第九十八話 王様は荷物が多い
港の鐘が鳴り終わっても、ヴィルヘルムは私とリアムを離さなかった。
腕の力は強い。
けれど、苦しくはない。
ただ、逃がさないというより、逃がしてしまうと消えてしまうとでも思っているような抱き方だった。
私はその腕の中で、しばらく動けなかった。
リアムはというと、完全に機嫌を直していた。
「びる、いた。」
「はい。」
「びる、いっしょね。」
「はい。」
「うさぎも、いっしょね。」
「はい。」
「おかあさまも、いっしょね。」
「はい。」
ヴィルヘルムは、リアムの一つ一つの確認に、まるで国家間条約でも結ぶような真剣さで頷いている。
港の上に、波の音と、人々のざわめきが広がっていた。
少し離れたところでは、船員たちが戸惑っている。
出航するのか。
しないのか。
王は乗るのか。
乗らないのか。
誰も判断できないという空気が、港全体に広がっていた。
当然である。
私にも分からない。
エーベルハルトが、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
疲れた顔をしている。
昨日も疲れていた。
今朝も疲れていた。
そして今、さらに疲れている。
この人は、きっとこの数日で一気に年を取ったに違いない。
「陛下。」
エーベルハルトは、慎重に声をかけた。
ヴィルヘルムは、私とリアムを抱きしめたまま返事をした。
「はい。」
「出航の準備が整っております。」
「そうですか。」
「はい。」
「では、取りやめてください。」
あまりにも当然のように言った。
私は思わず顔を上げた。
エーベルハルトも、一瞬だけ目を閉じた。
『合掌。』と心の中の声が聞こえた。
事務官は書類を落としかけ、騎士たちは困惑に視線を彷徨わせる。
「陛下。」
「はい。」
「取りやめる、とは。」
「帰国を取りやめます。」
「帰国を。」
「はい。」
「……本日の。」
「はい。」
エーベルハルトは、深く息を吸った。
港の潮風を肺いっぱいに入れるように。
たぶん、冷静さを取り戻そうとしている。
「承知いたしました。」
思ったよりも早い。
あまりにも、早い。
「……承知してよろしいのですか。」
思わず私が尋ねた。
エーベルハルトは、私を見た。
その目は、穏やかだった。
……いや、穏やかというより、すべてを諦めた人の目だな。
私は視線を逸らした。
「逆にもしここで承知しなかった場合、陛下は船に乗られるのですか。」
私はヴィルヘルムを見た。
ヴィルヘルムは私を見ている。
リアムはヴィルヘルムの襟を掴んでいる。
ウサギは私とヴィルヘルムの間に挟まっている。
誰も船の方を見ていない。
「乗らないでしょうね。」
「では、承知するほかありません。」
エーベルハルトは淡々と言った。
この人は強い。
そして、慣れている。
私は彼の四年間を勝手に想像し、そして勝手に同情した。
「まずは宿へ戻り、今後の予定を調整いたしましょう。」
「必要ありません。」
ヴィルヘルムが即答した。
嫌な予感がした。
「レベッカとリアムがいる場所へ戻ります。」
「あの、それは、うちですか。」
「はい。」
「つまり、これから来るのですか。」
「はい。」
「許可を出した覚えはありませんが。」
「一生かけて償うと、先ほど言いました。」
「それは免罪符として使っていい言葉ではありません……。」
「では、愛しているから、と言い換えます。」
港の空気も固まった気がした。
エーベルハルトが額を押さえた。
事務官は今度こそ書類を落とした。
リアムだけが嬉しそうに笑った。
「びる、うち、くる!」
「はい。行きます。」
「待ってください。」
私はようやく声を出した。
「そもそも、うちは小さいです。王様をお泊めできるような家ではありません。」
「問題ありません。」
「問題あります。まずベッドも足りません。」
「それこそ問題ありません。」
嫌な流れだ。とても嫌な予感がする。
「床で寝ます。軒下でもいいです。」
「王様を床か軒下に寝かせるなんて、とんでもない。」
「ではあなたと一緒に――」
私は咄嗟に彼の口を手で押さえた。
ここは港である。
周囲に人がいる。
しかも、見ている。
ものすごく見ている。
「と、とにかく、一度家へ戻ります。リアムを休ませなければなりません。」
「はい。」
「……あなたも来るのですね。」
「はい。」
「エーベルハルト様も?」
エーベルハルトは、かすかに微笑んだ。
「私は宿へ戻り、各方面へ連絡を出します。」
心底ほっとした。
この人は強いだけでなく、空気も読める。
先ほどの四年間の想像に付け加え、私は更に同情した。勝手に。
「騎士二名は、目立たない範囲で警護に残します。」
「目立たない範囲。」
私は港に並ぶ黒い旅装の騎士たちを見た。
全員、屈強の戦士と言わんばかりの、鍛え上げられた体格である。
……逆にどこをどう見れば、目立たないのだろう。
なんだったら、分厚い摺りガラス三枚越しに見ても、驚くだろう。
もしかして世の中には、目立ちすぎて逆に目立たない、という概念でも存在しているのだろうか。
「……いえ、できるかぎり目立たぬように、気を配る、という意味です。」
エーベルハルトが何かを察して静かに言った。
私は何も言えなかった。
こうして、私たちは港から家へ戻ることになった。
リアムはヴィルヘルムに抱かれていた。
私は歩く。
喉も、膝も、足も、腕も、全身が痛かった。
港まで全力で走った代償を、私は歩き始めて痛感した。
しかし、リアムは元気である。
「びる、おうち、くる?」
「行きます。」
「ごはん、たべる?」
「食べます。」
「うさぎ、あーん、する?」
「必要であれば。」
「その必要はありません。」
私は横から言った。
ヴィルヘルムは神妙に頷いた。
「分かりました。」
リアムは少し考え、満足そうにウサギを抱き直す。
「うさぎ、じぶんで、たべるね。」
「そうですね。」
ヴィルヘルムが真剣に頷く。
昨日に続き、眼福だ。眼福ではあるが。
街の人々が、私たちを見ていた。
昨日よりも、もう、それはまじまじと、見ていた。
気分は動物園の珍獣だった。
いや、分かる。
港から町中に噂は広がっているに違いない。
昨日突然現れた王様みたいな美青年が、やっぱり王様だった。
しかも、昨日に引き続き、自分に似た幼い子供を抱えて歩いている。
私でも見る。二度見する。なんなら並走しながら盗み見る。
私は心の中で平常心と唱えながら、できるだけ顔を上げずに歩いた。
しかし、こういう時ほど、知り合いに会うものだ。
「メアリー先生?」
声をかけてきたのは、商家の娘の母親だった。
今日、午前に授業の予定があった家の人である。
私は足を止めた。
しまった。
忘れていたわけではない。
忘れたかっただけだ。
「本日は、本当に申し訳ありませんでした。急用が入りまして。」
言いながら、私は自分の状況を見下ろした。
急用。
王。
子ども。
疾走後の乱れた衣服。
納得できるか。
いや、納得してくれないと困る。
頼むから何も聞かないで。
相手の女性は、私とヴィルヘルムとリアムを順番に見た。
そして、菩薩のような優しい顔で言った。
「ええ。急用、ですね。」
「……はい。」
「それでは、また後日。」
「申し訳ありません。」
「いえ。こちらこそ、どうぞ……ご武運を。」
最後の一言はなんだろう。
考えまい。
私は礼をして歩き出す。
ヴィルヘルムが少し低い声で言った。
「授業ですか。」
「仕事です。」
「家庭教師の。」
「はい。」
「すみません。後ほど、休講の補償を。」
「いりません。」
「しかし。」
私は横目で睨んだ。
「私の仕事です。勝手なことをしたら怒りますから。」
「……分かりました。」
……他国の王族から休講の補償なんて、むしろ迷惑にしかならないだろう。
家に戻ると、私はまず扉の前で立ち止まった。
小さな家。
白い壁。
窓辺の鉢。
干している布。
昨日まで、この家は私とリアムの世界だった。
これからは、どうなるのだろう。
私はその前で少しだけ息を吸った。
「家のルールには従うこと。いいですね。」
ヴィルヘルムは神妙に頷いた。
こういう素直さは、やっぱり可愛い。
いや、かわいくはない。
やはり今の私はどこかおかしい。
心の中で頭を振って、鍵を開ける。
扉が開くや否や、リアムが真っ先に入る。
そして、ヴィルヘルムの手を握って言った。
「びる、おかえり。」
ヴィルヘルムが止まった。
玄関先で、本当に止まった。
リアムは不思議そうに見上げる。
「びる?」
ヴィルヘルムは、少しだけ目を伏せた。
そして、とても静かに言った。
「ただいま。」
その声があまりにも柔らかくて、私は胸が詰まった。
いけない。
ここで詰まっている場合ではない。
現実がある。
二人暮らしのこの家に、一人住人が増えるだけでも大事件。
しかも、それが王様となれば、考えなければならないことは山ほどある。
それでも、第一優先は子供だ。
「まず、リアムを休ませましょう。」
「はい。」
私はリアムに水を飲ませ、顔を拭き、少しだけパンを食べさせた。
リアムは泣き疲れ、走った揺れもあって、眠そうにしている。
「おかあさま、びる、いる?」
「います。」
「おきても、いる?」
私はヴィルヘルムを見た。
彼は真っ直ぐリアムを見ていた。
「います。」
今度は、私も止めなかった。
リアムは安心したように頷き、ウサギを抱えたまま寝台に横になった。
ヴィルヘルムは寝台の近くへ行きたそうにしたが、私を見る。
許可を待っている。
昨日までの彼なら、ここまで分かりやすく待っただろうか。
いや、待ったかもしれない。
この人は、肝心なところで、妙に律儀だ。
「近くに座っていてあげてください。」
「はい。」
ヴィルヘルムは椅子を静かに移動させ、寝台のそばに座った。
リアムは眠りに落ちかけながら、手を伸ばした。
「びる、て。」
ヴィルヘルムがその小さな手を取る。
「はい。」
「うさぎも。」
ヴィルヘルムはウサギの耳にも指を添えた。
これはきっと尊い場面である。
しかし、ウサギの耳にまで指を添える王という光景は、冷静に考えるとかなりおかしい。
リアムは満足したのか、すぐに眠った。
小さな寝息が戻る。
朝の嵐が嘘のようだった。
私はようやく椅子に座った。
今度こそ疲れが来た。
全身が重い。
足が痛い。
頭も痛い。
そして、妙にお腹が空いてきた。
そういえば今朝から何も食べていない。
緊張が解けるとすぐに空腹に気付くとは、我ながら現金な体である。
「レベッカ。」
ヴィルヘルムが小さく呼んだ。
「はい。」
「あなたも、休んでください。」
「無理です。」
「なぜ。」
「決めなければならないことが沢山あります。」
「私が処理します。」
「そういうとこですよ。ヴィルヘルム。」
私の機嫌を感じ取ったのだろう。ヴィルヘルムは僅かに背筋を伸ばした。
私は眉間を押さえた。
「勝手に決めない。処理しない。私たちに最も足りていないのは、報告、連絡、相談です。」
「……はい。」
さながら教師だ。王様相手に。
しかし、今後のためにも、これだけは譲れない。
「よろしい。まず、出航時期についてです。」
「すぐには難しいことは、理解しています。」
「そうですね。先ほどの家庭教師も然り、カルラさんにも説明が必要です。商家の皆様にも。紙商組合にも。アンナにも。教会にも。大家さんにも。」
「はい。」
「あとは、荷物ですね。」
「すべて運びましょう。」
即答だった。
予想通りである。
「まだ何も言っていません。」
「決めるのが難しければ、家ごと持って行きましょう。」
この人の冗談は本当に分かりにくい。
私はじとりと彼を睨み、それから家の中に視線をぐるっと巡らせた。
「本当に持って行かなければならない荷物は、そんなに多くありません。」
「まとめるのを手伝います。」
「大丈夫です。自分でやります。」
見られて困るものは恐らくない。
……恐らくないが、注意するに越したことはない。
その時、扉が叩かれた。
「事務官か、宰相かもしれません。」
ヴィルヘルムの言葉に扉を開けると、エーベルハルトが立っていた。
後ろに、事務官も一人。
そのさらに後ろに、目立たない努力をしているだろう騎士二人。
努力は認める。
しかし、やはり結果は伴っていない。
「失礼いたします。」
エーベルハルトは礼をした。
「今後の予定につきまして、陛下に最低限の確認を。」
「最低限。」
「はい。最低限です。」
彼の後ろの事務官が、分厚い書類束を抱えていた。
どうやら王様は、本人が持つ荷物より、身分についてくる荷物の方が遥かに多いらしい。
最低限とは何だろう。
私は言葉の意味を見失いそうになった。
エーベルハルトは室内を見た。
寝台で眠るリアム。
エーベルハルトの眉が、ほんの少し動いた。
しかし、何も言わない。
何も言わないが、その後の言葉は大分抑えられて口に乗った。
この男、やはりできる。
「陛下。」
「リアムが眠っています。」
「承知しております。」
エーベルハルトの返答は完璧だった。
「本日の出航は取りやめました。船会社および港湾管理者への説明は済ませております。」
「ありがとうございます。」
「ただし、王都への連絡、貴族院への延期通知、旧エルセリア統合局への指示、各大臣への説明、国外使節団への対応、滞在延長に伴う警備計画の再編が必要です。」
私は頭を抱えたくなった。
これが最低限。
「まずは出航の日取りを確定させておければと思います。」
私はヴィルヘルムを見る。
彼はリアムの手を握ったまま言った。
「レベッカが決めることですので。」
エーベルハルトが私を見た。
事務官も私を見た。
騎士たちも、見ないふりをして見ている。
急に、場の中心がこちらに来た。
やめてほしい。
私は、昨日まで家庭教師兼翻訳者だった人間である。
急に王の行事予定を取り決める権限を与えられても困る。
「……三日ほどいただければ、ありがたいです。」
私は言った。
「三日で、最低限の挨拶回りと荷造りをします。」
「三日。」
エーベルハルトは静かに復唱した。
「承知いたしました。」
「よろしいのですか。」
「三日で済むなら、非常にありがたいです。」
実感がこもっていた。
「本来であれば、三十日必要と言われてもおかしくない状況でしたので。」
「では、そうすればよかったでしょうか。」
「三日でお願いいたします。」
食い気味だった。
この人も切実である。
エーベルハルトは事務官に何かを指示した。
事務官が急いで書き留める。
その様子を見ていて、私はあることに気づいた。
皆、とても顔色が悪い。
すこぶる悪い。
「あなた方、そういえばずっと働いていますね。」
エーベルハルトと事務官が同時に止まった。
ヴィルヘルムも少しだけこちらを見た。
「昨日から、誰もまともに寝ていないのではありませんか。」
「緊急時ですので。」
エーベルハルトが答えた。
その言い方、どこかで聞いたことがある。
この国の上層部は、全員どこかおかしいのではないだろうか。
「休んでください。」
「しかし。」
「顔が死んでます。」
エーベルハルトが黙った。
まずい、顔色が悪い、くらいに留めておけばよかった。
私は咳払いして、続けた。
「どれだけ賢い人間であろうと、睡眠の不足は誤判断を誘発します。そして古今東西、大人が判断を誤ると、最終的に子供に皺寄せが行くものです。」
皆がリアムの眠る寝台に注目する。
便利だ。
子供を理由にすると、たいていの人が黙る。
エーベルハルトは、深く礼をした。
「……ごもっともですね。」
ヴィルヘルムが、ほんの少し笑った気がした。
私はまた、小さく咳払いした。
教職が板についてしまっている。
「では、交代で休ませます。」
「そうしてください。」
「陛下も。」
エーベルハルトが、ここぞとばかりに言った。
ヴィルヘルムは私を見た。
少し困った顔だ。
「あなたも寝てください。」
「はい。」
即答だった。
エーベルハルトが、少し感動したような顔をした。
「陛下が睡眠に前向きになられるとは。」
「珍しいのですか。」
「非常に。」
私はヴィルヘルムを見た。
「非常に?」
「……起きていなければ、仕事はできませんので。」
当たり前だが、決して当たり前ではない。
アインシュヴァルト国の王宮は、ブラック企業かなにかなのだろうか。
それともヴィルヘルムが企業戦士ならぬ社畜なのだろうか。
これは王宮に着いたら、まずは体調管理の指導から入らねば。
私は心の中で誓った。
その後、最低限の話し合いが行われた。
三日間はウィンツバークに滞在。
その間に、私の仕事先へ説明。
教会へ挨拶。
家の整理。
王都への連絡。
必要な荷物の選定と積み込み。
不要なものは家に残すか、知人に託す。
ヴィルヘルムは何も言わずにただ頷いてくれた。
エーベルハルトたちが帰る頃、リアムが目を覚ました。
目を開けて、最初にヴィルヘルムを確認する。
瞳が輝くのが、私にも分かった。
「びる、いた。」
「はい。」
「おかあさま、びる、いたよ。」
「そうね。」
リアムは寝ぼけた顔のまま、花がほころぶように笑った。
その笑顔に、朝の泣き声が少し遠くなった気がした。
エーベルハルトが、リアムに礼をする。
「お目覚めでございますか、リアム様。」
「だれ?」
「エーベルハルトでございます。」
「えーべる?」
「はい。お好きにお呼びください。」
エーベルハルトはすぐに受け入れた。
潔い。
仕事も気配りもできる上に、子供に優しいとは。
これで毛髪がもうちょっと豊かであれば完璧なのに。
神は二物を与えない。
私は胸の中で、うんうん、と納得した。
しかし、その世の道理の例外が、即座に口を挟んだ。
「確認は終わりましたので、退出を。何かあれば、また明日使いを送ってください。」
自分のほかに略称が与えられたのが、まさか悔しかったのだろうか。
……ヴィルヘルムの父性は侮れないかもしれない。
エーベルハルトたちが帰った後、部屋はようやく静かになった。
それから、私たちは簡単に食事を済ませ、湯浴みをし、身なりを整えた。
そうして、明日の予定を確認したり、持って行くものの整理や、ウサギのお世話ごっこをしている間に、いつの間にか夜は更けていた。
少し休んで一時的に回復はしたものの、やはり完全に疲れは取れていなかったのだろう。
夕方からリアムは、ヴィルヘルムとウサギの世話に勤しみながら、何度も欠伸をしていた。
「そろそろ眠りましょうか。」
私は寝台の端に座った。
リアムは真ん中。
ウサギはその隣。
ヴィルヘルムは椅子に座ろうとした。
「何をしているのですか。」
「……座ろうとしています。」
「寝るのでは?」
「はい。」
「椅子で?」
「問題ありません。」
「問題があります。」
私はため息をついた。
「寝台は確かに狭いです。」
「はい。」
「でも、床で寝られても困ります。」
「ですので、椅子で。」
「それも困ります。」
「では。」
ヴィルヘルムが本当に困っている。
何事もそつなくこなせる悔しいほどの万能人間が、目の前の小さな寝台を前に本当にどうすればいいか困っている。
かわいい。
いや、かわいくない。
今はそんな時ではない。
私は額を押さえた。
「あなたは右端。リアムを真ん中に。私がリアムを抱え込む形にすれば、たぶんいけるでしょう。」
「よろしいのですか。」
「あなたこそ、眠っている間に蹴り落とされても文句は言えませんからね。」
寝相は悪くない、と信じたいが、寝ている時の自分に確信は持てない。
「努力します。」
ヴィルヘルムは破顔した。
……ついつい見とれてしまったことは、秘密だ。
こうして、私たちは三人で寝台に入った。
今朝には、いやこの四年間では決して考えられなかった状況だ。
リアムは嬉しそうに、私とヴィルヘルムの間で丸くなった。
ウサギも挟まっている。
「かぞく、いっしょ、うれしいね。」
「そうね、うれしいわね。」
昨晩からの疲れに、体を横たえてすぐに頭がぼんやりし始めていた私は、ついそう返答していた。
ヴィルヘルムがこちらを見た。
その目が、あまりにも嬉しそうで、私は少しだけ恥ずかしくなって視線を逸らした。
「おかあさまも、うれしい?」
「……はい。」
期待に満ちたリアムの瞳に耐えきれず、私は短く返事をした。
頬が熱い。
「びるも?」
「はい。とても。」
就寝を前に灯りの落とされた家の中は、窓から差し込む街の明かりしか頼りがない。
その中で、リアムの笑顔は陽の光のように眩しかった。
ヴィルヘルムは微笑んだ。
その顔も、また陽の光のように温かかった。
昨日の夜は暗かった。
今朝も泣いた。
港まで走って、全身はまだ痛みと疲れに軋んでいる。
明日からやらなければならないことも、まだ山ほどある。
王都に行けば、きっともっと大変なことが待っているのだろう。
けれど、今は。
リアムの柔らかい温もり。
ウサギの微かな木の匂い。
ヴィルヘルムの静かな息遣い。
その三つを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
小さなベッドは狭い。
王様を含めた三人で眠るには、あまりにも狭い。
けれど、今日だけは、その狭さが少しだけありがたかった。
離れようとしても、離れられないくらいには。
私たちは近かった。




