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第九十四話 ウサギのおじいさま

 家までの道が、今日は異様に長く感じた。


 いつもなら、リアムの話を聞きながら歩く道だ。


 今日は教会で何をしたのか。

 誰と遊んだのか。

 石をいくつ拾ったのか。

 蟻は何匹いたのか。

 葉っぱを食べようとしたのは誰なのか。


 そういう小さな報告を聞きながら歩く、私の大切な時間。


 しかし今日は、その大切な時間の中心に、王がいる。

 正確には、王がリアムを抱いている。


 そしてリアムが、その王に今日の出来事を一生懸命話している。


「それでね、エマがね、またはっぱ、たべようとしたの。」


「葉を。」


「うん。でも、しすたーが、だめ、って。」


「それは、止めた方がよいですね。」


「うん。はっぱ、たべちゃだめ。」


「はい。食べない方がよいです。」


「ありさん、いっぱいいた。」


「蟻ですか。」


「うん。きのうより、いっこ、おおかったの。」


「数えたのですか。」


「かぞえた。」


「すごいですね。」


「うん!」


 ヴィルヘルムは、リアムの話に丁寧に相槌を打っていた。


 驚くほど真面目に。

 まるで、国政報告でも聞いているかのように。


 いや、国政報告よりも真剣かもしれない。


 見たことはないけれど。


 リアムもまた、その真剣さに満足したらしく、次から次へと話している。


 時々、単語が抜ける。

 主語が消える。

 時系列が飛ぶ。


 私でも解読に少し時間がかかる話を、ヴィルヘルムは黙って聞き、分からないところは静かに尋ねていた。


「その塔は、積み木の塔ですか。」


「うん。たかい。」


「倒れましたか。」


「たおれた。」


「誰が倒しましたか。」


「かぜ。」


「風。」


「うん。エマのてのかぜ。」


「なるほど。」


 なるほど、ではない。

 エマの手で倒したという意味だ。


 しかし、ヴィルヘルムは妙に納得している。

 彼の中では、今、幼児語の辞書が作られているのかもしれない。


 高性能すぎて、きっと私には理解できない。


 私は横を歩きながら、それよりも大切な問題について考えていた。


 通りの人々は、私たちを見ていた。

 先ほどよりさらに遠慮なく。

 店の中からわざわざ人々が出てきてまで、私たちを見ている。


 さながら観光地のパレードだ。


 明日が怖い。

 とても怖い。


 私は心の中で、明日の買い物経路を変えることを検討した。


 できることがそれくらいしか思い浮かばない。


 そうこうしているうちに、小さな家が見えてきた。


 白い壁。

 細い窓。

 少し傾いた門。

 小さな庭。

 洗濯紐にかかった布。


 私の家だ。

 私とリアムの家。


 胸が、少しだけ落ち着いた。


 そして、すぐにまた緊張した。


 ヴィルヘルムがその家を見ている。


 静かに。

 まるで、何かを確かめるように。


 この人は、森の家もそういう目で見ていた。


 屋根。

 扉。

 窓。

 井戸。

 畑。


 安全かどうか。

 壊れていないかどうか。


 今も同じ目をしている。


 四年経っても、変わらないところは変わらない。

 それが、少し苦しい。


「ここが、あなたの家ですか。」


 ヴィルヘルムが言った。

 私は鍵を取り出しながら頷いた。


「はい。小さくてすみません。」


 言ってから、なぜ謝ったのだろうと思った。


 この家は、私が選んだ家だ。

 小さいけれど、私の家だ。

 謝る必要などない。


 けれど、王宮を知る彼の前では、ふとそう言ってしまった。


 ヴィルヘルムは家から目を離さなかった。


「謝ることではありません。」


「そうですか。」


「はい。」


 それから、彼は少しだけ低い声で言った。


「あなたがいる場所なら、どこよりも意味があります。」


 鍵穴に鍵を入れる手が止まった。


 やめてほしい。

 そういうことを、急に言わないでほしい。


 心臓に悪い。


「……玄関先までです。」


 私は扉を開けながら言った。


「はい。」


 ヴィルヘルムは素直に頷いた。


 信用できない。

 この「はい」は信用できない。


 そう思った瞬間、リアムが「あ!」と声を上げた。


「うさぎ!」


 終わった。


 私は無表情で悟った。

 玄関先までなどという約束は、今この瞬間、木彫りのウサギによって破壊された。


 リアムはヴィルヘルムの腕の中で身を乗り出す。


「うさぎ、いる!」


「リアム、待って。」


「うさぎ!」


 私が止めるより早く、リアムはヴィルヘルムの胸元を小さな手で掴んだ。


「びる、こっち!」


「はい。」


「はい、ではありません。」


 私が言う前に、ヴィルヘルムは私を見た。


 静かに。

 許可を求めるように。

 そして、リアムは期待に満ちた目で私を見ている。


 またこのシーンだ。


 私は静かに嘆息した。


「……玄関までです。」


「はい。」


「本当に。」


「はい。」


「靴はそこで。」


「分かりました。」


 ヴィルヘルムは、リアムを抱いたまま器用に靴を脱いだ。


 なぜそんなことまでそつなくできるのか。


 王なのに。

 いや、王だからできるのか。


 分からない。


 私は鞄を置き、急いで部屋を見回した。


 片付いている。

 よかった。


 朝、食器を洗っておいて本当によかった。


 机の上に仕事の資料が積んであるが、これは日常だ。


 床に石が二つ転がっている。

 これは昨日のリアムの収穫だ。


 仕方ない。


 棚の上には、木の櫛。

 私は一瞬、それを見てしまった。


 ヴィルヘルムも、見たかもしれない。


 でも何も言わなかった。

 言わないでくれて、助かった。


 リアムはヴィルヘルムの腕の中から下りた。

 先ほどまで「こっちが高いもん」と言っていたのに、ウサギの誘惑には勝てなかったらしい。


 小さな足で寝台の方へ走る。


「うさぎ!」


 木彫りのウサギは、寝台の端に置かれていた。

 朝、リアムが丁寧に布をかけていった場所だ。


 リアムはそれを抱き上げ、誇らしげにヴィルヘルムのところへ戻ってきた。


「うさぎ!」


 両手で差し出す。

 目がきらきらしている。


 ヴィルヘルムは膝を折り、リアムと目線を近づけた。


「可愛いウサギですね。」


「うん!」


「あなたのお友達ですか。」


「ううん。」


 リアムは首を振った。


「あかちゃん。」


 ヴィルヘルムの目が、ほんの少しだけ見開かれた。


「あかちゃん。」


「うん。りあむの、あかちゃん。」


「そうですか。」


「りあむ、おとうさまなの。」


 私はまた息を止めた。


 リアムは無邪気にウサギを抱えている。

 ヴィルヘルムはその小さな姿を見ている。


「おとうさまは、ごはんあげるの。」


「はい。」


「おふとん、かけるの。」


「はい。」


「うたうたうの。」


「はい。」


「だっこするの。」


「はい。」


「たいへん。」


「大変ですね。」


 ヴィルヘルムはずっと真剣だった。

 本当に真剣に、繰り返されるリアムの育児論を聞いている。


 リアムは満足そうに頷いた。


「びるも、うさぎ、だっこする?」


「よろしいのですか。」


「うん。」


 リアムは木彫りのウサギをヴィルヘルムへ渡した。


 ヴィルヘルムは両手で受け取った。

 まるで国宝でも受け取るように。


 木彫りのウサギなのに。


 いや、リアムにとっては大事な赤ちゃんだ。

 そう考えると、あながち間違いでもない。


 ヴィルヘルムはウサギを見つめた。


 少し不思議そうに。

 少し痛そうに。


「大切にされているのですね。」


「うん。だいじ。」


「あなたが世話をしているからですね。」


「うん!」


 リアムは胸を張った。

 ヴィルヘルムは、ほんのわずかに微笑んだ。


 その顔を見た瞬間、私はまた胸が詰まった。


 昔の彼の笑い方に、少し似ていた。

 でも、違う。


 もっと壊れそうで。

 もっと大切そうで。


「びるは、あかちゃんいる?」


 リアムが急に尋ねた。


 私は固まった。

 空気も固まった。


 ウサギの話の続きとしては、自然だったのだろう。

 リアムにとって、今の会話は「ウサギの赤ちゃん」の話だ。


 だから聞いた。

 ただ、それだけ。


 でも、その質問はあまりにも直球だった。


 ヴィルヘルムは、リアムを見た。

 それから、私を見た。


 私は何も言えなかった。

 言うべき言葉が、見つからなかった。


 違います、と言えるはずがない。

 まだ言わないで、と言うには遅すぎる。


 リアムは不思議そうに首を傾げている。


「びる、おとうさま?」


 ヴィルヘルムの唇が、かすかに震えた。

 彼はゆっくりと膝をついたまま、リアムの目線に合わせた。


「はい。」


 とても静かな声だった。


「私は、あなたのおとうさまです。」


 世界が、音を失った。


 リアムは目を丸くした。

 青い瞳が大きく開く。


「りあむの?」


「はい。」


「うさぎじゃなくて?」


「ウサギではなく、あなたの。」


「りあむの、おとうさま?」


「はい。」


 リアムは少し考えた。


 その間、私は息を止めていた。

 ヴィルヘルムも動かなかった。


 外の事務官たちも、きっと息を止めている。


 いや、聞こえているかどうかは分からない。

 分からないが、扉の外の気配が異様に静かだった。


 リアムはじっとヴィルヘルムを見つめた。


 それから、ぱっと笑った。


「じゃあ、うさぎの、おじいさま?」


 ヴィルヘルムが一瞬、完全に固まった。

 私も固まった。


 その発想はなかった。

 いや、あった。


 朝からずっと、リアムはウサギのお父様だった。

 ならば、リアムのお父様は、ウサギのおじいさま。


 非常に筋が通っている。

 とても論理的だ。


 本当にこの子は誰に似たのだろう。

 考えを放棄したい。


 ヴィルヘルムは、ゆっくりと瞬きをした。


「そうなりますね。」


「おじいさま!」


 リアムは嬉しそうに言った。


「びる、うさぎの、おじいさま!」


「はい。」


 ヴィルヘルムは頷いた。


「私は、ウサギのおじいさまです。」


 私は額を押さえた。


 何を言っているのだ、王。

 いや、今は王ではなく、父親であり、ウサギのおじいさまになってしまった。


 頭が追いつかない。


 リアムは満面の笑みを浮かべた。

 そして、ヴィルヘルムに駆け寄った。


 小さな腕で、彼の首に抱きつく。

 ヴィルヘルムが息を止めた。


 リアムはその頬に両手を添え、少し背伸びをした。


 ちゅ。


 小さな音がした。


 額へのキスだった。


 ヴィルヘルムの目が大きく見開かれる。

 頬に、ほんのり赤みが差した。


 私はその場で倒れそうになった。


「ちゅーは、かぞくだけなんだって!」


 リアムが得意げに言った。

 私は思わず顔を覆った。


 カエル。

 あのカエル事件の後に教えた言葉だ。


 むやみに口づけしてはいけません。

 ちゅーは家族だけです。


 そう教えた。


 まさか、ここでその教えが効力を発揮してしまうとは。


 ヴィルヘルムは、まだ固まっていた。

 まるで人生で初めて光を浴びた人のようだった。


 リアムはさらにウサギを持ち上げる。


「うさぎも、ちゅーして。」


 そして、木彫りのウサギをヴィルヘルムの口元へ押し付けた。


 私は変な声を出しそうになった。

 ヴィルヘルムは、されるがままだった。


 王が。

 ウサギに。

 口づけされている。


 笑うべきなのか、困惑するべきなのか、感情が洪水過ぎて分からない。


「うさぎ、ごはんあげて、あそんであげて、おふとんかけて、うたうたって、たいへんなの。」


 リアムは一生懸命説明している。


「おせわ、おしえてあげるから、がんばろうね。」


 ヴィルヘルムは、ウサギとリアムを見つめたまま、静かに頷いた。


「……はい。教えてください。」


「うん!」


 リアムは満足げだった。

 ヴィルヘルムは、真剣だった。


 私は、もう何も言えなかった。


 胸がいっぱいだった。

 鼻の奥がつんとする。


 泣きたいのか。

 笑いたいのか。

 怒りたいのか。


 もう何がなんだか自分の感情なのに分からない。


 分からないけれど、この光景を私は一生忘れないと思った。


 ヴィルヘルムがリアムを抱き上げる。

 今度は、先ほどより少し自然だった。


 リアムは彼の首に腕を回し、満足そうにしている。

 木彫りのウサギは、ヴィルヘルムの片手に大切そうに持たれていた。


 美しすぎる青年の腕に抱かれた天使。

 そして木彫りのウサギ。


 世の中にこれ以上、不可思議で尊い光景があるだろうか。


 いや、ない。


 私は、この世界に写真機がないことを心から恨んだ。


 その時、控えめに扉が叩かれた。


 こん、こん。

 私は現実に引き戻された。


 そうだ。

 外には人がいる。

 たくさんいる。


 この家の外に、王の一行がいる。


 私は慌てて扉へ向かった。

 少しだけ開けると、額に汗を浮かべた事務官らしき男性が立っていた。


 とても気の毒な顔だった。


「陛下。」


 中へ声をかける。

 ヴィルヘルムはリアムを抱いたまま振り返った。


 片手はウサギを持ち上げている。


 事務官の目が、一瞬だけ遠くなった。


 気持ちは分かる。

 非常に分かる。


「時間が押しております。」


 事務官は、何とか絞り出すように言った。


「本日中に港を発たねば、月末の貴族院との定例会に間に合いません。エーベルハルト閣下より、至急のご確認をと。」


 ヴィルヘルムは黙っていた。

 リアムが彼の頬に手を当てている。


「びる、かえるの?」


 リアムが尋ねた。

 その一言で、ヴィルヘルムの目が静かに変わった。


 事務官はさらに汗をかいた。


「陛下。」


 ヴィルヘルムは、リアムを抱いたまま言った。


「私は帰りません。」


 事務官が固まった。

 私も固まった。


 リアムだけがきょとんとしている。


「は、はい?」


「私は、ここに残ります。」


「陛下。」


「必要な案件は書面で送ってください。」


「陛下、それはなりません。」


「なります。」


「なりません。」


「なぜですか。」


「国がございます。」


「国なら、今も滞りなく動いています。」


「それは出立前に陛下御自身がご調整されたからです。」


「実際、私が現在まで不在にしていても、国は滅びていません。」


「それは、一ヵ月で戻られる前提があったからです。」


「私の不在で崩壊するような国なら、最初から国としての体を成してはいないでしょう。」


「ご、ご冗談を。」


 ヴィルヘルムの顔は全く冗談を言っているようには見えない。


 非常に心臓に悪い。


 事務官の顔は、見事に白くなった。

 私は片手で額を押さえた。


 何を言い出すのだ、この人は。

 やはり四年の間に何かがおかしくなっている。


 リアムはヴィルヘルムの腕の中で首を傾げた。


「びる、ここにいる?」


「はい。」


「うさぎと?」


「はい。」


「りあむと?」


 ヴィルヘルムは、リアムを見た。

 目が、痛いほど柔らかくなる。


「はい。」


 リアムはぱあっと笑った。


「やった!」


 やった、ではない。

 私は慌てた。


「やった、ではありません。ヴィルヘルム、あなたは王でしょう。」


「はい。」


「王が、突然そんなことを言って通ると、本当に思っているのですか。」


「はい。少なくとも私は国の最終決定権限者です。」


「そこではありません。」


「軒先をお貸しいただければ、何の用意も必要ありません。」


「そこでもありません。」


「では、どこですか。」


「全部です。」


 事務官が小さく頷いていた。

 あなたは頷かなくていい。


 もっと止めてほしい。


「私が王太子になったのは、名誉裁判を行う権限を得るためです。」


 ヴィルヘルムは、驚くほど落ち着いていた。 


「そして、王になったのは、その時点で私が最も適切だったからです。」


 王や王太子とはそんな理由でなってもいいものだろうか。


 ……いや、むしろなれるのだろうか。


「ですが現在、私には、私に最も適切で、かつ私にしかできない役割があると把握しました。」


 嫌な予感がした。

 とても嫌な予感がした。


 事務官も同じ顔をしている。


「ですので。」


「待ってください。」


 私は言った。


「まだ何も言わないでください。」


「私はここに残ります。ウサギのおじいさまとして。」


 言った。


 止めたのに。

 止めたのに言った。


 ヴィルヘルムは続けた。


「国政については、長兄を中心に代理体制を組めばよいでしょう。必要なら正式な手続きも取ります。」


「正式な手続きとは何ですか。」


「退位です。」


「退位!」


 私と事務官の声が重なった。

 リアムが驚いて私たちを見た。


「たいい?」


「何でもありません。」


 私は即答した。

 ヴィルヘルムも同時に言った。


「王を辞めることです。」


「そこは説明しないでください!」


 リアムは目を丸くした。


「おうさま?」


 そこからか。

 そこもまだ説明していなかった。


 リアムはヴィルヘルムを見た。


「びる、おうさま?」


「はい。」


「おうさまって、つよい?」


「場合によります。」


「うさぎより?」


「……職務の種類が違います。」


「うさぎ、あかちゃんだよ。」


「はい。」


「おうさまは、あかちゃん?」


「いいえ。」


「じゃあ、びる、やっぱり、おじいさま?」


「はい。ウサギのおじいさまです。」


 会話が崩壊している。

 事務官は今にも倒れそうだった。


 私は、彼の肩を叩きたい気持ちになった。


 分かります。

 本当に分かります。


 しかし今は、私も倒れたかった。


「陛下、どうかご冗談はおやめください。」


 事務官が必死に言った。


「冗談ではありません。」


「い、いえ、ご冗談でございますよね。」


「私は冗談を好みません。」


「へ、陛下。」


 事務官の声が少し裏返った。


 かわいそうだ。

 この人も、長旅で疲れているのだろう。


 ヴィルヘルムは静かに続けた。


「そもそも私は、八歳で敵地に送られ、戻ってからは王太子候補として休む暇なく仕事を押し付けられ、現在は王として公私なく追い回されています。」


「陛下。」


「私はかなり利用されすぎではありませんか。」


「その点につきましては、まことに遺憾で……いえ、深くお詫び申し上げます。」


「謝罪として受け取ります。ですので、今後は別の者を利用してください。」


「陛下。」


「私は本来、便利な駒でも機械でもありません。」


 その声は、静かだった。

 静かすぎて、逆に胸に刺さった。


 私は顔を上げた。


 ヴィルヘルムは、リアムを抱いたまま、事務官を見ていた。


 怒鳴ってはいない。

 責めてもいない。


 けれど、その言葉には四年どころではない長い時間が詰まっているように聞こえた。


「あなた方が望み、理性的に考えて、それが全体最適だったから、そのようにしていただけです。」


「そ、それは。」


「ですが、私は元々、それほど立派な人間ではありません。自分勝手で、頑固で、我儘な人間です。」


「そんなことは、ございません。」


「更に現在、私はウサギのおじいさまという新しい役割を得ております。」


 事務官は完全に言葉を失った。

 さっきから幾度となく登場する、ウサギのおじいさま。


「う、ウサギのおじいさま。」


「はい。」


「その、陛下。」


「この家には、ウサギのおじいさまが必要です。」


「何かの暗喩でございますか。」


 事務官が私を見た。


 見ないでほしい。

 私に聞かないでほしい。


 リアムは元気に言った。


「ひつよう!」


 事務官の目が泳いだ。

 王と幼児に挟まれている。


 お気の毒に。


「ほら。」


 ヴィルヘルムが言った。


「ほら、ではありません。」


 私は言った。


「ヴィルヘルム。リアムを下ろしてください。」


「嫌です。」


「嫌です?」


「今、下ろしたくありません。」


「あなたは本当に可愛げがなくなりましたね。」


「はい。」


「肯定しないでください。」


「可愛くしたところであなたに逃げられるなら、装う意味がありませんから。」


 リアムは楽しそうに私たちを見ている。

 この子にとっては、何か面白い大人たちの会話なのだろう。


 私は深く息を吸った。


 まずい。

 このままでは、家の玄関先で王の退位宣言が成立してしまう。


 そんな歴史的事件を、我が家の小さな玄関で起こさないでほしい。


「とにかく。」


 私は声を強くした。


「ここで決める話ではありません。」


「では、どこで。」


「少なくとも、リアムの前ではありません。」


 ヴィルヘルムは黙った。

 その言葉は効いたらしい。


 リアムが不思議そうに首を傾げる。


「りあむ、だめ?」


「だめではありません。ただ、少し難しいお話なのです。」


「むつかしい。」


「はい。」


「りあむ、おとうさまだよ。」


「ウサギのお父様ですね。」


「うん。」


「でも、これはウサギのお父様でも難しいお話なのです。」


「むつかしい。」


 リアムは納得したのかしていないのか分からない顔をした。

 ヴィルヘルムはゆっくりと息を吐いた。


「分かりました。」


 ようやく。

 ようやく分かってくれた。


 そう思った。


「では、リアムが眠った後に話しましょう。」


 違う。

 そういう意味ではない。


 私は疲れ果てて、思わず壁に手をついた。

 事務官も同じような顔をしている。


 外から、エーベルハルトらしき声がした。


「陛下。中へ入ってもよろしいでしょうか。」


 もう一人来た。

 私は天井を仰いだ。


 ひとまず、家の前に集まった人々を減らす必要があった。


 カルラとトリスタン男爵にも一旦家へ帰ってもらった。

 この状況下では詳細な経緯を聞くのは難しいと判断したからだ。


 そうして、私の小さな家には、王と宰相と事務官一名と騎士二名だけが残った。

 ただでさえ広くない我が家が、今日に限っては詰所のようだ。


 リアムは、ヴィルヘルムの腕の中で嬉しそうにウサギを揺らしている。


「おじいさま、うさぎに、ごはん。」


「はい。ご飯ですね。」


「まず、あーん。」


「分かりました。」


 私は止めようとした。

 けれども、もう、何をどう止めればいいのか分からなかった。


 四年前、私は舞台を降りたつもりだった。

 自分で幕を下ろし、誰にも見つからない場所へ逃げたつもりだった。


 それなのに今、私の小さな家の玄関には、新しい物語が勝手に組み上がっていっている。


 王と三歳児。

 小道具は、木彫りのウサギ。

 それを青い顔で見やる大人たち。


 そして私は、この状況に頭を抱えている。


 人生とは、本当に何が起こるか分からない。


 私は、深く、深く息を吐いた。

 できるところから整理していくしかない。


 いつものことだ。


「……まず、陛下以外の方はご退出いただけないでしょうか。必要なら近くの宿屋をご紹介いたします。」


 そう言うのが、今の私にできる精一杯だった。

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