白潮灯台の冬
王都を出て三日目の朝、エルシア・ベルメルは、馬車の窓を叩く雪の向こうに白潮灯台を見つけた。
海から突き出した黒い岬。その先に、白い石を積み上げた塔が立っている。塔のてっぺんには曙硝子を収める円形の部屋があるはずなのに、今は灰色の空を映すばかりだった。灯台の周囲には人の気配がなく、波だけが崖の下で低く唸っている。
閉鎖寸前。そう聞いていたが、実際に目にすると胸の奥が冷えた。
「あれが、あなたの行き先です」
御者が手綱を引く。雪に埋もれかけた門の前で馬車が止まった。
降りた瞬間、王都では感じたことのない寒さが頬を刺した。海の風は湿っていて、外套の隙間から入り込んでくる。エルシアは荷箱を抱え直し、灯台へ続く坂道を見上げた。
坂の半ばに、ひとりの男が立っていた。
濃紺の外套に銀の留め具。黒に近い髪が風に乱れている。身分を示す飾りはほとんどないが、背筋の伸びた立ち姿と、静かにこちらを見つめる灰青色の瞳には、隠しようのない気品があった。
「エルシア・ベルメル嬢ですね」
「はい。白潮灯台付き彩織士として参りました」
「ノア・ルーヴェンです。灯台監査官を務めています」
王弟殿下――と続けるべきか迷っているうちに、ノアは軽く頭を下げた。王都から届いた辞令には、彼が王弟であることも記されていた。けれど、ここでその名を口にするのは、凍った海へ石を投げるような気がした。
「荷物を」
「結構です。これくらいは自分で運べます」
反射的に答えると、ノアの視線が荷箱へ落ちた。次の瞬間、箱の角から白い霜がすっと広がった。
木箱を包んだ雪が、触れてもいないのに凍りついている。
エルシアが息をのむと、ノアは眉を寄せて手を引いた。
「失礼。私の冬紋は、感情が乱れると近くのものを冷やします」
「冬紋……」
「王都では珍しがられますが、ここでは役に立つこともあります。風雪の中で火を守れますから」
彼はそう言ったが、指先には薄い青白い紋様が浮かんでいた。氷の枝のようなそれは、手首から袖の中へ続いている。
エルシアはそれ以上尋ねなかった。自分にも、曙硝子に残った最後の声を聞けるという、他人には話しづらい性質がある。人にはそれぞれ、触れられたくない場所があるのだ。
灯台の扉は、ノアが押すと重い音を立てて開いた。
中は思った以上に荒れていた。玄関ホールには砂が吹き込み、壁際には使われていない油皿が積まれている。螺旋階段の手すりには塩がこびりつき、上から冷気が落ちてきた。
「番人は?」
「前任者は王都へ戻りました。後任は見つからなかった」
「では、私たち二人だけですか」
「見習い番のユノが、昼間は港町から通います。今日は船具の修理で遅れるそうです」
ノアは淡々と答えながら、玄関脇の暖炉へ薪を入れた。火打ち石を擦ると、小さな火花が散る。だが薪に火が移る前に、暖炉の縁へ白い霜が走った。
火が消えた。
「……すみません」
「謝らなくていいでしょう。これでは冬を抱くどころか、暖炉まで抱き込んでしまいますね」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。ノアが目を見開き、それからほんの少しだけ口元を緩める。
「うまいことを言う人だ」
「褒めていません」
「承知しています」
笑ったのかどうか分からない程度の変化だった。それでも、凍りついた灯台の中に初めて人の温度が差した気がした。
エルシアは持参した織機を作業室へ運び、窓辺に置かれた曙硝子を調べた。硝子は掌ふたつ分ほどの大きさで、中央に細い溝が何本も刻まれている。本来なら夜明けの朝彩が淡く揺らめくはずだ。けれど今は、底に黒い糸くずのようなものが沈んでいた。
指先を近づけると、耳の奥でかすかな音がした。
――返して。
聞き間違いかもしれない。エルシアは手を止めた。
「何かありましたか」
「いいえ。ただ、この硝子は朝彩を失っただけではありません」
硝子の縁を布で拭う。黒い汚れは煤ではなく、細く撚られた糸のように見えた。王都の朝彩院で見た記録には、こんなものはなかった。
「再点灯は明日の夜明けに行います」
ノアが背後から告げた。
「到着したばかりですが、準備は間に合いますか」
「間に合わせる必要があります。白潮灯台が三十日以上、航路へ光を送っていない。次の嵐が来れば、沖の船は岬を避けられない」
責める声ではなかった。だからこそ、エルシアは辞令に書かれていた「王都の朝彩消失に関する監督責任」という文字を思い出した。
自分が罪を着せられたまま、この灯台まで来た理由。王都で消えた光と、ここで消えた光が同じものなら、明日布を織るだけでは済まない。
「分かりました。まず、硝子を洗い、溝を整えます。朝彩が戻れば、私は糸に織り込める」
「戻らなかったら?」
ノアの問いに、エルシアは曙硝子を見つめた。
「戻るように、理由を探します」
夕方、二人は塔の最上階へ上がった。窓の外では海が鉛色に沈み、雪が横向きに流れている。ノアが扉の蝶番へ触れると、凍った金具が音もなく締まり、隙間風が止まった。
その横顔は、ひどく寂しそうだった。
「便利な力ですね」
「便利であるほど、持ち主から離れません」
ノアは手を下ろした。「王宮では、私の冬紋を災いと呼ぶ者もいました」
「ここでは、扉を守りました」
「あなたは、何でも仕事にしてしまうのですね」
「そうしないと、立っていられませんから」
言ってから、余計なことを話したと思った。だがノアは慰めなかった。ただ、灯台の中心にある大きな集光筒を見上げた。
「では、明日の朝、立っていられるようにしましょう」
夜が深まる頃、エルシアは作業室の机で、黒い糸くずを一本だけ紙に包んだ。窓の外では冬の海が、遠いどこかで白く砕けている。
朝彩を失った灯台。触れた場所を凍らせる王弟。硝子の底に残る、聞き取れない声。
まだ何ひとつ分からない。それでも、明日になれば夜明けは来る。
エルシアは織機の縦糸を張り、冷えた指先を温めるように息を吹きかけた。
「明日の色を、ここから探そう」
その独り言に答えるように、塔のどこかで、凍った硝子が小さく鳴った。




