王弟の冬紋
日没の鐘が、地下まで低く響いた。
ノアが灯台の地下扉へ手を触れると、蝶番に沿って霜が走った。白い結晶は鍵穴の周りでいったん止まり、それから扉の表面へ細い枝のように広がっていく。枝先が五つに分かれたところで、隠れていた刻印が浮かび上がった。
「これは……灯台の紋章ではありませんね」
エルシアは腰を落とし、霜の隙間を覗き込んだ。五本の塔を囲む輪。その中央に、ひとひらの雪が刻まれている。
「古い北守の印だ。今の王家の紋章より、ずっと前から使われていたものらしい」
ノアは淡々と答えたが、扉に置いた手は離さなかった。手袋の内側から、青白い光が滲んでいる。エルシアがそれに気づくと、彼はわずかに眉を寄せた。
「無理をしていませんか」
「この程度なら問題ない」
「その言い方をするときは、たいてい問題があります」
ノアは返事をしなかった。代わりに指を曲げる。凍った留め具が、乾いた音を立てて外れた。
扉の向こうには、海水の匂いがこもっていた。螺旋階段を下りると、壁の曙硝子が次々と淡く光る。誰も灯りを持っていないのに、青い光が足元を照らした。最下段の床には浅い水が溜まり、石の溝が三方向へ伸びている。
ひとつは海へ。ひとつは灯台の中心へ。もうひとつは、逆向きに王都の方角へ。
「この細い溝が、朝彩を吸い上げていた経路です」
エルシアが指でなぞると、溝の底に白い粉が付いた。粉はノアの冬紋からこぼれた光に触れ、瞬く間に氷へ変わった。
水面の下で、何かがかちりと噛み合う。
壁際の石板がせり上がり、その奥から古い金属の枠が現れた。枠の内側には、曙硝子を薄く削った板が何枚も重ねられている。朝の光を集める装置に似ているが、光を糸へ導く織機とは違う。硝子板のすべてが、ひとつの細い管へ向けて傾けられていた。
「逆流装置……」
ノアが呟いた。
管の根元には、五つの窪みがあった。そのうち四つは空で、北を示す窪みだけに青い結晶が嵌まっている。結晶の形は、ノアの手の甲に浮かぶ冬紋とよく似ていた。
エルシアは、管の先から聞こえるかすかな声に気づいた。
『光を分けよ。冬を預けよ。ひとりに集めるな』
曙硝子に残った、遠い昔の声だった。
「今、何と聞こえた?」
ノアの問いに、エルシアはすぐ答えられなかった。声は波音に混じり、もう消えてしまったからだ。
「光を分けろ、と。冬をひとりに集めるな、と言っていました」
ノアの目が、青い結晶へ向いた。
「やはり、そうか」
「知っていたのですか」
「知っていたのは、冬紋が灯台に関わるということだけだ。由来までは、私も最近まで知らなかった」
彼は水溜まりの縁に膝をつき、手袋を外した。手の甲から手首へ、雪の枝に似た紋が伸びている。普段は薄い銀色なのに、地下では血管のように青く明滅していた。
「十五の冬、王宮の地下宝庫でこれが現れた。兄上が即位する前のことだ。朝彩院の役人は、王家の血に宿る守護の印だと言った。私が触れた硝子は凍り、宝庫の扉は開いた。だから私は、冬紋を持つ者として王都の記録から遠ざけられた」
「守護の印なら、なぜ隠すのですか」
「守護ではなく、鍵だったからだろう。五つの灯台をつなぐ古い契約の、北側の鍵だ」
ノアの指先が結晶へ近づく。触れる前から、床の水が薄く凍った。
「朝彩を吸い上げる装置は、この結晶を通して私の冬を使っている。王都へ光を送るために、北の灯台を凍らせ、流れを固定する仕組みだ。私がこの場所へ呼ばれたのも、偶然ではない」
声は静かだった。その静けさが、かえって長い痛みを伝えていた。
「では、ノア殿下はずっと……」
「王都の命令に従うふりをして、装置の場所を探していた。だが、冬紋が弱れば灯台の硝子が割れる。強く使えば、今度は私の体が冬に近づく」
彼は笑おうとした。しかし唇の色が、海霧より白い。
エルシアは反射的にその手を取った。冷たい。冷たいというより、触れた指の熱まで遠くへ引かれていくようだった。
「離して。凍る」
「嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「ひとりに集めるな、と声が言ったのです。ノア殿下が冬をひとりで抱える必要はありません」
ノアは目を見開いた。エルシアの指の間で、冬紋の青い光が揺れる。だが、凍気は広がらなかった。彼女の手のひらに残る朝彩の糸が、細い金色の線となって霜を包んでいく。
光と冬が、初めて喧嘩をしなかった。
そのとき、王都へ伸びる管の奥で轟音が起きた。青い結晶にひびが入り、遠くから水の流れる音が押し寄せる。
「装置が動き出した!」
エルシアが叫ぶ。
ノアは彼女の手を握り返し、もう片方の手を金属枠へ伸ばした。冬紋が強く輝き、逆流の管が凍り始める。
「止めれば、殿下の冬が戻ってこられなくなるのでは?」
「だから、君の朝彩が必要だ」
「私の?」
「ひとりで止めるのではない。二人で流れを変える」
その言葉を聞いた瞬間、エルシアの中で何かがほどけた。責任を負うことと、誰かを信じることは両立しないと思っていた。けれど、彼は今、自分の秘密を預けている。
エルシアは腰の織り機から、昨日の明日布を一片切り取った。金色の糸を管の裂け目へ差し込む。
「なら、私も秘密を預けます。硝子の声が聞こえることを、王都には報告していません。今の声も、私たちにだけ聞こえたものです」
「秘密を共有するのは、危険だ」
「危険だからこそ、ひとりで持ちません」
金の糸が青い氷へ絡み、装置の轟音がゆっくり遠のいた。管の中を走っていた光が、王都ではなく五つの窪みへ分かれていく。
空だった四つの窪みに、淡い朝彩が灯った。
しかし、北の結晶だけは砕けたままだった。ノアの冬紋も、まだ手の甲で脈打っている。
床に落ちた破片のひとつに、古い文字が浮かんだ。
『五つの灯は、ひとつの王冠より先にある』
エルシアが読み上げると、ノアは凍った管の向こうを見た。
「この灯台を閉じさせてはいけない。王都が隠したものを、五つすべてで確かめる」
彼の手はまだ冷たかった。それでも今度は、エルシアの手を離さなかった。
地上では、閉鎖を告げる鐘が鳴り終えていた。けれど地下の五つの光は、消えずに明日を照らしていた。




