第九十五話 王様は帰らない
「突然の訪問、誠に失礼いたしました。エーベルハルトと申します。」
私の退出の促しに、まず即座に返したのは宰相だった。
旅装だが、姿勢が整っている。
疲れは隠しきれていないのに、目だけは鋭い。
この人は、王宮で一度だけ見たことがある。
私がまだエルヴェシア公爵令嬢だった頃。
広間の端で、他のアインシュヴァルト国の外交官とともに諸侯たちと話していた人物。
直接、言葉を交わしたことはない。
けれど、名前だけは覚えていた。
ヴィルヘルムの側近として、おそらく、この中で一番胃を痛めている人でもある。
エーベルハルトは私に深く礼をした。
私は少し迷ってから、礼を返した。
「……メアリー・リーストンです。」
そう名乗ると、エーベルハルトの目がほんの一瞬だけ揺れた。
だが、彼は訂正しなかった。
「承知しております、リーストン様。」
その呼び方に、少しだけ救われた。
この人は事情を知っている。
おそらく、ほとんど知っている。
けれど、今この場で私が名乗った名前を、いったん受け止めてくれた。
有能な人なのだろう。
そして、有能な人ほど苦労する。
私はこの数分だけでも、それを理解した。
「申し訳ありませんが、この家はご覧の通り小さいのです。これ以上の人数が入ると、夕食も作れません。」
「ごもっともでございます。」
「それから、家の前に騎士の方々が立たれると、近所中が騒ぎます。」
「現在すでに、かなり騒がれております。」
「言わないでください。」
「失礼いたしました。」
エーベルハルトは深く頭を下げた。
事実だから余計につらい。
私は現実から目を逸らすように、視線をさまよわせた。
だが、外にはまだ問題が残っている。
「警護は必要ですか。」
騎士の一人が硬い声で言った。
私はその人を見た。
「この街で、今もっとも危険視されているのは、皆様です。」
騎士が黙った。
エーベルハルトが軽く咳払いをする。
「少し離れた場所に控えさせます。宿も、こちらで手配いたします。」
「お願いします。」
「ただし、陛下につきましては。」
「お連れください。」
「それが叶わない状況ですので、我々もどうすべきか困惑しております。」
あまりにも心からの声だった。
私は思わず黙った。
この人は、かなり疲弊している。
今回の長旅だけではない。
きっと、相当の間この人はヴィルヘルムの隣で胃を痛め続けてきたのだ。
ほんの少し同情した。
しかし、同情と受け入れは別である。
「私は、子どもの夕食と就寝を優先させていただきます。」
「はい。」
「政治的な相談、王位に関する相談、退位に関する相談、その他歴史に残りそうな問題は、すべて後にしてください。」
エーベルハルトが沈黙した。
事務官がかすかに頷きかけ、すぐに表情を引き締めた。
「申し訳ありませんが、今、この家で最優先されるべきは、こどもの夕食です。」
家の中から、完璧な相槌が返ってきた。
「ごはん!」
私は振り返った。
リアムはヴィルヘルムの腕の中で、ウサギを抱えたままこちらを見ている。
「リアム、お腹が空きましたか。」
「すいた。」
「では、ご飯にしましょう。」
「うさぎも。」
「ウサギは頭で食べるのでしょう。」
「きょうは、ほんと。」
「今日は本当なのですか。」
「うん。おじいさまが、あーん、する。」
外の事務官が小さくむせた。
エーベルハルトは何も言わなかった。
さすが宰相。
いや、目元が少しだけ動いた。
耐えている。
家の中では、ヴィルヘルムが当然のように頷いていた。
「分かりました。」
「そこで当然のように答えないでください。」
私の声は溜息とともに低くなった。
「ですが、リアムが。」
「三歳児の発言を引き合いに出さないでください。」
エーベルハルトが目を閉じた。
事務官も目を閉じた。
騎士たちは表情を消している。
かわいそうに。
長旅で疲れているだろうに、到着早々これである。
私は再び扉の外へ向き直った。
「とにかく、皆様は宿へ。必要があれば後ほどこちらから伺います。」
「リーストン様。」
エーベルハルトが静かに言った。
「陛下は、現在、通常のご判断が難しい状態にございます。」
「それは見ていれば分かります。」
「恐れ入ります。」
「私に説得をお願いしないでください。」
「しかし、今この場で陛下のお言葉を最も動かせるのは、おそらくリーストン様です。」
正直な人だった。
ヴィルヘルムはどこ吹く風といった様子でリアムをあやしている。
私はまた頭を抱えたくなった。
エーベルハルトは深く礼をした。
「近くの宿で待機いたします。書類、護衛、港への連絡についてはこちらで整えます。ただ、陛下が今夜こちらに残られる場合、最低限の警備だけは配置させてください。」
「目立たない範囲でお願いします。」
「可能な限り。」
「それは、本当に目立たない範囲なのでしょうか。」
「見方によると思われます。」
思わず沈黙した。
この人、意外と刺してくる。
エーベルハルトは何事もなかったように頭を下げた。
私はもう一度小さく息を吐き、扉を閉めた。
しばらくして、外の気配が薄くなる。
完全には消えない。
けれど、さっきよりは家が呼吸しやすくなった。
しかし、これからが正念場だ。
家の中に一番の難題が残っている。
私は振り返った。
ヴィルヘルムは、リアムを抱いたまま立っている。
一瞬目が遠くなる。
いや、しかし、最優先はリアムのお腹だ。
私は諦めて、台所へ向かった。
「夕食を作ります。」
「手伝います。」
「座っていてください。」
「手伝えます。」
「あなたに台所仕事をさせると、いよいよ誰かが倒れます。」
「倒れないように命じます。」
「そういう問題ではありません。」
ヴィルヘルムは、少し緊張した様子で、目線を下げた。
「では、何をすれば。」
「リアムを、見ていてください。」
リアムはヴィルヘルムの腕の中で満足そうだ。
下りる気配もない。
ヴィルヘルムも今のところ下ろす気はないだろう。
ならば、見ていてもらうしかない。
「はい。」
ヴィルヘルムは頷いた。
その返事は、今までのどの返事よりも真剣だった。
「リアム、ウサギと一緒に座っていてください。」
「うん。おじいさまも?」
「おじいさまも。」
「やった。」
リアムは嬉しそうに笑った。
私はもう訂正しなかった。
訂正する気力がなかった。
ヴィルヘルムは椅子に腰を下ろし、リアムを膝に乗せた。
木彫りのウサギは、机の上に置かれる。
リアムはウサギに布をかけた。
「うさぎ、まっててね。ごはん、すぐ。」
「ウサギは何を食べるのですか。」
ヴィルヘルムが尋ねた。
「ぱん。」
「パン。」
「あと、みず。」
「なるほど。」
「でも、あたまでたべる。」
「頭で。」
「うん。でも、きょうは、ほんと。」
「難しいですね。」
「むつかしい。」
なんとも可愛らしいやりとりに、私は鍋に水を入れながら、思わず笑いそうになった。
ダメだ。
笑ってはいけない。
私は怒っているのだ。
突然現れたこと。
授業中を中断させたこと。
人前で抱きしめたこと。
王を辞めると言い出したこと。
リアムに勝手におとうさまと名乗ったこと。
怒るべきことは山ほどある。
それなのに、背後ではヴィルヘルムが真剣にウサギの食事について質問している。
どう怒ればいいのだ。
怒りの置き場所が分からない。
今日の夕食は、野菜と豆のスープ、卵を少し入れたもの、パン。
豪華ではない。
けれど、温かい。
リアムは好きだ。
ヴィルヘルムの口に合うかどうかは分からない。
私は台所で手を動かした。
玉ねぎを刻む。
野菜を入れる。
豆を足す。
塩を少し。
パンを切る。
手が勝手に動く。
こういう時、生活の手順はありがたい。
心が混乱していても、手は覚えている。
鍋から湯気が上がる頃、部屋の方からリアムの声がした。
「びる、おうさま、やめるの?」
私は包丁を落としそうになった。
その話、まだ続いていたのか。
「やめたいと思っています。」
「なんで?」
「ここにいたいからです。」
「ここ?」
「はい。」
「りあむのおうち?」
「はい。」
「せまいよ。」
私は咳き込んだ。
リアム。
事実だが、言うのはやめて。
ヴィルヘルムは真剣に答えた。
「問題ありません。」
「びるのおうちは?」
「広いです。」
「じゃあ、そっちのがいい?」
「いいえ。」
「なんで?」
「ここに、あなたとお母様がいるからです。」
鍋の前で、私は動けなくなった。
そういうことを、リアムに言わないで。
私はまだ、何も説明していないのに。
リアムは少し考えた。
「びる、りあむとおかあさまと、いっしょにいたいの?」
「はい。」
「じゃあ、いいね。」
「はい。」
何かが勝手に成立している。
何が「いい」のか。
私は振り返った。
「よくありません。」
「おかあさま、びる、いっしょにすんじゃだめ?」
リアムがこちらを見る。
私はその顔を見て、言葉に詰まった。
その顔はずるい。
非常にずるい。
「だめというか……王様には戻らなければならない場所があるのです。」
「ここじゃ、だめなの?」
「ここは、りあむとおかあさまのおうちです。」
「びるも、いっしょがいい。」
言葉に詰まった。
リアムはきっと何気なく、幼子の軽い我儘として口にしたはずだ。
けれど、その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
ヴィルヘルムの表情が、かすかに揺れた。
私は、鍋の方に向き直った。
自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。
「……ご飯にしましょう。」
声が少しだけ小さくなった。
夕食は、妙な静けさの中で始まった。
リアムはいつもの椅子に座るはずだった。
はずだった。
だが、リアムが「びるのおひざ」と言い、ヴィルヘルムが何のためらいもなく受け入れた時点で、勝敗は決していた。
「絶対にこぼします。」
「気をつけます。」
「熱いです。」
「冷まします。」
「服が汚れます。」
「構いません。」
「私は構います。」
「では、私が汚さないようにします。」
何を言っても即座に返される。
やはり四年間で押し問答に磨きがかかっている。
私は宿で待機しているだろう人々に心の底から同情した。
ヴィルヘルムはスープを匙ですくい、息を吹きかけ、温度を確かめてからリアムの口元へ運んだ。
「リアム、熱ければ言ってください。」
「あーん。」
リアムはぱくりと食べた。
「おいしい!」
「よかったです。」
ヴィルヘルムの顔が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
私は目を逸らした。
見てはいけない。
見たら負ける。
でも、見てしまう。
美しい青年が、小さな子にスープを食べさせている。
尊い。何度でも言う。尊すぎる。
こんな状況なのに目からの眼福情報が強すぎて、真面目に状況を捉えきれない。
リアムはご機嫌だった。
スープを食べ、パンを少し食べ、ウサギにもパンを押し当てる。
「うさぎ、あーん。」
ヴィルヘルムが真面目にウサギを支える。
私は耐えた。
とても耐えた。
今は夕食。
それだけを考える。
食後、私は片付けをしようとした。
それに、ヴィルヘルムが即座に反応する。
「私が。」
「座っていてください。」
「手伝います。」
「リアムを見ていてください。」
「はい。」
素直だ。
妙に素直だ。
ただし、頑なにリアムを膝から降ろさない。
リアムは食後に眠くなってきたらしく、ヴィルヘルムの膝の上で目をこすっていた。
「お風呂は今日は簡単にします。」
「手伝います。」
「座っていてください。」
「ですが。」
「座っていてください。」
「……はい。」
ようやくリアムをヴィルヘルムの膝から降ろせた。
リアムを濡れた布で拭き、寝間着に着替えさせる。
その間、ヴィルヘルムは椅子に座っていた。
座っていたが、目はずっとリアムを追っていた。
一瞬も離さない。
まるで、目を離したら消えてしまうとでも思っているように。
リアムは眠そうになりながらも、ヴィルヘルムへ手を伸ばす。
「びる。」
「はい。」
「うさぎ、ねんね。」
「はい。」
「うた。」
「歌ですか。」
「うん。」
私は固まった。
ヴィルヘルムも固まった。
「リアム、今日はやめておきましょう。」
「びる、うたって。」
「びるは、歌を知らないかもしれません。」
ヴィルヘルムが静かに言った。
「教えてください。」
結局、私は戸惑いながらも、いつもの短い子守歌を小さく歌った。
ヴィルヘルムはそれを黙って聞いていた。
リアムは寝台に入り、ウサギを胸に抱いた。
ヴィルヘルムはそのそばに膝をついたまま、動かなかった。
「びる。」
「はい。」
「かえらない?」
小さな声。
眠りに落ちる直前の、柔らかい声。
ヴィルヘルムは答えるまで、少しだけ時間を置いた。
「あなたが眠るまで、ここにいます。」
「やくそく。」
「はい、約束します。」
リアムは安心したように、眠そうな顔のままふわりと笑った。
「眠ってください。」
「うん。」
リアムの瞼がゆっくり閉じる。
呼吸が少しずつ深くなる。
私はヴィルヘルムの向かい側に座り、リアムの髪を撫でていた。
ヴィルヘルムは、リアムの寝顔をじっと見つめていた。
長い沈黙。
燭台のぼんやりとした灯り。
木の床のきしみ。
外の遠いざわめき。
この小さな家の中に、ようやく夜が降り始めていた。
リアムが眠った。
完全に。
ウサギを抱いたまま。
私はしばらくその寝顔を見ていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
ヴィルヘルムも立ち上がる。
視線が合った。
もう逃げられない。
そう思った。
この人は帰らない。
少なくとも、今は。
私は深く息を吸った。
「話しましょう。」
声は思ったより静かだった。
「ただし、条件があります。」
「何でしょう。」
「まず、王を辞める話は禁止です。」
ヴィルヘルムは黙った。
「禁止です。」
「……分かりました。」
「次に、リアムを勝手に連れて行く話も、禁止です。」
彼の目が、かすかに鋭くなる。
「私は連れて行きません。」
「信用できません。」
「では、約束します。」
「今のあなたの約束は、どこまで信用できるのか分かりません。」
「それでも、約束します。」
私は彼を見た。
四年前よりずっと大人びた顔。
疲れて、冷たくなって、鋭くなって。
それでも今、必死で、何かを伝えようとしている姿。
「最後に。」
私は言った。
「今夜は、言い問答は禁止です。」
「はい。」
「絶対に言い返したり、屁理屈を言ったり、茶化したり、論点をすり替えたりしない。お互いに。」
彼は少しだけ目を伏せて、ふっと笑った。
「合理的な判断です。」
私は深く頷いた。
灯りを少し落とし、リアムが眠る寝台から少し離れ、机の前に椅子を二つ置く。
向かい合う。
逃げ道はない。
さながら何かの試合でも始めるようだ。
いつかの盤を挟んで対峙した日々を思い出す。
あの時から何もかもが変わっているはずなのに、一瞬幼い彼の面影が今の彼に重なった。
――私は、なぜか随分遠回りをしたような、不思議な気分に陥った。




