黒い朝の呼び出し
夜明けは、いつもなら東の窓から先に届く。
薄青い空の底で、海の向こうから淡い金の筋が伸びてくる。朝彩――夜明けの短い時間にだけ生まれる光は、王都の高い塔に集められ、彩織士の手で糸へ変えられる。船の帆を照らし、畑の芽吹きをそろえ、冬の長い北の町に明日を知らせる光だ。
エルシア・ベルメルは、織機の前で息を止めていた。
窓の外が、黒かった。
雲が厚いのではない。朝の光が差すはずの空一面に、煤を溶かしたような暗がりが広がっている。王都の家々も、石畳も、向かいの朝彩院の尖塔も、輪郭だけを残して沈んでいた。
織機に掛けた白糸が、かすかに震える。
朝彩が来ない。
それは、灯台の曙硝子が空になるということだった。けれど王都の朝彩が消えたのは、今日が初めてではない。三日前から量は減り、昨日は予定の半分しか集まらなかった。それでも黒い朝など、エルシアは見たことがなかった。
工房の扉が、乱暴に叩かれた。
返事をする前に、灰色の外套を着た役人が二人入ってくる。胸元には朝彩院の銀糸章があった。後ろから工房主の叔母が青ざめた顔をのぞかせる。
「エルシア・ベルメル。朝彩院長官の命により、出頭を求める」
「今ですか」
「今すぐだ」
役人の手には、黒い封蝋の押された紙があった。黒い封蝋は、弔意か、重大な処分を意味する。
エルシアは織機から離れた。指先に絡んだ光糸が、ぷつりと切れる。普段なら切れ端から淡い橙色の光がこぼれるのに、今日は何も落ちなかった。
朝彩院へ連れて行かれるあいだ、誰も事情を説明しなかった。
大通りには人があふれていた。パン屋の前で、店主が空を見上げている。荷馬車の御者は、灯りをともす時刻でもないのに油皿へ火を入れていた。朝が来ないだけで、人の顔からこれほど簡単に色が失われるのかと、エルシアは思った。
院長室には、ラゼル・オルドが待っていた。五十二歳の長官は、窓際に立ったまま振り向かない。机の上には、北部五灯台の配分帳と、エルシアが署名した受け取り証が並べられていた。
「王都の朝彩が三日間、記録と異なる経路へ流れている」
「異なる経路?」
「北部へ送ったはずの朝彩が届いていない。一方で、王都の貯蔵庫からは相当量が消えている。君が配分の帳簿を書き換え、光を横流しした疑いがある」
エルシアは帳簿を見た。数字は自分の筆跡だった。しかし、最後に確認したときにはなかった追記が、北の白潮灯台への割当欄に記されている。
「これは私の字ではありません」
「筆跡鑑定は済んでいる」
「では、なぜ私を呼んだのです」
「君がベルメル家の彩織士だからだ。北の灯台を支える家の者が、北への配分を減らしていた。これ以上に筋の通った説明があるかね」
筋が通っているように見えるだけだった。
ベルメル家は代々、白潮灯台の朝彩を織ってきた。けれど五年前、朝彩院が配分を一括管理してから、エルシアは王都に呼ばれた。彼女が扱えるのは、院から渡される糸と指示書だけだ。白潮灯台へ送る量を決めたことなど、一度もない。
「私を罰するなら、証拠を見せてください」
声が震えなかったのは、怒りのせいだった。
ラゼルはようやく振り返った。薄い唇に、冷たい笑みが浮かぶ。
「証拠を探す機会をやろう。君を白潮灯台へ派遣する」
机の上に、別の命令書が置かれた。
「灯台は再点灯できなければ、今月末で閉鎖する。現地の監査官と協力し、朝彩の流れを調べたまえ。失敗すれば、横流しの責任は君一人が負う」
「監査官とは、どなたですか」
「ノア・ルーヴェン殿下。王弟だ」
意外な名に、エルシアは目を見開いた。王宮から距離を置き、触れたものに冬を留める異能を持つ人。噂だけなら、いくつも聞いている。近づいた者の指を凍らせたとか、雪のない季節にも彼の足跡だけ白く残るとか。
「出発は明朝。私物は最低限に。彩織機の持ち込みは許可する」
「明朝では間に合いません。白潮灯台までは、馬車で六日です」
「だからこそ、朝彩を失わせた者には都合がいい」
長官の言葉が、胸の奥に黒い染みを落とした。
エルシアは命令書を手に取った。紙の端に触れた瞬間、かすかな音がした。
――返して。
耳元ではなく、紙の下に置かれた曙硝子から聞こえた。透明な小片が、机の上で淡く曇っている。硝子には、光だけでなく、その場で交わされた言葉も残る。けれど聞こえるのは、最後に残った声の欠片だけだ。
――北へ、返して。
エルシアは硝子を見つめた。ラゼルは気づいていない。役人たちも、ただ彼女が命令書を受け取ったと思っている。
「承知しました」
それが、自分を守るために選べる唯一の返事だった。
翌朝、王都の門を出るときも、空は黒かった。
荷台には小さな織機と糸箱、三日分の保存食。それだけを載せ、エルシアは振り返らなかった。濡れ衣を着せられたまま戻るつもりはない。白潮灯台で朝彩の流れを見つけ、帳簿の嘘を明らかにして、奪われた光を取り戻す。
六日目の夕暮れ、海が見えた。
崖の先に、白い塔が立っている。潮に削られた石壁は青白く、灯室の硝子は夕闇のなかで眠った目のようだった。塔の足元には、小さな家と、錆びた滑車、それから雪のように白い砂が広がっている。
馬車が止まると、少女が駆け寄ってきた。濃い栗色の髪を風に乱し、工具箱を抱えている。
「エルシア・ベルメルさん?」
「ええ。あなたは?」
「ユノ。白潮灯台の見習い番です。来てくれてよかった。灯台、三日前から一度も明かりがついてないの」
ユノの視線が、エルシアの荷物から塔へ移る。
「それで、監査官のノア殿下はどちらに?」
問いかけたとき、灯台の扉が開いた。
長身の男が、薄暗い塔内から出てくる。黒い外套の肩には、季節外れの白い霜が降りていた。彼が一歩、石段を下りるたび、足元の水たまりが凍っていく。
男はエルシアの手にある命令書を見て、それから彼女の顔を見た。
「ノア・ルーヴェンだ」
静かな声だった。けれど、冬の海より深く響いた。
「王都から来た彩織士だな」
「はい。朝彩を盗んだ犯人として、ここへ送られました」
ノアの瞳が、ほんのわずかに細められた。
「ならば、まず灯台を見よう。君が盗んだという光が、どこへ消えたのか」
背後で、黒い空の下の王都が遠ざかっていく。
エルシアは白潮灯台を見上げた。眠った曙硝子の奥で、聞き取れない声がまた一つ、波のように揺れた。
――返して。
黒い朝の呼び出しは、白い海辺で終わった。
そして、彼女の明日が始まった。




