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第八十九話 風に飛んだハンカチ

 カルラ・トリスタンは、王宮に着いた瞬間、自分が完全に場違いかもしれないと思った。


 そして次の瞬間、菓子台を見て、その考えを半分忘れた。


 広間は光で満ちていた。

 天井は高く、白と金の布が雲のように垂れ、壁際には見たこともないほど大きな花器が並んでいる。

 楽団の音楽は柔らかく、貴族たちの衣装は絵の中から出てきたようだった。


 ――なんて美しいのだろう。


 宝石。刺繍。絹。扇。手袋。香水。笑い声。


 すべてがきらきらしている。

 すべてが高そうである。

 ……そして、すべてが少し怖い。


 カルラは父の腕に手を添えながら、そっと息を呑んだ。


「お父様。」


「何だ。」


「私、今、かなり貴族っぽく見えていますか。」


「口を閉じていれば。」


「……ひどい。」


「事実だろう。」


 父は小声でそう言い、正面へ向き直った。


 父も今日はいつもよりずっと立派に見える。


 濃紺の礼装。

 銀の飾り釦。

 整えられた髪。

 少し緊張している顔。


 カルラの父、トリスタン男爵は社交が嫌いではない。

 むしろ商談や新しい人脈作りは好きな方だ。


 だが、ここはアインシュヴァルド王宮である。

 ただの商談とは違う。


 しかも、併合後初めての大規模な建国記念祝宴だ。


 周囲には、公爵、侯爵、伯爵、使節、将軍、聖職者、商会の長などが揃っている。


 男爵家の娘であるカルラにとっては、まるで上級者しかいない舞踏会へ、練習用の靴で放り込まれたようなものだった。


 いや、今日の靴は新調した。


 とても可愛い。

 ただ、少し痛い。


「姿勢。」


 父が小さく言った。


「はい。」


 カルラは背筋を伸ばした。

 メアリー先生に教わった通りだ。


 肩の力を抜く。

 抜きすぎない。


 背中を伸ばす。


 顎を少し引く。

 引きすぎない。


 微笑む。

 笑いすぎない。


 目を動かしすぎない。

 菓子台を見すぎない。


 ……正直、最後が一番難しい。


 広間の奥には、長い卓が置かれていた。


 その上に、色とりどりの菓子が並んでいる。


 砂糖細工。

 果物のタルト。

 小さな焼き菓子。

 蜂蜜をかけた菓子。

 白いクリームを挟んだもの。

 丸いもの。

 細いもの。

 何か分からないが美味しそうなもの。


 ……あれは、食べてもよいものなのだろうか。

 飾りだろうか。


 いや、菓子台の上にある以上、食べるためにあるはずだ。


 しかし、いきなり菓子へ向かうのは品がない。


 先生も言っていた。


 祝宴ではまず周囲を見る。

 挨拶を済ませる。

 紹介者がいれば、紹介を受ける。


 食べ物へ突進してはならない。

 突進してはならない。

 突進してはならない。


 カルラは心の中で三回唱えた。


 すると、父が言った。


「カルラ、まずは祖母へ挨拶に行くぞ。」


「はい。」


 ヴァルメリア子爵夫人。

 カルラの祖母であり、父の母である。


 アインシュヴァルド出身の貴族令嬢で、若い頃にニモア公国へ嫁いだ人だ。

 子どもたちが皆手を離れ、夫を亡くした後、家督を継いだ甥を支えるため、姓を戻してアインシュヴァルドへ戻った。


 カルラにとっては、いつも穏やかに微笑みながら、菓子をくれる優しい祖母である。


 ただし、今日は違った。

 王宮の広間で会う祖母は、いつもよりずっと貴族らしかった。


 銀色の髪を美しく結い上げ、深い紫のドレスを着て、落ち着いた微笑みを浮かべている。


 カルラは礼をした。


「お祖母様、本日はお招きくださり、ありがとうございます。」


「まあ、カルラ。上手にご挨拶できるようになったのね。」


「はい。先生に教わりました。」


「よい先生に出会えたようね。」


「はい。とても。」


 カルラは胸元の小さな袋へ、そっと手を当てた。

 そこには、メアリー先生からもらったハンカチが入っている。


 白い布。

 隅に、小さな双葉と細い茎の刺繍。


 今日持ってくるか、少し迷った。


 だって、あまりにも素朴だ。

 この広間には、金糸の刺繍や繊細なレースや宝石のような布が溢れている。


 そこへ、あの小さな双葉のハンカチを持ってくるのは、少し場違いかもしれない。


 だが、カルラは結局持ってきた。


 お守りのような気がしたからだ。


 先生が教えてくれた。

 礼儀作法は、自分を守る盾でもある。


 このハンカチは、その盾の目印のようなものだ。


 これがあれば、少しだけ落ち着ける気がした。


 祖母との挨拶が終わると、父はいくつかの家へ挨拶に向かった。


 カルラもついていく。


 名乗る。

 礼をする。

 微笑む。

 話を聞く。

 相手の名前を覚える。

 ……覚えられない。

 敬称で逃げる。


 メアリー先生の教えが早速役に立った。


 先生、ありがとうございます。

 敬称は偉大です。


 何人目かの挨拶を終えた頃、カルラはすでに疲れていた。


 王宮の祝宴とは、見た目は華やかだが、中身はなかなかの重労働である。


 足は痛い。

 背筋は疲れる。

 微笑みすぎると頬が固まる。


 父は楽しそうに話している。

 ……いや、楽しそうというより、獲物を見つけた商人の顔だ。


 この人は本当に人と話すのが好きなのだろう。


 羨ましい。


 カルラは少しだけ視線を横へ動かした。


 菓子台。

 まだある。


 美味しいよ、食べていいよ、と呼んでいる。


 ……気がする。


「お父様。」


「何だ。」


「少しだけ、向こうの卓を見てきてもよろしいですか。」


「菓子か。」


「いえ、社交の観察です。」


「菓子だな。」


「社交の観察をしながら、菓子の品質確認もします。」


「食べすぎるな。」


「はい。」


 父は呆れたように笑い、手を離してくれた。


 カルラは内心で小さく勝利の舞を踊った。

 もちろん、外には出さない。


 王宮で勝利の舞は危険である。


 カルラは落ち着いた歩幅で菓子台へ向かった。


 落ち着いた歩幅。

 突進ではない。


 これは移動である。

 上品な移動である。


 菓子台の前には、何人かの令嬢たちがいた。

 彼女たちは皆、少しずつ菓子を取り、楽しげに話している。


 カルラも小皿を取った。


 まずは果物のタルト。

 次に小さな焼き菓子。

 白いクリームを挟んだもの。

 細い砂糖菓子。

 丸い何か。


 あれ。

 少し多い。


 いや、大丈夫だ。


 小さい。

 一つ一つが小さい。


 全体としては、それほどでもない。

 ……たぶん。


 カルラは端の方に立ち、ひと口食べた。


 ――美味しい。


 目を見開きそうになり、慌てて控えめに微笑んだ。


 危ない。

 あまりに美味しいと、顔が正直になる。


 二つ目も美味しい。

 三つ目も美味しい。

 四つ目は、少し甘すぎた。


 でも、美味しい。

 王宮の菓子職人はすごい。


 これは後で父に報告しなければならない。


 いや、報告しても父はそこまで興味を示さないかもしれない。


 メアリー先生ならどうだろう。


 先生は甘いものが好きだろうか。


 あの先生は、仕事中は何でもきちんとしているけれど、休憩の時に小さな菓子を出すと、少しだけ嬉しそうな顔をする。


 たぶん好きだ。


 今度、ウィンツバークへ戻ったら、美味しい焼き菓子を持っていこう。


 授業の合間に、お茶と一緒に。


 いや、授業中に菓子を出すと、先生に「手元に砂糖がつきます」と言われるかもしれない。

 食べるなら授業の後だ。


 カルラがそんなことを考えていると、近くでざわめきが起きた。


 視線が広間の中央へ集まっている。

 誰かが来たのだろうか。


 カルラもそっと顔を向けた。


 そして、息を呑んだ。


 黒い礼装の青年が、広間の中央に立っていた。

 いや、青年というには、あまりにも空気が違う。


 遠目にも分かる。


 美しい。

 すごく美しい。


 だが、綺麗なだけではない。


 そこに立っているだけで、周囲が一歩引いている。


 淡い金髪。

 澄んだ碧眼。

 彫刻のような横顔。

 冷たいほど整った姿。


 カルラは、小皿を持ったまま固まった。


 誰だろう。

 王族だろうか。


 いや、もしかして。


「あれが陛下よ。」


 近くの令嬢が小声で言った。

 カルラは小皿を落としそうになった。


 陛下。


 あれが。


 あれが、この国の王。


 美丈夫という言葉では足りない。

 舞台俳優。

 いや、舞台俳優にしては迫力がありすぎる。


 あんな人が現実にいるのか。

 現実とは時々、絵本より無茶をする。


 カルラは見ないようにしようとした。


 しかし、目が戻る。

 仕方ない。

 あれは目に入る。


 国が悪い。

 あんな人を広間の中央に立たせる方が悪い。


 ただ、少し怖い。


 王は人々に囲まれているのに、少しも楽しそうではなかった。


 微笑んでいるようにも見える。

 だが、どこか遠い。


 周囲にいるのに、誰とも同じ場所にいないようだった。


 カルラは、ふとメアリー先生を思い出した。


 先生も時々、遠くを見る。

 目の前にいるのに、心だけ別の場所へ行っているような顔をする。


 あれに少し似ている。


 いや、似ていないかもしれない。


 メアリー先生の遠さは、温かい布の奥にしまわれた小さな痛みのようなものだ。


 あの王の遠さは、冬の湖みたいだ。

 近づいたら落ちそうである。


 カルラはしばらく考え込んだ。


 そして、気づいた。


 何も考えずに菓子を口に運んでいた。

 これは大分食べすぎた。


 緊張と甘さと人の多さと香水で、少し胸がいっぱいになっている。


 まずい。

 ここで具合が悪くなっては、父に怒られる。


 いや、怒られるより、心配される。

 父は心配すると面倒だ。


 それに、メアリー先生にも申し訳ない。


 せっかく習ったのに、王宮で菓子を食べすぎて倒れた生徒。


 ……あまりにも情けない。


 カルラは小皿を戻し、そっと広間の端へ移動した。


 窓の近くに出ると、少し空気が軽い。

 さらにその先に、庭園へ続く小さなバルコニーがあった。


 誰もいない。

 ちょうどいい。


 カルラは周囲を確認し、静かに外へ出た。


 夜風が頬に当たった。


 涼しい。

 助かった。


 バルコニーからは、庭園が見えた。


 月明かりの下、白い花が並び、石の道が淡く光っている。

 広間の音楽は、扉越しに少し遠く聞こえた。


 カルラは深く息を吐いた。


「王宮って、すごいわ。」


 小さく呟く。


 すごい。

 綺麗。

 怖い。

 疲れる。


 ……菓子は美味しい。


 総合すると、すごい。


 もう少し休んだら戻ろう。

 父が探しに来る前に。


 カルラは胸元の小さな袋から、ハンカチを取り出した。


 口元を押さえる。

 洗いたての布の、優しい香りがまだ残っている気がする。


 ハンカチの隅には、小さな双葉。

 この模様を見ると、少し落ち着く。


「先生、弟子は教えを守って頑張っております。」


 先生は今頃、何をしているだろう。

 先生に今日のことを話したら、何と言うだろう。


 王宮の広間は眩しすぎました。

 菓子は美味しかったです。

 陛下はものすごく美しいけれど、ものすごく怖かったです。


 先生はきっと、少し困った顔で「言葉を選びましょう」と言う。

 その顔が目に浮かぶ。


 カルラはハンカチを手すりの上に置き、両手で頬を扇いだ。


 その時だった。


 強い風が吹いた。


「あっ。」


 ハンカチが、ふわりと浮いた。

 白い布が、月明かりを受けて軽く舞う。


 小さな双葉が、夜の中で一瞬だけ見えた。


 そして、バルコニーの柵を越え、庭園の方へ飛んでいく。


「待って!」


 待つはずがない。

 ハンカチである。


 カルラは慌てて身を乗り出した。

 白い布は風にあおられ、ゆらゆらと落ちていく。


 庭園の石畳。

 白い花。


 そして、その近くを歩いていた誰かの足元へ。


 黒い靴。

 黒い礼装。

 淡い金髪。


 カルラの呼吸が止まった。


 よりによって。


 よりによって、なぜそこへ落ちるのか。


 先ほど広間で見た、あの王だった。


 彼は、足元に落ちたハンカチを見下ろした。

 そして、ゆっくりと拾い上げた。


 カルラは固まった。


 どうしよう。

 どうする。


 取りに行かなければならない。

 でも、相手は王だ。


 王に向かって、私のハンカチです、返してください、と言うのか。


 言うしかない。

 あれは先生にもらった大事なハンカチだ。


 王でも返してもらわなければ困る。

 いや、王だからこそ返してもらうべきなのか。


 分からない。


 礼儀作法。

 礼儀作法はどこへ行った。


 先生。

 こういう時の授業は、まだ受けていない。


 カルラが混乱している間に、王はハンカチを見ていた。


 ただ見ているのではない。


 動かない。

 完全に。


 黒い礼装のまま、庭園の月明かりの中で、彼は白いハンカチを両手で持ち、息を止めたように立っていた。


 カルラはぞっとした。


 何か、まずいものだったのだろうか。

 もしかして王宮では、ハンカチを飛ばすことが反逆に当たるのだろうか。


 そんな法律は聞いたことがない。

 だが、知らない法律はたくさんある。


 ――とにかく、謝らなければ。


 カルラはバルコニーから身を引き、急いで庭園へ下りる階段を探した。


 途中で裾を踏みそうになり、慌てて持ち上げる。


 走ってはいけない。

 王宮で走ってはいけない。


 でも急がないといけない。


 結果、早歩きと小走りの中間の、非常に中途半端な動きになった。

 きっとメアリー先生が見たら、眉を少し上げる。


 カルラは庭園へ出た。


 夜風が強い。


 王はまだそこにいた。


 ハンカチを見たまま。


「あ、あの。ハンカチが。」


 すみません。

 風で飛ばされて。


 返してください。

 いや、返してくださいますか。


 いや、可能でしたらお返しいただけますと大変有難いです。


 何が正解か分からない。


 ――先生、助けてください。


 王がゆっくりと顔を上げる。

 碧い瞳がこちらを見た。


 カルラは息を呑んだ。


 近くで見ると、さらにすごい。


 美しい。

 怖い。


 そして、さっき広間で見た時とは違う顔をしていた。


 冷たいはずの目が、何かを必死に探しているように見えた。


「あなたのものですか。」


 王が言った。

 低く、静かな声だった。


「は、はい。すみません。風に飛ばされてしまって。」


 カルラは慌てて礼をした。


 深くしすぎた気がする。

 だが、浅いよりはましだ。


 たぶん。


「ヴァルメリア子爵家縁戚、ニモア公国トリスタン男爵家のカルラ・トリスタンと申します。」


 言えた。

 噛まなかった。


 先生、言えました。


 心の中で報告する。


 王は、カルラの名乗りにはほとんど反応しなかった。

 ただ、ハンカチを見ている。


「これを。」


 王は言った。


「どこで手に入れましたか。」


「え?」


「この刺繍です。誰が縫ったものですか。」


 刺繍。


 カルラはハンカチを見る。


 小さな双葉。

 細い茎。

 素朴な模様。


「私の家庭教師の先生からいただきました。」


 王の瞳が、わずかに揺れた。

 本当に、わずかに。


 だが、揺れた。


「家庭教師。」


「はい。」


「その方の名は。」


「メアリー・リーストン先生です。」


「どのような方ですか。」


 カルラは戸惑った。

 なぜ王がそんなことを聞くのだろう。


 しかし、聞かれたからには答えるしかない。


「ええと……髪は赤茶色で、目は明るい亜麻色で。背は私より少し高くて、姿勢がとても綺麗で、顔もとても綺麗な方です。」


 王の手が、ハンカチを握った。


 強く。

 白い布に皺が寄る。


「あ、優しいです。厳しい時もありますけど、怒鳴ったりはしません。すごく頭が良くて、礼儀作法も、外国語も、経済のことも教えてくださって。あと、刺繍が上手です。」


 カルラは話しながら、だんだん不安になってきた。


 これは、何の質問なのだろう。


 王はなぜ、私の家庭教師の話をこんなに真剣に聞いているのか。


「年齢は。」


「たぶん、二十四か五くらいだと思います。」


 王は動かなかった。

 動かないまま、息だけが変わったように見えた。


 何かを堪えるように目を閉じる。


 ほんの一瞬。


 次に開いた時、その瞳には先ほどまでの冬とは違うものがあった。


 熱だ。

 凍った湖の下で、火が動いたような。


「どこに。」


 王の声が低くなった。


「どこにいますか。」


「え、ええと、ウィンツバークです。ニモア公国の。港町の。」


「住所は。」


「ええっと、家に戻ったら分かると思います……」


 たしか身元証明の写しに書いてあったはずだ。


 王はすぐに振り返った。


「誰か。」


 その声に、近くに控えていた従者が飛ぶように来た。


「エーベルハルトを。港湾管理部の者も呼べ。」


「はっ。」


 従者が走る。

 走っている。

 王宮で走っている。


 カルラは少し安心した。

 王宮でも、走っていい時はあるらしい。


 すぐに宰相らしき男性がやって来た。


 さっき広間で見た人だ。

 疲れた顔をしている。


 今はさらに疲れそうな顔になっている。


「陛下。」


「ウィンツバークへ向かう。」


「……はい?」


「最短の船を手配してください。エストリア港から出る便を確認。間に合わないなら王室所有船を使います。馬の用意を。一刻後に出発します。」


「陛下、今からですか。」


「今からです。」


「祝宴は。」


「後処理を。」


「陛下。」


「火急の案件があれば馬上で確認します。」


 宰相は何か言おうとした。

 だが、王の顔を見て、言葉を飲んだ。


 カルラにも分かった。


 今、この人は止まらない。


 さっきまで冬のようだった王が、急に嵐のようになっている。


 それは怖い。

 とても怖い。


 だが、なぜだか少し泣きそうにも見えた。


 王は、ハンカチを手にしたまま、カルラへ向き直った。


「カルラ・トリスタン嬢。」


「は、はい。」


「あなたには、同行していただきます。」


「え?」


「道案内が必要です。」


「えええ?」


 声が裏返った。


 仕方ない。

 王に突然、同行と言われたのだ。


 誰でも裏返る。


「で、でも、父に。」


「許可は取ります。」


「祖母にも。」


「取ります。」


「荷物が。」


「用意させます。」


「猫のトマトが。」


 王が一瞬だけ止まった。


「猫。」


「はい。いえ、猫は来ていません。ニモアの家にいます。」


「では問題ありません。」


「あります。心の準備が。」


「道中でしてください。」


 無茶だ。

 王は無茶を言う。


 しかも、ものすごく真顔で。


 カルラは混乱した。


 しかし、その時、王の手に握られたハンカチが目に入った。


 小さな双葉。

 メアリー先生の刺繍。

 時々遠くを見つめる彼女の瞳。


 何かが、つながってしまったのだ。


 よく分からない。

 全然分からない。


 だが、この王は、メアリー先生を探している。


 カルラは息を呑んだ。


「先生に、会いに行くんですか。」


 王は一瞬、答えなかった。


 それから、低く言った。


「はい。」


 その一言だけだった。


 だが、そこに込められたものの重さに、カルラはそれ以上聞けなかった。


 王はハンカチを、まるで壊れ物のように折りたたんだ。

 さっき皺が寄るほど強く握っていたのに、今はとても慎重だった。


 その仕草を見て、カルラは思った。


 これは、大変なことになった。


 本当に。


 本当に、大変なことになった。

 

 カルラはそう思いながら、歩き出した王の後ろを小走りに追いかけた。

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