雪解け市の灯火
灰色祭りの翌朝、港町には細い雨が降っていた。
冬のあいだ屋根を覆っていた雪が、軒先からぽたぽたと落ちている。石畳の溝には透明な水が走り、海へ向かって小さな川を作っていた。雪解け市の日だった。
例年なら、古い道具を売る露店と、春先の種を交換する農家が並ぶだけの市である。けれど今年は、広場の中央に大きな織り台が置かれていた。白潮灯台で集めた朝彩を、町の人々の前で布にするためだ。
「糸が濡れるよ。こっちの天幕をもう一枚張ろう」
マルタが声を飛ばすと、船大工たちが慣れた手つきで柱を立てた。ユノは灯台から運んできた曙硝子を、厚い布で包んで台の脇へ置く。硝子の中には、夜明けの薄金色がまだ消えずに残っていた。
エルシアは糸巻きを確かめ、深く息を吸った。
昨日までは、光を守ることだけを考えていた。誰かに奪われないよう、証拠を隠し、装置の仕組みを調べ、灯台を閉じさせないようにする。それで精いっぱいだった。
けれど、朝彩は隠して守るだけでは足りない。人の手へ渡り、暮らしの中で役立って初めて、明日の色になる。
「緊張しているな」
隣でノアが言った。彼は市の入口に立ち、集まってくる人々と王都の役人たちを同時に見ている。薄い霜が彼の靴元に広がっていた。地面のぬかるみを凍らせ、荷車が通りやすい道を作っているのだ。
「見られるのは、慣れていません」
「俺も、見せるために冬紋を使うのは初めてだ」
「では、お互い初めてですね」
エルシアが笑うと、ノアはほんの少し目を細めた。
最初に織り台の前へ来たのは、灰色祭りで札を書いた老女だった。彼女は畑の種袋を胸に抱えている。
「去年は芽が出る前に霜でやられたんだよ。白潮の朝彩を灯した夜から、土が凍らなくなった。大げさじゃなく、孫に食べさせる芋が残ったんだ」
老女は震える指で記録札を差し出した。
「これを、王都の人にも読ませておくれ」
「必ず」
エルシアは札を受け取り、白い経糸に淡い金の糸を通した。糸が交わるたび、布の上に小さな光が生まれる。朝彩はまばゆいほどではない。雪の下から顔を出した若草のように、目を凝らして初めて分かる明るさだった。
次に来たのは、若い漁師とその息子だった。灯台の光が戻った夜、沖で迷いかけた船が安全な流れへ戻れたという。宿屋の主人は、夜道で転ばなくなった客の話を書いた。パン屋の娘は、朝の仕込みを早く始められるようになったと、丸い字で札を埋めた。
ひとつひとつの記録が、布に色を加えていく。
「こんなに違う暮らしが、同じ光から始まるんだね」
ユノが感心したように呟いた。
「だから一か所に集めてはいけないのよ」
エルシアは答えた。「誰かの都合で止められたら、みんなの明日が止まってしまうもの」
その言葉が聞こえたのか、広場の反対側から濃紺の外套を着た役人が歩いてきた。昨日から灯台を監視している三人のうち、年長の男だった。
「朝彩院の許可なく、朝彩を配分することは認められない」
彼は織り台の前で立ち止まり、記録札の束へ手を伸ばした。
しかし、その手が届く前に、マルタが木槌を台へ打ち下ろした。
「ここは市だよ。売り物に手を出すなら、代金を払いな」
「これは公的な証拠だ」
「なら、なおさら皆の前で扱うべきだろう」
低い声が重なった。船大工だけではない。農家も、漁師も、宿屋の主人も、役人の周囲を静かに囲んでいる。
男の顔が赤くなった。
「王弟殿下、あなたもこの無許可の行いを認めるおつもりですか」
ノアは一歩前へ出た。彼の手に冬紋が浮かび、濡れた記録札の端を乾いた薄氷で包む。
「俺は白潮灯台の監査官として、朝彩の流れを記録している。ここで行われているのは配分ではない。使用された光と、その結果を公開する作業だ。異議があるなら、記録を持って朝彩院へ戻り、正式な照合を申請しろ」
「殿下が王都へ戻れば済む話です。陛下も、あなたの帰還をお望みでしょう」
役人の言葉に、広場の空気が変わった。
ノアの冬紋が、わずかに濃くなる。エルシアは反射的に彼の袖をつかんだ。冷たい布の下で、固い腕がこわばっている。
「帰還を望む方が、なぜ白潮の閉鎖を急ぐのですか」
エルシアは役人を見た。「ここにある光が正しく使われているなら、王都にも都合が悪いはずはありません」
男は答えなかった。代わりに、懐から封蝋のついた細長い筒を取り出す。
「ならば、これは直接お渡ししましょう。朝彩院長官ラゼル・オルドから、王弟殿下とエルシア・ベルメル嬢への召喚状です」
封蝋には、王都の塔と、閉じた目を思わせる印が押されていた。
ユノが息を呑む。マルタは黙って織り台を見つめた。
エルシアは筒を受け取らず、まず広場を見渡した。そこには、朝彩の布を見ようと集まった人々がいる。老女の記録札も、漁師の息子の笑顔も、まだ誰にも奪われていない。
「この市を終えるまで、返事はしません」
彼女が言うと、役人の眉が跳ね上がった。
「拒否なさると?」
「いいえ。私たちは逃げません。ただ、ここで織るべき灯火を最後まで織ります」
エルシアは糸を取り、織り台へ戻った。ノアも隣に立つ。二人の影が、金色の布の上でひとつに重なった。
雪解け水が石畳を走り、海へ流れていく。その水面に反射して、白潮灯台の朝の光が細く揺れた。
市の人々は、誰も帰らなかった。ひとり、またひとりと記録札を差し出し、明日の色を織り台へ預けていった。
その日の夕暮れ、完成した布は大きな灯火のように広場を照らした。明るさは小さくても、消すには多すぎる光だった。
そして市が片づけられたあと、王都から来た役人たちは、黒い馬車を町外れへ回した。




