第八十八話 春の祝宴
祝宴の広間は、春そのもののように飾られていた。
高い天井からは、白と淡い金の布が幾重にも垂れ下がっている。
壁際には、早咲きの花が大きな器に活けられ、窓辺には硝子の灯りが並んでいた。
楽団は明るい曲を奏でている。
磨き上げられた床には、貴族たちの靴音が重なり、笑い声と衣擦れの音が波のように広がっていた。
アインシュヴァルド貴族。
旧エルセリア貴族。
隣国からの使節。
港湾都市の代表。
軍の高官。
聖職者。
商会の長。
この広間には、新しい国の形を認めるための人々が集まっている。
華やかだった。
美しかった。
すべてが、よく整えられていた。
ヴィルヘルムは、その中心に立っていた。
黒を基調とした礼装。
胸元に王家の徽章。
淡い金髪は灯りを受け、碧い瞳は澄んでいる。
ただそこに立っているだけで、周囲の視線は自然と彼へ集まった。
若き王。
旧敵国を併合し、新しい秩序を築いた王。
冷静で、聡明で、美しく、恐ろしいほど有能な王。
誰もが、彼に近づきたがっていた。
誰もが、彼から何かを得ようとしていた。
称賛。
約束。
庇護。
婚姻。
地位。
利益。
彼自身を見ている者は、ほとんどいなかった。
それでよい、とヴィルヘルムは思った。
王とは、そういうものだ。
玉座とは、そういう場所だ。
その上に座る者の心など、誰にも必要ない。
「陛下。本日は、このような晴れやかな場にお招きいただき、光栄に存じます。」
旧エルセリアの伯爵が恭しく頭を下げた。
彼の後ろには、娘らしき令嬢が控えている。
淡い緑のドレス。
金糸の刺繍。
計算された控えめな微笑み。
父親は、娘を半歩前へ出した。
「娘のエリゼでございます。先月、王都へ参りましてから、陛下の治世の見事さに大変感銘を受けております。」
「恐れながら、陛下。」
令嬢は礼をした。
「新しく整えられた救貧院の制度について、拝見いたしました。旧エルセリアの民にまで手が届く、実に慈悲深いお考えかと。」
よく準備された言葉だった。
誰かが調べ、誰かが教え、彼女は覚えたのだろう。
「ありがとうございます。」
ヴィルヘルムは答えた。
声は穏やかだった。
「制度は慈悲ではなく、治安維持の一部です。貧困が犯罪へ流れる前に、食い止める必要があります。」
令嬢は一瞬だけ瞬いた。
それから、すぐに微笑み直した。
「さすがでございます。そこまで深くお考えでいらっしゃるのですね。」
深く。
そう言えば、何か分かったように聞こえる。
ヴィルヘルムはわずかに視線を外した。
「次が待っています。」
伯爵は慌てて頭を下げ、娘を連れて下がった。
入れ替わるように、今度はアインシュヴァルド側の侯爵が近づいてくる。
その後ろにも、令嬢。
またか。
ヴィルヘルムは内心で時間を数えた。
祝宴に出てから、まだ半刻にも満たない。
宰相との約束は一刻。
長い。
実に長い。
戦場の交渉の方が、遥かにましだった。
そこでは、少なくともこのむせかえるような香水の臭いを嗅がずとも済む。
「陛下、我が家は旧エルセリア領との物流統合において、すでに三つの倉庫を提供しております。今後も、王国のために尽くす所存です。」
「報告は受けています。」
「つきましては、我が娘にもぜひ王都の新しい慈善会へ参加させたく。」
娘が進み出る。
青いドレス。
真珠の髪飾り。
完璧な礼。
「陛下のお力になれることがあれば、何なりと。」
「慈善会の窓口は王妃府ではなく、内務局へ移しました。」
ヴィルヘルムは淡々と答えた。
「参加希望なら、内務局へ申請を。」
侯爵の笑みがわずかに固まった。
「もちろんでございます。ただ、陛下へ直接お伝えした方がよろしいかと。」
「必要ありません。」
ヴィルヘルムはそう言い、次へ視線を移した。
侯爵はそれ以上言えず、礼をして下がった。
何人目だろうか。
数えるのも無駄だった。
祝宴の場で、人々は笑う。
音楽に合わせて踊る。
杯を傾ける。
政治を語る。
縁を探る。
婚姻の可能性を測る。
この広間には、感情も欲も野心も渦巻いていた。
だが、ヴィルヘルムには、それらがすべて記号のように見えた。
家門。派閥。財力。領地。婚姻可能年齢。影響力。弱み。
使えるか。
使えないか。
それだけだ。
それ以上に何かを見ようとすると、頭の奥が冷える。
見なくていい。
今この場では必要のないものだ。
「陛下。」
低い声がした。
エーベルハルトだった。
宰相は、やや疲れた顔で近づいてきた。
「もう少しだけ、表情を柔らかくしていただけますか。」
「柔らかくしています。」
「それは柔らかいとは申しません。」
「では、認識を改めてください。」
「陛下。私の認識が変わっても、周囲の認識は変わりません。」
ヴィルヘルムは視線だけを向けた。
エーベルハルトは咳払いをした。
「失礼いたしました。」
「一刻まで、あとどれほどですか。」
「まだ半分ほどです。」
「長いですね。」
「祝宴とはそういうものです。」
「拷問の一種ですか。」
「社交です。」
「似ていますね。」
「似てはおりません。」
エーベルハルトは小声で言った。
ヴィルヘルムは返事をしなかった。
楽団が曲を変えた。
軽やかな舞曲。
広間の中央では、若い男女が踊り始める。
女性たちのドレスが花のように広がり、宝石が灯りを受けて輝いた。
かつて。
ヴィルヘルムは一瞬、思考を止めた。
かつて、王宮の舞踏会で、金色の灯りを受けて立つ少女がいた。
美しい装具で飾られた艶やかな赤褐色の髪。
琥珀のような甘い亜麻色の瞳。
まっすぐな背筋。
完璧な礼。
高慢に見えるほど美しい横顔。
その少女は、誰よりも正しく踊った。
誰よりも正しく笑った。
誰よりも正しく、王妃になるための仮面をつけていた。
そして、誰よりも不器用に生きていた。
――思い出すな。
ヴィルヘルムは、手の中の杯を見下ろした。
酒はほとんど減っていない。
飲む気にはなれなかった。
「陛下。」
また声がかかる。
今度の男は、アインシュヴァルドの有力侯爵だった。
その隣に立つ令嬢を見て、エーベルハルトの目がわずかに動いた。
ヴィルヘルムにも分かった。
有力候補の一人。
リリアーナ・フォン・ベルクハイム。
王族派に近く、旧エルセリアの港湾貴族とも縁がある。
母方を通じて聖職者にも顔が利く。
年齢も近く、教養も高い。
貴族院が最も強く推している候補の一人だ。
美しい令嬢だった。
金糸のように淡く輝く髪。
深い藍色の瞳。
白い肌。
品のよい微笑み。
身につけた宝飾も、派手すぎず、しかし価値の分かる者には十分なものだった。
自分の価値を理解している女の装いだ。
「陛下にお目にかかれますこと、心より光栄に存じます。」
リリアーナは礼をした。
「本日の祝宴は、まことに見事でございます。旧エルセリアの方々も、陛下の御前では皆、安堵した顔をしていらっしゃいますわ。」
安堵。
そう見えるなら、見る目がない。
あるいは、分かっていてそう言っている。
後者だろう。
「そうですか。」
「はい。陛下がこの国に秩序をお与えくださったからこそ、皆、ようやく未来を語れるようになったのです。」
整った言葉。
柔らかい声。
しかし、その奥にあるのは明確な売り込みだった。
私は見ています。
私は理解しています。
私ならあなたの隣に立てます。
言外に滲むものに、辟易した。
「未来を語るには、まず財政の整理が必要です。」
ヴィルヘルムは言った。
「詩では国庫は埋まりません。」
リリアーナは一瞬だけ目を細めた。
だが、すぐに微笑む。
「陛下らしいお言葉ですわ。けれど、国には詩も必要です。民が心を寄せる物語がなければ、どれほど整った制度も冷たく見えてしまいますもの。」
頭は悪くない。
ヴィルヘルムはそう判断した。
言葉の選び方も悪くない。
場の空気も読める。
父親が半歩後ろで満足げにしているのも分かる。
よく仕上げてきた候補だ。
……だからこそ、なおさら疲れる。
「それで。」
ヴィルヘルムは尋ねた。
「あなたは、どのような物語が必要だと?」
リリアーナの目がわずかに輝いた。
問われたことを、好機と受け取ったのだろう。
「傷ついた国を癒やすには、強く、美しく、正しい象徴が必要です。旧き国と新しき国の双方を結ぶもの。王の隣に立ち、民に安堵を与える存在が。」
周囲の貴族たちが、さりげなく聞き耳を立てている。
エーベルハルトが、ほんの少しだけ頭を抱えたそうな顔をした。
リリアーナは続けた。
「陛下は、あまりにもお一人で多くを背負っていらっしゃいます。隣に立つ者がいれば、国も、貴族たちも、より安心いたしましょう。」
「隣に立つ者。」
「はい。」
「それは、あなたが適任だと?」
リリアーナは一歩も引かなかった。
むしろ、静かに微笑んだ。
「自負はございます。」
父親の顔がわずかに強張った。
少し踏み込んだ。
だが、リリアーナはその危うさを承知で言っている。
「私は、アインシュヴァルドの王族派とも、旧エルセリアの港湾貴族とも縁がございます。慈善会、聖職者、商会の婦人たちとも交流があります。陛下の政策を、冷たい命令ではなく、未来への約束として伝えることもできるでしょう。」
「なるほど。」
ヴィルヘルムは答えた。
「便利ですね。」
リリアーナの微笑みが、ほんのわずかに止まった。
便利。
王妃候補に向ける言葉としては、あまりにも情がない。
だが、彼女はすぐに持ち直した。
「便利であることも、王妃には必要かと存じます。」
「否定はしません。」
「ありがとうございます。」
リリアーナはそこで、少しだけ声を柔らかくした。
「それに、陛下はもう、過去に心を煩わせる必要はございませんわ。」
空気が、わずかに変わった。
エーベルハルトが顔を上げた。
ヴィルヘルムは、何も言わなかった。
リリアーナは続ける。
「若い頃には、誰しも心を乱されることがございます。才気に満ちた方ほど、危ういものに惹かれることもあるのでしょう。」
彼女の父親が、わずかに目を伏せた。
止めるべきか迷っている。
だが、止めない。
リリアーナは、自分の言葉が効いていると思っているのだろう。
「あの……エルヴェシア公爵令嬢の件は、私も存じております。後に名誉は回復されたとはいえ、随分とお騒がせな方でしたものね。」
お騒がせな方。
ヴィルヘルムの指が、杯の縁に触れた。
「けれど、陛下ほどのお方が、いつまでもそのような過去に囚われる必要はございません。王には、王にふさわしい隣人が必要です。」
リリアーナは微笑んだ。
美しく。
自信に満ちて。
ほんの少し、レベッカの名を下に置いて。
「私なら、陛下のお立場を損なうことなく、お支えできます。」
広間の音が、遠くなった。
音楽。
笑い声。
杯の触れ合う音。
すべてが遠い。
ヴィルヘルムは、リリアーナを見た。
彼女はまだ、自分が何を踏んだのか分かっていない。
彼女にとって、レベッカは噂の中の女なのだ。
断罪された令嬢。
名誉を回復されたが、行方知れずの令嬢。
一時期、若き王太子の心を乱したかもしれない女。
そして今は、王妃候補である自分が乗り越えるべき、過去の影。
過去。
影。
乗り越える。
違う。
ヴィルヘルムの中で、何かが静かに凍りついた。
怒りではない。
怒りなら、まだ温度がある。
これは、もっと低いものだった。
「その話を。」
ヴィルヘルムは静かに口を開いた。
「誰から聞きましたか。」
リリアーナは一瞬、目を瞬いた。
「え?」
「エルヴェシア公爵令嬢についての話です。誰から聞きましたか。」
声は穏やかだった。
だからこそ、周囲が静まった。
リリアーナは、ようやく何かを誤ったのだと気づいたようだった。
「いえ、特定のどなたかというわけではございません。ただ、社交界では当時、さまざまな噂が。」
「噂。」
「はい。もちろん、私は陛下をお慰めするつもりで。」
「必要ありません。」
ヴィルヘルムは遮った。
リリアーナの顔色がわずかに変わった。
「陛下、私はただ。」
「あなたが今、何を軽んじる人間なのかは分かりました。」
広間の空気が止まった。
エーベルハルトが小さく息を吸う。
リリアーナの父が顔色を失った。
「陛下。」
父親が慌てて一歩前へ出る。
「娘は決して、そのようなつもりでは。」
「つもりは問題ではありません。」
ヴィルヘルムは視線を向けた。
「言葉に出したことが、問題です。」
父親は黙った。
リリアーナは唇を震わせた。
それでも、完全には崩れない。
プライドの高い令嬢だった。
「陛下。私は、王国のためを思って申し上げました。過去に囚われることは、陛下ご自身にも、国にも。」
「王国のため。」
ヴィルヘルムは繰り返した。
「便利な言葉ですね。」
彼は杯を近くの従者へ渡した。
「宰相。」
エーベルハルトがすぐに前へ出る。
「はい。」
「ベルクハイム家から提出されている王妃候補の推薦書を、候補一覧から外してください。」
「陛下。」
「旧エルセリア融和策に関する優先面会枠も不要です。通常審査へ戻します。」
「承知いたしました。」
「また、社交界で名誉回復済みの者に対する虚偽または侮辱的な噂が再び流れているのであれば、出所を確認してください。法務局へ通達を。」
エーベルハルトは深く頭を下げた。
「御意。」
リリアーナの父親が蒼白になった。
「陛下、それはあまりにも。」
「人の名誉を、場を選ばず取引材料にする家に、融和の象徴は務まりません。」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「以上です。」
これ以上、話すことはない。
そう告げる声だった。
周囲の貴族たちは、完璧に沈黙していた。
リリアーナは、微笑みを失って立ち尽くしている。
彼女は頭がよい。
だから、この瞬間に理解しただろう。
自分が王妃候補から外れただけではない。
家の優先的な政治的価値まで削られた。
たった数語で。
そして、その原因が、自分の言葉であることも。
ヴィルヘルムは彼女から視線を外した。
「宰相。」
「はい。」
「一刻は過ぎましたか。」
エーベルハルトは、答える前にほんの一瞬だけ迷った。
正確には、まだ少し残っている。
だが、王の目を見て、彼は静かに答えた。
「ほぼ。」
「では、十分でしょう。」
「陛下、せめて退席の挨拶を。」
「不要です。場はあなたが整えてください。」
「陛下。」
「後処理を。」
その一言に、エーベルハルトはそれ以上言えなかった。
王は踵を返した。
人々が道を空ける。
誰も声をかけない。
かけられない。
音楽は続いている。
だが、先ほどまでの華やかさは少しだけ薄れていた。
ヴィルヘルムは広間を出た。
背後で、宰相が何かを取り繕う声が聞こえる。
貴族たちのざわめき。
従者の足音。
楽団の音。
すべてが扉の向こうへ遠ざかっていく。
回廊に出ると、空気が少し冷たかった。
春の夜だというのに、石の壁は冷えている。
ヴィルヘルムは足を止めなかった。
庭園へ向かう。
祝宴の灯りが、背後に遠ざかる。
花の香りが近づいてくる。
夜風が頬を撫でた。
それでも、何も感じなかった。
怒りも。
悲しみも。
懐かしさも。
何も。
ただ、頭の中で、先ほどの言葉だけが静かに残っている。
――お騒がせな方。
――過去。
――囚われる必要はない。
ヴィルヘルムは庭園へ出た。
月明かりの下、白い花が咲いていた。
春の花。
誰かが、今日の祝宴に合わせて整えたものだろう。
彼はその前を通り過ぎた。
花は美しかった。
――だが、彼の中の冬は、少しも動かなかった。




