第九十六話 四年分の質問
小さな机を挟んで、私たちは向かい合って座った。
灯りは一つだけに落としてある。
部屋の隅では、洗った食器が伏せてある。
寝台では、リアムが木彫りのウサギを抱いて眠っていた。
小さな寝息が、静かな部屋に満ちている。
時々、胸の上に置かれたウサギが、呼吸に合わせてほんの少し上下する。
その光景だけが、この部屋の中で唯一、穏やかだった。
私は膝の上で両手を握った。
指先が冷えている。
リアムが起きている間は、私は母として、動いていられた。
鍋を洗う。
布を絞る。
寝間着の紐を結ぶ。
布団を整える。
そういう目の前の作業を逃げ場にできた。
けれど、もう、リアムは眠ってしまった。
もう私に、逃げ場はない。
彼と、向き合わなければならない。
四年前に自分が置いてきた、彼と。
聞きたいことも、言いたいことも、どちらも多すぎて、どこから手をつければいいのか分からなかった。
彼もまた、黙っていた。
きっと、彼も同じなのだろう。
いや、自分の子の存在を今日知ったのだ。私よりもずっと多くの問いがあるに違いない。
けれども彼は、私の口が開かれるのを、じっと静かに待っていた。
まるで、裁きを受ける前の罪人のように。
それが、ひどく苦しかった。
苦しいと思う自分にも、腹が立った。
私は自分を落ち着かせるために、少し大きく息を吸った。
「一つずつ、質問していきましょう。」
声は思ったよりも掠れていた。
ヴィルヘルムが目線を上げる。
「質問、ですか。」
「はい。私もあなたも、きっとお互いに知りたいことばかりでしょう。ですから、交互に。相手が答えている時は、絶対に途中で遮らない。言い返さない。」
言いながら、胸が何とも言えない不安や恐怖に埋まっていくのを感じる。
聞くのが怖い。
話すのが怖い。
自分がこれからどんな感情に支配されるのか。
怒るのか。
泣くのか。
責めるのか。
あるいは、責めたいはずの相手に、助けを求めてしまうのか。
首筋の辺りがひやりと冷たくなる感覚がした。
酷く喉が渇くのに、気持ち悪くて、でもその体の感覚も徐々に遠くなっていくようだった。
「分かりました。」
ヴィルヘルムは静かに頷いた。
しかし、その瞳の光は微かに揺れていた。
彼も怖いのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がまたおかしくなる。
怖いのは私の方だ。
傷ついたのは私の方だ。
そう言い聞かせなければ、向かい合っていられなかった。
「では、私から質問させてください。」
私は目線を少し下げた。
机に置かれた灯りは、私がこの四年間で手に入れたすべてを、ぼんやりと照らしていた。
この机。
この部屋。
寝台。
伏せた食器。
木彫りのウサギを抱いて眠るリアム。
私が、自分で選び、自分で守ってきたもの。
「なぜここが分かったのですか。」
ヴィルヘルムは、少しの間黙った後、そっと胸元から一枚の布を取り出した。
差し出された見覚えのあるハンカチに、思わず、あ、と声を上げる。
「カルラさん、ですね。」
ヴィルヘルムは頷いた。
「建国記念の祝宴で、彼女が落としたものを、偶然私が拾いました。」
なんという因果だろう。
刺繍は全く意図したものではなかった。
無意識に手が動いて形を結んだ。
四年前に捨てたはずの過去を。
皮肉なことに、それがここへ彼を導いたのだ。
私は思わず唇を噛んだ。
カルラさんは、悪くない。
あの子は明るくて、少しうっかりしていて、けれど人を傷つけるために何かをする子ではない。
私の言葉を聞き、私の授業を面白がり、私が縫った小さな双葉の刺繍を大切そうに持ってくれた。
だからこそ、余計に苦かった。
私が穏やかな日々の中で縫ったものが、私の穏やかな日々を終わらせたのだ。
「どうか彼女を責めないでください。彼女の立場からすれば、私の問いに応えない選択はなかったでしょう。」
「……責めるつもりはありません。」
私のせいだ。
私は完全に過去を捨てたつもりだった。
でも、それは私の思い上がりだったのだ。
刺繍だけでない。
棚の上の木の櫛も。
今寝台の上で微かに寝息を立て眠る温もりも。
結局、四年前のあの森の家での日々を、私は私の中から完全に消し去ることはできなかった。
消せなかった。
消したくなかったのかもしれない。
そのことを認めるのが、怖かっただけで。
「きっと、このハンカチがなくても、いつかこの日は訪れていたのでしょう。」
静かに呟いた私に、ヴィルヘルムは手元のハンカチを机に置いた。
双葉の刺繍が、灯りの中で淡く浮かぶ。
「私は、このハンカチが私のもとに舞い降りた時……あなたに呼ばれたのだと思った。」
ヴィルヘルムは自嘲するように言った。
心臓がどくりと音を立てるのが分かった。
これ以上、聞きたくない。
呼んでいない。
呼んだつもりなどない。
けれど、完全にそうだと言い切れるのか。
私はあの刺繍を縫う時、何を思い出していた。
芽。
畑。
森の家。
鳥避け。
鈴。
そして、私が愛した人。
私は、あの時、一体何を縫い込めてしまったのだろう。
「あなたの番です。」
私は遮るように早口で言った。
彼が私を見つめていた。
ふっと彼の口から溜息が漏れる。
けれど、それ以上は言わなかった。
「私はハンカチを追ってここまで来ました。それがなければ辿り着けないほど、あなたの隠匿は完璧だった。……どうやってこの地まで来られたのですか。」
――逃げて。
その言葉は、彼の口からは出なかった。
けれど、私の中では聞こえた。
私にとっての四年間は、ここまでの旅は、決して彼から逃げるためだけのものではなかった。
消えることを選びかけた時。
お腹の中に子どもがいるのを知った時。
再び生きることを決めた時。
海を越え、自分の力で生きていると感じた時。
逃げようとするのではなく、乗り越えようと生きてきた時間。
言葉にできない。
けれど言葉にしなければならない。
私はできるだけ感情を乗せないように答えた。
隣町で名を変え、それ以降は追跡を恐れ、人の目につく馬車を避け、時には徒歩で森の中を歩み、倒れたこと。
老夫婦に助けられたこと。
そこで、言葉が止まった。
寝台を見る。
リアムは何も知らずに眠っている。
小さな手が、ウサギの耳を握っていた。
「そこで、妊娠していると知らされました。」
ヴィルヘルムは、目を見張った。
彼はリアムがどう生まれてきたのかを知らない。
私が妊娠を知ってから彼のもとを去った可能性も、きっと考えていたに違いなかった。
私は首を横に振る。
「知ったのは、家を出た後です。」
自分で言って、少しだけ胸が痛んだ。
妊娠を知っていたら、私はどうしただろう。
それでも去ったのか。
それとも、彼に告げたのか。
考えても意味がない。
もう、過去は変わらない。
「私には、産まないという選択肢はありませんでした。」
声を低くして続けた。
「けれど、産めるのか、生きられるのか、この子を守れるのか。毎朝目を覚ますたびに、不安に押しつぶされそうになる時もありました。」
息を吸う。
あの頃の、窓の外の光を思い出す。
知らない家。
借りた寝台。
薄い毛布。
湯気の立つ粥。
老婦人の手。
お腹に手を当てた時の、不思議な恐怖と温かさ。
「でも、怖いからといって戻りたいとは思いませんでした。戻れば、私の別の恐怖が始まる。あなたの隣に置かれ、きっとまた、誰かに貶められ、利用される。そう思いました。」
自分の言葉が、少しずつ苦しくなる。
「だから私は、前へ進むしかありませんでした。」
これまでの私の全てを使って、海を越え、名を変え、仕事を得、リアムを産んだ。
彼は何かに耐えるように、じっと私の話に耳を傾けていた。
後悔か、安堵か、悲嘆か、落胆か。
私には、彼の胸中に渦巻くだろうものを、予測することはできなかった。
知りたくもなかった。
「……私には、あなたの苦しみも痛みも、想像することしかできません。」
ヴィルヘルムはそっと片手で目元を覆った。
「ただ、誤解を恐れずに言うならば。」
彼の口元が固く結ばれる。
「そのすべての瞬間、あなたのそばにいたかった。」
彼は、絞り出すように言った。
声は何かを堪えるように震えていた。
私は何も言えなかった。
これが、四年前に選んだ選択の結果なのだと、喉元に突きつけられた気分だった。
私が一人で苦しんだこと。
彼がその場にいなかったこと。
どちらも、私が選んだことでもある。
それでも、胸の奥で何かが叫ぶ。
でも、あの時の私はそうするしかなかった。
そうしなければ、生きられなかった。
「……あなたのためだったのです。」
私は俯いて呟いた。
自信なく掠れた声であることは、自分でもよく分かっていた。
「王になる人間が選ぶべき相手は、私であってはなりません。」
ヴィルヘルムは、はっとしたように顔を上げた。
「あなたはなぜそのことを……。」
私は自嘲するように言った。
「私はずっと知らないまま、森でただあなたを待つ存在であるべきでしたか?」
「違います。」
彼は強い声で即座に否定を返した。
かっと胸が熱くなる。
「何が違うのですか!」
「あなたの名誉と公爵令嬢としての地位を戻すために、すべてを整える必要がありました。」
言い返した私に、彼は固い声で、それでも冷静に言葉を結んだ。
エルセリア国内の不穏。
港湾貴族の離反。
侯爵家の不正。
第一王子と侯爵令嬢の婚姻の日に起きた暴動。
そして、その機を狙って行われた名誉裁判。
彼は言葉を選びながら話した。
私を傷つけないように。
けれど、隠しすぎないように。
その境目を探しながら。
私は知った。
第一王子が王位継承から外されたことを。
侯爵令嬢が修道院へ送られたことを。
侯爵家が取り潰されたことを。
私がかつて父と呼んだエルヴェシア公爵家の当主が、その座を追われ、家族と共に僻地に移ったことを。
そして、王室そのものが解体されたことを。
私が知ろうとしなかった四年間の出来事が静かに積み上がっていく。
私がリアムの熱に怯えていた間に。
豆の値段を数えていた間に。
教会へ迎えに行く時間を気にしていた間に。
国が一つ、消えていた。
私が生まれ、育ち、断罪され、追われた国。
――エルセリア。
その名前は、もう過去のものになっていた。
「あなたは公爵令嬢の地位を取り戻し、断罪に関わった者たちは、それぞれ罰を受けました。」
「私のために?」
「はい。」
即答だった。
「最初に王太子位を引き受けた理由は、それです。あなたの名誉裁判を行うために、必要な権限でした。」
胸が、軋む。
知らなかった。
私は、何も知らなかった。
ただ、彼が王太子に選ばれたと聞いて、彼の未来の邪魔にならないようにと思った。
彼が私をどこかに置き、守ろうとしているのだと気づき、恐ろしかった。
だから、彼に何も聞かずに、決めた。
私が舞台を降りればすべて丸く収まると。
それが最善だと。
「情報が漏れた場合、最も危険になるのはあなたでした。身の安全のためにも、すべてが終わるまで伝えることはできなかった。」
「……私を疑っていたのですか。」
「違います。すべて、あなたを守るために必要だったのです。」
「私がいつそれを頼みましたか。」
「頼む、頼まないの問題ではありません。私はあなたに――」
胸の内から、込み上げてくる激流。
「それは、あなたがただ私を横に置きたかったからでしょう!」
「違います。」
「違わない。それはすべて、あなたのためです。」
「違います。」
ああ。
もう止められない。
「じゃあ、どうして。」
口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
「どうしてあの日、助けてくれなかったの。」
声が震えた。
堪え切れない涙が、目の奥から溢れてくる。
断罪。
その言葉を、私は四年も避けてきた。
あの日の大広間の床の冷たさ。
整いすぎた人々の顔。
父の沈黙。
第一王子の声。
侯爵令嬢の涙。
そして、少し離れた場所に立っていたヴィルヘルム。
あの時、私は彼を見た。
見てしまった。
助けてくれるかもしれないと、思ってしまった。
誰も信じなくても。
誰も助けなくても。
――彼だけは。
そう思ってしまった。
だから、心が壊れた。
私にはもう何もない。
信じられるのは自分だけなのだと。
「あなたが、あなたが私を断罪したのよ?」
声が震えた。
涙がこぼれる。
一度こぼれると、もう止まらなかった。
リアムを起こさないように、私は必死に唇を噛んだ。
それでも、胸の奥から嗚咽が込み上げてくる。
本当はずっと問いたかった。
――どうしてあの時。
――止めてくれなかったの。
――手を差し伸べてくれなかったの。
私は何もしていないと。
何も悪くないと。
一言でも、言ってくれなかったの。
彼が監視役だった時も。
面倒な知り合いだった時も。
恋人として隣にいた時も。
私はずっと、その問いを飲み込んでいた。
飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで。
そのうち、もう消えたものだと思っていた。
でも、消えていなかった。
ただ、見ない場所に置いていただけだった。
ヴィルヘルムは黙ったままだった。
声を殺して泣く私を、じっと見ていた。
涙にぼやけた視界の隅で、彼が拳を握るのが分かった。
手を伸ばしかけたのかもしれない。
けれど、彼は伸ばさなかった。
私に触れる資格は、もうないとでも言うように。
「……今さら、何を言っても、私の言葉はあなたを傷つけるものでしかないのでしょう。」
固い声だった。
「あなたは、私を許すことができない。」
その言葉に、胸が抉られる。
――違う。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
違うと言えない自分がいた。
私は彼を許していない。
許せていない。
今この瞬間、ようやくそれを認めてしまった。
あなたのため。
国のため。
未来のため。
汚点にならないため。
そうやって何度も自分に言い聞かせてきた言葉の下に、ずっと隠れていたもの。
――あなたが憎かった。
――あなたに助けてほしかった。
――あなたが助けてくれなかったことが、どうしても許せなかった。
「……あなたに許しを求めることさえ、私の身勝手なのでしょうね。」
ヴィルヘルムは、そこで言葉を切った。
「断罪に関わった者で、何らかの罰や失脚を受けていないのは、私だけです。」
少しの沈黙が落ちた。
何かを決めるように。
何かを諦めるように。
そして、彼は静かに立ち上がった。
椅子の音が、床に小さく響く。
私は顔を上げた。
涙で視界が歪んでいる。
彼は、私を見ていた。
「……あなたを永遠に失うことが、私の罰なら。」
エルセリアの王宮で、何度も見た、酷く静かな、感情のない顔。
すべてを諦めるような、飲み込むような、凍てついた氷のような瞳。
「……私は、それを受け入れなければならない。」
「待って――」
掠れた声が出た。
けれど、続きが出ない。
何を待ってほしいのか、自分でも分からなかった。
私はあなたを恨んでいた。
でも、愛していなかったわけではなかった。
言葉が一つも形にならない。
どれも途中で壊れてしまう。
ヴィルヘルムは寝台の方へ視線を向けた。
リアムは眠っている。
何も知らずに。
ウサギを抱いて。
ヴィルヘルムは視線を無理やり振り切るように、扉の方へ向き直った。
「……リアムに、どうか元気で、と、伝えてください。」
その一言で、私は動けなくなった。
彼は静かに出て行った。
扉が開き、外の夜の気配が入ってくる。
そして、扉が閉まる。
私には追うことができなかった。
今の私には、彼を許せる日が来るとは思えなかった。
そして、その事実が彼を苦しめ続けることも、分かってしまったから。
私は漏れ出る嗚咽をこらえながら、祈るように両手を合わせた。
私の痛みが消えるように。
彼の苦しみが癒えるように。
永遠に思えるようなこの暗い夜が、早く明けるように。
寝台からは、リアムの寝息が聞こえていた。
木彫りのウサギを抱いたまま、何も知らずに眠っている。
私はその静けさの中で、声を殺して泣いた。




