失われた航路帳
翌朝、海霧は晴れていた。
白潮灯台の窓から、薄い金色の海が見える。昨日、霧の向こうへ銀青の光を届けた船は、夜のうちに港を出たらしい。港には新しい網を干す人の姿があり、灯台坂の下では、マルタが朝彩の布を見せながら何か説明している。
エルシアはその景色を眺めてから、作業台の上に置かれた革張りの冊子へ目を戻した。
「航路帳、ですか」
「そう。灯台が管理する船の記録だ」
ノアは冊子を閉じ、表紙の埃を指先で払った。厚い革には白潮灯台の印が刻まれているが、題名を記す札は剥がれていた。
「今朝、町の船大工組合から問い合わせが来た。昨日の霧笛を聞いた船が、北東の浅瀬を避けて入港できたのは、古い航路帳に記された潮の流れと一致したかららしい」
「それなら、航路帳は役に立ちますね」
「役に立つはずだった。だが、保管庫にあるのはこの表紙だけだ」
ノアは冊子を開いた。中の紙は途中から切り取られている。糸で綴じられていた痕が残り、最後の数枚だけが鋭い刃物で抜き取られていた。
エルシアは紙の切り口に手を近づけた。乾いた紙の匂いに混ざって、わずかに朝彩の気配がある。古い光を扱った道具には、光の流れが薄く残ることがあった。
「誰かが持ち出したのではなく、抜き取った……」
「そう考えている。灯台の記録では、二年前に最後の点検が行われたことになっている。その後、航路帳の所在だけが空白だ」
エルシアは顔を上げた。
「二年前というと、王都で朝彩の配分が変わった頃ですね」
ノアの灰色の目が静かに細くなった。
「覚えているのか」
「彩織士なら忘れません。王都の朝彩が急に増えたのに、北の灯台への配給は減りました。朝彩院は、王都の新しい織機が効率化したのだと説明していましたけれど」
効率化。その言葉を口にすると、胸の奥に冷たいものが沈んだ。王都で責任を問われたときも、同じ言葉を聞いた。北の灯台が朝彩を失ったのは、扱う者の技術が古いからだと。
「航路帳があれば、当時の船の動きが分かる」
ノアは保管庫の棚を見渡した。
「朝彩がどこから、どこへ運ばれたのかもな」
そこへユノが駆け込んできた。片手には油差し、もう片手には錆びた鍵が握られている。
「航路帳を探してるなら、地下の機械室を見たほうがいいかも。昨日、霧笛の歯車を直していたら、壁の中で何かがぶつかる音がしたの」
「壁の中?」
「白潮灯台は古いから、秘密の空間くらいあるよ。たぶん」
ユノの案内で、三人は灯台の地下へ下りた。機械室には、海水を汲み上げる古いポンプと、灯火を回すための大きな歯車が並んでいる。床には昨日の整備でこぼれた油が黒い筋を作っていた。
ノアが壁へ手を触れると、冬紋が青白く浮かんだ。冷気が石の継ぎ目を走り、隠れていた線が白く際立つ。
「ここだ」
エルシアは壁に耳を当てた。奥から、かすかな音がする。紙をめくるような音。そして、誰かの声。
『北より来た朝彩は、五つの灯台で分けること』
曙硝子ではない石壁から声がしたことに、エルシアは息を呑んだ。けれど声はすぐに途切れ、代わりに小さな金属音が響いた。
「今、何か聞こえました?」
「ああ。君にも?」
「はい。五つの灯台で分ける、と」
ノアは頷き、壁の下にある鉄の輪を探り当てた。錆びついた輪をユノが油で濡らし、三人で力を合わせて引く。石壁の一部が低く軋み、奥へ滑った。
狭い空間の中央に、木箱がひとつ置かれていた。蓋には白潮灯台の印と、王家の紋章。その隣に、古い布で包まれた長い板が立てかけられている。
エルシアが木箱に触れた瞬間、指先に淡い光が走った。朝彩を含んだ糸で結ばれている。彼女は慎重に留め具を外した。
中から現れたのは、何枚もの海図だった。海岸線の上に五つの灯台が描かれ、それぞれを結ぶ細い銀色の線がある。線は王都へ向かわず、海を円のように巡っていた。
「これが、本来の航路……」
ノアが呟く。
海図の下には、抜き取られたはずの航路帳が収められていた。表紙には、かすれた文字でこう記されている。
――朝彩は王都へ集めるものにあらず。五つの灯台を巡り、海と大地へ返すもの。
エルシアは紙面をめくった。二年前の記録には、北の海から王都へ向かうはずのない船が、何度も白潮沖を通過している。しかも航路の欄には、船名の代わりに同じ記号が残されていた。
「この船が、朝彩を運んだのでしょうか」
「船だけではない」
ノアは海図の銀線を指で追った。白潮灯台の近くで、線が一度だけ途切れている。
「朝彩を逆向きに流す装置が、どこかにある。灯台の記録を抜き取った者は、その場所も隠したかったんだ」
エルシアは航路帳を抱えた。重い。けれど、濡れ衣を着せられてから初めて、手の中に確かな重さを感じた。
「これを町へ見せましょう。マルタさんなら、記号を知っている船大工がいるかもしれません」
「王都へ送る前に、写しを作る」
ノアの声は穏やかだったが、決意があった。
「原本を奪われても、今度は記録まで失わせない」
エルシアが頷くと、ノアの手が一瞬だけ彼女の手の甲に重なった。冷たい冬紋の気配が、紙の上の朝彩を静かに押さえる。
「君は、ひとりで抱えなくていい」
その言葉は、昨日灯台から届いた銀青の光よりも近く、エルシアの胸に長く残った。
地上では、朝の鐘が鳴った。白潮灯台の窓に、海から差した光が五本の線を描く。
失われた航路帳は、失われたままではなかった。誰かが隠した記録は、二人の手の中で再び開かれた。
けれど最後の頁には、日付のない一行だけが残っていた。
――逆流の門は、灯台の下に眠る。
エルシアはノアと顔を見合わせた。地下のさらに深い場所から、今度は確かに、水の流れる音が聞こえていた。




