第九十話 知らない朝
その朝、リアムは真剣な顔で木彫りのウサギを見つめていた。
私は台所で薄いスープを温めながら、その横顔を見ていた。
小さな眉が、きゅっと寄っている。
唇は少し尖っている。
三歳児が真剣に考えている顔は、どうしてこうも可愛いのだろう。
世界の七不思議に入れてもいい。
いや、七つでは足りない。
リアムの可愛さだけで、すでに十は埋まる。
「どうしましたか。」
私が尋ねると、リアムはウサギを両手で持ち上げた。
「うさぎ、ねむいの。」
「そうですか。」
「でも、ねないの。」
「困りましたね。」
「うん。」
リアムは深刻に頷いた。
木彫りのウサギは、もちろん何も言わない。
目も閉じない。
そもそも木である。
眠る機能はない。
だが、リアムにとって、ウサギは眠るし、食べるし、泣くし、時々わがままも言うらしい。
つまり、かなり手のかかる存在である。
「お布団はかけましたか。」
「かけた。」
「歌は歌いましたか。」
「うたった。」
「ご飯は。」
「あげた。」
「では、抱っこでしょうか。」
リアムははっとした顔をした。
「だっこ。」
それから、ウサギをぎゅっと胸に抱えた。
「うさぎ、だいじょうぶ。りあむ、いるよ。」
私は鍋をかき混ぜる手を止めた。
胸が、ぎゅっとした。
今すぐこの光景を絵にして残したい。
しかし、私は絵が得意ではない。
頼める画家も今この場にはいない。
この世界は、なぜこんなにも記録機能が弱いのか。
前世の文明が恋しい。
こういう時だけ。
「ウサギは、赤ちゃんなんですか。」
何気なく聞いた。
リアムは私を見上げた。
青い瞳が、朝の光を受けてきらきらしている。
「うん。あかちゃん。りあむ、うさぎのおとうさま。」
「そうでしたか。」
「おとうさまは、だっこするの。」
「はい。」
「ごはんも、するの。」
「はい。」
「おふとんも、かけるの。」
「はい。」
「たいへん。」
リアムはため息をついた。
三歳児が、育児の大変さを語っている。
なんということだ。
可愛い。
いや、可愛いなどという言葉では足りない。
宇宙。
これは宇宙である。
「大変ですね。」
「おかあさまも、たいへん?」
「はい。お母様も、時々大変です。」
「りあむ、たいへん?」
「リアムのお世話は、楽しくて大変です。」
「たのしい?」
「はい。とても。」
リアムは少し考えた。
それから、ウサギを私の方へ向けた。
「うさぎも、たのしい?」
「きっと、楽しいと思います。」
「よかった。」
リアムは安心したように笑った。
私は完全に負けた。
朝から完敗である。
スープを焦がさなかった自分を褒めたい。
食事の間も、リアムはウサギの世話で忙しかった。
自分のパンを小さくちぎり、ウサギの口元へ押し当てる。
「うさぎ、あーん。」
「木のウサギは、パンを食べませんよ。」
「たべた。」
「食べたのですか。」
「うん。あたまで。」
「頭で。」
なるほど。
高度だ。
ウサギは頭で食事をするらしい。
それなら、パンくずが散らからなくて助かる。
「では、ウサギはもうお腹いっぱいですね。」
「うん。でも、おみずがいるの。」
「心で飲むのでは?」
「おみずはね、ほんと。」
「難しいですね。」
私は小さな皿に少しだけ水を入れた。
リアムはそれをウサギの前に置く。
木彫りのウサギは、もちろん飲まない。
だが、リアムは満足そうだった。
「おとうさまは、いそがしい。」
「そうですね。」
私は思わず笑った。
お父様。
何気なく呟かれるその言葉。
リアムは知らない。
自分にも本当の父親がいることを。
遠い国で、王族と呼ばれている人が。
私が、教えていないから。
喉の奥に、小さな痛みが生まれた。
けれど私は、それを飲み込んだ。
いけない。
朝に沈みすぎてはいけない。
リアムは今日も教会へ行く。
私は仕事へ行く。
パンを買い、紙商組合へ寄り、午後には商家の娘たちの授業がある。
日常は、止まらない。
止まってくれない。
だからこそ、私は生きてこられたのだと思う。
「リアム、そろそろ支度しましょう。」
「うさぎも?」
「ウサギは今日はお留守番です。」
「また?」
「エマちゃんがまた欲しがって泣いてしまうかもしれません。」
最近、ウサギは積み木の上に載せられると気づいた子どもたちに、妙な人気を得てしまった。
「大丈夫。ウサギも、お家でリアムを待っている間、楽しいと思います。」
リアムは目を丸くした。
「おとうさま、まってる?」
リアムの言葉に、どきりと胸が動く。
別の意味にも聞こえてしまったからだ。
「……ええ。お家で、おとうさまを待っています。」
ウサギに「おしごとにいってきます」と真剣に語りかけるリアムを横目に、私は慌てて食器を片付けた。
こういう時、自分の言葉に自分で傷つく。
……困ったものだ。
小さな家を出ると、ウィンツバークの朝はいつも通り賑やかだった。
港の方から荷車の音が聞こえる。
坂の下では、魚屋の奥方がすでに誰かと値段のことで言い合っている。
パン屋の前には、焼き立てを待つ人が数人並んでいた。
空は薄く晴れている。
海の匂いがした。
この街に来たばかりの頃、海の匂いは不安の匂いだった。
知らない土地。
知らない人。
知らない言葉の混じる通り。
守らなければならない命。
それらが全部、潮の匂いと一緒に胸へ押し寄せてきた。
今は少し違う。
海の匂いは、朝の匂いだ。
仕事へ行く匂い。
パンを買う匂い。
リアムと手をつないで歩く匂い。
今日を始める匂い。
「おかあさま、うみ。」
「海の匂いがしますね。」
「おふね、くる?」
「来るでしょうね。」
「おおきい?」
「大きい船も、小さい船も来ます。」
「りあむ、おふね、のる?」
「いつか、乗るかもしれませんね。」
「うさぎも?」
「ウサギも一緒がいいですか。」
「うん。うさぎ、こわがるから。」
リアムは真剣だった。
ウサギは海が怖いらしい。
初耳である。
「では、乗る時はリアムが抱っこしてあげてください。」
「うん。りあむ、おとうさまだから。」
まただ。
お父様。
今日はその言葉が、妙に耳に残る。
私はリアムの手を少しだけ強く握った。
リアムは何も気づかず、楽しそうに足元の石を避けて歩いている。
教会へ着くと、子どもたちの声が庭まで響いていた。
リアムはすぐにシスターを見つけて、手を振る。
「おはようございます。」
「おはようございます、メアリーさん。リアム、おはよう。」
「おはよう!」
「今日はウサギさんはお留守番?」
「うん。うさぎ、おうちでまってるの。」
「まあ。お利口さんですね。」
「りあむ、おとうさまだから、おしごとするの。」
シスターは少しだけ笑った。
「そう。立派なお父様ね。」
リアムは誇らしげに胸を張った。
私は横で胸を押さえた。
困る。
やはり可愛すぎる。
教会へ預けたあと、私はいつものように仕事へ向かった。
紙商組合では、海辺の薬草に関する本の追加資料を受け取った。
受付の青年が、少しそわそわしていた。
「どうしましたか。」
「港が慌ただしいんですよ。」
「港はいつも慌ただしいのでは。」
「それが、数日後に遠方から大きな船が入るらしいんです。予定にない寄港だとかで、港湾管理部が朝から確認に追われているらしくて。」
「そうですか。」
私は紙束を受け取った。
数日後に来る、大きな船。
この街では、それほど珍しい話ではない。
嵐を避ける船もあれば、積み荷の都合で寄港先を変える船もある。
港町とは、そういう場所だ。
人が来て、荷が来て、噂が来て、また去っていく。
私に関係があるはずもない。
「大きな船が入ると、港通りは混みそうですね。」
「ええ。納品は早めがいいかもしれません。」
「分かりました。」
私は頷き、資料に目を落とした。
今夜も就寝はだいぶ遅くなりそうだ。
昼前、市場へ寄った。
卵とパンを買う。
魚は今日は我慢だ。
魚屋の奥方に呼び止められたが、私は心を鬼にした。
鬼。
そう、私は鬼である。
家計を守る鬼。
「今日は買いません。」
「リアムが好きなのに?」
「昨日食べました。」
「今日も好きだよ。」
「それは……そうです。」
危ない。
一瞬、揺らいだ。
だが、今日は買わない。
卵がある。
スープも作れる。
パンもある。
予算を守ることも、母の務めである。
私は欲望に勝った。
魚屋の奥方は笑っていた。
なぜ笑うのか。
……私は真剣なのに。
午後は、商家の娘たちの授業だった。
今日は手紙の書き方である。
招待を受けた時の返事。
断る時の表現。
謝罪の文面。
お礼状。
どれも実用的だ。
「先生、謝りたくない時のお詫び状はどう書けばいいですか。」
「謝る意思がないなら、そもそも出さない方がよい場合もあります。」
「でも、出せって言われたら?」
「相手に不快な思いをさせたことについて、残念に思う、と書きます。」
「それ、謝ってますか?」
「謝っているように、見えます。」
「先生、時々こわいです。」
「手紙とは、そういうものです。」
娘たちは楽しそうに笑った。
私は板に例文を書いていく。
言葉は、身を守る盾にもなる。
人と人を結ぶ橋にもなる。
人を傷つける武器にもなる。
そして、時には、物語を終わらせる鍵にもなる。
私はそれを、よく知っている。
「先生?」
生徒の声に、私は我に返った。
「すみません。では、次はお礼状です。」
手が少し冷えていた。
私は何事もなかったように授業を続けた。
夕方、教会へ迎えに行くと、リアムは庭で小さな石を並べていた。
「おかあさま!」
走ってくる。
今日も可愛い。
全力で可愛い。
私は両腕を広げて受け止めた。
「おかえりなさい、リアム。」
「りあむ、きょう、ねた。」
「お昼寝できたのですか。」
「ちょっと。」
「素晴らしいです。」
「ちょっと、すばらしい?」
「とても素晴らしいです。」
リアムは満足そうに笑った。
シスターが横で微笑んでいる。
「今日は本当に眠れましたよ。お仕事するんだと、玩具を運んだり、お掃除したり、お手伝いをしてくれました。それで疲れていたのかもしれませんね。」
「なるほど。」
私は頷いた。
教会でのお手伝いは、リアムの昼寝の助けにもなるらしい。
重要な発見である。
帰り道、リアムは今日の出来事を話してくれた。
エマが葉っぱを食べそうになったこと。
シスターが止めたこと。
積み木の塔が高かったこと。
リアムは蟻を見つけたこと。
蟻は昨日より三匹多かったこと。
本当だろうか。
数えたのだろうか。
たぶん数えたのだろう。
リアムなら、やる。
家に帰ると、ウサギは寝台の上に置かれていた。
リアムはすぐに駆け寄る。
「うさぎ、ただいま。」
それから、ウサギを抱き上げた。
「うさぎ、さみしかった?」
ウサギは答えない。
「だいじょうぶ。りあむ、かえったよ。」
私は台所で夕食の準備をしながら、その声を聞いていた。
胸の奥が温かくなる。
そして少し痛む。
父親がいない家で、この子はウサギの父親になっている。
愛することを、世話することを、守ることを、遊びの中で覚えている。
それは、良いことだ。
とても良いことだ。
けれど、同時に、胸が痛い。
私はリアムから何かを奪っているのだろうか。
父親という存在を。
自分の出自を。
自分がどこから来たのかを知る権利を。
包丁を持つ手が止まった。
台所の窓の外では、夕焼けが淡く広がっていた。
――もし、ヴィルヘルムが今のリアムを見たら。
そう思った瞬間、心臓が強く鳴った。
私はすぐに、その考えを押し戻した。
考えてはいけない。
考えても仕方ない。
もう会うことはない。
そのはずだ。
そう決めたのは、私だ。
夕食を終え、片付けを終え、リアムを寝かしつける。
今夜もウサギは、寝つきが悪いらしかった。
リアムは小さな声で歌っていた。
ところどころ歌詞が違う。
……いや、ほとんど違う。
だが、優しい歌だった。
私は寝台の横に座り、リアムの髪を撫でた。
「おかあさま。」
「はい。」
「うさぎ、ねた。」
「よかったですね。」
「りあむも、ねる。」
「はい。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
リアムの瞼がゆっくり閉じる。
手には木彫りのウサギ。
頬は柔らかく、息は小さい。
今日も生きている。
今日も眠っている。
それだけで、私の世界は満ちる。
リアムが眠った後、私は仕事机に向かった。
棚の上の木の櫛が、灯りを受けていた。
私はしばらく、それを見つめた。
触れるつもりはなかった。
だが、気づけば手に取っていた。
木の感触は、少し冷たい。
指でなぞる。
何度もそうしてきたから、どこに小さな傷があるかも覚えている。
――ヴィルヘルム。
名前を声には出さない。
出せば、夜が少し変わってしまう気がするから。
もう愛していない。
そう言えたら、きっと楽だった。
でも、言えない。
私は今でも、彼を思い出す。
彼の声。
静かな目。
不器用な優しさ。
面倒な確認。
井戸の水を飲む黒馬。
雨の夜に差し出された手。
働いている手だと言った声。
その全部が、まだ私の中にある。
消えていない。
でも、戻りたいのかと聞かれたら、それも違う。
私はここで暮らしている。
リアムと。
今の名前で。
仕事をして、お金を数えて、魚屋に負けて、娘たちに礼儀作法を教えて、夜に翻訳をする。
この暮らしは、借り物ではない。
誰かに用意された舞台ではない。
私が、歩いて、選んで、失敗して、泣いて、それでも守ってきた場所だ。
私は幸せだ。
本当に。
だから、もし彼に会ったとして。
もし、ありえないことが起きて、彼が目の前に現れたとして。
私は、どう感じるのだろう。
彼に、何を思うだろう。
――彼は。
――何て言うのだろう。
考えようとして、私は首を振った。
考えなくていい。
答えを出さなくていい。
――もう会うことはないのだから。
遠くで、港の鐘が鳴った。
いつもより少し遅い鐘だった。
夜の船が入ったのかもしれない。
私は木の櫛を棚へ戻した。
灯りの下へ座り直し、薬草の本を開く。
明日も仕事がある。
明日も教会へ迎えに行く。
明日もリアムは、ウサギのお父様として忙しい。
私の小さな王国は、明日も続く。
これから先もずっと、彼のいないまま。




