連れ戻しの馬車
雪解け市の灯火が消えたあとも、広場には朝彩の余韻が残っていた。
織り台から外した布は、マルタの指示で二枚の板に挟まれている。淡い金色の筋は、夕闇の中でも消えなかった。町の人々が書いた記録札は、濡れないよう油紙に包まれ、ユノが大切そうに抱えている。
その広場を、黒い馬車がゆっくり横切った。
王都から来た役人たちの馬車とは違う。車体の扉には王家の銀章が刻まれ、前後を騎兵が固めていた。雪解け水でぬかるんだ道を避けるように、車輪の下だけが薄く凍っている。
「王弟殿下、エルシア・ベルメル嬢。王命により、お二人を王都へお連れします」
御者台から降りた男が、封書を掲げた。
エルシアは封蝋を見た。王家の紋章の下に、朝彩院の印が重ねられている。召喚状よりも強い拘束力を持つ命令書だ。
「王弟殿下だけではなく、私もですか」
「お嬢様が王都の朝彩消失について、最も多くの証言を握っていると伺っています。取り調べのため、同行を願います」
「取り調べ、という言葉を使うのですね」
エルシアの声に、御者の表情がわずかに硬くなった。周囲にいた町の人々が、息をひそめて二人を見ている。
ノアは命令書を受け取ると、封を切らずに裏返した。
「帰還期限は」
「今夜です」
「ずいぶん急だな」
「朝彩院長官のご指示です。白潮灯台の閉鎖手続きも、殿下の帰還を待って開始されます」
ノアの指先に冬紋が浮かんだ。薄い霜が命令書の端を白く染める。
「つまり、俺が乗らなければ灯台を閉じる。エルシアが乗らなければ、彼女を罪人として扱う。そういうことか」
「そのような言い方はしておりません」
「言葉ではなく、順番の話をしている」
静かな声だった。だが、町の誰もが聞き取った。
マルタが織り台の前へ進み出る。
「灯台を閉じるなら、まず町の船と畑に説明してもらおうか。今日、ここで何が織られたか、みんなが見ている」
「王都の手続きに、港町の許可は必要ありません」
「なら、町の記録を持って行くよ。必要ないと言われてもね」
マルタの言葉に、背後から幾つもの声が重なった。老女は種袋を握りしめ、若い漁師は息子を自分の後ろへ隠す。昨日まで王都の役人に怯えていた人々が、今は広場から退かなかった。
ノアはエルシアを見る。
「俺は行く」
予想していた答えなのに、胸の奥が冷えた。
「灯台を閉鎖する命令が、俺の不在を理由に実行されるなら、王都で止める必要がある。君はここに残ってもいい」
「私を置いていくつもりですか」
「置いていくのではない。君まで連れて行かれる理由を、俺は認めたくない」
「でも、私が見つけた声も、織った布も、王都へ持っていかなければ証拠になりません」
エルシアは油紙に包まれた記録札を見た。それから、灯台の方角へ顔を向ける。白潮灯台は夕闇の中で、まだ小さな光を放っていた。
「それに、私が残れば、朝彩を止める仕組みを見つけられるかもしれない。けれど王都で証拠を消されたら、町の人たちの声は二度と届かない」
「危険だ」
「あなたが一人で行く方が、もっと危険です」
言い切ると、ノアはしばらく黙った。冬紋の冷たさが、二人の間に細い壁を作る。やがて彼は息を吐き、エルシアの手から油紙の束を取った。
「では、二人で行く。ただし、記録札は半分ずつ持つ」
「どうしてですか」
「どちらか一人が奪われても、すべては失われない」
その用意周到さに、エルシアは笑いそうになった。こんなときでも、彼は最悪の可能性を考えている。
「半分では足りません」
彼女は完成した布の端をほどき、細い金糸を一本抜いた。「朝彩の布は、ユノに預けます。記録札はマルタさんへ。私たちは声を持って行く」
「声?」
ユノが首を傾げた。
「曙硝子の中に残った、最後の声よ。王都の人が聞けば、灯台から光を吸い上げた仕組みを否定できない」
ノアの目が鋭くなる。
「硝子を馬車に積む」
「ええ。でも、全部は積まない」
ユノはすぐに意味を理解したらしく、灯台へ駆け出した。マルタも頷き、記録札の束を胸に抱く。
「戻っておいで。こっちは私たちが守る」
「必ず戻ります」
エルシアは答えた。けれど、その言葉が自分への約束なのか、町への願いなのかは分からなかった。
馬車の中は、外から見るより狭かった。向かい合わせの座席と、小さな窓。扉が閉まると、王家の銀章が内側から閂を押さえた。
ノアが窓枠に触れる。冬紋が淡く光り、車内の木に薄氷の線が走った。
「妙だ」
「何がですか」
「この馬車は、王都へ向かうためのものではない」
彼が指した床下から、低い振動が伝わってきた。馬が歩き出す前から、車体の奥で何かが回っている。規則的な音だった。灯台の地下で聞いた、あの逆流装置と同じ間隔で。
エルシアは座席の下へ手を伸ばした。指先に触れた板は、朝彩を奪う管のように冷たかった。
窓の外では、白潮灯台の光が遠ざかっていく。
その光が一度、ふっと細くなった。
ノアが立ち上がろうとした瞬間、馬車の床から黒い管がせり上がり、二人の足元を囲んだ。エルシアの耳元で、曙硝子に残された声がかすかに響く。
『戻せ。白潮の光を、王都へ戻せ』
馬車は町を出た。連れ戻されるのは、自分たちだけではない。
灯台から朝彩を奪うための車輪が、夜の道を王都へ向かって回り始めていた。




