第九話 私の家に、火を入れる
翌朝、目が覚めた瞬間、体が動かなかった。
正確には、動かそうと思えばなんとか動く。
ただし、全身がそれぞれ別の言語で抗議している。
腕が痛い。
肩が痛い。
腰が痛い。
太ももまで痛い。
昨日まで存在を意識していなかった背中の細かな筋肉まで、ここにおります、と丁寧に名乗り出ている。
……これまで経験してこなかった目覚めだ。
公爵令嬢だった頃、朝起きて最初に思うことは、今日の予定だった。
教師との面談、王宮での茶会、カイエンとの同席、読まなければならない報告書、失敗してはならない礼。
今朝は違う。
今朝、最初に思ったのは。
――これは、昨日の筋肉痛だ。
そう思った瞬間、私は寝台の上で少し笑った。瞬間に痛みで体がびくりとひきつる。
――痛い。
痛いが、悪くない。
昨日、私は働いた。
誰かに命じられたからではない。誰かに見せるためでもない。
自分の家に風を入れ、自分の眠る場所を作るために、箒を握り、布巾を絞り、井戸水を汲んだ。
その結果が、この痛みである。
ならば、これは成果だ。
成果が全身に出ている。
たいへん分かりやすい。
私はゆっくり起き上がった。
短い髪が頬にさらりと触れる。
相変わらず、鏡を見ると一瞬だけ胸が痛んでしまう。
けれど、その分髪を梳く時間はほとんどかからない。
濡らした指で少し整え、耳の横を押さえれば終わる。
圧倒的に楽だ。
楽というのは、生活において非常に強い。
私は顔を洗い、昨日と同じ服に袖を通した。
服は少し埃っぽい。だが、今日も掃除と買い出しで汚れる予定なので問題ない。
問題は、破いてしまうことだ。
現時点で私の服は少ない。
少ない服をいかに長く保たせるか。これもまた、生活の技術である。
赤い壺亭の食堂へ下りると、やはり主人がすでに鍋の前にいた。
鍋。
もちろん宿の鍋だ。
よく使い込まれた、大きな鍋。昨日から何度も見ているのに、今朝は妙にまぶしく見えた。
私も今日、鍋を買うからだ。
私の鍋を。
「おはよう。ずいぶん慎重に歩いてるな。」
「筋肉が、存在を主張しております。」
「掃除の翌日はそうなる。」
「経験者の声ですね。」
「誰でも通る道だ。」
主人は皿にパンと卵、温かいスープを置いた。
代金を置いて、私はスープの入ったカップを両手で包む。
野菜と小さな干し肉が入っている。やさしい湯気がふわりと舞った。
「今日はどうするんだ?」
「まずは寝具、鍋、火打ち道具、食品の買い出しに行こうと思っています。それから鍵職人と煙突掃除の手配を確認しに行って、井戸の点検もしていただきたいのですが、すぐには難しいですよね。」
「井戸はすぐには来ないだろうな。街の端の井戸職人は、今週ずっと呼ばれてるって聞いた。」
「そうですか。」
「飲み水はしばらく買うか、近くの家から分けてもらえ。掃除用なら井戸水でもいいだろうが、口に入れるのは点検してからにしな。」
「はい。」
「鍵と煙突は今日中に見てもらえるかもしれない。ローレンスは顔が広いからな。」
「たしかに、手練れの雰囲気を感じます。」
「あの顔だしな。」
主人は当然のように言った。
ローレンスの顔と胡散臭さは、この街で広く共有されているものなのだろうか。
私はスープを一口飲んだ。
温かい。
宿で出される温かい食事は、今日で最後になるかもしれない。
少なくとも、今夜からは自分の家に泊まるつもりだ。
そう考えると、スープの温かさが少し名残惜しくなった。
それと同時に、胸の奥が小さく高鳴る。
今夜、私は自分の家で眠る。
火を入れる。
――あの古い家に、私の火を。
朝の市場は、昨日よりも騒がしく感じた。
野菜を並べる音。魚を売る声。荷車の車輪。金物を叩く音。人々の足音と笑い声。
全部が混ざり合って、街全体が大きな鍋の中で煮立っているようだった。
私はその中を歩きながら、服の内側に分けた硬貨の重みを確かめた。
今日は支出が多い。
慎重に選ばなければならない。
けれど、慎重になりすぎて必要なものまで削ってはいけない。
寝具は体を守る。
鍋は食事を作る。
火打ち道具は熱を生む。
鍵は安全を守る。
煙突掃除は火事を防ぐ。
これは贅沢ではない。
生存基盤への投資である。
私は自分にそう言い聞かせながら、中古屋へ入った。
「寝具を探しています。できるだけ安く、けれど清潔なものを。」
店主は私を見て、口の端を上げた。
「安くて清潔。皆それを欲しがる。」
「高くて汚いものを欲しがる方は少ないと思います。」
店主は一瞬きょとんとしたあと、声を出して笑った。
「そりゃそうだ。」
「それから、配達は可能ですか? 東の森のそばの家なのですが。」
「できるが、東の森? あの古家か?」
「昨日から、私の家です。」
「あそこに一人で住むのかい。」
「はい。」
「若いのに、肝が据わってるな。」
「今後、そういうことにしていく予定です。」
「予定か。」
店主は面白そうに笑い、奥から寝具をいくつか出してきた。
まず、新品に近いものは高い。
高すぎる。
見なかったことにする。
次に出された敷き布団は、藁入りで少し古いが、布地はしっかりしていた。
毛布は洗い直されており、匂いも悪くない。端に小さな繕い跡がある。
これはむしろ好ましい。
誰かが手を入れ、まだ使えるようにしたものだ。
「これにします。」
「即決かい?」
「品質と価格の釣り合いがよいので。」
「言うね。」
「ただし、少し下げていただけませんか。運び賃も必要になります。」
「さっき即決しただろう。」
「即決と値引き交渉は両立します。」
店主はまた笑った。
結果、新居祝いとして少しだけ値が下がった。
運び賃は下がらなかった。
そこは仕方ない。
労働には対価が必要である。むしろ、それを削りすぎると人間関係が悪くなる。
前世の記憶が、ぼんやりそう告げている。
「昼過ぎには届けられる。店のやつに持たせるよ。」
「助かります。」
「ついでに、古い座布団を一つつけてやる。椅子も床も硬いだろう。」
「ありがとうございます。」
「ただし、返品はなしでお願いするよ。」
「承知しました。」
私は代金を支払い、店を出た。
革袋が少し軽くなる。
けれど、その代わりに今夜眠る場所ができる。
悪くない取引だ。
次は金物屋だった。
鍋が並んでいた。
大きな鍋。
小さな鍋。
厚い鍋。
薄い鍋。
持ち手が頑丈な鍋。
底が少し歪んだ鍋。
どれもそれぞれに人生を背負っている顔をしている。
いや、鍋に顔はない。
だが、今の私にはそう見える。
この中から一つを選ぶのだ。
私の生活の中心になる鍋を。
私は真剣に悩んだ。
公爵令嬢だった頃、宝石やドレスを選ぶ時より真剣だったかもしれない。
宝石は飾る。
ドレスも飾る。
だが鍋は、私を食べさせる。
重要度が違う。
「嬢ちゃん、鍋と結婚でもする気かい?」
重さを確認するために鍋を持ち上げた時、店主が言った。
「結婚するなら、もう少し軽い方がいいです。」
「違いない。」
「ですが、軽すぎると底が焦げやすそうです。」
「分かってるじゃないか。」
「分かっているのではなく、必死に推測しています。」
店主は中古の鍋を三つ出してくれた。
私は一つずつ持ち上げ、底を見て、縁を見て、内側の傷を確認した。
結局、中くらいの厚手の鍋を選んだ。
少し傷はある。だが底がしっかりしている。
一人分のスープなら十分作れる。
豆も煮られる。
湯も沸かせる。
鍋は一つで今は十分だ。
複数の鍋を持つのは、生活がもう少し安定してからでいい。
それから、火打ち道具。
小さな包丁。
木べら。
蝋燭を数本。
塩入れ。
油をほんの少し。
買い足していくと、荷物が一気に現実的な重さになった。
生活は重い。
物理的にも重い。
私は袋を抱え直した。
食料は慎重に選んだ。
豆。
根菜。
玉ねぎに似た野菜。
干し肉。
塩。
安いパン。
それから、少量の香草。
香草は贅沢だろうかと私は最初少し迷った。
迷ったが、結局買った。
安い豆と根菜だけのスープでも、香りが少しあるだけで気持ちが違う。
気持ちは生活の一部だ。
最低限だけで生きることと、心を完全に干からびさせることは違う。
だから、きっと香草は必要経費である。
私はそう結論づけた。
その帰り道、やはりいつもと同じ場所で足が止まった。
種屋だ。
木箱の中に、小さな袋がいくつも並んでいる。
葉物。
豆。
根菜。
薬草。
花。
私はゆっくり息を吸った。
種はまだ買えない。
昨日、そう結論づけたはずだ。
畑もまだ藪である。土も整えていない。道具もない。
今買っても、袋を眺めてにやにやするだけになる。
……それはそれで楽しそうだが、今は違う。
私は強い意志を持って、種屋の前を通り過ぎようとした。
「見るだけかい?」
店番の老婆が声をかけてきた。
私は思わず足を止めた。
しまった。
目が合ってしまった。
「ええ、今日は見るだけです。」
「見るだけと言う人は、たいてい買うね。」
「買いません。今日は新しく鍋を買いましたので。」
「鍋は大事だ。でも種も大事だよ。」
「今、誘惑しないでください。」
老婆は声を上げて笑った。
「畑はあるのかい?」
「家の裏に畑らしきものがありますが、現状は藪ですね。」
「藪か。最初は小さくしな。」
「小さく。」
「畑は人間の欲を見抜くよ。最初から広げすぎると、草に負ける。自分が世話できる分だけに留めて、始めるんだ。」
その言葉は、なんだか妙に胸に残った。
自分が世話できる分だけ。
もしかしたら私はこれまで、自分が世話できないほど大きなものを背負おうとしていたのかもしれない。
公爵家の名。
王子の未来。
国の政務。
父に認められること。
誰かに愛されること。
全部を抱えようとして、結局潰れた。
これからは、確実に自分が抱えられる分だけにしよう。
小さな家。
一つの鍋。
一つの火。
そして、いつか小さな畑。
「やっぱり、今日は買いません。」
私ははっきり言った。
「ですが、近いうちに必ず来ます。」
「待ってるよ。」
私は店を離れた。
勝った。
誘惑に勝った。
今の私は、かなり偉い。
それからローレンスの不動産屋へ着く頃には、腕が痛くなっていた。
金物と食料は重い。
特に鍋。
鍋は偉大だが、容赦がない。
店へ入ると、ローレンスが書類から顔を上げた。
「おや、森の家の。職人の手配の件だね。」
「はい。昨日の今日で申し訳ありませんが、ご都合の方はどうだったでしょうか。」
「鍵職人は、午後一番なら行けますね。煙突掃除は夕方前。井戸職人は明後日以降。予定は問題ないかね?」
「大丈夫です。」
「支払いの方は大丈夫かい?」
「……大丈夫です。」
「その割に、表情が固くなりましたよ。」
「革袋の中身が目減りする音が聞こえた気がしました。」
「それはよく聞こえる音ですな。」
ローレンスは妙に真面目な顔で頷いた。
「井戸については、点検が終わるまで飲み水には使わない方がいいだろうね。掃除用なら問題ないと思いますがね。」
「宿の主人にも同じことを言われました。飲み水はしばらく買います。」
「賢明だ。」
「賢明でないと、死にますので。」
ローレンスが一瞬黙り、それから少しだけ表情を和らげた。
「その通りです。」
彼は紹介状と予定を書いた紙を渡してくれた。
「それにしても、なんだか楽しそうだね。」
「え。」
「大変だろうに、楽しそうに見えますよ。」
私は返事に詰まった。
楽しそう。周りからはそう見えるのか。
私は自分の胸の内を確認した。
腕は痛い。
荷物は重い。
支出は怖い。
屋根も井戸も不安だ。
けれど。
「楽しいです。」
思ったより素直に、言葉が出た。
「多分。」
ローレンスは目を丸くしたあと、小さく笑った。
「それは何より。」
昼前、私は荷物を抱えて森の家へ向かった。
今日は昨日より荷物は重かったが、慣れてきたせいなのか、道が短く感じた。
家までの曲がり角を覚えている。
赤い屋根の小屋。
二股に分かれた木。
崩れかけた石垣。
坂の下の二軒の家。
その先に、私の家がある。
古い木の柵が見えた時、私は少しだけ足を止めた。
昨日より、家が静かに見えた。
いや、昨日も静かだった。
けれど今日は、ただの空き家ではなく、私を待っている場所のように見えた。
「おはようございます。」
小さく言って、門を開ける。
もちろん返事はない。
続いて玄関の鍵を開ける。
昨日より少し滑らかに回った。
中に入ると、空気は昨日ほど重くなかった。
窓を開ける。
居間。
台所。
寝室。
物置。
風が入る。
昨日通した風の道を、家が少し覚えているような気がした。
私は台所へ行き、買ってきた鍋を棚の上に置いた。
それだけで、台所が台所らしくなった。
昨日は空の棚と古いかまどだけだった。
今日は鍋がある。
木べらがある。
包丁がある。
豆がある。
塩がある。
食べるための道具がある。
家の心臓に、小さな鼓動が戻ったように見えた。
「あなたが、今日から台所の主力選手です。」
私は鍋に向かって言った。
鍋は当然、返事をしない。
だが、底の厚さからしてかなり頼りになるだろう。
寝具が届いたのは、昼過ぎだった。
中古屋の青年は、私より少し年下に見えた。
彼は敷き布団と毛布を背負い、息を切らしながら門をくぐった。
「ここに住むんですか? 一人で?」
「はい。」
「怖くないんですか?」
「怖いです。」
青年が目を丸くした。
「怖いんですか?」
「怖いものは怖いです。でも、住みます。」
「変な人ですね。」
「よく言われる予定です。」
青年は笑った。
寝室に敷き布団を置くと、部屋の印象が一気に変わる。
昨日まで、そこは空の部屋だった。古い床と低い天井、窓と壁だけの部屋。
今は違う。
眠る場所がある。
――私の眠る場所が。
それだけで、部屋が少し柔らかくなった気がした。
青年に代金と運び賃を渡す。
彼は硬貨を確かめ、庭の方を見た。
「畑にするんですか?」
「いずれは。」
「草抜きや整地も、街の便利屋に頼めばやってもらえると思いますよ。お金は取りますけど。」
「当然です。労働には対価が必要です。」
青年はまた笑った。
「変な人だけど、ちゃんとしてるんだね。」
「褒め言葉として受け取ります。」
青年を見送ったあと、私は寝室の入口に立った。
敷き布団。
毛布。
小さなおまけの座布団。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が温かくなった。
――これで、今夜ここで眠れる。
午後一番に、鍵職人が来た。
痩せた老人だった。無口で、表情はほとんど動かない。
だが、道具箱を開く手つきには無駄がなかった。
彼は玄関の古い鍵を見て、鼻を鳴らした。
「古いが、悪くはない。だが交換した方がいい。」
「お願いします。」
「裏口は?」
私は固まった。
「裏口……。」
「あるだろう。」
老人は無言で台所の奥を指した。
そこには、小さな扉があった。
そうだ。
掃除に気を取られて、すっかり忘れていた。
家主として不覚である。
いや、家主ではない。
借主だ。
だが、借主としても不覚である。
「こちらもお願いします。」
「そうだな。」
裏口のかんぬきは錆びていた。
鍵はほとんど役に立たない状態だった。
老人は黙々と古い金具を外し、新しい錠を取りつけていく。
金属を削る音。
ねじを締める音。
扉を開け閉めして確かめる音。
私は横で見ていた。
新しい鍵を受け取った時、思わず両手で包み込む。
冷たい鉄。
小さな重み。
これで、私の家は昨日より少し安全になった。
「なくすなよ。」
老人が言った。
「はい。大切にします。」
「大切にするより、置き場所を決めろ。」
「……非常に実践的なご助言です。」
老人は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
次に来たのは、煙突掃除の親方と少年だった。
親方はがっしりした体格の男で、少年は最初から鼻の頭が煤で黒かった。
仕事前から黒い。
つまり、仕事後はもっと黒くなるのだろう。
「長く使ってないな。」
親方は暖炉を覗き込み、そう言った。
「危険ですか?」
「掃除すれば使える。だが最初は小さく火を入れるように。いきなり大きく燃やすと危ないだろうな。」
「分かりました。」
「煙が戻ったらすぐ消すんだ。」
「はい。」
「あと、灰は溜めすぎないようにな。」
「はい。」
「それと、火が消えたからといってそのまま寝ないように。赤い炭が残ってることがあるから、よく確認してくれ。」
「はい。」
「返事はいいな。」
「教育のたまものです。」
「何の教育だ?」
「そこは、いろいろです。」
親方は笑った。
煙突掃除は、想像以上に豪快だった。
少年が屋根へ上がり、親方が下で受ける。
煤が落ちる。
どさり。
また落ちる。
どさり。
昨日せっかく拭いた暖炉周りが、再び黒くなる。
私は少しだけ遠い目をした。
しかし、これは必要な汚れである。
安全に火を使うためなら、再掃除くらいする。
する。
できれば一度で済ませたかったが、する。
終わったころに鏡を見ると、なぜか私の頬にも煤がついていた。かなり離れて立っていたはずなのに。
人は火に関わると、なぜか顔が汚れるらしい。
畑でも顔は汚れるだろうか。
いや、きっと汚れる。
覚悟しておこう。
作業が終わると、親方は暖炉の前にしゃがみ、火の入れ方を丁寧に教えてくれた。
乾いた細い木くず。
小さな薪。
空気の通り道。
火を大きくしすぎないこと。
火の後始末。
灰の置き場所。
私は真剣に聞いた。
火は美しい。
けれど、火は怖い。
扱いを誤れば、私の家は一晩で燃える。
「よし。試しに小さく入れてみろ。」
親方が言った。
「今ですか?」
「今だ。見てるうちに一度やった方がいい。」
私は火打ち道具を取り出した。
手が少し緊張する。
火花は出た。
だが、木くずには移らない。
もう一度。
……駄目。
三度目。
…………駄目。
親方は黙って見ている。
少年も見ている。
やめてほしい。
試験ではないのに、試験のような気持ちになる。
私は一度息を吐いた。
人は焦ると失敗するものだ。
それは王妃教育でも、前世の仕事でも、そして多分、火起こしでも同じだ。
細い木くずの位置を直す。
火打ち石を持ち直す。
火花を落とす。
小さな煙。
赤い点。
親方が低く言った。
「息を。」
私はそっと息を吹きかけた。
ふ、と小さな炎が生まれた。
生まれた。
本当に。
私は思わず動きを止めた。
「おい、止まるな。薪へ移せ。」
「は、はい。」
細い薪を添える。
炎が端を舐める。
ぱち、と音がした。
暖炉の奥で、火が揺れた。
「できたな。」
親方が言った。
私はしばらく、その火を見つめていた。
「……つきました。」
「ああ。」
「本当に。」
「火だからな。つけば燃える。」
その通りだ。
その通りなのに、胸がいっぱいになった。
これはただの火ではない。
私が選んだ家に。
私が買った火打ち道具で。
私が起こした火だ。
――この家に、初めて私の火が入った。
親方は火の様子を確かめ、煙がきちんと上がることを確認した。
「問題ない。今日は大きくするなよ。」
「はい。」
「鍋をかけるなら、弱く長くだ。」
「分かりました。」
「分かった顔をしているが、最初は焦がすものだ。」
「焦がさないよう努力します。」
「努力と焦げは別だ。」
親方はそう言って笑い、少年を連れて帰っていった。
私は代金を支払った。
また革袋が軽くなる。
けれど、暖炉には火がある。
その交換なら、悪くない。
職人たちが帰ると、家は急に静かになった。
新しい鍵。
通った煙突。
置かれた寝具。
棚の上の鍋。
買ってきた食料。
そして、暖炉の小さな火。
私は居間の真ん中に立ち、深く息を吸った。
今日は、ここに泊まれる。
――私の家で、初めて夜を越せる。
そう思うと、胸が少し緊張した。
嬉しい。
怖い。
どちらも本当だ。
私はまず、煤を掃いた。
昨日掃除した場所をまた掃除するのは少し悔しい。
だが、これも火を迎えるための作業である。
暖炉周りを拭き、灰を寄せ、教わった通りに火を小さく保つ。
それから台所へ向かった。
鍋を洗う。
宿で分けてもらった飲み水と、買った水を使う。
井戸の点検はまだだ。飲み水にはできない。
乾燥して固くなった豆は、本当なら一晩浸けた方がいいのだろう。
だが今夜は、そのまま少しだけ使う。
そこに細かく刻んだ野菜と干し肉を多めに入れて、簡単なスープを作ろうと決めた。
もし硬ければ、明日の朝まで煮直せばいい。
今日の目的は完璧な料理ではない。
火と鍋で食事を作ることだ。
玉ねぎに似た野菜を切ると、目がしみた。
涙が出る。
これは悲しみではない。
玉ねぎ的なものによる涙だ。
なんて健全な涙だろうか。
私は少し笑いながら、鍋に材料を入れた。
水。
豆。
根菜。
玉ねぎに似た野菜。
干し肉。
少しの塩。
ほんの少しの香草。
鍋を火にかける。
火は小さい。
鍋も一つ。
木べらも一本。
でもこれだけで、部屋の中に暮らしの匂いが生まれ始めた。
最初は水っぽい匂い。
次に野菜の甘い匂い。
干し肉の塩気。
香草の青い香り。
湯気が立つ。
私は木べらでそっと混ぜた。
味見をする。
薄い。
塩を足す。
もう一度味見する。
……まだ少し薄いが、悪くない。
「悪くない。」
声に出す。
この世界での初めての自炊としては、かなり悪くない。
七十点。
いや、火がついたので八十点。
少し自分に甘すぎる点数だろうか。
だが今日はそれでいい。
日が沈む頃、私は居間の古い机を拭き、器を置いた。
古い深皿。
木の匙。
市場で買ったパン。
豆と野菜と干し肉のスープ。
暖炉の火。
窓の外には、森の影。
私は椅子に座った。
公爵家の食卓では、侍女の手で銀器が並んだ。
王宮の晩餐では、給仕が音もなく皿を運んだ。
ここには誰もいない。
皿も一つ。
匙も一本。
鍋も一つ。
それでも、食事だった。
――むしろ、今までで一番、自分のための食事のように見えた。
私は思わず手を合わせかけた。
……前世の癖が出た。
この世界では一般的ではない作法。
でも、誰も見ていない。
この家には私しかいない。
私はそのまま小さく手を合わせた。
「いただきます。」
声は、古い部屋の中に静かに落ちた。
匙でスープをすくう。
湯気が顔に当たる。
一口食べる。
――温かい。
その瞬間、胸の奥がじわりとほどけた。
特別においしいわけではない。
豆は少し硬い。
野菜の大きさは不揃い。
干し肉の塩気も、まだ調整が必要だ。
――けれど、おいしい。
私は自分の家で、自分の火で、自分の鍋を使い、自分の夕食を作った。
それが、たまらなくおいしかった。
気づくと、涙が一粒落ちていた。
驚いて、私は頬に触れた。
また泣いている。
この数日で、ずいぶん涙もろくなった。
いや、違う。
多分、ずっと涙もろかった。
ただ、泣いてはいけない場所に長くいただけで。
今は、一人だ。
誰にも見られていない。
誰にも評価されない。
……だから、涙が落ちてもいいのだ。
私は拭わず、そのままスープをもう一口食べた。
「私、ちゃんと生きてるわ。」
声に出すと、また胸が詰まった。
火がある。
食べ物がある。
鍵がある。
寝る場所がある。
私は今日も、生き延びた。
それは小さな勝利だった。
けれど、王宮で誰かに勝つことよりも、社交界の華として君臨することよりも、ずっと大きい。
――他人は関係ない、自分だけの勝利。
暖炉の火が、ぱち、と鳴った。
返事のように聞こえた。
都合よく解釈しよう。
これは、きっと肯定してくれたのだ。
食後、鍋と器を洗った。
水は冷たい。
手がかじかむ。
だが、食べたあとに片付けるという流れが、妙に嬉しかった。
暮らしている。
私は今、暮らしている。
残ったスープは鍋に入れたまま、ふたをして涼しい場所へ置いた。
鍋が一つしかないため、明日の朝もこの鍋を使うことになる。
洗う。
温める。
また使う。
一つしかないというのは不便だ。
しかし、一つでもあるというのは強い。
私はその事実を噛みしめた。
夜になると、森の音が大きくなった。
風が葉を揺らす音。
虫の声。
遠くで何かが草を踏むような音。
街中の宿とはまるで違う。
正直、怖い。
かなり怖い。
私は新しい玄関の鍵を確認した。
一度。
裏口のかんぬき。
窓の留め具。
もう一度、玄関。
もう一度、裏口。
火の後始末。
灰の中に赤い炭が残っていないか確認する。
親方に言われた通り、しつこいくらい確認する。
怖いなら、確認すればいい。
不安をただ抱えるより、確実な手順に変える方がよい。
王妃教育で学んだ危機管理が、今は戸締まりに使われている。
非常に実用的である。
全部確認してから、私は寝室へ向かった。
敷き布団と毛布だけの簡素な寝床。
でも、昨日まではなかった。
私が買い、運んでもらい、ここへ置いた寝床だ。
私は毛布を広げ、横になった。
天井は低い。
壁には小さな染みがある。
窓の外では、森がざわめいている。
王宮の寝台とは比べものにならない。
公爵家の寝具とも比べものにならない。
だが、不思議と寒くなかった。
暖炉の熱がまだ少し残っているからかもしれない。
スープを食べたからかもしれない。
――それとも、ここが私の選んだ場所だからかもしれない。
私は目を閉じた。
今日一日を思い返す。
寝具を買った。
鍋を買った。
火打ち道具を買った。
鍵を替えた。
煙突を掃除してもらった。
初めて火をつけた。
初めてスープを作った。
初めて、この家で食事をした。
初めて、この家で眠る。
初めてだらけの一日。
どれも小さい。
取るに足らないことかもしれない。
けれど、その全部が私のものだった。
誰かの娘としてでもなく。
誰かの婚約者としてでもなく。
誰かの駒としてでもなく。
私が選んだ、私の一日。
胸の奥に、小さな火が灯っているようだった。
暖炉の火よりもさらに小さく、頼りない。
けれど、消したくない火。
「明日は、畑を見ましょう。」
言ってから、少し笑った。
見るだけで済むだろうか。
多分、済まない。
私はきっと、少しだけ草をどける。
少しだけ土を触る。
そして、種屋の老婆の言葉を思い出す。
自分が世話できる分だけ。
そうだ。
明日は見るだけ。
見るだけである。
私は毛布の中で、そっと手を握った。
誰も褒めてくれないなら、自分で褒める。
レベッカ。
よくやった。
ちゃんと起きた。
ちゃんと買った。
ちゃんと火をつけた。
ちゃんと食べた。
ちゃんと生きた。
偉い。あなたはとても偉い。
その言葉を胸の中で繰り返しているうちに、瞼が重くなった。
森の音が遠くなる。
家の木材が、小さくきしむ。
昨日なら怖かった音だ。
でも今夜は少し違う。
古い家も、私と一緒に夜を越える準備をしているように聞こえた。
私はその音を聞きながら、初めて自分の家で眠った。
追放されてから初めて、焦燥感なく眠れた夜だった。
深い眠りの中、断罪の大広間も、父の伝言も、書類を持った白い指先も、遠い夢の向こうに沈んでいった。




