硝子が覚えている声
凍った硝子の鳴る音で、エルシアは目を覚ました。
まだ空は暗い。寝台のそばに置いた小さなランプは、芯の先で頼りなく揺れている。窓の向こうでは雪が降り続き、海の音だけが灯台の壁を低く叩いていた。
また、硝子が鳴った。
エルシアは外套を肩にかけ、作業室へ急いだ。机の上に置いた曙硝子の縁から、白い霜が細い枝のように伸びている。昨夜、ノアが触れた場所ではない。黒い糸くずを包んだ紙も、誰かに動かされた形跡はなかった。
それでも、硝子の底に沈んでいた黒いものが、一本だけ溝の外へ出ている。
指先を近づける。
――弁を、閉めて。
女の声だった。遠く、厚い壁をいくつも隔てた場所から届くように、ひどくかすれている。
――朝彩が、向こうへ流れてしまう。
エルシアは反射的に手を引いた。背後の扉が開き、ノアが姿を見せる。髪には雪が残り、眠った様子はない。
「今の声は、あなたにも聞こえましたか」
「声?」
問い返したノアの視線が、硝子へ落ちた。エルシアは迷った。自分の性質を王都で話したとき、人々は便利な道具を見るような目をした。聞こえないものを聞く女。硝子を探るために送り込まれた監視役。どんな名前でも、勝手につけられる。
「この硝子は、光だけを覚えているのではありません」
エルシアはゆっくりと言った。「触れると、その場で最後に交わされた声が聞こえます。いつもではありません。残ったものが強いときだけです」
ノアは驚かなかった。しばらく硝子を見つめ、それからエルシアの顔を見た。
「昨夜も聞いたのですか」
「『返して』と。今朝は、弁を閉めろと」
「それを、なぜ黙っていたのです」
「信じてもらえると思わなかったので」
「私は、あなたを信じない理由をまだ見つけていません」
あまりに静かな言い方で、エルシアは返事を忘れた。ノアはそれ以上、力のことを尋ねなかった。
「夜明けまで一刻もありません。声の意味は後で考えましょう。今は硝子を塔へ」
最上階の集光室は、昨夜よりも冷えていた。円形の窓から見える海は墨色で、その向こうに朝の気配はまだない。集光筒の中央に曙硝子を固定し、エルシアは溝へ銀白の縦糸を通していく。
そこへ、見習い番のユノが息を切らして駆け上がってきた。
「遅くなりました! 港の滑車が凍って、マルタさんに叩き起こされて……あ、彩織士さん、これを」
ユノが差し出したのは、油布に包まれた工具と、錆びた真鍮の鍵だった。
「前の番人が残したものです。集光筒の下にある整流弁の鍵。ずっと回らないって聞いてましたけど、今朝なら動くかもしれません」
エルシアは鍵を受け取った。冷たい金属に、かすかな震えが伝わってくる。硝子へ触れたときと同じだ。
――早く。海へ戻して。
今度は男の声。その後ろで、別の誰かが叫んでいる。
――王都の指示だ! 止めれば灯台が咎を負う!
声はそこで途切れた。残ったのは、耳の奥に刺さるような波の音だけだった。
「何を聞いたのですか」
ノアの声に、エルシアは鍵を握りしめた。
「整流弁を閉めろという声と、朝彩を海へ戻せという声です。それから、王都の指示だと」
ユノの顔から血の気が引いた。
「王都が、白潮の朝彩を止めたんですか?」
「まだ、そうとは言えません」
ノアが遮るように言った。「硝子が覚えているのは、誰がいつ話したかまでは教えてくれない。だが、調べる理由にはなる」
彼は集光筒の下へ膝をつき、凍った鉄板に手を触れた。冬紋が青く明滅し、固着していた蓋が薄氷を割るように開く。内部には、海へ向かうはずの管と、塔の壁を抜けて内陸へ伸びる細い管が並んでいた。
「内陸側の管なんて、設計図にはありません」
ユノが声を震わせる。
エルシアは管の継ぎ目に残った黒い糸を見つけた。朝彩を吸い上げた跡なのか、ただの汚れなのかは分からない。けれど、昨夜の声が嘘ではないことだけは分かった。
「ノア様。弁を開けてもいいでしょうか」
「危険は?」
「中に残っている朝彩が、どこへ流れるか分かりません」
「なら、私が押さえます」
ノアはエルシアの隣に立ち、冬紋の浮いた手を弁の根元へ添えた。「あなたは光を扱ってください。私は、流れが暴れたら止める」
胸の奥に、細い火が灯った気がした。ひとりで抱え込む癖を、見抜かれたようで落ち着かない。それなのに、その申し出を断りたくはなかった。
「分かりました。三つ数えます」
一。二。三。
鍵を回すと、塔全体が軋んだ。内陸へ伸びる管の奥で、何かが逆向きに吸い込まれる音がする。曙硝子の底から黒い糸が舞い上がり、集光筒の中心で灰色の渦になった。
ノアの冬紋が強く輝く。凍りついた空気が渦の周囲を囲い、エルシアは縦糸を引いた。
夜明けが来た。
雲の切れ間から差し込んだ光は、最初は淡い灰色だった。それが硝子の溝に触れた瞬間、薄紅、金、海の青へとほどけていく。エルシアは糸を織機へ導き、震える指で一筋の明日布を織り込んだ。
塔の外へ、白潮灯台の光が走った。
岬の先から海面を撫でた光は、沖にいた小さな漁船の帆を照らした。遠くで、船乗りの歓声が上がる。
けれど硝子の奥には、まだ消えない声が残っていた。
――返して。これは、みんなの朝だから。
エルシアは織り上がった布を胸に抱いた。ノアが隣で、管の奥へ続く暗がりを見ている。
「この声の主を探しましょう」
エルシアが言うと、ノアは頷いた。
「ええ。白潮灯台が覚えていることを、ひとつずつ聞き出します」
硝子は朝の色を映しながら、もう一度だけ小さく鳴った。まるで、ようやく話を聞いてくれる人を見つけた、と告げるように。




