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第九十一話 王は眠らない

 カルラ・トリスタンは、どうして自分が船に乗っているのか、三日目になってもまだよく分かっていなかった。


 ……いや、理屈としては分かっている。


 王宮の祝宴で、ハンカチが風に飛ばされた。

 そのハンカチを、アインシュヴァルド王が拾った。

 ハンカチの刺繍を見た王が、なぜかメアリー先生のことを尋ねた。


 私は答えた。


 王がウィンツバークへ行くと言った。

 私が道案内として同行することになった。

 父もついてきた。

 そして今、船の上である。


 ……整理すると、やはりよく分からない。


 特に、最初の「ハンカチが風に飛ばされた」から「王と船に乗る」までの間に、何か重要な階段を三十段くらい飛ばした気がする。


 ――人生とは怖い。


 最初の授業の時、メアリー先生は言っていた。


 ――社交の場では、予想外のことが起きても落ち着きなさい、と。


 先生。

 しかしこれは予想外にもほどがあります。

 どうか採点は甘めでお願いします。


 船は大きかった。

 カルラがこれまで乗ったことのある巡行船や観光船とは、まるで違う。


 帆柱は高く、甲板は広く、船員たちは慣れた足取りで動いている。

 船室も清潔で、食事も悪くない。

 行きの船よりはずっと快適だったはずだ。


 それでも、カルラはやっぱり船酔いした。


 初日は少し吐いた。

 二日目はだいぶ吐いた。

 三日目の今は、少しだけ人間に戻っている。


 父は、私よりずっと顔色が悪かった。

 船旅に慣れた父だ。酔いからではないだろう。


「お父様、大丈夫ですか。」


「だ、大丈夫だ。」


 全然大丈夫そうではない。

 父は船室の椅子に座り、両手を膝の上に置いていた。


 背筋は伸びている。


 礼装ではなく旅装に着替えているが、どこか戦に向かう兵士のような顔だ。


 いや、父は商人肌の男爵である。

 戦に向かう人ではない。


 だが、今の父は本気で覚悟を決めている。

 それが、娘である私には分かった。


 王に同行を求められた時、頭が処理容量を超えてしまった私は、ただただ静かな置物になった。


 父は話を聞くなり、一瞬で青ざめた。

 そして、震えながらも、次の瞬間には前へ出た。


「娘だけを行かせるわけにはまいりません。私も同行いたします。」


 そう言った父の声は、裏返っていたが、強かった。


 王は父を見た。


「必要ありません。」


「ひ、必要です!」


 どもりながらも、父は叫ぶように言った。


 その瞬間、私は心臓が止まるかと思った。

 恐らく怖くて堪らないだろうに、王に立ちはだかり「必要です」と言い切る父。


 いつも母に頭が上がらず、私の我儘にたじたじになり、猫のトマトにまで愚痴を言う父。

 その父が、王を前に一歩も退かなかった。


「こ、この子は、ただの道案内です。王宮の政にも、過去の事情にも、何の関わりもございません。何か失礼がございましたら、私がすべて責を負います。負わせてください!」


 早口で言い切った。


 私は思った。


 お父様。

 責を負うとは、具体的にどういう意味でしょうか。


 まさか、首ですか。


 しかし父は本気だった。


 たぶん、今私が王への不敬で殺されそうになったら、前に飛び出て代わりに切られそうな、いやすでに切られるつもりでいるくらいの勢いだった。


 私は胸がじーんと感動した。


 帰ったら猫のトマトを抱いて寝る権利をあげよう。


 三日に一度くらい。

 いや、やっぱり七日に一度くらい。


 王はしばらく父を見ていた。


 それから、短く言った。


「同行を許可します。」


 父は深く礼をした。


 上げたその顔は、とても許可を得た人の顔ではなかった。

 まるで死地に向かうように青ざめていた。


 なんだかかわいそう、とこんな時なのに少しだけ他人事のように思ってしまった。

 大人は大変だ。


 こうして父も船に乗った。


 公国は遠い。

 天候にもよるが、十五日から二十日。


 その間、海と空と船しかない。


 ――逃げ場がない。


 私はその事実に気づいた時、少しだけ絶望した。


 なぜなら、この船には王がいる。

 そして、その王は怖い。


 美しい。

 とても美しい。


 だが、怖い。


 広間で見た時よりも、船の上の王はさらに怖かった。

 祝宴では冷たい湖のようだった。


 今は、凍った湖の下で何かが燃えている。

 静かなのに、熱い。


 動かないのに、すぐに走り出しそう。

 眠っていないのに、倒れない。


 人間として何かおかしい。


 王は、ほとんど眠らなかった。


 少なくとも、カルラが見た限りでは。


 朝、甲板へ出ると、王は地図を見ている。

 昼、船室の前を通ると、王は書類を見ている。

 夕方、風に当たりに行くと、王は海を見ている。

 夜、喉が渇いて水をもらいに出ると、王はまだ灯りの下にいる。


 いつ寝ているのだろう。


 実は寝ていないのではないか。

 人間ではなく、機械なのではないか。


 そう思ったが、さすがに口には出さなかった。


 ……私はまだ死にたくない。


 王の船室には、地図と書類が山のように運び込まれていた。


 海図。

 港湾記録。

 商会名簿。

 街道宿場の帳簿の写し。

 教会の保護記録。

 移住者名簿。

 古い手配書。

 人相書き。

 封蝋のついた手紙。


 それらが机の上に広げられ、何人もの事務官が青い顔で整理している。


 宰相エーベルハルトも乗っていた。

 最初に見た時から疲れた顔をしていたが、航海三日目にはさらに深く疲れていた。


 この人も、ほとんど眠っていないのかもしれない。


 王の周りにいる人々は、皆、睡眠を忘れる病にかかるのだろうか。

 ……怖い職場である。



 ある晩、私は父とともに船室へ呼ばれた。


 呼ばれた、というより、正式には「確認したいことがある」と伝えられた。


 確認。

 この言葉は便利だ。


 しかし、この船で王が言う確認は、ほとんど尋問に近い。


 私は父と並んで、王の前に座った。


 父は私の半歩前にいる。


 さりげなく。

 本当に、さりげなく。


 しかし、明らかに私を庇う位置だった。


 お父様。

 ありがとうございます。

 でも、庇いすぎると逆に不自然です。


 王は机の向こうに座っていた。


 灯りの下で、淡い金髪が白銀に光っている。


 手元には、あのハンカチがあった。


 白い布。

 小さな双葉。


 王はそれを、机の隅に丁寧に置いていた。

 まるで、大切な証拠品のように。


 アインシュヴァルドの国では王が捜査まで担うのだろうか。

 恐ろしい国だ。恐ろしい職場だ。


 王はハンカチから目を離し、私を見た。


「メアリー・リーストンについて、覚えていることをもう一度聞かせてください。」


「はい。」


 私は背筋を伸ばした。


 肩の力を抜く。

 抜きすぎない。


 呼吸をする。


 生きる。


 とても大事。


「先生は、私の家庭教師です。礼儀作法、一般教養、外国語、簡単な経済の見方などを教えてくださっています。とても知識があり、姿勢が綺麗で、話し方も落ち着いていて……」


「髪は。」


「茶色です。少し赤みのある濃い茶色だと思います。長さは背中の真ん中くらいで、少し癖があります。」


「瞳は。」


「明るい亜麻色です。」


 王の指が、机の上で止まった。


「背は。」


「私より少し高いくらいです。」


「声は。」


「静かで、よく通ります。怒鳴ったりはしません。でも、怒っていなくても、怒られている気分になる時があります。」


 父が小さく息を吸った。


 しまった。

 王に向かって、家庭教師の妙な特徴を話してしまった。


 だが、王は怒らなかった。


 むしろ、ほんのわずかに目元が動いた。


 笑った。

 いや、笑ったのだろうか。


 氷の端が少しだけ溶けたような、ほんの一瞬だった。


「彼女らしい。」


 低い声で、王が言った。


 カルラは思った。


 やはり、この人は先生を知っている。

 それも、ただ知っているだけではない。


 とても深く。


「先生は、あまりご自分のことは話しません。」


 私は続けた。


「どちらのご出身かも、詳しくは。ウィンツバークに来る前のことも、ほとんど。聞けば答えてくださることもありますが、必要なことだけです。」


「必要なことだけ。」


「はい。授業に必要なこと。礼儀作法に必要なこと。生活に必要なこと。そういうことは、惜しまず教えてくださいます。でも、先生自身のことになると、少しだけ言葉が遠くなります。」


 王は黙った。


 黙ったまま、こちらを見ている。


 怖い。


 非常に怖い。


 でも、今の沈黙は、私を責める沈黙ではなかった。

 何かを飲み込んでいる沈黙だ。


 王は、もう一度尋ねた。


「今の暮らしについては。」


「たしか小さな一軒家を借りていると。」


「生活には、満足しているようですか。」


「はい。すごく充実して、幸せそうに見えます。」


 王の瞳が、少しだけ暗くなった。


「何を根拠に。」


 一段低くなった声に、咄嗟に目線を下げる。


 冷たい汗が額に浮かぶ。

 

 あれれ。普通探している人が幸せだったら喜ぶものではないのだろうか。


 もしかして、これは不穏な探され方をしているのか。


 先生、一体何をしでかしたんですか。


「ええっと、根拠、ですか。」


「はい。」


 根拠。


 高価ではないけれど、清潔に整えられた衣服。

 少し睡眠が足り無さそうだけど、活力に満ちた健康そうに見える身体。

 仕事の書類から授業に使う資料まで、大切そうに扱う指先。


 生徒である私のことを、時々妹でも見るように、愛おしそうに、そして少しだけ眩しそうに見遣る表情。


 そういうものは、根拠になるのだろうか。


「先生は、今の暮らしが好き、なんだと思います。」


 王の顔が、ほんの少し歪んだ。


 見間違いかもしれない。


 だが、痛そうだった。


 とても。


「そうですか。」


 王は静かに言った。


「はい。」


 その時、頭の片隅に、ふと何かが引っかかった。


 そういえば。

 先生には、小さな子がいると聞いた気がする。


 たしか、息子さん。


 いつも静かなエレナさんが、いつ見ても天使にしか見えません、と少し興奮した声で言っていたのを思い出す。


 いや。

 待って。


 王は先生自身のことしか聞いてきていない。


 つまり、先生の子供のことをご存知ない。


 そして、この流れで、それを言うのは絶対にまずい。


 絶対にまずい。


 普段空気が読めないと皆に揶揄われる私でも分かる。


 王の顔をちらりと盗み見る。


 王の顔はすでに怖い。

 怖いというか、怖すぎる。


 もしここで「先生には子どもがいるような気がします」などと言ったら、どうなるのだろう。


 ……私は生きて船を降りられないかもしれない。


 まず父が斬られて、次にきっと私が斬られる。


 それは嫌だ。

 とても嫌だ。


 私はまだ死にたくない。


 そうだ。

 聞き間違いだったことにしよう。


 いや、聞き間違いだったのだ。


 私は大変遺憾ながら、人の話を集中して聞くのが得意ではない。

 聞き間違いも、耳に入っていないことも十分あり得る。


 周りはきっとそう証言してくれる。


 私は何も知らない。

 つまり、知らないことは言えない。


 ……うむ。完璧な理屈だ。


 カルラ・トリスタン、生存のための判断である。


「ほかには。」


 王が言った。


 私はびくりとした。


「ほ、ほかに!?……ええっと、甘いものがお好きだと思います。」


 父が隣で咳き込んだ。


 私はしまったと思った。

 なぜそれを言った。


 もっと他にあるだろう。


 しかし、王は真剣に聞いていた。


「甘いもの。」


「はい。お茶の時に小さな焼き菓子を出すと、少しだけ嬉しそうなお顔をなさるので。」


「そうですか。」


 王はその情報まで、何か重要な報告のように受け止めた。


 怖い。

 この人は、本当に先生のことなら、どんな小さなことでも知りたいのだ。


 焼き菓子が好きかもしれないという、そんなことまで。


 王はしばらく黙り、ハンカチへ目を落とした。

 そこで私達はやっと退出を許され、ほうほうの体で王の前を辞した。


 父は自分の船室に戻るなり、深く息を吐いた。


「カルラ。」


「はい。」


「余計なことは言うな。」


「はい。」


「分からないことは、分からないと言え。」


「はい。」


「そして、陛下の前で菓子の話をするな。」


「……はい。」


 そこですか。


 しかし父は真剣だった。

 おそらく、私が焼き菓子の話で処刑されるのを心配している。


 そんな王ではないと思う。


 たぶん。

 たぶんだ。


 父は椅子に座り、顔を覆った。


「お父様。」


「何だ。」


「私、そんなに危なかったですか。」


「……この旅自体が危ない。」


「ですよね。」


「……だが、逃げられない。」


「ですよね。」


「だから、せめて黙るべき時は黙れ。」


「努力します。」


「努力ではなく、実行しなさい。」


「はい。」


 父は手を下ろし、私を見た。


 いつもの甘い父ではない。

 真剣な顔だ。


「カルラ。陛下が何をお探しなのか、私にはすべては分からない。だが、あれは軽い話ではない。」


「はい。」


「お前は巻き込まれた。だが、巻き込まれたからには、慎重になれ。」


「はい。」


「そして、もし何かあれば、私の後ろにいなさい。」


 胸が少し熱くなった。


 と同時にまだ夕飯を食べていなかったことを思い出した。


「お父様。」


「何だ。」


「お腹が空きました。」


 父はまた深く深く溜息を吐いた。


 大人はやっぱり大変そうだ。



 航海は続いた。


 四日目。

 王はまた眠らなかった。


 五日目。

 港湾記録の写しが確認され、王は北方の港名に印をつけた。


 六日目。

 宰相エーベルハルトが「陛下、せめて二刻はお休みください」と言い、王が「休みました」と返した。


 いつ。

 どこで。

 誰も知らない。


 七日目。

 父が少しいつもの調子を取り戻して、船員と積み荷の話を始めた。


 さすが父である。

 死地でも商売の種を探している。


 八日目。

 私は甲板で風に当たっていた。


 王もいた。

 少し離れた場所で、海を見ている。


 声をかけるべきではない。


 そう思っていたのに、王が先に言った。


「トリスタン嬢。」


「はい。」


「彼女は、笑いますか。」


 不意打ちだった。

 私は少し考えた。


「はい。」


 王がこちらを見る。


「よく笑う、という感じではありません。でも、笑います。小さく。」


「小さく……。」


「はい。私が変な質問をした時とか、猫の話をした時とか、お菓子を出した時とか。」


「……猫。」


「うちの猫です。トマトといいます。」


「トマト?」


「はい。私がトマト好きなので、名付けました。」


 王は一瞬、完全に沈黙した。


 しまった。

 また余計なことを言った。


 父がいないと私は駄目かもしれない。


 だが、王は怒らなかった。


「そうですか。」


 そう言っただけだった。

 少しだけ、声が柔らかかった気がした。


 今なら聞けるかもしれない。


 このまま公国に到着してしまえば、もしかしたら先生の身が危ないかもしれない。


 それが分かっていてこのまま案内できるほど、私はできた人間でも薄情でもない。


 私は思い切って言った。


「先生は、陛下に探されていることをご存知なんですか。」


「知っている、と思います。」


「どうしてですか?」


「一国の王として持ちうる全てを動員しても、見つけられませんでしたから。」


 まさか権利濫用では。


 その言葉がなぜか頭に浮かぶ。


「その、先生は、逃げているということでしょうか。」


「そうですね。彼女は本気で逃げたのだと思います。」


「本気で。」


「チェスでの勝率は九割ほど私にありましたが、今回はその一割に当たってしまったということなのでしょう。」

 

 彼女の勝ちです。


 王は自分を嘲笑するように苦々しく笑った。


 先生、陛下とチェスしたことがあるんですか。


 しかも十回に一回勝ってたんですか。


 私の先生はやはりすごい人だった。


 いや、違う。感動している場合ではない。


「それでは、またお逃げになるのでは。」


 ここで諦めて引き返すという手も。


 先生とお子さんの平穏のためにも。

 私と父の身の安全のためにも。


 王はしばらく黙った。


「今回は、絶対に逃がしません。」


 静かな声だった。


 怖い。

 とても怖い。


 必死さを越えて狂気を感じる。


 先生の身柄が本当に心配になる。 


「……先生が拒絶してもですか。」


 王は海へ目を戻した。


「何度も、何度も考えました。」


「はい。」


「正気を保てなくなるほど、後悔も諦念も絶望も。」


 ――それでも、諦められなかった。


 王の小さな呟きは、帆をはためかせた海風にさらわれて散った。


 ……私は、聞いたことを少しだけ後悔した。



 九日目。

 嵐が来た。

 船は大きく揺れ、私はまた人間をやめかけた。


 十日目。

 空が晴れた。


 王は濡れた外套のまま、甲板で海図を見ていた。

 宰相が「着替えてください」と言い、王が「後で」と返した。

 宰相は「後で、は存在しない時間です」と言った。


 少しだけ面白かった。


 十一日目。

 王の捜索の話を、私は偶然聞いた。

 偶然である。

 決して盗み聞きではない。


 船は狭い。

 聞こえてしまうこともある。


 宰相が言っていた。


「北方航路、南方港、商会の雇用記録、宿場帳、教会の保護名簿、移住許可記録。四年間、調べられるものはほぼ調べました。」


 王は答えた。


「ほぼ、では足りなかった、ということです。」


「普通の貴族にできることでは、到底ございません。」


「それは、褒めているのですか。」


「事実です。」


「不愉快ですね。」


「……それだけの覚悟で身を隠されたのです。」


 沈黙。


 私はそっと足音を消した。

 先生はやはり貴族だったのだ。


 十二日目。

 父は私に言った。


「カルラ、陛下の前では余計なことを言うな。」


「もう三回聞きました。」


「三回では足りない。」


「はい。」


 父は遠くの海を見た。

 父はまた母のことを考えているのだろうな、と思った。


「あの方は、たぶんお前を傷つける気はない。」


「はい。」


「だが、あの方の中には燃え上がる炎がある。」


「炎、ですか。」


「周りも、自分自身さえ燃やし尽くすような炎だ。決して近づきすぎないように。」


 父の言葉は、珍しく詩のように難解だった。

 商人のくせに。


 でも、たぶん正しい。


 王は炎だ。

 凍っているように見えるのに、中に仄暗い炎がある。


 近づきすぎると、焼ける。


 メアリー先生は、その炎に触れたことがあるのだろうか。

 だから、あんな遠い目をするのだろうか。


 十四日目。

 海の色が少し変わった。


 船員たちの動きが忙しくなる。

 もうすぐウィンツバークに近づくのだと聞いた。


 父は荷物を確認していた。


 私は胃が痛かった。

 船酔いではない。


 緊張だ。


 ここまで来て、急に怖くなってしまった。


 メアリー先生は、どうするだろう。

 王を見たら、何と言うだろう。

 王は、何を言うのだろう。


 私は、二人の間に立たされるのだろうか。


 嫌だ。

 とても嫌だ。


 私はハンカチを飛ばしただけなのに。

 それなのに、なぜか国王と家庭教師の間にある数年分の何かに巻き込まれている。


 私は毎日楽しく笑っていたいだけなのに。

 あと、欲を言えば一日三回ティータイムでお菓子が食べられれば。



 夜が明ける頃、遠くに港の灯りが見えた。


 ウィンツバークだ。

 船員がそう言った。


 その瞬間、船の空気が変わった。


 事務官たちが走る。

 宰相が深く息を吐く。

 父が私の肩に手を置く。


 そして王は、港の灯りを見つめたまま、瞬きもしなかった。


 王は昨晩も眠っていない様子だった。

 いつもと同じように、何かを探すように暗い海の向こうを見つめていた。


 私は、そっと胸の前で祈るように手を握った。


 先生。

 今、すごいものがそちらへ向かっています。


 止められなくて、すみません。

 説得できなくて、すみません。

 私はまだ死にたくないです。


 どうか私は関係ないと、一言、一言お願いします。


 神ではなく先生への祈りを捧げる私を乗せて、船は賓客の出迎えに大混乱の港に到着した。

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