玻璃の中の告白
測定板の光は、夜が明けても消えなかった。
白潮灯台の上階、曙硝子を磨く作業台に置くと、淡い金の筋が板の縁を何度も巡った。そのたび、聞き取れない声が細い泡のように浮かんでは弾ける。
「返せ、という声だけが残っています」
エルシアは耳を澄ませた。硝子に指を触れなくても、昨日の海底で聞いた声が胸の奥へ直接響いてくる。
「誰に返せばいいのでしょう」
「光を奪った者に、だろう」
ノアは作業台の脇に立ち、測定板へ手を伸ばしかけて止めた。冬紋の浮かぶ右手が、白い手袋の中でわずかに震えている。
「触れないのですか?」
「触れれば、記憶を凍らせてしまうかもしれない。昨日、海底の線を見せたときも、冬紋は一瞬だけ反応した。あれは朝彩の流れを止める力ではない。隠されたものを、形にする力だ」
ノアは戸棚から古い曙硝子を一枚取り出した。縁が欠け、表面には潮の跡が白くこびりついている。
「これは、逆流装置のそばにあった予備の玻璃だ。ユノには見せていない。もし記録が残っているなら、測定板の声と重ねられる」
二枚の硝子を向かい合わせ、その間にエルシアが編んだ青い糸を渡す。朝の光が塔の窓から差し込んだ。糸は黄金に染まり、やがて古い玻璃の奥へ吸い込まれていった。
ノアが、今度はそっと縁だけに触れる。
白い霜が硝子を走った。
霜の下から、文字が浮かび上がる。
『北の流れを王都へ繋げ。五灯の分け前を一つに集めれば、朝彩院は王国を支配できる』
エルシアの息が止まった。文字の脇には、日付と署名があった。王都朝彩院の現長官、ラゼル・オルド。
次に、男の声が玻璃の中から流れ出す。
『ベルメル家には、計測の失敗として処理させる。灯台が閉じれば、誰も北の流れを確かめられない。王冠に光を納めることこそ秩序だ。海へ返すなど、愚かな古契約に過ぎない』
声はそこで途切れた。けれど、測定板から別の声が重なる。
『灯は誰のものでもない。海を渡り、明日の岸へ戻る』
何人もの声だった。古い灯台守、船乗り、畑を耕す人。名も知らない人々の願いが、朝彩と一緒に玻璃へ残っている。
「証拠です」
エルシアは震える手で布を広げ、二枚の硝子を包んだ。
「これがあれば、私の家が朝彩を消したのではないと証明できます。王都へ送れば、長官は逃げられない」
「送って、返事が来ると思うか?」
ノアの声は静かだった。
「王都は、都合の悪い声を聞かなかったことにする」
その言葉に、エルシアは顔を上げた。彼は玻璃ではなく、窓の向こうの海を見ていた。
「ノア殿下は、最初からご存じだったのですか。王宮が北の灯を奪っている可能性を」
「可能性ではない。私はそれを確かめるために、ここへ来た」
ノアは手袋を外した。手の甲から腕へ伸びる冬紋は、青白い枝のように脈打っている。
「この印は王弟の血に現れた祝福ではない。五つの灯を結ぶ古い契約を守るための、北守の印だ。母が最後の北守だった。私が十二歳の冬、王宮は契約を王家の所有へ書き換えようとした。母は拒み、逆流装置を止めようとして……帰ってこなかった」
ノアの指先に霜が咲いた。作業台の木目が白く染まる。
「その夜、私は母の手を握っていた。印が目覚め、部屋中を凍らせた。私が母を凍らせたのだと思っていた」
「違います」
エルシアはすぐに言った。
「玻璃の記憶は、触れた人の罪を決めません。起きたことを残すだけです」
「君は、優しいな」
「優しさではありません。私も、隠していたことがあります」
エルシアは測定板へ手を置いた。金の筋が、彼女の指先を避けるように揺れた。
「私は幼い頃から、朝彩の中に声を聞いていました。家族には言えませんでした。彩織士は光を扱うだけで、声を聞くものではないと言われていたから。王都の審査で、異常だと記録されるのが怖かったのです」
「だから、あの最初の硝子の声も一人で抱えたのか」
「はい。私が聞こえたと言えば、ベルメル家が何かを隠していると思われる。そう考えて、黙りました。黙ったまま、家族を守れるつもりでした」
声が震えた。ノアはすぐには慰めなかった。ただ、凍りかけた木目へ手を置き、霜をゆっくり消していく。
「秘密を預けてくれて、ありがとう」
「殿下も、同じことを言ってくださるのですか?」
「ああ。君が聞く声を、もう隠さなくていい。私の冬も、君にだけは隠さない」
エルシアの胸に、朝彩とは違う熱が灯った。
「では、私も言います。ノア殿下が冬になってしまうのが怖いです」
彼の瞳が揺れる。
「印を使い続ければ、身体の温度まで失われる。母の記録にそうあった。だから私は、灯台の流れを止める前に、朝彩を本来の道へ戻す方法を探している」
「一人で?」
「そのつもりだった」
「もう、二人分の理由があります」
エルシアは青い糸の端を彼へ差し出した。ノアが受け取ると、糸の中で金と白が重なり、細い輪になった。
その瞬間、古い玻璃の奥から、最後の声が流れた。
『北の灯守へ。王都は沈黙する。返事を待つな。五つの灯を起こせ』
ノアは包まれた証拠を見つめた。エルシアは窓の外を見た。海の向こう、まだ見えない南の岬で、ひとつの光がかすかに瞬いた。
「返事を待たずに、こちらから届けましょう」
「五つの灯へ?」
「はい。王都が聞かなくても、海と町には届くように」
ノアは頷いた。二人の間で、青と金の糸が朝の光を受けて揺れる。
玻璃の中に残された告白は、もう誰か一人の秘密ではなかった。奪われた光の行き先を、五つの灯が記憶している。
白潮灯台の鐘が、次の潮を告げた。遠い王都へ送る手紙は、まだ返事をしないまま机の上に置かれていた。




