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明日の色を織る令嬢は、冬を抱く王弟と白潮灯台で暮らす  作者: 銀細工ナギ


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3/20

硝子が覚えている声

 凍った硝子の鳴る音で、エルシアは目を覚ました。


 まだ空は暗い。寝台のそばに置いた小さなランプは、芯の先で頼りなく揺れている。窓の向こうでは雪が降り続き、海の音だけが灯台の壁を低く叩いていた。


 また、硝子が鳴った。


 エルシアは外套を肩にかけ、作業室へ急いだ。机の上に置いた曙硝子の縁から、白い霜が細い枝のように伸びている。昨夜、ノアが触れた場所ではない。黒い糸くずを包んだ紙も、誰かに動かされた形跡はなかった。


 それでも、硝子の底に沈んでいた黒いものが、一本だけ溝の外へ出ている。


 指先を近づける。


 ――弁を、閉めて。


 女の声だった。遠く、厚い壁をいくつも隔てた場所から届くように、ひどくかすれている。


 ――朝彩が、向こうへ流れてしまう。


 エルシアは反射的に手を引いた。背後の扉が開き、ノアが姿を見せる。髪には雪が残り、眠った様子はない。


「今の声は、あなたにも聞こえましたか」


「声?」


 問い返したノアの視線が、硝子へ落ちた。エルシアは迷った。自分の性質を王都で話したとき、人々は便利な道具を見るような目をした。聞こえないものを聞く女。硝子を探るために送り込まれた監視役。どんな名前でも、勝手につけられる。


「この硝子は、光だけを覚えているのではありません」


 エルシアはゆっくりと言った。「触れると、その場で最後に交わされた声が聞こえます。いつもではありません。残ったものが強いときだけです」


 ノアは驚かなかった。しばらく硝子を見つめ、それからエルシアの顔を見た。


「昨夜も聞いたのですか」


「『返して』と。今朝は、弁を閉めろと」


「それを、なぜ黙っていたのです」


「信じてもらえると思わなかったので」


「私は、あなたを信じない理由をまだ見つけていません」


 あまりに静かな言い方で、エルシアは返事を忘れた。ノアはそれ以上、力のことを尋ねなかった。


「夜明けまで一刻もありません。声の意味は後で考えましょう。今は硝子を塔へ」


 最上階の集光室は、昨夜よりも冷えていた。円形の窓から見える海は墨色で、その向こうに朝の気配はまだない。集光筒の中央に曙硝子を固定し、エルシアは溝へ銀白の縦糸を通していく。


 そこへ、見習い番のユノが息を切らして駆け上がってきた。


「遅くなりました! 港の滑車が凍って、マルタさんに叩き起こされて……あ、彩織士さん、これを」


 ユノが差し出したのは、油布に包まれた工具と、錆びた真鍮の鍵だった。


「前の番人が残したものです。集光筒の下にある整流弁の鍵。ずっと回らないって聞いてましたけど、今朝なら動くかもしれません」


 エルシアは鍵を受け取った。冷たい金属に、かすかな震えが伝わってくる。硝子へ触れたときと同じだ。


 ――早く。海へ戻して。


 今度は男の声。その後ろで、別の誰かが叫んでいる。


 ――王都の指示だ! 止めれば灯台が咎を負う!


 声はそこで途切れた。残ったのは、耳の奥に刺さるような波の音だけだった。


「何を聞いたのですか」


 ノアの声に、エルシアは鍵を握りしめた。


「整流弁を閉めろという声と、朝彩を海へ戻せという声です。それから、王都の指示だと」


 ユノの顔から血の気が引いた。


「王都が、白潮の朝彩を止めたんですか?」


「まだ、そうとは言えません」


 ノアが遮るように言った。「硝子が覚えているのは、誰がいつ話したかまでは教えてくれない。だが、調べる理由にはなる」


 彼は集光筒の下へ膝をつき、凍った鉄板に手を触れた。冬紋が青く明滅し、固着していた蓋が薄氷を割るように開く。内部には、海へ向かうはずの管と、塔の壁を抜けて内陸へ伸びる細い管が並んでいた。


「内陸側の管なんて、設計図にはありません」


 ユノが声を震わせる。


 エルシアは管の継ぎ目に残った黒い糸を見つけた。朝彩を吸い上げた跡なのか、ただの汚れなのかは分からない。けれど、昨夜の声が嘘ではないことだけは分かった。


「ノア様。弁を開けてもいいでしょうか」


「危険は?」


「中に残っている朝彩が、どこへ流れるか分かりません」


「なら、私が押さえます」


 ノアはエルシアの隣に立ち、冬紋の浮いた手を弁の根元へ添えた。「あなたは光を扱ってください。私は、流れが暴れたら止める」


 胸の奥に、細い火が灯った気がした。ひとりで抱え込む癖を、見抜かれたようで落ち着かない。それなのに、その申し出を断りたくはなかった。


「分かりました。三つ数えます」


 一。二。三。


 鍵を回すと、塔全体が軋んだ。内陸へ伸びる管の奥で、何かが逆向きに吸い込まれる音がする。曙硝子の底から黒い糸が舞い上がり、集光筒の中心で灰色の渦になった。


 ノアの冬紋が強く輝く。凍りついた空気が渦の周囲を囲い、エルシアは縦糸を引いた。


 夜明けが来た。


 雲の切れ間から差し込んだ光は、最初は淡い灰色だった。それが硝子の溝に触れた瞬間、薄紅、金、海の青へとほどけていく。エルシアは糸を織機へ導き、震える指で一筋の明日布を織り込んだ。


 塔の外へ、白潮灯台の光が走った。


 岬の先から海面を撫でた光は、沖にいた小さな漁船の帆を照らした。遠くで、船乗りの歓声が上がる。


 けれど硝子の奥には、まだ消えない声が残っていた。


 ――返して。これは、みんなの朝だから。


 エルシアは織り上がった布を胸に抱いた。ノアが隣で、管の奥へ続く暗がりを見ている。


「この声の主を探しましょう」


 エルシアが言うと、ノアは頷いた。


「ええ。白潮灯台が覚えていることを、ひとつずつ聞き出します」


 硝子は朝の色を映しながら、もう一度だけ小さく鳴った。まるで、ようやく話を聞いてくれる人を見つけた、と告げるように。

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