灯台の台所、二人分
硝子の奥に残った声を聞いた翌朝、エルシアは台所の戸を開けた。
白潮灯台の台所は、長く使われていなかった。海から運ばれた塩が窓枠に白く積もり、壁際の棚には空の瓶が並んでいる。竈には灰が残っていたが、火を入れた形跡はない。誰かが暮らしている場所というより、暮らしを忘れた場所だった。
「食料は、どこにありますか」
背後からノアが答えた。
「棚の右から二番目。乾燥豆、燻製魚、固いパン。それから茶葉が少し」
「ずいぶん正確ですね」
「監査官だからな。食料の在庫も、灯台の備品だ」
振り返ると、ノアはいつもの黒い外套を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっていた。王弟という肩書きから想像する姿とは違い、灯台の狭い廊下に馴染む格好だった。けれど、袖口からのぞく左手には、薄青い冬紋がまだ消えずに浮かんでいる。
エルシアは棚を開けた。確かに豆と魚とパンがある。二人で食べるには少なすぎる量ではない。ただ、どれも一人分の暮らしを、何日も繰り返すために揃えられたものに見えた。
「これまで、ずっとこの食事を?」
「必要な分だけ食べていた」
「それは食事ではなく、命を止めないための作業です」
思わず強い声になった。ノアは眉をわずかに上げたが、怒る代わりに棚の奥から小さな鍋を取り出した。
「では、彩織士殿。命を喜ばせる作業を任せてもいいか」
その言い方が妙に真面目だったので、エルシアは笑ってしまった。
「任せてください。ただし、あなたも手伝うこと」
「料理はできない」
「できないのではなく、したことがないのでしょう」
「切ることならできる」
「では、魚と豆を。焦がさないように」
竈に火を起こすと、湿った薪が白い煙を吐いた。エルシアが窓を開けようとした瞬間、ノアの指先から冷気が走り、窓の取っ手に薄い霜が広がる。
「すみません」
「謝ることではありません。便利そうな力です」
「台所では、あまり便利ではない」
ノアが手を離すと、霜はすぐに水へ戻った。エルシアは布巾で取っ手を拭き、竈へ向き直る。冬を留める力。朝彩を糸へ変える力。どちらも持ち主の意志ひとつで、ものの性質を変えてしまう。それなのに、ノアは自分の力を扱うたび、壊してしまわないように細心の注意を払っていた。
隣では、ノアが魚を切っている。大きさは見事に揃っていた。だが、豆まで一粒ずつ半分にしようとしている。
「そこまで均一でなくても大丈夫です」
「火の通り方が変わる」
「豆は煮れば柔らかくなります」
「そういうものか」
納得しきれない顔で、ノアは包丁を置いた。エルシアは鍋に豆と魚を入れ、海藻と塩を少し加えた。王都の厨房なら、香草や根菜をもっと足せただろう。けれど、ここにあるものだけで作るしかない。ないものを数えるより、あるものを生かすほうが、灯台での生活には向いている気がした。
煮込みが温まり始めたころ、ノアが低い声で尋ねた。
「昨日の声のことだが」
エルシアの手が止まった。曙硝子に残った、誰かの最後の言葉。王都へ朝彩が流れていることを示す、途切れた記録。
「はい」
「怖くはないのか」
「怖いです。でも、聞こえたものをなかったことにはできません」
「君は、いつもそうなのか」
「いつも?」
「自分が傷つくことより、見過ごすことを嫌う」
エルシアは答えず、鍋の蓋を少しずらした。湯気が立ち上り、冷えた台所の天井へ消えていく。
「ノア様は、見過ごすことを怖がっているように見えます」
今度は、ノアの手が止まった。
「王都から遠ざけられても、冬紋のことを誰にも話さなくても、ここへ来た。何も見なければ、責任を負わずに済むのに」
「責任を負わないために、見ないという選択をしたことはある」
「……ありますか」
「ある。だから、今ここにいる」
それ以上は聞かなかった。代わりにエルシアは、棚から二枚の皿を出した。ひびの入った陶器だったが、洗えば使える。ノアが木の匙を二本並べる。
「二人分、ですね」
「一人分を二つに分けただけだ」
「それでも二人分です」
食卓は灯台の最上階ではなく、台所の隅に置かれた小さなものだった。椅子も二脚しかない。エルシアが煮込みをよそい、ノアが固いパンを温める。湯気の向こうで目が合い、二人とも、どちらからともなく少し笑った。
味は、思っていたよりずっとよかった。燻製魚の塩気が豆に染み、海藻の香りが冬の朝に合っている。ノアは一口食べると、しばらく考えてから言った。
「明日も、これを?」
「明日は別のものにします。町へ買い出しに行けるなら」
「ユノに頼めば、昼には戻る」
「では、買うものを書き出しましょう。塩、油、根菜、それから薪。台所の窓も直さなければ」
「灯台の修理計画に、台所が入るのか」
「暮らせない場所では、朝彩も織れません」
エルシアがそう言うと、ノアは静かにうなずいた。
「その計画に、私も入れてくれ」
短い言葉だった。けれど、エルシアの胸には、朝彩の糸が一本通ったような温かさが生まれた。
食器を洗い終えたころ、東の窓から淡い光が差した。昨日まで暗かった台所の床に、細い金色の帯が伸びている。ノアが窓辺へ手をかざすと、その光の端だけが凍り、きらきらと輝いた。
「それは、朝彩ですか?」
「まだ、ただの朝の光だ」
「では、明日は朝彩にしましょう」
エルシアは空になった皿を重ねた。二人分の食器が、流しの中で小さく触れ合う。
白潮灯台の暮らしは、まだ始まったばかりだった。けれどこの朝、台所には確かに、二人分の火が灯っていた。




