海霧に差す一色
翌朝、白潮灯台は海霧に包まれていた。
窓の外には、海も空も見えない。白い霧が灯台の壁をなぞり、軋む窓枠の隙間から冷たい湿気が入り込んでくる。けれど、最上階の曙硝子だけは、昨日までと違っていた。
硝子の内側に、細い光の筋が浮かんでいる。
「朝彩です」
エルシアがそう告げると、隣で観測盤を見ていたノアが顔を上げた。
「見分けがつくのか」
「朝の光は、どこから来ても同じではありません。海の匂いを含んだものは、少しだけ青いんです」
エルシアは曙硝子へ手を添えた。冷たい表面の奥で、光が指先に応える。王都で扱っていた朝彩は、もっと多くの人の手を経て、すでに決められた色に整えられていた。これは違う。淡い青の底に、灰色と銀が沈んでいる。海霧の向こうで、まだ姿を見せない朝の色だった。
「昨夜のうちに、受け皿を清めておきました」
ユノが階段を駆け上がってきた。両手には小さな曙皿と、古びた糸巻きが抱えられている。
「マルタさんが、町に持っていくなら少しでも早いほうがいいって。漁船の出る時間までに、灯りを見せられれば助かるそうです」
「町には、まだ灯台を信じていない人もいるでしょう」
エルシアが言うと、ユノは肩をすくめた。
「信じるも何も、今朝の海は霧だらけです。見える灯りがあるなら、信じるしかありません」
ノアが観測盤の留め具を外した。盤面に刻まれた五本の溝のうち、北を示す一本だけが淡く輝いている。昨日、エルシアが織った試し糸をそこへ通すと、光の筋がゆっくりと伸びた。
「全部を集める必要はありません」
彼女は曙皿を受け取り、硝子の下へ差し入れた。
「最初から大きな布にしようとすると、朝彩の流れが乱れます。まずは一色だけ。灯台がまだ、海とつながっていると知らせるために」
エルシアが指を動かすと、皿の上に細い光が落ちた。銀青色の光は水のように揺れ、けれど皿からこぼれない。糸巻きから淡い灰青の糸を引き出し、その光を一本ずつ絡めていく。
織機は長い眠りから起こされたばかりで、最初の一打ちには大きな音を立てた。歯車が噛み合い、古い油が軋む。エルシアは呼吸を合わせ、光を糸へ送った。
たて糸に朝彩が通るたび、白い霧の中に色が生まれた。
青と呼ぶには薄く、銀と呼ぶには温かい。海霧に差す、たった一色。布の幅は手のひらほどしかない。それでも、光を含んだ糸は普通の布より重く、触れると遠い波の音がかすかに響いた。
「きれい……」
ユノが呟いた。
その声に答えるように、灯台の外で霧笛が鳴った。低い音が壁を震わせ、織機の上の布がふるえる。ノアが窓辺へ向かい、外壁に手を触れた。冬紋が青白く浮かび、窓の結露だけが薄く凍る。
「霧の流れが変わった。北東から船が一隻」
「旗は見えますか」
「見えない。だが、こちらの音は届く」
エルシアは織機を止めず、布の端に最後の光を込めた。明日布は航路を照らすだけではない。迷う者に、ここに誰かがいると伝えるものでもある。彼女はそう思いながら、糸の結び目を締めた。
「ノア様、灯りを」
「分かった」
ノアが布を受け取り、灯台の中心にある照明枠へ掛けた。冬紋の指が枠に触れると、布の中の朝彩が一斉に目を覚ます。霧の向こうへ、細い銀青の帯が伸びていった。
海面の見えない朝だった。けれど、霧の奥から短く汽笛が返ってきた。
ユノが歓声を上げ、エルシアは胸の前で両手を握った。ノアは窓の外を見たまま、ほんの少しだけ目元を緩めている。
「届いたようですね」
「ああ。最初の一色が」
「灯台が、まだ生きていると分かってもらえます」
「君が織ったからだ」
不意に向けられた言葉に、エルシアの手が止まった。
「私は、朝彩を糸にしただけです」
「それができる者は、もう王都にはほとんどいない」
ノアの声には、慰めではなく事実を確かめる響きがあった。だからこそ、エルシアは返す言葉を失った。王都で濡れ衣を着せられたとき、自分の技術まで否定されたように感じていた。けれど今、海霧の向こうの船は、確かにこの色を見つけてくれた。
昼前、霧が少し薄くなった。
三人はできあがった布を木箱に収め、町へ下りた。灯台坂の下では、マルタが荷車を止めて待っている。彼女は布を光にかざし、厳しい顔で何度か頷いた。
「これなら、漁師たちに見せられる。朝彩院から届く配給を待たなくても、ここで作れるんだね」
「量は、まだ多くありません」
「最初から町全部を救える人なんていないよ」
マルタは布の端をエルシアへ返した。
「一色あれば、次の色を待てる。灯台がそう教えてくれた」
港では、霧に遅れていた船が一隻、ゆっくりと入ってきた。船首にいた男が布を見つけて帽子を振る。小さな光を巡って、町の人々が集まり始める。
エルシアは白潮灯台を振り返った。高い塔の窓で、銀青の一色がまだ燃えている。その横に立つノアの姿は、霧の中でも不思議なほどはっきりしていた。
失われた光を取り戻すには、長い時間がかかるだろう。王都へ流れた朝彩の秘密も、まだ硝子の奥に眠っている。それでも、今日ここで織った一色は、誰かの明日を照らす。
エルシアは木箱を抱え直した。
「明日は、もう少し広く織りましょう」
ノアが彼女の歩幅に合わせて並ぶ。
「ああ。二人分の朝食を作れるくらいには」
「それは布の話ですか?」
「どちらでもいい」
海霧の向こうで、また汽笛が鳴った。白潮灯台の最初の一色は、町の朝に差し込んでいた。




