王都からの閉鎖命令
地下から聞こえていた水音は、朝の鐘が三度鳴るころには消えていた。
エルシアは机の上に広げた航路帳の写しを見つめていた。原本は木箱へ戻し、ノアが冬紋で留め具を凍らせている。写しには、五つの灯台を巡る銀線と、二年前から白潮沖を通過していた船の記号を、分かる限り書き写した。
けれど、逆流の門が灯台の下にあるなら、記録を読んでいるだけでは足りない。門を見つけ、朝彩を王都へ吸い上げた仕組みを止めなければならなかった。
「エルシア、坂の下に馬車!」
ユノの声が階段から飛んできた。続いて、石畳を打つ蹄の音が響く。白潮灯台を訪ねる客にしては、あまりにも急いでいる。
エルシアが窓辺へ駆け寄ると、灰色の二頭立て馬車が港町の入口を上ってきた。側面には朝彩院の紋章。御者の隣には、濃紺の外套を着た男が座っている。
「王都の使いだな」
背後でノアが言った。彼は航路帳を閉じ、写しを暖炉脇の薪箱へ滑り込ませた。
「隠すのですか」
「写しは隠す。原本は見せる」
「どうして?」
「見せたとき、相手が何を恐れるか確かめたい」
ノアの声は落ち着いていたが、指先に薄い霜が浮かんでいた。エルシアはその霜を見て、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。閉鎖命令が、灯台だけでなくノアの立場まで奪うかもしれない。
やがて扉が叩かれた。ユノが開けると、男は身分証を掲げた。
「朝彩院監督官、セドリック・ヴァン。王都の命令を伝達する」
挨拶もそこそこに、男は封蝋のついた筒を差し出した。赤い蝋には王家の紋章と、朝彩院の細い塔印が重ねられている。
ノアが受け取り、封を切った。紙を広げる音だけが、吹き抜けのホールに響く。
「白潮灯台は、本日の日没をもって運用を停止。曙硝子、朝彩機、関連記録を王都へ移送する。灯台番および彩織士は、監督官の指示に従い、三日以内に退去せよ」
エルシアの喉が冷えた。
「運用を停止したら、北航路の船はどうなるのですか。畑へ配る明日布も」
「王都が代替品を配る。北の灯台は老朽化し、朝彩の集積効率も基準を下回っている。閉鎖は安全のためだ」
セドリックは用意してきた文句を読み上げるように答えた。
「昨日、ここから出た朝彩の布で船が霧を抜けたばかりです」
ユノが食い下がる。
「一度うまくいったからといって、規則は変わらない」
「規則を変える話ではありません」
ノアが紙面を指で押さえた。
「この命令書には、白潮灯台の朝彩が『王都への供給に不適格』とある。だが、閉鎖理由は老朽化だ。どちらが正式な理由だ?」
セドリックの眉がわずかに動いた。
「細部の表現に意味はない」
「意味がないなら、なぜ二種類の印が押されている」
ノアは封蝋を拾い上げた。王家の紋章は正しい。だが、朝彩院の塔印は上下が逆だった。エルシアも気づいていた。王都で何度も見た院の印は、塔の窓が必ず東側に三つ並んでいる。ここに押された印では、窓が西側にある。
「偽造だとおっしゃるのですか、殿下」
初めて、セドリックの声に緊張が混じった。
「私はまだ何も断じていない。ただ、正式な命令なら照合を求める」
「照合に時間をかける余裕はない。日没までだ」
「では、なおさら原本を渡すわけにはいかない」
ノアが命令書を畳んだ。
「閉鎖が決まったとしても、灯台の記録と曙硝子を移送するには、航路の安全確認が必要だ。ここを止めれば、王都へ向かう船だけでなく、北の港すべてが危険になる」
「監査官の権限を越えています」
「王弟としての権限なら、越えていない」
静かな言葉だった。けれど、ホールの空気が張りつめる。セドリックはノアの顔を見たあと、エルシアへ視線を移した。
「彩織士ベルメル。あなたも王都で説明を受ける必要がある。朝彩の消失について、まだ責任が解かれたわけではない」
濡れ衣の言葉が、古い傷口をなぞった。エルシアは一歩前へ出た。
「説明なら、こちらにもあります。二年前から王都へ向かうはずのない船が、白潮沖を通っていた記録です」
セドリックの視線が、ほんの一瞬だけ薪箱へ滑った。
見られていたのは、航路帳ではない。そこに写しがあると知っているような目だった。
エルシアは背筋を伸ばした。
「その記録を調べる前に閉鎖するのは、朝彩の消失を調べたくない人のすることです」
男は答えず、日没までに退去するよう念を押して外へ出た。扉が閉まると、港のほうから怒鳴り声が上がった。知らせを聞いたマルタたちが、坂を上ってくる。
「灯台を閉めるって本当かい?」
マルタは息を切らしながら尋ねた。エルシアが頷くと、彼女は拳を腰に当てた。
「船大工組合は反対する。ここを止めれば、霧の日に沖へ出る船がなくなる」
「でも、王都の命令です」
「命令書が間違っているなら、従う理由もないだろう」
マルタの後ろから、漁師や畑を持つ町人たちが口々に声を上げた。昨日届けた布を握っている人もいた。灯台の明かりを、もう自分たちのものとして知り始めている。
ノアは人々を見渡し、命令書を掲げた。
「日没までに、閉鎖の根拠を確かめる。必要なら、王都へ抗議するための記録を作る。手を貸してくれるか」
返事は、ひとつではなかった。けれど重なった声は、霧笛より力強く灯台を揺らした。
人が散ったあと、エルシアは薪箱から写しを取り出した。紙の端に、見覚えのない白い粉が付着している。先ほどセドリックの視線が落ちた場所だ。
「誰かが命令書を届ける前に、ここを探ったのでしょうか」
「その可能性は高い」
ノアが粉を指先でなぞると、白い粒が薄青く凍った。
「海塩ではない。冬紋に反応する鉱粉だ」
エルシアは地下へ続く扉を見た。逆流の門。閉鎖命令。王都の使いが残した鉱粉。
「日没までに、門を見つけましょう」
「閉鎖を止めるために?」
「それだけではありません。灯台を閉じれば、門を隠す時間を相手に与えてしまう」
ノアはしばらく彼女を見つめてから、ゆっくり頷いた。
「分かった。今度は、君をひとりで地下へ行かせない」
その言葉に、エルシアの胸へ小さな熱が灯った。けれどノアが扉へ手を伸ばした瞬間、冬紋がこれまでになく強く輝いた。
地下から、低い水音が返ってくる。
まるで門の向こうで、誰かが二人を待っているように。




