第九十七話 未来へ走る
夜は、明けた。
それだけだった。
眠れたわけではない。
泣き疲れて、いつの間にか意識が途切れたのかもしれない。
けれど、それは眠りと呼べるものではなかった。
窓の外が薄く白み始めた頃、私は椅子に座ったまま目を開けていた。
頭が重い。
瞼が熱い。
顔も、きっとひどいことになっている。
目の奥がずきずきして、喉が乾いていた。
けれど、立ち上がる気力がなかった。
寝台では、リアムがウサギを抱いたまま眠っている。
小さな寝顔は穏やかで、昨日の朝と何も変わらないように思えた。
しかし、何も変わらなかったわけはない。
リアムは、知ってしまった。
自分に父親がいること。
その父親が、昨日ここにいたこと。
そして今、もうここにいないこと。
その事実を、もうすぐこの子は知ってしまう。
私は椅子の背に手を置いた。
立ち上がらなければならない。
顔を洗わなければならない。
朝食を作らなければならない。
今日の仕事の準備をしなければならない。
教会へ連れていかなければならない。
いつも通りに。
いつも通り。
その言葉が、ひどく遠かった。
もう昨日と同じ朝は来ないのだ。
何も知らなかった頃には、戻れない。
そう分かっているのに、体だけはいつもの手順を探している。
私はゆっくり立ち上がり、水差しの水で顔を洗った。
冷たい。
瞼に触れると痛かった。
鏡を覗くと、想像以上にひどい顔がそこにあった。
目は赤く、頬は青白い。
まるで一晩で別人になったようだった。
いや。違う。
別人ではなく。
ずっと見ないようにしていたもう一人の自分が、そこにいたのかもしれなかった。
その時、寝台の方で小さな声がした。
「……おかあさま。」
振り返ると、リアムが目をこすっていた。
寝癖のついた髪。
片手には、まだ木彫りのウサギ。
眠たげな青い瞳が、私を探している。
「おはよう、リアム。」
「おはよ。」
リアムはゆっくり起き上がった。
そして、部屋を見回した。
寝台の横。
机。
椅子。
台所の方。
扉。
また机。
小さな首が、何度も動く。
私は息を止めた。
駄目だ。
聞かないで。
まだ、聞かないで。
「びるは?」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
私は口を開いた。
けれど、言葉がすぐには出てこなかった。
リアムは不思議そうに首を傾げる。
「びる、どこ?」
答えなければならない。
嘘はつけない。
でも、どう言えばいいのか分からない。
私は膝をつき、リアムと目線を合わせた。
「……帰ったわ。」
リアムが止まった。
本当に、ぴたりと止まった。
その大きな瞳に、ゆっくりと水が張っていく。
私はすぐに分かった。
これは、まずい。
腕を伸ばす。
でも、遅かった。
「う、」
リアムの口が歪む。
「うあーん!」
大きな泣き声が、小さな家いっぱいに響いた。
リアムはウサギをぎゅっと抱きしめて泣いた。
「びる。」
「リアム。」
「びる、おとうさまだもん!おうち、ここだよ!」
その言葉が、胸に刺さった。
いっしょがいい、昨日の言葉が甦る。
おとうさま、と言われた。
家族だと、言った。
ここに居たいと言われた。
なのに朝起きたら、いない。
三歳のリアムに、その区切りが理解できるはずがない。
「リアム、ごめんなさい。」
私は抱きしめた。
小さな体が震えている。
しゃくり上げる息が、胸に伝わる。
「おとうさま、いない。」
その言葉に、私の目の奥がまた熱くなった。
泣いてはいけない。
この子の前で泣く権利は、今の私にはない。
泣きたいのはリアムだ。
失ったのはこの子だ。
昨日、ようやく見つけた父親を、朝には失っていた。
そうしたのは、私だ。
私はリアムを抱きしめることしかできなかった。
大丈夫とも言えなかった。
また会えるとも言えなかった。
約束できることが、何もなかった。
リアムはしばらく泣き続けた。
その間、私は背中を撫でた。
ウサギの硬い耳が、私の腕に当たる。
昨日、ヴィルヘルムが真剣にそのウサギを支えていた姿が浮かんだ。
スープを冷まし、リアムに食べさせ、ウサギにまでパンを食べさせた人。
リアムの寝顔を、息をすることも忘れたように見つめていた人。
――どうか元気で、と伝えてください。
あの声が、また胸に落ちる。
彼は、本当に行くつもりなのだ。
私を傷つけないために。
罰を受けるために。
手を離すために。
私は昨夜、何も言えなかった。
待って、と言ったのに、その先を言えなかった。
許せなかったから。
でも、許せないのに。
――失いたくなかった。
その矛盾を抱えたまま、彼を行かせた。
リアムの泣き声が、少しずつ細くなっていく。
大声はしゃくり上げに変わり、やがて、ひっく、ひっくと小さく続くだけになった。
私はリアムの髪を撫でた。
「お水を飲みましょう。」
リアムは首を横に振った。
「びる。」
「……うん。」
「びる、どこ。」
答えられない。
彼を出て行かせたのは、私だ。
その時、扉が遠慮がちに叩かれた。
小さな音。
昨日のような強い訪問ではない。
外に、こちらの様子を伺う気配がある。
きっと、朝からずっといたのだろう。
リアムの泣き声も、聞こえていたはずだ。
私はリアムを寝台の上に座らせた。
「リアム、ここで待っていてください。お母様は少しだけ扉の外へ行きます。」
「びる?」
「……違うと思う。」
リアムの顔がまた歪みかける。
私は急いでウサギを抱かせ直した。
「ウサギをお願いできますか。」
リアムは泣きそうな顔のまま、こくりと頷いた。
私は扉へ向かった。
開けると、そこには昨日の事務官が立っていた。
彼もまた、一睡もしていないような顔をしていた。
目の下に影があり、髪も少し乱れている。
私の顔を見て、彼は一瞬言葉を失った。
それから、気まずそうに目を伏せる。
「朝早く、申し訳ございません。」
「いえ。」
声が自分のものではないようだった。
事務官は何か言いたげに口を開きかけ、すぐに閉じた。
ヴィルヘルムは何を話したのだろう。
あるいは、何も話さなかったのだろうか。
どちらにしても、この人は何かを察している。
それだけは分かった。
「陛下は、本日正午頃、帰国に向けて出航される予定となりました。」
――正午。
その言葉は、思ったより短かった。
四年は、あんなに長かったのに。
失う時は、半日もないのだと思った。
「本日、正午。」
「はい。エーベルハルト閣下より、リーストン様にもお伝えするようにと。」
事務官は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。」
彼は逃げるように去っていった。
私が何かを言う前に。
何かを言ってしまう前に。
扉を閉める。
部屋に戻ると、リアムはまだ寝台の上でウサギを抱えていた。
目は赤い。
鼻も赤い。
まだ少ししゃくり上げている。
「おかあさま。」
「はい。」
「びる、おふね?」
どこまで聞こえていたのだろう。
私は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「そうね。船に乗るみたい。」
「とおい?」
「……遠いわ。」
「……ばいばい、するの?」
胸が痛い。
痛くて、息ができない。
私は仕事の予定をすべて諦めた。
翻訳の納期。
カルラへの説明。
商家の娘たちの授業。
紙商組合への連絡。
全部、今は無理だった。
朝食を用意した。
パンを少し。
昨日の残りのスープを温めたもの。
けれど、リアムはほとんど食べなかった。
私も、一口も食べられなかった。
部屋にいると、リアムがまた「びる」と言いそうで怖かった。
答える言葉がないことが怖かった。
私は小さな外套を取り、リアムに着せた。
「少し、歩きましょう。」
「どこ?」
「分からないわ。」
リアムは不思議そうに私を見た。
それでも、ウサギを抱いたまま頷いた。
私たちは家を出た。
昨日の騒ぎの後だ。
通りには、いつもよりこちらを見る目が多い気がした。
パン屋の奥から。
魚屋の前から。
通りすがりの人々の視線。
誰も何も言わない。
けれど、見ている。
王が来た家。
王が子どもを抱いて歩いた家。
メアリー・リーストンの家。
昨日までの私は、もういない。
私は人目を避けるように歩いた。
リアムの手を引き、できるだけ人の少ない道へ。
市場を避け、教会へ向かう道も避け、細い路地を抜ける。
リアムはしばらく黙っていた。
時々、ウサギを胸に押し当てる。
泣き疲れた後の、小さな静けさだった。
やがて、街のざわめきが少し遠くなった。
石畳が途切れ、足元に土が増える。
木立が見えてきた。
港町の外れにある、小さな丘へ続く道だった。
私は行き先を決めていたわけではない。
ただ、人目を避け、言葉を避け、胸の痛みから逃げるように歩いていた。
それなのに、足は自然と木立の方へ向かっていた。
木々の下に入ると、空気が少し冷たくなる。
葉が風に揺れ、光が斑に落ちる。
リアムは少しずつ周囲を見るようになった。
「あ、はっぱ。」
「そうね。」
「むし、いる?」
「いるかもしれないわね。」
「うさぎ、みてる?」
「たぶん、楽しんでいると思うわ。」
リアムは少し考えた。
「うさぎ、こころ、ここにある?」
「あると思う?」
「ある。」
「では、あるわ。」
リアムはウサギを少し持ち上げた。
「たのしんでる。」
「そう。」
その小さなやり取りに、胸がまた痛くなる。
昨日なら、ヴィルヘルムが真剣に頷いたかもしれない。
ウサギの心について、まるで重要議題のように聞いたかもしれない。
私は目を閉じた。
もう、その姿が浮かんでしまう。
たった一日。
たった一日なのに。
リアムの生活の中に、彼は入り込んでしまった。
私の中にも。
いや。
きっと、もともといたのだ。
ずっと。
認めないようにしていただけで。
道を歩きながら、私はあの日のことを思い出した。
森の道で倒れた日。
ひとりでいると思っていた日。
もう消えてしまいたいと、心のどこかで思っていた日。
――けれど、今は違う。
私の手の中には、小さな手がある。
あの日、まだ名前もなかった未来が、今は私の隣を歩いている。
リアム。
この子がいる。
この子がいるから、私は生きた。
この子がいるから、今も立っている。
――この子のために、私は何を選ぶべきなのだろう。
ヴィルヘルムを許せる日は来るのだろうか。
彼を恨まない朝は来るのだろうか。
昨日の私が放った、刃のような言葉たち。
――あなたが私を断罪した。
――どうして助けてくれなかったの。
あなたが憎かった。
あなたに助けてほしかった。
その痛みは、今朝になっても消えていない。
きっと、明日も消えない。
これからも、消えないかもしれない。
それでも。
許せないまま、人は誰かと生きられるのだろうか?
恨みを抱えたまま、人を幸せにできるのだろうか?
傷が残ったまま、未来へ進めるのだろうか?
「わあ!」
リアムの声に、私ははっと顔を上げた。
「おかあさま、おおきい!」
目の前に、海が広がっていた。
いつの間にか、私たちは街を見下ろす小高い丘の上に出ていた。
眼下には港がある。
白い帆。
並ぶ船。
動き回る人々。
その向こうに、青い海が広がっている。
果てしなく。
どこまでも。
朝の光を受けて、海面がきらきらと揺れていた。
「海……」
私は立ち尽くした。
初めて海を見た日を、思い出していた。
あの時の海は、灰色だった。
冷たくて、大きくて、恐ろしかった。
私は逃げていた。
行き先も、未来も、何も分からなかった。
ただ、生きなければならないと思っていた。
そして、海を越えて、私はメアリーになった。
働いて、産んで、育てた。
そこは、決して逃げた場所ではなかった。
私が選び、辿り着き、生きた場所だった。
――海は逃げるためだけのものではないと、私はもう知っていた。
大きな風が吹いた。
木々がざあっと音を立てる。
葉が舞った。
その音の中に、かすかに鈴の音が混じった気がした。
は、と息を呑む。
森の家の鳥除け。
風に揺れる古布。
縫い合わせた糸。
初めて種をまいた畑。
不器用に直された柵。
すべて失ったと思った私に、降り積もっていった言葉。
――寒いところで眠るんじゃないよ。
――せめて、道に迷わないように。
――人生は、海を航海する船のようなものよ。
――おまえが自分で選んだ道を信じろ。
雪が降る、冬のあの日。
――あなたのために、生きていたかった。
――愛しています。
胸が苦しいほど、何かで満たされていく。
痛い。
でも、痛いだけではない。
苦しい。
でも、立ち上がれる。
ああ。
「私はまだ、海の上なのね。」
私は、彼を許せるか分からない。
でも、失いたいわけではない。
リアムから父親を奪いたいわけでもない。
そして何より、私はもう、決して、過去だけに未来を決めさせたくない。
リアムが海を見ている。
泣き腫らした目で、それでも海を見ている。
「おかあさま、うみ、ひろい、きれい。」
そうだ。
人生は広い。
人生は美しい。
この子に、失うことばかり教えたくない。
この子に、過去を恨む姿ばかり見せたくない。
この子には、海を見て笑っていてほしい。
そして。
――私も、そうありたい。
その時、港の方から鐘の音が響いた。
大きく、低く、空へ広がる音。
船の出航を告げる鐘。
私は息を呑んだ。
正午。
船。
――ヴィルヘルム。
心臓が跳ねる。
「行きましょう!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
リアムが私を見上げる。
「どこへ?」
「未来へ!」
「みらい?」
「海へ!」
リアムは目を丸くした。
私はリアムを抱き上げた。
ウサギごと。
「しっかり掴まっていてね。」
「うん!」
私は走り出した。
◇
「陛下、本当によろしいのですか。」
エーベルハルトは目の前で外套を羽織る王を見詰めた。
美しい端正な横顔には、いつもの通り、何の感情も浮かんでいないように見える。
しかし、長く彼に仕え、その機微を察してきたエーベルハルトには分かった。
――王は今、必死に感情を殺そうとしている。
また、あの凍てついた常冬の宮廷に、一人で戻る為に。
すべてを諦め、すべてを閉じ込め、完璧な為政者となる為に。
――きっと、彼の中の唯一の春の記憶を抱えて。
王としては正しい。
また人間としても。
求めることを許されぬなら、諦めることを覚えるしかない。
しかし、本当にこれでいいのだろうか。
このまま帰れば、この青年は近いうちに本当に壊れてしまうのではないか。
――分からない。
――何が正解なのか。
「陛下、定刻となりました。船へお戻りください。」
事務官が、戸惑いながらも促す。
その言葉に、王は一度だけ目に焼き付けるように街を眺め、それから何の言葉もなく静かに背を向けた。
◇
丘を下る。
木立の道を抜ける。
足元の土が滑る。
こんなに早く走ったことなどないと断言できるくらい、私は走った。
息が苦しい。
胸が燃えるように熱い。
風を切る頬が痛い。
足が悲鳴を上げているようだった。
リアムは重い。
ウサギは硬い。
外套の裾が邪魔をする。
それでも、止まれなかった。
街へ戻ると、人々が驚いてこちらを見た。
パン屋の前で誰かが声を上げる。
魚屋の奥方が目を丸くする。
荷車の男が慌てて道を空ける。
誰かが私の名を呼んだ気がした。
でも、構っていられなかった。
私は走った。
息が切れる。
涙が滲む。
髪が乱れる。
リアムが私の首にしがみつく。
「おかあさま、はやい!」
「今だけです!」
「びる?」
「そう!」
「びる!」
リアムの声が、少し明るくなった。
それだけで、足がまた動いた。
港では、出航の準備が進んでいた。
大きな船が一隻、岸壁に停まっている。
そのそばに、黒い旅装の人々がいた。
騎士。
事務官。
エーベルハルト。
そして。
――ヴィルヘルム。
彼は、船へ向かう少し手前で立っていた。
事務官が静かに彼を促した。
ヴィルヘルムが、ゆっくりと背を向ける。
そして、船の方へ一歩を踏み出そうとした。
「ヴィルヘルム!」
自分の声とは思えないほど大きな声が出た。
彼が振り返る。
目を見開く。
その顔が、初めて見るほど無防備だった。
私はそこで、力が抜けた。
間に合った。
まだ、船はそこにあった。
私が聞いた鐘は、この船のものではなかったのかもしれない。
膝から崩れるように、その場に座り込んだ。
リアムを抱えたまま、石畳の上に。
「おかあさま!」
「大丈夫……大丈夫です。」
全然大丈夫ではない。
息が苦しい。
胸が痛い。
足も痛い。
喉が焼ける。
けれど、間に合った。
リアムが顔を上げ、嬉しそうに手を振った。
「びる!」
ヴィルヘルムが動いた。
止めようとした事務官を置いて、彼は走った。
王が走っている。
止めなければと考える余裕は既になかった。
ヴィルヘルムは私たちの前で膝をついた。
手を伸ばしかけて、止める。
昨日と同じように。
触れていいのか分からない人の手だった。
「レベッカ。」
声が震えていた。
「どうして。」
私は息を整えようとした。
でも、うまくいかない。
泣きたいのか、怒りたいのか、笑いたいのか、自分でも分からなかった。
だから、一番確かな言葉を選んだ。
「わ、わたしは。」
声が裏返る。
ひどい声だ。
でも、構わなかった。
「私は、あなたを許しません!」
ヴィルヘルムは、まっすぐ私を見た。
「……はい。」
「たぶん、すぐにはぜったい許せません。」
「はい。」
「一生、許せない部分が残るかもしれません。」
「……はい。」
「それでも。」
言葉が詰まる。
涙がまた溢れそうになる。
「それでも、あなたを愛してる。」
ヴィルヘルムの目が揺れた。
碧い瞳の奥に、朝の海が映っているようだった。
「それにこの子も。リアムも、います。」
「はい。」
「私はもう、人生の舵を過去に任せたくない。」
風が吹く。
港の潮の匂いがした。
リアムが私の腕の中で、ヴィルヘルムへ手を伸ばす。
「びる。」
小さな声が、最後の一押しになった。
私は顔を上げた。
「だから。」
息を吸う。
泣き腫らした顔で。
髪も乱れて。
膝も痛くて。
きっと、ひどい有様で。
それでも、私は言った。
「一生かけて、償わせてやるんだから!」
ヴィルヘルムの目が、大きく見開かれた。
長い沈黙。
波の音。
人々のざわめき。
遠くで綱を巻く音。
そして。
ヴィルヘルムの瞳が、ゆっくりと潤んだ。
「……はい。」
彼は笑った。
泣きそうな顔で。
壊れそうな顔で。
けれど、確かに笑った。
「一生かけて、償います。」
そう言って、彼は私とリアムを抱きしめた。
今度は、ためらわなかった。
強く。
けれど、壊さないように。
リアムが嬉しそうに笑う。
「びる、いっしょ!」
「はい。」
「かえらない?」
ヴィルヘルムは、私を見た。
私は涙で滲む視界の中、少しだけ睨んだ。
「勝手に帰ったら、許しませんから。」
「はい。」
「……お願いされても、もう離してあげませんからね。」
「はい。」
嬉しそうに返した彼の腕に、少しだけ力がこもった。
その時、港に鐘が鳴った。
今度こそ、出航を告げる音。
けれど私には一瞬、森の家の鈴の音のように聞こえた。
あの日、風に揺れていた小さな鳥除け。
いつか、あの森の家での日々も、リアムに語れる日がくるだろうか。
船が出る。
人が叫ぶ。
波が鳴る。
鐘が鳴る。
でも、その時の私には、もう何も聞こえなかった。
ヴィルヘルムの腕の中で。
リアムの温もりを抱いて。
私は、未来へ向かう海の匂いを吸い込んだ。




