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第九十三話 おかあさま

 まずい。


 これはまずい。


 非常にまずい。


 私は港通りへ続く道を歩きながら、全身で後悔していた。


 何に対する後悔かと言われれば、もはや分からない。


 四年前に逃げたことなのか。

 見つかったことなのか。

 授業中に窓から逃げなかったことなのか。


 ……いや、窓から逃げていたら足を痛めていた可能性が高い。


 それは駄目だ。

 リアムを迎えに行けなくなる。


 では何を後悔しているのか。


 とにかく、今の状況につながる全てである。


 私はただ、教会へ迎えに行くだけだった。


 いつものように。

 鞄を持って。

 夕方の道を歩いて。

 シスターへ挨拶をして。

 リアムを抱きしめて。

 小さな手を握って家に帰る。


 それだけのはずだった。


 なのに、今、私の後ろにはヴィルヘルムがいる。


 しかも一人ではない。


 ヴィルヘルムの後ろには、事務官らしき人々がいる。

 その後ろには、騎士たちがいる。

 さらにその後ろには、半泣きのカルラと、顔色の悪いトリスタン男爵がいる。


 おかしい。

 どう考えてもおかしい。


 これはお迎えではない。


 行列である。


 前世で見た浮世絵が頭に浮かんだ。


 大名行列。

 あれだ。


 いや、あれより目立つかもしれない。


 なぜなら、後ろを歩いているのは大名ではない。


 王だ。


 王が、私の後ろを歩いている。


 しかも、いかにも高貴です、王族です、なんなら王様です、といった風貌の美青年である。

 いや、王なんだけれども。


 その王が、濃い旅装を着て、妙に真剣な顔で、私から一歩半ほど後ろを歩いている。


 距離が近い。

 近すぎる。

 少し離れてほしい。


 いや、離れたところで目立つ。

 存在自体が目立つ。


 もうどうしようもない。


 通りの人々が見ている。


 パン屋の前にいた女性が、パンを持ったまま固まっている。

 荷車を引いていた男性が、道の端へ避けたまま口を開けている。

 魚屋の奥方が、魚を手にしたまま私を見ている。


 やめて。

 お願いだから見ないで。


 明日から私は、どうやって魚を買えばいいのだ。


 いや、きっと買うことになる。

 買わなければならない。

 リアムは魚が好きだ。


 だが、明日から魚屋の奥方に何を言われるのか、考えただけで気が遠くなる。


「メアリーさん、その方はどちら様だい。」


 ついに魚屋の奥方が声をかけてきた。


 やはり来た。

 逃げられなかった。


 私は足を止めずに微笑んだ。


「遠方からの、お客様です。」


「ずいぶん立派なお客様だね。」


「ええ。とても。」


「後ろの人たちもかい。」


「ええ。とても。」


 何が「とても」なのか、私にも分からない。


 魚屋の奥方は、私とヴィルヘルムを交互に見た。


 その目が言っている。


 後で聞くよ。

 絶対に聞くよ。


 分かっている。

 分かっているから、今は見逃してほしい。


 私は微笑みを保ったまま歩いた。


 すると、横から低い声がした。


「知人ですか。」


「この街で暮らしていれば、知人もできます。」


「そうですか。」


「そうです。」


「魚を扱う方ですか。」


「見れば分かるでしょう。」


「魚を持っていましたので。」


「分かっているではありませんか。」


 何の会話だ。


 私は自分で自分に呆れた。


 しかし、ヴィルヘルムは真剣だった。

 まるで、この街での私の暮らしの一つ一つを、目に焼き付けているようだった。


 パン屋。

 魚屋。

 石畳。

 坂道。

 行き交う人々。


 それら全部を、彼は黙って見ている。


 彼の知らない四年間を、少しでも取り戻そうとするかのように。


 そう思った瞬間、胸が痛んだ。


 いけない。

 痛んでいる場合ではない。


 私は今、彼のせいで非常に困っている。


 同情してはいけない。

 甘くなってはいけない。


 この人は、私の生活に大名行列を連れてきたのだ。


 非常に迷惑である。


「もう少し離れて歩いていただけませんか。」


「なぜですか。」


「目立つからです。」


「もう目立っています。」


「分かっているなら、せめてもう少し離れてください。」


「いえ、あなたから離れるのはもう難しいです。」


「難しくありません、少し我慢を覚えてください。」


「すでにあなたを抱きしめたいのを我慢しています。」


「そういうことを、道端で言わないでください。」


「では、どこなら。」


「どこでも、言ってはなりません。」


「検討します。」


「あなたの検討は検討ではありません。拒否です。」


 昔も、こんな会話をした気がする。


 いや、昔よりひどい。

 昔はもっと戸惑いや躊躇が見えた。


 揶揄ったら戸惑ったり、むくれたり、少し赤くなったり、その変化があった。


 今はそういうものが全く感じられない。動じない。


 私は息を吐いた。


 前を向く。


 教会はもう近い。


 いつもなら喜びで満たされる胸が、今は焦燥感で埋め尽くされていた。


 私はまだ、何も説明していない。

 説明しなければならない。

 しなければならないのに、何から言えばいいのか分からない。


 実はあなたには息子がいます。


 そんな言葉をこんな状況で言えるわけがない。


 しかも、騎士と事務官とカルラとトリスタン男爵と、通りの人々がいる。


 無理だ。

 絶対に無理だ。


 では、教会に着く前にどこかへ誘導して話すか。


 どこへ。

 路地裏か。


 王を路地裏へ連れ込む元公爵令嬢。


 どういう絵面だ。

 怪しすぎる。


 しかもリアムのお迎えに遅れる。

 駄目だ。


 教会までの道は、こんなに短かっただろうか。

 まだ何の作戦も立てられていない。


 頼むから、まだ着かないで。


 祈りながらも、とうとう教会の白い壁が目の前に来てしまった。


 教会の庭では、子どもたちの声が響いていた。

 夕方の光が、石畳を赤く染めている。

 木の下で、子どもたちが走っている。

 シスターが一人、井戸の近くで桶を片付けている。


 いつもの景色。

 私の大切な日常。


 そこへ、王が来てしまった。


 門の前で、ヴィルヘルムが少しだけ眉を寄せた。


 教会を見ている。

 子どもたちの声を聞いている。


 たぶん、戸惑っている。


 この人は、私がどこへ行くのか分かっていなかったのだ。


 私はその横顔を見て、胸が嫌な音を立てるのを感じた。


 今なら言えるだろうか。

 今、言うべきだろうか。


 でも、声が出ない。

 出ないまま、門をくぐった。


 シスターがこちらを見た。


 そして固まった。


 当然だ。


 私は心の中で謝った。


 すみません。

 本当にすみません。


 いつもの迎えのはずが、大名行列を連れてきてしまいました。


 一体どうしてこんなことになったのか、私にもよく分かりません。


 その時だった。


「あ! おかあさま!」


 可愛らしい声が響いた。


 世界が、そこで一度止まった。

 私は反射で顔を向けた。


 庭の奥から、小さな影が駆けてくる。


 栗色に少し金が混じる髪。

 丸い頬。

 きらきらした青い瞳。

 両手を広げて、全力で私へ向かってくる。


 リアム。


 たった今までどうしよう、どう説明しよう、どう逃げよう、と混乱していたはずなのに。


 その姿を見た瞬間、私は全部忘れた。


 可愛い。

 今日も可愛い。


 奇跡。

 天使。


 私の世界の中心。


「リアム。」


 私は膝を折り、両腕を広げた。


 リアムは飛び込んでくる。

 小さな体を抱きしめる。


 温かい。

 柔らかい。

 生きている。


 いつものように、胸の奥が満ちる。


「おかあさま、おそい。」


「ごめんなさい。少し授業が長引いてしまって。」


「りあむ、まってた。」


「はい。待っていてくれて、ありがとうございます。」


 リアムは私の首に腕を回した。

 私はその重みを受け止めながら、ほんの一瞬だけ幸せに浸った。


 そして、すぐに思い出した。


 後ろにいる。

 ヴィルヘルムが。


 恐る恐る、顔を上げる。


 ヴィルヘルムは、固まっていた。

 本当に、完全に。


 まるで時間を止められたように、その場に立っていた。


 碧い瞳が、リアムを見ている。

 動かない。

 瞬きもしない。


 顔から血の気が引いている。


「……おかあ、さま。」


 彼が低く呟いた。

 ほとんど声になっていなかった。


 私は何も言えなかった。


 リアムは私の腕の中で、くるりと顔を向けた。


 好奇心旺盛な目が、すぐに周囲を見回す。


 騎士。

 事務官。

 カルラ。

 トリスタン男爵。


 そして、ヴィルヘルム。


 リアムの瞳が、ぱあっと輝いた。


「いっぱいいる!」


 こんな状況なのに。

 こんなわけの分からない状況なのに。


 その一言で、あたりの空気が少しだけ緩んだ。


 子どもたちも、庭の端からこちらを見ている。

 シスターたちは戸惑い、騎士たちは妙な緊張をしている。

 事務官の一人は、口を開けたまま固まっていた。

 カルラは両手で口を押さえている。

 トリスタン男爵は、今にも倒れそうだ。


 リアムは、そんな大人たちの混乱など知らない。


 私の腕から少し身を乗り出し、ヴィルヘルムを見た。


「わあ。」


 小さな声。


 ヴィルヘルムが、微かに息を吸った。


「たかいね!」


 リアムは目を輝かせている。


 高い。

 まずそこなのか。


 いや、三歳児にとって身長は重要である。


 ヴィルヘルムは何も言えない。


 まだリアムを見ている。


 その視線が、少しずつ変わっていく。


 驚愕。

 困惑。

 恐怖。

 痛み。


 そして、言葉にできない何か。


 彼の高性能な頭の中で、今いったい何が組み上がっているのだろう。


 それでも、私は分かっていた。

 彼は、おそらく直ぐに正解に行き当たることを。


 目の色。

 年齢。

 私が消えた時期。

 子どもが私をお母様と呼んだこと。


 それらが、彼の中でつながっていく。


 私はリアムを抱く腕に力を込めた。


 守らなければ。


 何から。

 分からない。


 でも、守らなければ。


 リアムはそんな私の緊張にも気づかず、さらに身を乗り出した。


「かっこいい!」


 ヴィルヘルムの瞳が揺れた。


 その瞬間、私は胸の奥が少し痛くなった。


 リアムは、初対面の相手にも物怖じしない。

 人が好きで、興味がある。

 怖いもの知らずで、好奇心旺盛で。

 誰かが格好良ければ、素直に格好良いと言う。


 だから皆に愛される。


 だから私は、時々とても怖くなる。


「リアム、こちらは……」


 何と言えばいい。

 言葉が出ない。


 王様。

 お客様。

 昔の知人。

 あなたの父親。


 どれも言えない。


 リアムは私の迷いなど待たなかった。


 小さな両手をヴィルヘルムに向けて広げた。


「だっこ!」


 庭の空気が、さらに凍った。


 騎士たちが一斉に動きかける。


 危ない。

 無礼。


 王に向かって、だっこ。


 当たり前だ。

 騎士たちが反応するのも無理はない。


 だが、ヴィルヘルムが目だけでそれを制した。


 静かに。

 厳しく。


 騎士たちは止まった。


 私は息を呑んだ。


「リアム、あの、突然お願いしてはいけません。」


「だっこ。」


「リアム。」


「だっこ、たかい。」


 理由が明確である。


 高いから抱っこしてほしいらしい。

 非常に合理的だ。


 この子は、誰に似たのだろう。


 いや、今はそこではない。


 ヴィルヘルムが、一歩近づいた。


 私は反射的に身構えた。


 彼は私を見た。

 許可を求めるように。


 こんな時にも、礼儀正しい。


 私は迷った。

 迷って、迷って。


 リアムがキラキラと期待に満ちた目で彼を見ている。


 私は小さく息を吐いた。


「……落とさないでください。」


「落としません。」


 即答だった。


 ヴィルヘルムはゆっくりと手を伸ばした。


 リアムの脇に手を入れる。


 慎重に。

 まるで宝物に触れるように。


 それから、軽々と抱き上げた。


 リアムの体が高く上がる。


「わあ!」


 リアムは声を上げた。


「すごい!たかい!」


 目を輝かせて笑っている。


 それだけで、庭の空気が少し変わった。


 子どもたちが「いいなあ」と声を上げる。

 シスターが思わず微笑む。

 事務官たちの顔に、困惑と安堵が同時に浮かぶ。


 騎士たちはまだ緊張しているが、少しだけ肩の力が抜けた。


 ヴィルヘルムは、リアムを見ていた。


 高く掲げたまま。

 眩しいものを見るように。

 痛みを堪えるように。


 そして、この世のすべての宝物を見つけたような顔で。


 私は、その表情を見た瞬間、何も言えなくなった。


 彼は、ほとんどすべてを理解したのだ。


 そう分かった。


 リアムの青い瞳。

 頬の形。

 目元。


 笑った時の、ほんのわずかな面影。


 私が隠してきたもの。

 私が守ってきたもの。

 私が奪っていたもの。


 それらすべてを、彼は今、腕の中に抱いている。


 ヴィルヘルムの唇が、かすかに震えた。


 言葉は出なかった。


 リアムはそんなことを少しも知らず、両手を広げて笑っている。


「もっと、たかい!」


「リアム。」


 私が止めようとしたが、ヴィルヘルムは静かにリアムを少しだけ持ち上げた。


 高い高い、というより、丁寧な掲げ方だった。


 それでもリアムは大喜びだった。


「すごい!おそら!」


「空には届きません。」


 ヴィルヘルムがようやく言った。


 声が、少し掠れていた。


「でも、たかい!」


「はい。」


「おにいさん、すごいね!」


 お兄さん。


 ヴィルヘルムが一瞬だけ固まった。


 私は喉の奥で変な音が出そうになった。


 お兄さん。


 そうか。

 三歳児から見れば、そうなのか。


 いや、確か今年二十三になるこの人は、実際まだ十分若い。


 若いが。


 お兄さん。


 ヴィルヘルムは、何かを飲み込んだように目を伏せた。


「……ありがとうございます。」


「おなまえは?」


 リアムは身を乗り出して尋ねた。


 私は慌てた。


「リアム、初対面の方にいきなり。」


「ヴィルヘルムです。」


 彼が答えた。


 静かに。

 優しく。


 リアムは目を丸くした。


「びるへるむ?」


「はい。」


「ながい。」


「そうですね。」


「びる?」


「……はい。」


 ヴィルヘルムが頷いた。


 頷いた。

 今、頷いた。


 いいのか。

 王を「びる」と呼ばせていいのか。


 騎士たちが微妙な顔をしている。

 事務官が額を押さえた。


 私は頭が痛くなった。


「リアム、失礼です。」


「びるは、だめなの?」


 リアムが不安そうにヴィルヘルムを見る。

 ヴィルヘルムは即答した。


「だめではありません。」


「だめです。」


 私も即答した。

 ヴィルヘルムがこちらを見る。


「私は構いません。」


「私が構います。」


「では、後で相談しましょう。」


「相談事項にしないでください。」


 リアムはきょとんとしている。

 そしてすぐに、ヴィルヘルムの髪を見た。


「きらきら。」


 小さな手が伸びる。

 ヴィルヘルムの金髪に触れようとした。


 騎士がまた動きかける。

 ヴィルヘルムがまた止める。


 リアムの指が、淡い金髪にそっと触れた。


「おひさま?」


 ヴィルヘルムの表情が崩れた。


 本当に、ほんのわずかに。

 けれど、確かに。


 痛いほど優しい顔になった。


「いいえ。」


「ちがうの?」


「たぶん、違います。」


「じゃあ、なんで、きらきらなの?」


「……分かりません。」


「ふしぎ。」


「はい。不思議ですね。」


 何だろう。


 この光景は。


 尊い。

 非常に尊い。


 神々しささえ感じる美しい青年と、抱き上げられた小さな天使。


 ここは楽園か、天国か。


 どちらも眩しすぎる。

 目に毒だ。

 心臓にも悪い。


 私は状況も忘れてただその光景を焼き付けた。

 そうだ。現実逃避である。


 リアムはヴィルヘルムの肩に手を置き、得意げに言った。


「りあむ、きょうも、おしごとした。」


「仕事ですか。」


「うん。うさぎのおとうさまだから。」


 来た。

 ウサギ。


 私は額に手を当てたくなった。


 ここでこの話が出てしまうのか。


 けれども仕方ない。

 最近のリアムは、ウサギのお父様として毎日教会に「出勤」している。


「ウサギの、お父様。」


 ヴィルヘルムが繰り返した。


「うん。うさぎ、あかちゃんなの。」


「そうですか。」


「ごはんあげて、おふとんかけて、うたうたって、だっこするの。」


「大変ですね。」


「たいへん。」


 リアムは重々しく頷いた。

 ヴィルヘルムも、真剣に頷いた。


「あなたは、立派なお父様ですね。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が詰まった。


 ヴィルヘルムの声が、ほんの少しだけ震えていたからだ。


 リアムは誇らしげに笑った。


「うん!」


 ヴィルヘルムはその笑顔を見つめた。


 目を離さない。

 離せないようだった。


 彼の中で、何かが変わったことを、私は悟った。


 かつての恋人を探しに来ただけの筈が。

 彼は今、何の心構えもないまま、父親になったのだ。


 本人すら、まだ言葉にできないまま。


 私は、足元が崩れるような罪悪感と、恐怖、そしてなぜかほっとするような気持ちが、一度に押し寄せてくるのを感じた。


 これは、何だろう。

 ずっと一人で抱えていたものを、突然、半分持って行かれてしまったような。


 奪われたような。

 許されたような。


 責められる前に、抱きしめられるような。


 とても複雑で、奇妙で、非合理で。

 それでいて、何かがぴたりと揃ってしまったような感覚だった。


 まるで、人生そのもののように。


「メアリーさん。」


 シスターの声で、私は我に返った。

 シスターは困惑と心配の入り混じった顔をしていた。


 当然だ。


 私はシスターへ向き直り、深く頭を下げた。


「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」


「いえ、その……こちらの方々は。」


「ええと。」


 説明。

 説明しなければ。


 この方はアインシュヴァルド王で、私は元公爵令嬢で、この子の父親で、四年前に色々あって別れて、今日見つかってしまいました。


 ……無理だ。


 どこからどう考えても無理だ。情報が多すぎる。


「遠方からの、お客様です。」


 またそれだ。

 今日、私はこの言葉に頼りすぎている。


 シスターは、ヴィルヘルムとリアムを見た。

 ヴィルヘルムはリアムを抱いたまま、静かに頭を下げた。


「突然お騒がせして、申し訳ありません。」


 低く丁寧な声。

 王の謝罪。


 シスターはさらに混乱した。


 当然だ。

 どう見積もっても王族にしか見えないような人が、自分に向かって謝罪している。


 なぜこんなことに。


 やっぱり私にも分からない。


「い、いえ。」


 シスターは慌てて礼を返した。


 子どもたちは、もう緊張を忘れ始めていた。

 リアムが抱っこされているからだ。


 子どもにとって、高い抱っこは身分より重要である。


「いいなあ、リアム。」


「ぼくも!」


「だめですよ。皆そろそろお迎えが来ます。」


 私は即座に言った。

 ヴィルヘルムの腕に、子どもが列を作る未来が見えたからだ。


 絶対に駄目だ。


 騎士たちも困る。

 事務官は倒れる。

 私も卒倒する。


 リアムは、まだヴィルヘルムの腕の中にいた。


 下りる気配がない。


「リアム、お母様が抱っこします。」


「やだ。」


 即答。

 胸に刺さった。


「どうしてですか。」


「こっち、たかいもん。」


 合理的である。

 非常に合理的である。


 私は負けた。

 高さに負けた。


 母の愛は、身長差に負けるのか。


 ヴィルヘルムが私を見た。

 その腕の中で、リアムは満足そうにしている。


「このままでも。」


「だめです。」


「なぜ。」


「目立つからです。」


「もうすでに目立っています。」


「お願いですからそれを言わないでください。」


 私は頭を抱えたくなった。

 今日は何度、このやり取りをすればいいのだ。


 しかし、リアムは楽しそうだった。

 ヴィルヘルムも、リアムを下ろすつもりがまったくなさそうだった。


 私はシスターたちにもう一度頭を下げた。


「本当に申し訳ありません。今日はこのまま帰ります。明日、改めてご説明に伺います。」


「え、ええ。どうぞお気をつけて。」


 シスターはそう言いながら、まだヴィルヘルムを見ていた。

 頬を少し赤くしているシスターもいる。


 分かる。

 私だって見るだけなら眼福でしかない。


 私は鞄を持ち直した。


 リアムはヴィルヘルムの腕の中。

 ヴィルヘルムは、信じられないほど自然にリアムを支えている。


 小さな足が、彼の高そうな服に当たっていた。


 泥。

 靴の泥。


 ああ。

 リアムの靴には、今日もきっと庭の泥がついている。


 それが、ヴィルヘルムの一体いくらするのか考えたくもない旅装に触れている。


 気が遠くなった。


 だが、当事者二名はまったく気にしていない。


 リアムは身を乗り出して、教会の庭にある石を指さしている。


「あれ、りあむの。」


「石ですか。」


「うん。きょう、みつけた。」


「持って帰りますか。」


「うん!」


「では、拾いましょう。」


「拾わなくていいです。」


 私が言うより早く、ヴィルヘルムはリアムを片腕で支えたまま、膝を折って石を拾った。


 何をしているのだ、王。


 騎士が動揺している。

 事務官が口を押さえている。

 カルラが何かに耐えている。

 トリスタン男爵は、もう完全に諦めた顔をしている。


 ヴィルヘルムは小さな石をリアムに渡した。


「これですか。」


「うん! まるい!」


「よい石ですね。」


「いいいし。」


「はい。」


 彼は真剣に石を褒めている。


 私は思った。


 もしかしてこれは夢かもしれない。

 悪夢ではない。

 だが、正気の夢でもない。


 リアムは石を握りしめ、満足そうに笑った。


「おうち、かえる?」


「帰ります。」


 私は答えた。


「びるも?」


 リアムが尋ねた。

 ヴィルヘルムは私を見た。


 やめて。

 その目でこちらを見ないで。

 リアムの問いを盾にしないで。


 私は唇を引き結んだ。


「……玄関先までです。」


「分かりました。」


 これは絶対に分かっていない時の顔だ。


 私は疲れた。

 とても疲れた。


 ヴィルヘルムがリアムを抱いたまま、私の隣を歩き出す。


 夕方の教会を出る。

 騎士たちが距離を取ってついてくる。

 事務官たちも、何かを相談しながらついてくる。

 カルラとトリスタン男爵も、少し離れてついてくる。


 教会に向かう時よりも、さらに目立つ。


 なぜなら、王の腕の中にリアムがいるからだ。


 美しすぎる青年と、抱かれた天使。

 

 世の中にこれ以上尊いものがあるだろうか。

 いや、ない。


 違う。

 今はそれどころではない。


 ……それどころではないのに。


 視界の端で、リアムが楽しそうに笑っている。

 ヴィルヘルムがその声に、丁寧に返事をしている。


 夕方の光が二人の髪を照らしている。


 私は、どうしても目を逸らせなかった。

 この光景が、もう私の中に答えを見つけてしまったような気がした。


 ただ、私はそれを、まだ認めたくなかった。

 まだ認められない、と思ってしまった。


 斜陽に照らされた港町は、いつもよりずっと騒めいているのに、なぜかいつもより美しく見えた。

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