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第九十二話 扉の向こう

 その日の午後、私は手紙への返事の書き方について教えていた。


 場所は、港通りから少し奥へ入った商家の広間だ。

 窓は大きく、外からは荷車の音や、人々の話し声が聞こえてくる。


 机には紙と羽根ペン。

 壁際には、練習用の椅子。

 部屋の隅には、数本の花が挿された小さな花瓶が置かれていた。


 花は少し萎れていた。

 たぶん、数日前からここに置かれていたのだろう。


 私はそれを見て、少しだけ水を足すべきか考えた。

 だが、今は授業中である。


 ……あとでやろう。覚えていたら。

 心のメモに書き加える。


「では、招待を受けたけれど出席できない場合の返事です。」


 私は板に例文を書いた。


 お招きいただき、誠にありがとうございます。

 残念ながら、当日は先約があり、伺うことが叶いません。

 ご盛会を心よりお祈り申し上げます。


「断る時は、理由を細かく書きすぎないこと。相手に確認される隙を与えます。」


 娘たちが一斉に頷いた。

 その顔が、少し真剣すぎる。


 何か具体的に断りたい誘いでもあるのだろうか。


 私は深く追及しないことにした。

 人生とは、時に知らないふりも大切である。


「先生。」


 一人が手を上げた。


「先約が本当になかった場合は?」


「先約を作ってください。」


「今から?」


「はい。たとえば、自分の体調を整える予定でも、家で帳簿を見る予定でも、先約は先約です。」


「先生、やっぱり時々こわいです。」


「生活には、こわさも必要です。」


 娘たちは笑った。

 この笑い声が、私は嫌いではない。


 最初はぎこちなかった娘たちも、今では授業中によく質問する。


 礼儀作法を、ただ堅苦しいものとしてではなく、自分たちの生活を守る道具として受け取ろうとしてくれている。


 それが、少し嬉しい。

 王宮で私を縛っていたものが、今は誰かの手元で、小さな盾になっている。


 不思議だ。


 人生は、時々、使い道を間違えた道具を別の場所で役立ててくれる。


「先生、ではお詫び状は?」


「お詫び状は、まず相手が何に怒っているのかを確認します。」


「怒っている理由が分からない時は?」


「分からないまま謝ると、余計に怒らせる場合があります。」


「では、どうすれば?」


「まず、相手の話を聞くことです。」


 言ってから、私は少しだけ手を止めた。

 また、少しだけ記憶の扉が開きかけてしまう。


「先生?」


 生徒の声に、私は我に返った。


「すみません。相手の怒りを直接受け止める時の表現について、確認していきましょう。」


 私は微笑んだ。


 問題ない。

 私はメアリー・リーストン。


 この街で働く家庭教師だ。

 過去は、今の授業とは関係ない。


 そう思う。

 思おうとする。


 窓の外では、港の方がいつもより少し騒がしかった。


 大きな船が入ると、港通りは混む。

 数日前に紙商組合で聞いた話を思い出す。


 予定にない大きな船。

 遠方からの寄港。

 港湾管理部が朝から慌ただしい。


 船が、もう入ったのだろうか。

 それとも、別の騒ぎだろうか。


 この街では、港の騒ぎなど珍しくない。


 初めて見るような厳つい外国船。

 一体どこに運ぶのか不思議になるほど大量に届く商会の荷。

 公国を訪れる大きな使節団。

 華やかな衣装で着飾った旅芸人。

 高価な香辛料の臭いを漂わせた、羊。


 先々週、港で荷下ろしの際に香辛料の箱が羊の上に落ちたらしい。

 羊に怪我はなかったが、驚いて逃げ回った羊たちのために、港ではしばらくくしゃみが止まらなくなるような臭いが立ち込めていた。


 ……港町には、何でも来る。


「そういえば先生。」


 別の娘が、少し声を潜めた。


「今朝、港にすごい船が入ったそうですよ。」


「ペンネルさん、今は授業中です。」


「はい。でも、すごい船なんです。」


「授業中です。」


「ものすごく偉い方が乗っているとか。」


「……。」


「それで、港湾管理部の人たちが走り回ってて、父も朝から呼ばれて出て行きました。」


「……それは、大変ですね。」


「あと、うちの店の者が見たらしいんですけど、信じられないくらい綺麗な男の人がいたって。」


 私は板に文字を書き続けた。


 綺麗な男の人。

 港町には、外国から来た美しい人も多い。


 別に珍しくはない。


「金髪で、青い目で、すごく背が高くて、気品があって、冷たい感じで、でも目が離せないくらい美しいって。」


 羽根ペンの先が、板の上で止まった。

 ほんの一瞬。


 私はすぐに動かした。


 大丈夫。

 金髪で、青い目で、背の高い、美しい男性など、世界にいくらでもいる。


 いや、そんなに多くはないかもしれない。


 でも、いる。

 きっといる。


「それは、目撃した方の表現がちょっと大げさなだけでしょう。」


「先生、でも港で見た人たちみんながおんなじこと言ってたんですよ。」


「珍しい賓客なのでしょうね。」


「まるで王族みたいだったそうです。」


 心臓が、嫌な音を立てた。


 王族。

 その言葉は、いけない。


 私の心の中で開きかける扉を、乱暴に叩き閉じる。


 私は深く息を吸った。


「では、そのような方に遭遇した時こそ、今日のような授業が役に立ちますね。」


 娘たちは目を丸くした。


「どのような立場の方か分からない相手には、まず自分から名乗らない。相手の随行者や案内役を見て、身分を推測する。分からなければ、無理に近づかない。用がなければ離れる。用があれば、紹介者を立てる。」


「逃げるんですか。」


「安全な距離を取るのです。」


「やっぱり盾ですね。」


「はい。礼儀作法は盾です。」


 私はそう言って、例文を書いた。


 お目にかかれて光栄です。

 本日はご機嫌麗しく。

 どうぞよいご滞在を。


 書きながら、指先が少し冷えていることに気づいた。


 この街に王族が来ることなど、そうそうない。


 しかし、たとえ来たとしても、それは絶対に彼ではない。

 彼であるはずがない。


 彼はアインシュヴァルドにいる。

 いるべきだ。


 私が、そう望んだ。


 良い王になってください、と。

 王は王宮にいるべきだ。


 こんな港町に、突然現れたりはしない。

 現れるはずがない。


「先生、顔色が少し悪いです。」


「大丈夫です。」


「その大丈夫は、信用していいんですか?」


「今日の大丈夫は、比較的信用して構いません。」


「比較的。」


 娘たちが小さく笑った。


 よかった。

 私は笑えている。

 声も出ている。


 授業は続く。

 日常は続く。

 いつもと何ら変わりない一日。


 生徒たちの書いた練習文を、一人一人確認して回っていた時のことだった。

 

 廊下の方で、慌ただしい足音がした。


 最初は一人。

 次に数人。


 誰かが小声で何かを言う。

 それから、少し大きな声。


「お、お待ちください、こちらは今授業中で。」


 この家の使用人の声だ。


「確認だけです。」


 知らない男の声。

 娘たちが一斉に扉の方を見た。


 私も見た。


 いや。

 まさか。

 ありえない。


 ありえないことは、起きない。


 私はそう何度も思ってきた。


 でも、同時に、これまでの人生はありえないことだらけだったことを、ふと思い出した。


 扉が叩かれる。


 こん、こん。

 礼儀正しい音。


 私は喉を鳴らした。


「どなたでしょうか。」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。


 扉の向こうで、短い沈黙があった。


 それから、使用人の震えた声がする。


「メアリー先生、お客様が……」


「授業中です。後ほどにしていただけますか。」


 言いながら、私は腰を上げた。


 立ち上がりながら、逃げ道を探す。


 窓。

 無理。

 ここは二階だ。

 飛び降りたら足を痛める。

 足を痛めたら走れない。


 では、隣の部屋は。


 扉は一つ。

 背後に棚。

 隠れる場所はない。


 何をしているのだ、私は。

 なぜ逃げ道を確認している。


 それでも、本能が危機を訴えている。


 扉の外で、別の声がした。


「失礼します。」


 低い声。

 静かな声。


 聞いた瞬間、私の体から血の気が引いた。

 世界の音が遠くなる。

 港の音も、娘たちの息も、廊下のざわめきも。


 全部、遠くへ下がった。


 その声だけが、まっすぐ胸に届いた。


 扉が開いた。


 淡い金髪。

 澄んだ碧眼。

 濃い旅装。

 白い肌。


 相変わらず彫刻のように整った顔。


 だが、記憶の中の彼より、幼さやあどけなさが消え、疲れ、鋭くなっているように感じた。


 ――ヴィルヘルム・レオンハルト・フォン・アインシュヴァルド。


 私が置いてきた人。

 私が、もう会うことはないと決めた人。


 その人が、扉の向こうに立っていた。


 私は息を忘れた。


 娘たちが、なにがなにか分からないまま固まっている。

 廊下の奥には、青ざめた使用人と、見慣れない騎士たちと、書類を抱えた事務官らしき人々が見えた。


 その中に、カルラの姿もあった。


 カルラ。

 なぜ。


 いや、なぜなどと考える余裕はなかった。


 ヴィルヘルムの視線が、私を鋭く捉えた。


 まっすぐに。

 一瞬も逸れずに。


 彼は私を見ていた。


 まるで、長い長い冬の終わりに、やっと家を見つけた旅人のように。


 声が出ない。


 どうすればいい。


 私はメアリー・リーストンです、と名乗れるか。


 いや、もう、無理だ。


 彼の目が、私をレベッカとして見ている。


 四年の月日も。

 海も。

 名前も。


 何もかもを越えて。


 ――私は、ついに、彼に見つかってしまったのだ。


 彼が、低く言った。


「レベッカ。」


 その名が、部屋に落ちた。

 久しぶりに聞く名前だった。


 私の名。

 捨てたはずの名。

 戻るはずのなかった名。


 娘たちが息を呑む。


 誰かが小さく「レベッカ?」と呟いた。


 私は唇を開いた。

 何を言うつもりだったのか分からない。


 違います。

 人違いです。

 どうしてここに。

 探さないでと書いたでしょう。

 会いたかった。

 会いたくなかった。


 全部が喉元まで押し寄せて、どれも言葉にならなかった。


 結局、出たのは一つだけだった。


「……ヴィルヘルム。」


 彼の瞳が揺れた。


 本当に、はっきりと。


 次の瞬間、彼は歩き出した。


 誰かが止める暇もない。

 数歩で私の前まで来る。


 私は後ずさろうとした。

 できなかった。


 机に背が触れる。

 彼の手が伸びる。


 逃げる。

 逃げなければ。


 そう思ったのに、体が動かない。


 彼は私を抱きしめた。


 強く。


 まるで失くしたものを確かめるように。


 今にも消える幻を押し留めるように。


 肩に、彼の息が落ちた。


 熱い。

 震えている。


 ヴィルヘルムが、震えている。


「……やっと。」


 彼が言った。

 声が掠れていた。


「やっと、見つけました。」


 絞り出されたような呟きに、胸が苦しくなる。


 苦しい。

 懐かしい。

 怖い。

 嬉しい。

 逃げたい。

 泣きたい。


 あまりにもたくさんの感情が一度に押し寄せて、私は息ができなかった。


 私は両手を上げかけた。


 抱き返しそうになった。


 その瞬間、我に返る。


 生徒がいる。

 使用人がいる。

 カルラがいる。

 騎士がいる。

 事務官がいる。


 突然現れた貴賓が、凡庸な家庭教師を抱きしめている。


 ――終わった。


 私の生活が、今、完全に終わった。


「離してください。」


 私は言った。

 声は少し震えていた。


 ヴィルヘルムの腕は緩まない。


「離してください。」


 もう一度言う。

 今度は少し強く。


 ようやく、彼の腕がわずかに緩んだ。


 私はその隙に身を引いた。


 完全には離れられない。


 近い。

 近すぎる。


 私は胸の前で両手を握った。


「……今、授業中です。」


「はい。」


「はい、ではありません。」


「すみません。」


「すみません、でもありません。」


「では、どう言えば。」


「何も言わずに、お帰りください。」


 部屋の空気が凍った。


 娘たちがさらに固まる。


 廊下の事務官たちも固まる。


 カルラは顔を真っ白にしていた。


 ごめんなさい、カルラ。

 でも今は、あなたを気遣う余裕がない。


 ヴィルヘルムは、私を見ていた。


 その目には、怒りはなかった。


 ただ、底の見えない何かがあった。


「帰りません。」


「帰ってください。」


「帰りません。」


「あなたは王太子でしょう。」


「いえ、もう王になりました。」


「ならば、なおさら……王宮へ戻ってください。」


「あなたと話してからです。」


「話すことはありません。」


「私はあります。」


「私はありません。」


「では、私の話を聞いてください。」


「嫌です。」


 娘たちが小さく息を呑んだ。


 私も内心で息を呑んだ。


 王に向かって、嫌です。

 礼儀作法の教師としては失格である。


 しかし、今の私は先生である前に、レベッカだった。


 そしてレベッカは、逃げたい。

 ものすごく逃げたい。


「あなたの名誉はすでに戻っています。」


 ヴィルヘルムが言った。


「あなたの無実は証明され、実子として、公爵令嬢の地位は取り戻されています。」


 息を呑む。わけがわからない。


「ですので、私達には今何の障害もありません。」


「……そういう問題ではありません。」


「では、どういう問題ですか。」


「私は、あなたの人生の汚点になりたくないのです。」


 言葉が出た。

 ずっと胸の奥にあった言葉。


 彼の瞳が少しだけ細くなる。


「汚点。」


「はい。」


「誰が。」


「私が。」


「あなたが。」


「はい。」


「あなたは、私の人生の汚点ではありません。」


「あなたはそう思っても、周囲はそう見ません。」


「周囲が間違っています。」


「王は、周囲の目を無視できません。」


「できます。」


「しないでください。」


「必要であれば、します。」


「子どもですか。」


「それであなたを引き留められるなら、もうなんだっていいです。」


 言葉に詰まった。


 何を言っているのだ、この人は。


 四年前よりも、押し問答がさらに面倒になっている気がする。


「……私は、すべてを置いて、放棄して去った人間です。」


 私は言った。


「もう戻る場所もありません。」


「いえ、森の家は残しています。」


「はい?」


「そのまま残しています。」


 意味が分からなかった。


「なぜですか。」


「あなたが戻りたくなった時のために。」


「戻りたくなどなりません。」


「森の家が嫌なら、別の場所を探します。」


「だから、そういう問題ではありません。」


「では、ここでもいい。」


「ここ?」


「あなたがここを望むなら、そうできるようにすべて整えます。」


 整える。私の生活を。


 かっと胸が怒りに包まれる。


「私の生活に責任を持っていただく必要はありません。あなたが心配しなくても、私はここで最高の暮らしをしています。」


「責任だけで、ここまで来たと思いますか。」


「違うのですか。」


 ヴィルヘルムの顔から、少しだけ色が消えた。


 まずい。


 そう思った。


 でも、止められなかった。


「私は元気です。仕事もあります。居場所もあります。あなたが負い目を感じる必要はありません。」


「負い目。」


「はい。」


「あなたは、私が負い目だけで四年間探し続けたと、本当にそう思っているのですか。」


 その言葉に、息が止まった。


「……四年?」


「はい。」


「どうして。」


「あなたが消えたからです。」


「探さないでと書きました。」


「読みました。」


「なら。」


「従えません。」


 低い声だった。


 静かで、固い。


「私を捨てたことに、あなたこそ、何の後悔も、未練も、負い目もないのですか。」


 世界が止まった。


 私を捨てた。


 その言葉が、胸に刺さった。


 違う。

 違うと言いたかった。


 私は、あなたを守るために。

 あなたの未来を壊さないために。

 あなたの隣に汚点を置かないために。


 そう思って。

 そう信じて。


 逃げた。


 でも、彼から見れば。


 ――私は彼を捨てたのだ。


 間違いない。その通りだ。


 でも彼に真正面からそれを言われると、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。


 ぐっと喉が詰まる。

 何も言えない。


 ヴィルヘルムの目は、私を逃がさなかった。


「答えてください。」


「……出て行ってください。」


「答えになっていません。」


「ここでこれ以上話を続けるのは、他の方々のご迷惑になります。」


「分かっています。」


「分かっているなら。」


「それでも、聞きます。」


「……あなたは、更に面倒な人になりましたね。」


「はい。」


「これは侮辱です。肯定しないでください。」


「あなたを引き留められるならもうどうでもいいと、先ほど伝えましたが。」


 昔のようなやり取りだった。


 けれど、昔とは違う。

 何もかも違うのだ。


 その時、窓から差し込む光の色が変わっていることに気づいた。


 夕方の赤。

 港の方から、鐘の音が聞こえる。


 私ははっとした。


 まずい。


 リアム。

 お迎えの時間だ。


「あ。」


 思わず声が出た。


 ヴィルヘルムが僅かに目を細めた。


「どうしましたか。」


「いえ。」


 咄嗟に動きかけた足を見て、ヴィルヘルムが眉を顰める。


「どこへ行くんですか。」


 逃げるわけではない。


 逃げるわけではないのだ。


「……すみません、私、少し、用が。」


「私も行きます。」


「結構です。」


「行きます。」


「本当に結構です。」


「行きます。」


「あなたはここで待っていてください。」


「待ちません。」


「なぜですか。」


「あなたは一度、私の前から消えました。」


 言葉が刺さる。


「今、目を離したら、また消えるかもしれない。」


「消えません。」


「信用できません。」


「あなたに言われたくありません。」


「確かに。でも逃がしません。もう二度と。」


 私は額を押さえたくなった。


 しかし、そんな時間はない。


 リアムが待っている。

 シスターも待っている。


 迎えが遅れると、リアムは不安になる。


 それだけは嫌だ。


「授業はここまでにします。」


 私は娘たちへ向き直った。


 娘たちは、全員、口を開けたまま固まっていた。


 大丈夫だろうか。

 いや、大丈夫ではない。


 しかし、今はどうしようもない。


「本日の課題は、断り状の例文を三つ。相手を怒らせない断りの表現を考えてきてください。」


 一人が震える声で言った。


「先生、あの、これはどういう……。」


「これは悪い例の見本です。」


 私は即答した。


 誰かが小さく笑った。

 空気が少しだけ緩む。


 助かった。


 私は資料をまとめ、鞄を手に取った。


 ヴィルヘルムが一歩後ろについてくる。


 近い。

 非常に近い。


「ついてこないでください。」


「行きます。」


「目立ちます。」


「承知しています。」


「承知しているなら、やめてください。」


「できません。」


「本当に面倒です。」


「はい。」


 カルラが廊下の端で、半泣きの顔をしていた。


 その横で、トリスタン男爵が頭を抱えている。


 私はカルラを見た。

 カルラは小さく両手を合わせた。


 ごめんなさい。

 そう顔に書いてあった。


 私は深く息を吐いた。

 今は責めない。


 後で聞く。

 絶対に聞く。


 何がどうしてこうなったのか。

 すべて。


 私は玄関へ向かった。


 背後には、ヴィルヘルム。

 その後ろには、事務官。

 さらに騎士達。

 そして、なぜかカルラと父。


 おかしい。

 非常におかしい。


 これはただの、教会への迎えである。

 私はリアムを迎えに行くだけなのだ。


 なのに、なぜ王とその一行を連れているのか。


 頭が痛い。


 外へ出た瞬間、通りの人々の視線が一斉に集まった。


 私は思った。


 終わった。

 今度こそ本当に、終わった。


 私の静かな暮らしが、容赦なく叩き割られ崩れる音がする。


 私は鞄を握りしめ、夕方の教会へ向かって歩き出した。

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