車の鍵を玄関の引き出しへ戻した。すぐに駆けつけないことは、直樹を見捨てることではない。まず話し、同じ部屋で絡まった暮らしを離し、最後に自分が握り続けてきた息子の人生を放す。そのどれも、一度決めれば終わるものではなく、朝が来るたびにやり直すことだった。
昼前、Teamsの通知音が鳴った。直樹から、食パンとヨーグルト、少し青いバナナを並べた写真が届いている。その後ろには丸められた濡れたシーツが写り、続けて「看護師さんと洗濯の相談した」と短い文章が送られてきた。
「やっぱり青いバナナじゃない。何を見て選んでいるのよ」
志乃は画面へ文句を言いながら、「相談できたのね」とだけ返した。薬を飲んだのか、水を何杯飲んだのか、紙おむつを正しく使えたのかと、尋ねたいことはまだいくつもある。それでも今日は一つでやめた。志乃は冷蔵庫から納豆を取り出し、炊きたてではないご飯の上へ載せた。
午後になると、志乃はオンラインゲームへログインした。画面の中には、花壇と噴水を備えた広い町があり、現実の六畳間よりも大きな志乃の王国が広がっている。志乃は町の東側へ小さな家を一軒置き、母屋との間に平らな道を作った。二軒の家は離れているが、道がなくなったわけではない。
「話す。離す。放す。言うのは簡単なんだけどねえ」
志乃は塩せんべいをかじり、白い街灯を道沿いへ三本並べた。直樹のアパートへ続く現実の道も、坂の多い町には珍しく、最初からまっすぐで平らだった。狭い部屋も、足りないお金も、濡れた布団も消えてはいない。それでも直樹には帰る部屋があり、毎日訪ねる看護師がいて、母親へ連絡できる道がある。
夕方、志乃は卵を一個だけ焼き、朝の残りの味噌汁を温めた。小松菜は煮えすぎて色が悪くなっていたが、ごま油を一滴垂らすと香りが戻った。Teamsから新しい通知は来ていない。志乃は画面を一度だけ確かめ、半熟の黄身へ箸を入れた。
「自分のできることは丁寧にします。あとは、あなたに委ねます」
開いた窓から蝉の声が入り、庭では朝顔の蔓が夕方の風に揺れていた。パソコンの中では、二軒の家を結ぶ平らな道に街灯がともっている。志乃は自転車の鍵を取りに立たず、冷めないうちに自分の夕食を食べた。




