逆流する朝
馬車の床からせり上がった黒い管が、蛇のように二人の足元へ絡みついた。
エルシアは反射的に座席の背へ身を引いた。管の表面には細い溝が走り、そこを青白い光が流れている。朝彩ではない。夜明けの光から色を抜き取ったあとの、冷たい残り滓だった。
「触れるな」
ノアの手が、エルシアの腕をつかんだ。冬紋が走った場所から、薄氷が管へ広がっていく。しかし黒い金属は凍るそばから震え、氷を内側へ吸い込んだ。
「冬紋まで吸うのですか」
「魔力なら何でもいいらしい」
馬車の車輪がぬかるみを踏んだ。外では御者が何か叫んでいる。騎兵の蹄が遠ざかり、車体の振動だけが強くなった。進んでいるのではない。床下の装置が、馬の速度を越えて朝彩を引いている。
エルシアは耳を澄ました。曙硝子の声は、さきほどから途切れ途切れに響いている。
『戻せ。白潮の光を、王都へ戻せ』
違う、と彼女は思った。これは命令ではない。何度も繰り返された言葉が、硝子の中で傷のように残っているだけだ。
彼女は胸元から、昼間に抜いた朝彩の金糸を取り出した。ユノへ渡した布から、ほんの少しだけ切り離しておいた糸だ。細い糸の先を管の溝へ差し込むと、冷たい光が一瞬だけ金色に変わった。
「エルシア?」
「この装置は、光を一方へ流すために編まれています。なら、編み目を一つ逆にすればいい」
彼女は糸を引いた。朝彩を織るときと同じように、指先で光の流れを数える。一、二、三。四つ目の脈動が来たところで、金糸を反対側の溝へ渡した。
黒い管が大きく鳴った。
床下から押し寄せていた冷気が、今度は逆向きに噴き出す。車内の窓が一斉に白く曇り、御者の怒鳴り声が近づいた。
「何をした!」
扉の向こうで、王家の騎兵が剣を抜く音がした。
「急いでください」
「君は?」
「編み目を押さえます」
「駄目だ。君を残しては行けない」
ノアの声に、初めてはっきりした焦りが混じった。そのことが、エルシアの胸を熱くした。
「なら、一緒に押さえてください」
彼女が手を差し出すと、ノアは迷わず重ねた。冬紋の冷たさが金糸へ伝わり、暴れていた光の脈が一定になる。二人の手の間で、金色と銀色の細い線が交わった。
馬車が急停止した。
外から扉を開けようとする音がする。だが、ノアが手を離した瞬間、閂の周囲が凍りついた。エルシアは金糸を管から抜き、座席の下へ滑り込ませる。
「三つ数えます」
「分かった」
「一、二、三!」
金糸を引き切ると、床下で溜められていた光が一気に跳ね返った。
馬車の屋根から、朝の色が噴き上がった。
まだ夜半だというのに、道の向こうが淡い橙に染まる。空へ昇った光は流星のように白潮灯台の方角へ戻っていき、遠くで灯台の光が太くなった。
同時に、逆流装置の中心で何かが砕けた。黒い管は力を失い、床へ落ちてただの鉄棒になる。
扉の外から、短い悲鳴が聞こえた。ノアは凍った閂を蹴り開け、エルシアの手を引いて道へ降りた。
騎兵たちは馬車から離れ、突然明るくなった空を見上げていた。御者の足元には、王家の印ではない小さな金属札が落ちている。表には朝彩院の刻印、裏には五本の線が刻まれていた。
「これは……灯台の配置図です」
エルシアが拾い上げると、金属札の線が淡く光った。白潮灯台を示す一本だけが、今も明滅している。残る四本は、遠い場所で消えかけていた。
ノアは騎兵たちを見た。彼らはもう剣を構えていない。逆流した光が、王家の馬車を動かす力まで奪ったのだ。
「王都へ行く馬は、まだ残っています」
「行けば、装置を止めたことが知られる」
「戻りましょう。白潮灯台へ」
ノアは金属札を見つめ、それからエルシアの手を握り直した。
「灯台を一つ守るだけでは足りない」
「ええ。五つすべてを、同じ朝に点ける必要があります」
東の空が、ほんの少し明るくなった。
それは王都へ吸い上げられる朝ではなかった。海の上で生まれ、灯台へ集まり、町の人々の手へ渡っていく、本来の光だ。
エルシアはその色を見ながら、金糸を握りしめた。奪われた朝を取り戻すために、二人は夜の道を白潮灯台へ引き返した。
背後で、空になった馬車の中から曙硝子の声がした。
『ひとつでは、足りない』
今度の声は、命令に聞こえなかった。
遠い四つの灯台が、まだ消えずに待っている。そのことを告げる、かすかな呼び声だった。




