二人だけの試験航海
夜明け前の海は、まだ世界の輪郭を決めかねていた。
白潮灯台の小さな桟橋で、エルシアは濡れたロープを結び直した。足元の船は、漁師が使うものよりひと回り小さい。二人分の座席と、曙硝子を収めた箱、それから簡素な手回し舵があるだけだった。
「本当に、私たちだけで行くんですか?」
船尾で帆を確かめていたユノが、三度目になる質問をした。
「試験航海だからな。大勢が乗れば、船の癖も朝彩の流れも測れない」
ノアは淡々と答えたが、手袋をはめる動きがいつもよりゆっくりだった。
「測れないんじゃなくて、誰かを巻き込みたくないんでしょう」
「それも理由のひとつだ」
「ひとつ、ですか」
「君と二人で確認したい」
思いがけない言葉に、エルシアの指からロープが滑り落ちた。ノアは何でもないことのように結び目を見ている。けれど彼の耳が、朝の薄闇にもわかるほど赤くなった。
地下で見つけた逆流装置は、凍った管の先でまだかすかに震えていた。五つの灯台へ分かれた光のうち、北の灯台から海へ出る流れだけが不安定だった。古い航路帳が失われた今、海上に残る標をひとつずつ確かめるしかない。
エルシアが持つのは、曙硝子を薄く削った測定板。ノアが持つのは、砕けた冬紋の結晶をひと欠片。二つを船の中央に置けば、朝彩がどちらへ流れるか、硝子の色でわかるはずだった。
「潮が変わる前に、北東の白杭まで行ってください。そこを越えると岩礁です」
ユノが海図を差し出す。
「白杭は三年前から沈みかけてる。帰りは、風が南へ回ったら帆を畳むこと。あと、絶対に無茶しないで」
「善処する」
「殿下、それは無茶する人の返事です」
ユノが睨むと、ノアは珍しく口元を緩めた。エルシアも笑いかけたが、胸の奥には別の緊張があった。昨日、彼の冬紋を見たときの冷たさが、まだ手のひらに残っている。
「エルシア」
呼ばれて顔を上げる。
「怖いなら、そう言ってくれ」
「怖くないと言ったら、嘘になります」
「なら、戻る理由を二人分にしよう。私ひとりのためではなく、君のためにも」
その言葉に、エルシアは小さく頷いた。
船を押し出すと、桟橋がゆっくり遠ざかった。ユノが岸で片手を上げる。灯台の白い塔は、薄明の中で雪の柱のように立っていた。
帆に風を受け、船は波の谷を滑っていく。
朝彩が現れる時間は短い。東の空に細い銀色が差すと、測定板の表面へ淡い金の筋が流れ込んだ。エルシアは糸巻きを回しながら、光を細い糸へ変えていく。海上では織り機を広げられないため、指先だけで簡易の編み枠を作った。
金の糸は、まっすぐ船首へ伸びた。だが、冬紋の結晶に触れた途端、色が青白く変わり、右舷の海へ引かれていく。
「地下の管と同じです。海の下に、別の流れがある」
「白杭の方向ではないな」
「少し南へ切ってください。流れの端を追います」
ノアが舵を切った。波が船腹を打つ。風は穏やかなのに、海の底から引かれる力が強く、船は思った以上に傾いた。
「冬紋を使えますか?」
「まだ使わない。これは試験だ。最初から力で押さえれば、何が起きたか見えなくなる」
冷静な返事だった。しかし彼の右手は、結晶の箱から離れている。エルシアはそれを見て、編み枠の糸を一本だけ彼の手首へ渡した。
「では、私の朝彩も使いません。二人で観察します」
「君は、すぐに自分の力を差し出す」
「ノア殿下も、すぐにご自分を差し出すでしょう」
「否定できないな」
今度は二人で笑った。
白杭へ向かうはずの船は、南へ流されながら、海霧の中に黒い影を見つけた。岩ではない。水面から半分だけ突き出た、古い石柱だった。
柱の側面には、五本の塔を囲む輪と、雪の印が刻まれている。灯台の地下扉に浮かんだものと同じだ。
「海上にも北守の印が……」
エルシアが身を乗り出した瞬間、船が大きく跳ねた。彼女の足が滑り、舷側へ投げ出される。
ノアの腕が腰を抱いた。次の瞬間、船縁から伸びた水が凍り、白い手すりになって二人を支えた。
「触れた」
「すまない。反射的に」
「謝らないでください。助けてくれたのですから」
抱かれたまま、エルシアは彼の胸元に耳を寄せていた。厚い外套の向こうで、心臓が速く鳴っている。ノアも平静ではなかったのだと知ると、怖さよりも不思議な安心が勝った。
石柱に測定板を近づける。硝子の底から、かすかな声が響いた。
『潮の道を閉じるな。灯は海を渡り、明日の岸へ戻る』
エルシアは息を呑んだ。声はひとつではない。重なった何人もの声が、遠い昔から同じ言葉を繰り返している。
「聞こえました。海を渡った朝彩は、どこかの岸へ戻るはずだと」
「王都へ吸い上げるための流れではなく、五つの灯台を巡る道だったのか」
ノアが石柱の根元へ手を伸ばす。冬紋の光が触れると、海面の下に細い線が浮かんだ。北の白潮灯台から南の灯台へ、さらに遠い岬へ。五つの灯を結ぶ輪が、波の底で淡く明滅している。
その一部だけが、黒く濁っていた。王都へ向かう線だ。
やがて潮が変わり、船が石柱から離れ始めた。エルシアは急いで、声を記した糸を編み込む。黄金の布片に、青い細線が輪を描いた。
「証拠になります」
「ああ。航路帳がなくても、海そのものが覚えている」
ノアは帆を畳み、船首を灯台へ向けた。帰り道、波は追い風になった。
桟橋へ戻る頃には、太陽が雲の縁を白く染めていた。ユノが駆け寄ってきて、まず船を見、次に二人を見た。
「遅いです! ……でも、無事ならよかった」
「成功した。海底に五つの灯を結ぶ航路がある」
ノアが答えると、ユノの目が輝いた。
エルシアは船を降りようとして、まだ腰に置かれたノアの手に気づいた。彼も気づいたらしく、慌てて離す。
「先ほどは、その……」
「落ちなくてよかったです」
「それだけか?」
「それ以上を言うと、殿下がまた無理をしそうなので」
からかうと、ノアは困ったように笑った。
けれど、二人の間には、出航前にはなかった温度が残っていた。朝彩と冬が重なった糸のように、ほどけず、静かに結ばれている。
エルシアは海の底に浮かんだ五つの光を思い出した。
次は、あの黒く濁った王都への線を、曙硝子の記憶で確かめなければならない。灯台へ戻った二人の背後で、船の箱に収めた測定板が、誰にも触れられていないのに淡く光った。
その光の中から、まだ聞いたことのない声が、ひとことだけ零れた。
『返せ』




