第八話 古い家に風を入れる
翌朝目を覚ました私は、まず机の上を確認した。
――よし、ちゃんとある。
昨夜と同じ、黒ずんだ鉄の鍵。朝の薄い光を受けても、宝石のようには輝かない。
けれど私は、しばらくそれから目を離せなかった。
夢ではなかった。
――私は初めて、自分の居場所を自分の力で作った。
森のそばの古い家。軋む床。固い窓。雨染みのある物置。藪になった畑。
恐らく最初は、快適とは言い難い生活になるだろう。
けれど、そのすべてを承知したうえで、私は契約書へ署名した。
今日は、あの家の扉を一人で開ける。
誰かに案内されるのではなく。
王宮の侍女や衛兵に開けてもらうのでもなく。
――私が、私の鍵で。
そう思った瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。頬と首元に、仄かな熱がこもる。
――嬉しい。
たぶん、これは嬉しいのだ。
婚約を破棄されてからこれまで、朝が来るたびに、まず失ったものを思い出していた。
でも、今日は違う。
目を覚まして最初に思い出したのは、昨日手に入れたものだった。
私は寝台から勢いよく起き上がった。
「行きましょう!」
まだ誰も住んでいない家へ向かって、ガッツポーズを決めて、そう放った。
身支度には、やはりほとんど時間がかからなかった。
短い髪を梳き、顔を洗い、昨日と同じ服を着る。
汚れてもよい服は、今のところこれしかない。
つまり、絶対に破いてはいけない作業着でもある。
私は破れがないかさっと確認して、硬貨の入った袋を開けた。
今日は買うものが多い。
桶。布巾。石鹸。ブラシ。箒は昨日買った。
あとは何が必要になるだろう。
昨日書いた予定表を、もう一度確認する。
一、朝食を取る。
二、箒と布巾を持って家へ行く。
三、すべての窓を開ける。
四、床と家具の状態を確認する。
五、桶とブラシを買う。
六、井戸は確認が終わるまで飲まない。
七、煙突掃除が終わるまで火をつけない。
八、寝具を買う前に、寝室を掃除する。
九、虫が出たら、種類を確認して駆除。
最後の項目に、眉が自然と寄る。
改めて読んでも自信がない。
もし虫が頭の上にでも落ちてきたら、私はどうなってしまうのだろう。
しかし、これは予定に過ぎない。
予定というものは、立てた時点で半分達成したようなものなのだ。
少なくとも、現地で何をすればよいか迷うことはない。
私は紙を畳み、食堂へ下りた。
赤い壺亭の主人は、すでに鍋の前に立っていた。
「おはよう。今日は新居かい?」
「はい。まず、掃除を始めます。」
「一日で終わらせようとしないことだね。」
「終わらせられる量には見えませんでした。」
「分かってるならよろしい。」
主人は笑って、パンと温かいスープを出してくれた。
私は代金を払い、席へ着く。
宿代は、今夜の分まではすでに支払っている。
もし家の掃除が仮に今日中に完了したとしても、明日の朝まではここでこうして温かい食事にありつける。
節約を、と無理に行動した結果、体調を崩すのは本末転倒だ。
今の私には、看病してくれる侍女も、仕事を代わってくれる同僚もいない。
体調管理は、生存戦略である。
余裕が大切なのだ。
塩加減のよいスープに舌鼓を打っていると、厨房から女将が出てきた。
手には、小さな布包みがある。
「これ、持っていきな。」
「何ですか?」
「昼のパン。干し肉も少し挟んである。」
「ありがとうございます、お代を。」
「いらないよ。昨日、家が決まった祝いだからね。」
「ですが。」
「祝いに値段を聞くんじゃないよ。」
ぴしゃりと言われ、私は口を閉じた。
女将はにやりと笑って、包みを私の前へ置く。
「掃除を始めると、あんた絶対食事を忘れるだろうね。そんな顔してる。」
「どのような顔ですか?」
「一つ始めたら、全部終わるまで止まらない顔。」
反論しようとして、思わず口を噤む。
心当たりがあるからだ。
王妃教育の教師や侍女たちにも、何度か似たことを言われた。
――いくら課題がまだ終わっていないといっても、お食事ぐらいきちんと召し上がってください。
……まさか、ここへ来ても言われることになるとは。
なんだか少し恥ずかしい。
いや、正直、嬉しいのかもしれない。
「……昼になったら、必ず食べます。」
「必ずだよ。」
「はい。」
「素直でよろしい!」
女将が笑った。
私は布包みを両手で受け取った。
パンに挟む前に肉を焼いたのだろうか。包みは、ほんの少し温かかった。
――これは買ったものではなく、持たされたもの。
公爵家で与えられるものには、いつも家の意図があった。
王宮から贈られるものには、常に政治的な意味が込められていた。
だが、このパンは違う。
女将が、これから外へ出る若い女が、昼食を忘れそうだと思った。
だから持たせた。
そこに、打算や思惑はない。
何の裏もない親切というものを、正直私はまだ上手に受け取れない。
――それでも。
「ありがとうございます。大切にいただきます。」
「掃除は体力仕事だ。できれば腹が減る前に食べな。」
「はい。」
今度は私も、少し笑った。
食事を済ませ、箒とパンの包みの入った袋を持って、市場へ向かう。
市場は今日も人で溢れていた。
まずは石鹸、布巾、木の桶と固い毛のブラシを手に入れる。
鍋も必要だ。
寝具も必要だ。
新しい錠も、煙突掃除も、井戸の点検も必要だ。
必要なものを数えると、革袋の中身が音を立てて減っていく幻が見える。
私は鍋を並べた店の前で足を止めた。
大きい鍋。
小さい鍋。
厚い鍋。
薄い鍋。
どれも今すぐ必要に見える。
だが今日は、箒と桶とブラシを持っている。
さらに鍋まで抱えれば、家へ着く前に腕が終わるだろう。
「今日は掃除。」
自分に言い聞かせる。
「鍋は明日。」
鍋は逃げない。
きっと。
私は強い意志で金物屋を離れた。
市場の東端を抜けると、人の声が少しずつ遠ざかっていく。
石畳は土の道へ変わり、道端の草には朝露が残っていた。
昨日はローレンスの背中を追って歩いた道だ。
今日はそこを一人で歩く。
曲がり角を間違えないよう、目印を確かめる。
赤い屋根の小屋。二股に分かれた大きな木。崩れかけた石垣。
坂の下の二軒の家。
煙突から、細い煙が上がっている。
やはり完全に人里離れているわけではない。
そのことに、少し安心した。
私は決して強くなったわけではない。
一人で暮らすのがまったく怖くないわけでもない。
ただ、怖いままでも進めるようになっただけだ。
森へ近づくにつれて、鳥の声が大きくなった。
風が葉を揺らす音。湿った土の匂い。朝の冷たい空気。
そして、細い道を曲がった先に、古い木の柵が見えた。
私は足を止めた。
昨日と同じ家だ。
白い壁。苔のある屋根。蔓の絡んだ柵。草に埋もれた庭。
けれど昨日とは、少し違って見えた。
昨日は、借りるかどうかを判断する物件だった。
――今日は、私が手を入れる家だ。
朝の光が窓ガラスに映っている。庭の草の間には、小さな白い花が咲いていた。
柵の上にとまっていた小鳥が、私を見るなり森へ飛んでいく。
――長く眠っていた家が、片目だけ開けてこちらを見ている。
そんなふうに思えた。
私は箒を抱えたまま、少しだけ姿勢を正した。
「おはようございます。」
誰もいない庭へ向かって言う。
「今日から、手を入れさせていただきます。」
借りているのだから、許可は必要ない。
それでも、長くここに立ってきた家へ挨拶をしたかった。
森の葉が、ざわりと鳴った。
歓迎されたように感じて、私は少し嬉しかった。
柵の門は、押すと長い音を立てた。
「ここも油が必要ね。」
予定表の余白へ書き足す。
草を踏み分け、玄関へ向かう。
古い鍵を錠へ差し込む。
一度では回らなかった。少し押し込み、力を緩め、もう一度ゆっくり回す。
がちゃり。
錠が外れた。
私は取っ手を握った。
扉は昨日と同じように、少し持ち上げなければ開かない。
肩を入れ、押す。
ぎい、と低い音がした。
中から、閉じ込められていた空気が流れ出してくる。
埃。
古い木。
少し湿った壁。
長く使われていない家の匂い。
私は入口に立ったまま、その空気を受けた。
王宮で最後に閉じ込められた部屋は、香油と蝋燭の匂いがした。
上等な絨毯。磨かれた家具。鍵のかかった扉。
あの部屋は美しかったが、私を閉じ込める場所だった。
この家は、確かに美しいとは言い難い。
――けれど、私が窓を開けられる。
「まずは、風。」
私は荷物を玄関脇へ置いた。
居間の窓へ向かう。
留め具を外し、両手で押す。
動かない。
もう一度今度は先ほどよりも力を込めてぐっと押す。
……やはり動かない。
長く閉め切られていたせいで、木枠が膨らんでいる。
力任せに押せば、窓か私の肩のどちらかが壊れそうだ。
私は小さく息を吐いて、いったん手を離した。
窓の周囲を見る。
窓枠の下に、びっしりと埃が固まっていた。
なるほど、このせいで開かなくなっているのかもしれない。
細い隙間へブラシを入れ、汚れをかき出す。
木片を布で包み、てこのように少しずつ隙間を広げる。
もう一度、両手でゆっくりと押す。
――みしり。
窓が、わずかに動いた。
「よし。」
焦らないように気を付けながら、足元に力を入れてさらに押す。
ばん、と勢いよく開いた。
朝の空気が、一気にふわりと流れ込んでくる。
短い髪が頬へ張りつき、埃が舞い、私は盛大にくしゃみをした。
「……歓迎が激しいですね。」
家に向かって文句を言う。
もちろん返事はない。
次は台所の小窓。これは比較的簡単に開いた。
寝室の窓。
物置の窓。
一つ開けるたび、家の中の空気が動き始める。
最後に裏口を開けた。
森から来た風が、家の中をまっすぐ抜けた。
古い埃の匂いを持ち上げ、薄暗かった部屋の隅へ光を運び、壁に残っていた布の端を揺らす。
床の上の細かな埃が、光の筋の中で舞った。
――家全体が、深く深く、息を吸ったように見えた。
私は居間の真ん中に立ったまま、動けなかった。
ただ、窓を開けただけだ。
それなのに、胸の奥が熱くなる。
王宮の部屋には、いつも扉の外に騎士がいた。
公爵家の私室も、全て侍女たちによって管理されていた。
私の意思では、扉も窓も開けられなかった。
ここでは違う。
閉めるのも私。
開けるのも私。
風を入れるのも、追い出すのも私だ。
自分で開けた窓から、自分の選んだ風が入ってくる。
――それだけで、こんなにも息がしやすい。
私は目元に触れた。
泣いてはいない。
埃が入ったわけでもない。
――ただ、少しだけ熱かった。
「さて。」
私は気合を入れて袖をまくった。
感傷に浸るのもここまでだ。私は現実的な女である。
「次は、埃ですね。」
掃除には順序がある。
高い場所から低い場所へ。
乾いた汚れを先に落とし、水を使うのはそのあと。
王妃教育ではもちろん習わなかった。
前世の記憶と、赤い壺亭の女将から聞いた助言を合わせた知識である。
私は予定表の裏へ、作業の順番を書きながら確認した。
一、蜘蛛の巣。
二、棚と窓枠。
三、家具の裏。
四、床。
五、水拭き。
まず、箒を逆さに持ち、天井の隅に張った蜘蛛の巣を払う。
白い糸と埃がまとまって落ちてきた。
私はさっと一歩飛び退いた。
……危なかった。非常に危なかった。胸の鼓動が止まらない。
次に棚の上。布巾を当てると、一度で真っ黒になった。
「……あと何回拭けば綺麗になるのかしら。」
水はまだ使わない。
先にブラシで固まった埃を落とし、箒で集める。
床を掃く。
思っていたより難しい。
強く動かせば埃が舞う。弱ければ、ごみが床板の隙間から出てこない。
王妃教育で習った舞踏では、足先の角度を厳しく直された。
今は、箒の角度に全神経を使っている。
……後者の方が、よほど生きるために必要な技術といえるだろう。
居間の隅から、手の甲ほどの大きさの蜘蛛が走り出した。
私は固まった。
幼いカイエンが、私に向かって蜘蛛を飛ばした過日の記憶がよみがえる。
蜘蛛も止まった。
たぶん、互いに相手の出方を見ている。
「こ、交渉しましょう。」
私は箒を構えた。
「家賃を払っているのは私です。」
蜘蛛は動かない。
「庭と森は、かなり広いです。そちらへ移りましょう。」
まだ動かない。
「やはり、やらねばなりませんか。」
ふうっと目を気合を入れようとした時、蜘蛛が走った。
「ひゃっ。」
思わず声が出た。
私は懸命に箒で蜘蛛を追い、どうにか開いた窓から外へ出した。
成功した。
……しかし、驚いた。
私は窓枠に手をつき、息を整えた。
「あんな大きな蜘蛛がいるのね……。」
アシダカグモの一種だろうか。
それなら、さらに大きくなる可能性もある。
この先を考え、一瞬顔が強張る。
いや、虫がいることなんて、最初から予想していたことだ。
気を取り直して、掃除を再開する。
古い机を動かそうとして、すぐに諦めた。
重い。
一人で持ち上げれば、机より先に腰が壊れる。
私は脚の下へ畳んだ布を差し込み、少しずつ滑らせた。
おお。
動いた。
「力で解決できない時は、仕組みで解決……。」
議論でも家具でも同じらしい。
机を窓際へ寄せると、床に四角い跡が残っていた。
机の下だけ、木の色が濃い。
その端に、小さなものが落ちていた。
拾い上げる。
木でできた、丸い釦だった。
ひどく古い。糸は残っていない。
この家に以前住んでいた誰かの服から落ちたのだろう。
何年前のものかは分からないが、確かにここに住んでいた人のものだ。
誰かがこの机で手紙を書き、誰かが暖炉の前で食事をした。
誰かがこの床を歩き、服の釦を落とした。
――家は空になっても、暮らしの跡まですべて消えるわけではない。
私は釦を捨てず、窓辺へ置いた。
以前の住人に思い入れがあるわけではない。
名前も知らない。
ただ、この家が最初から空っぽだったわけではないことを、覚えておきたかった。
私は決して誰かの暮らしを奪ったのではない。
終わった暮らしの続きを、これから借りるのだ。
居間の乾いた埃をあらかた外へ出したところで、井戸へ向かった。
飲み水には使わない。
ローレンスが手配した点検が終わるまでは、口にしないと決めている。
だが、床や窓枠を洗う水は必要だ。
私は新しい桶へ縄を結び、井戸の蓋を開けた。
中は暗い。
冷たい空気が上がってくる。
桶を下ろす。
するすると縄が落ちていき、やがて小さな水音がした。
そこからが大変だった。
水を含んだ桶は重い。
両手で縄を引く。
腕が震える。
肩が痛い。
あと少し。
もう少し。
ようやく桶が井戸の縁まで上がった時、私は息を切らしていた。
「王妃教育に、井戸水を汲む授業なんてなかったわ。」
自分に言い訳のように呟く。
当然だ。
王妃は自分で井戸水を汲まない。
だが今の私に必要なのは、隣国との関税率より、桶を落とさず引き上げる方法だ。
七年間の教育がまったく役に立たない、と思っているわけでは決してない。
考えること。
順序をつけること。
分からないことを確認すること。
契約を読むこと。
疲れていても、感情だけで判断しないこと。
王妃にはなれなかったが、学んだものまで奪われたわけではない。
私は水を別の桶へ移した。
見た目は澄んでいる。
匂いも強くない。
それでも、見た目だけで安全とは決めない。
今日は掃除にだけ使う。
水へ少量の石鹸を溶かし、布巾を浸した。
窓枠を拭く。
一度で水が灰色になる。
捨てる。
また汲む。
拭く。
捨てる。
同じ作業を繰り返すうちに、窓の木枠が少しずつ本来の色を取り戻した。
ガラスを磨くと、庭の緑が鮮やかになる。
白い花。
絡み合う蔓。
その向こうの森。
汚れが落ちた分だけ、光が入る。
結果が目に見える。
やればやるほど、いい方向に何かが変わるというのは、とても気分がいい。
王宮の人間関係は、どれだけ気を配っても正しく整わなかった。
父との関係は、どれだけ努力しても近づかなかった。
カイエンのためにどれだけ学んでも、必要とされなかった。
けれど、窓の汚れは拭けば落ちる。
床の埃は掃けば減る。
水が濁れば、替えればいい。
「努力の成果が見えるって、素晴らしいわね。」
私は本気でそう思った。
性格的に、問題があることより、自分が次に何をすればいいか分からないことの方が苦しい。
この家は問題だらけだ。
だが、そのほとんどの問題には解決方法がある。
そのことが、今の私にはありがたかった。
昼を告げる鐘は、ここまではっきり届かなかった。
だから私は、腹が鳴るまで昼食を忘れていた。
女将の見立ては、悔しいが正しかった。
私は箒を止め、外へ出た。
井戸のそばに平たい石がある。そこへ腰を下ろし、布包みを開いた。
パンに干し肉と薄い野菜が挟まれている。
一口かじると、少し塩気が強い。汗をかいた体には、ちょうどよかった。
風が短い髪を揺らす。汗ばんだ額はすぐに涼しくなった。
庭の草が波のようにざわざわと揺れている。
私は食べながら、畑の方を見やった。
藪。やっぱり藪。
昨日より近くで見ると、さらに立派な藪である。
背の高い草。絡んだ蔓。枯れた枝。何かの小さな木まで生えている。
畑というより、森が一歩だけ庭へ進出したような場所だ。
気になる。今すぐ草を一本抜いてみたい。
一本だけ。
土の状態を確認するためにも。
だが、そこで私は自分の手を見た。
指先が赤い。箒を握っていた場所には、薄く擦れた跡がある。腕も重い。
今日の目的は家の掃除だ。
畑へ手を出せば、私は確実に止まらなくなる。
「今日は、見ません。」
藪へ向かって宣言した。
いや、見るだけならよい気もする。
だが、私のことだ。
見たら触りたくなる。
触ると抜く。
抜くと、もう一本抜く。
そして、もう一本と。
自分の性格くらい、そろそろ理解している。
「明日以降よ。」
藪は風に吹かれてゆらゆらと揺れた。
なんだか挑発されているように見えたが、無視した。
挑発に乗ってはならない。私は藪なんかより随分年上である。
私はパンを最後まで食べ、水筒の水を飲んだ。
女将が持たせてくれた、飲んでよい水だ。
疲れた体に通る水が気持ちいい。
そして何も考えず井戸水を口にしなかった自分を、その時少し褒めた。
午後は台所から始める。
棚の扉を開けた。中には、古い皿が数枚残っていた。
縁が欠けたもの。
ひびが入ったもの。
埃をかぶっているが、洗えば使えそうなもの。
私は一枚ずつ外へ運び、状態を確かめた。
大きく割れた皿は使えない。
細かなひびのある器も、熱いものを入れるには危ない。
無事な皿は二枚。
深い器が一つ。
木の匙が一本。
十分だ。
一人分なら。
井戸水で汚れを落とし、最後は宿から持ってきた少量の水で仕上げる。
完全に安全か確認できるまでは、慎重に扱う。
棚の奥をブラシでこすっていると、布の切れ端が出てきた。
……鼠にかじられた跡がある。
私は動きを止めた。
「鼠。」
声に出す。
姿は見えない。
古い跡かもしれない。
だが、食料を置く前に対策が必要だ。
密閉できる容器。棚の穴の確認。食べ物を床へ置かない。
予定表や注意事項の余白が、次々と埋まっていく。
家を持つことは、本当に大変だ。
鍵の向こう側にある問題を、すべて引き受けなければならない。
その重みを、少しずつ実感する。
けれど、不思議と後悔はなかった。
自分で選んだ場所だからだろうか。
これは決して、誰かの失敗を埋めるための作業ではない。
カイエンが逃げた授業の内容を、代わりに覚えるためでもない。
父が見ようとしない家の事情を、整えるためでもない。
私がここで食べ、眠るために解決すべき問題だ。
――それなら、向き合える。
台所の棚を拭き終えると、かすかな木の匂いが戻った。
ここへ鍋を置く。
豆を置く。
塩を置く。
火を使えるようになれば、スープを作る。
何もない棚の中に、明日の暮らしが見えた。
私は少しだけ笑った。
「鍋は明日、ね。」
声に出して、忘れないようにする。
物置部屋へ入ると、空気がほかの部屋より湿っていた。
天井の隅に、昨日確認した雨染みがある。
窓を開け、光の下で改めて見る。
染みは古く、今は乾いている。床にも水気のようなものはない。
ここ数日よく晴れているが、この染みはいつのものだろう。
いまのところ屋根から音もしない。
私はしばらく天井を見上げていた。
契約では、修繕費は借主負担だ。
鍵の交換、煙突掃除、井戸の点検、寝具、鍋、食料。すでに必要な支出はいくつもある。
屋根職人を呼べば、きっとさらに金が減る。
雨染みはある。
だが、今は漏っていない。
すぐに直すべきか。
次の雨で状態を確かめてからでもよいのか。
私は椅子に上り、染みの端をそっと指でなぞった。
板は柔らかくなっていない。崩れる気配もない。
「しばらくもつわよね。」
今の私には、限られた金しかない。
不安だけで、すべてを一度に直すことはできない。
優先順位をつける必要がある。
私は合理的に判断したつもりだった。
この時は、それで十分だと思っていた。
豪雨となった際、この染みがどうなるのかを。
私はまだ知らなかった。
午後の日が傾き始めた頃、寝室へ移る。
古い寝台の骨組みだけが残っていた。
結構大きめだ。先住人は大柄な男性だったのかもしれない。
まず蜘蛛の巣を払う。
床を掃く。
窓枠を拭く。
壁際に溜まった埃をブラシで掻き出す。
だんだん疲れが溜まってきたのか、朝より腕が上がらない。
箒が重く感じる。
それでも、今日ここまで済ませておけば、明日は寝具を入れられる。
もしかしたら明日の夜には、この家で眠れるかもしれない。
そう思うと、もう少しだけ動けた。
寝台の下へ箒を入れた時、今度は手のひらほどの長さのムカデが出てきた。
私は息を呑んだ。
ムカデは壁際で止まる。
「本日二件目ですね。」
大丈夫、大丈夫。
先ほどもなんとかなったではないか。
なるべく平静な声で話しかける。
「申し訳ありませんが、ご退出を。」
ムカデが動いた。
私も動いた。
箒を構える。
「庭へ移動しましょう。」
通じない。
「森なら、さらに広いですよ。」
やはり通じない。
私は目を閉じて覚悟を決めた後、慎重に箒を近づけた。
毛束にムカデを乗せ、開いた窓の方へ向かう。
途中で大きく動き出し、小さく「ひっ。」という音が出た。
決して叫んではいない。
小さな音が漏れ出ただけだ。
最終的に、ムカデは窓の外へ出た。
私はその場へ座り込みたくなったが、床がまだ汚れているので耐えた。
「勝ったわ。」
腰に手を当て、ふっと笑う。
誰も褒めてくれないため、自分で言うしかない。
寝室を掃き終えた後は、窓を磨いた。
磨き終わったガラス板に、外から夕方の斜陽が入った。
一日の終わりに差す鋭い光に、小さな部屋が、急に明るくなる。
ここへ敷き布団を置く。
毛布をかける。
朝、目を覚ませば、窓の外に森が見える。
その光景を想像した瞬間、胸が少し詰まった。
――私は、ここで眠る。
誰かに隔離された部屋ではなく。
罪人として閉じ込められた部屋でもなく。
自分で選び、自分で掃除した部屋で。
まだ寝具はない。
今夜も赤い壺亭へ戻る。
それでも、この部屋はもう、昨日までの空き部屋ではない。
――私が眠る予定の部屋だ。
あらかた掃除が完了し、私は額の汗を拭った。春先の気温は涼しかったが、いつの間にか全身に汗が滲んでいた。
念のため作業を終える前に、家の中を一周して見て回る。
居間。台所。寝室。物置。裏口。窓。
朝より、床が見える。棚の木目が見える。窓の向こうの緑が、はっきり見える。
確かに埃はまだ残っている。
壁の染みも消えていない。
物置の雨染みも、そのままだ。
だが、開いた窓から柔らかな風が通っている。
玄関脇には、私の箒と桶とブラシが並んでいる。
窓辺には、拾った木の釦が一つ置かれている。
――家の中に、私が今日ここにいた痕跡がある。
私は居間の中央に立った。
「……悪くない。」
口に出す。
悪くないどころか、かなり嬉しかった。
公爵家の別棟は、いつも整っていた。
どこにも塵一つなく、寝具も上等で、花まで飾られていた。
けれど私は、そこに自分の手で何かを置いた記憶がほとんどない。
王宮の部屋も同じだ。
美しいものは、最初からすべて揃っていた。
私はただ、その中で期待された役を演じればよかった。
この家には、足りないものばかりだ。
だからこそ、私が選べる。
どこへ机を置くか。
何を食べるか。
どの窓を朝に開けるか。
どの汚れを、今日は諦めるか。
――完璧でなくても、暮らしは始められる。
それは、私にとって新しい考えだった。
胸の奥に、小さな温かさが広がった。
昨日、鍵を握った時よりも、少しだけ確かな温かさだった。
夕方の光が森の向こうへ傾いた。
……そろそろ窓を閉めなければならない。
開ける時にはあれほど苦労した居間の窓も、閉める時は少しだけ素直だった。
今日、何度も動かしたからだろう。
台所。
寝室。
物置。
一つずつ窓を閉め、留め具を確認する。
緩んだ留め具には布を挟み、応急的に動かないようにした。
裏口のかんぬきを下ろす。
最後に玄関の前へ立った。
振り返ると、薄暗い居間の中へ夕日が一本だけ差していた。
光の中で、まだ少し埃が舞っている。
でも、確実に朝よりは少ない。
私は扉の外へ出た。
鍵をかける。
がちゃり。
王宮で聞いた鍵の音とは違う。
閉じ込められる音ではない。
今日、自分が働いた場所を守る音だ。
庭を振り返る。
草だらけ。
藪だらけ。
問題だらけ。
けれど、窓ガラスは朝より少し明るい。
家の中を風が通ったことを、私は知っている。
「また明日。」
小さく言った。
森の葉が鳴る。
返事だと思うことにした。
赤い壺亭へ戻る道で、早速腕も腰も痛み始めた。
手のひらには、箒の柄で擦れた赤い跡がある。足も重い。
それでも、不思議と足取りは軽かった。
明日は寝具を買おう。
鍋も買う。
鍵職人。
煙突掃除。
井戸の点検。
それから、食料。
畑はまだ。
畑はまだである。
……だが、少し見るだけなら。
「いいえ。」
歩きながら、自分へ言う。
「明日は生活基盤だけ。」
畑は逃げない。
藪は……。
むしろ増えるかもしれない。
少し急いだ方がよい気もする。
いや、落ち着け。
まず、眠る場所と火と水だ。
私は頭の中で優先順位を何度も並べ直した。
赤い壺亭へ着く頃には、空が茜色になっていた。
扉を開けると、主人が私を見て目を丸くした。
「ずいぶん立派な格好になったな。」
私は自分の服を見下ろした。
袖には埃。スカートの裾には泥。頬にも何かついているらしい。
短い髪には、枯れた葉が一枚絡んでいた。
公爵令嬢としては失格である。
だが今日は、古い家の掃除人だ。
「かなり進みました。」
「飯は食べたか?」
「女将さんからいただいたパンを、昼に。」
厨房から女将の声が飛んできた。
「忘れなかったかい?」
「お腹が鳴るまでは、たしかに忘れていました。」
「それは忘れたってことだね。」
「……次は気をつけます。」
「返事は立派だ。」
朝と同じことを言われた。
主人が食堂の席を指す。
「座りな。今夜は多めに食べた方がいい。」
「お代は払います。」
「分かってるよ。」
温かい煮込みが出てきた。
匙を持つ指が、疲れからだろうか、少し震えている。
今日は本当によく働いた。
一口食べる。
温かさと塩味とほのかな甘みが、喉から腹へ落ちていく。
体の奥が、ゆっくりほどけた。
誰かに命じられた仕事ではない。
評価されるための勉強でもない。
自分が暮らす場所を作るために、体を使った。
その疲れは、悪くなかった。
食事を終えて部屋へ戻ると、服の埃を払い、手と顔を洗った。
掌の赤い跡へ触れると、少し痛い。
明日は手袋も必要だろう。
私は机へ紙を広げた。
今日できたことを書きつける。
すべての窓を開けた。
居間を掃いた。
窓を拭いた。
台所の棚を整理した。
使える皿を二つ見つけた。
寝室を掃いた。
雨染みを確認した。
虫を二匹退去させた。
最後の一行を見て、少し笑った。
次に、明日やることを書く。
寝具。
鍋。
火打ち道具。
食料。
鍵職人。
煙突掃除。
井戸の点検。
手袋。
私は紙の横へ鍵を置いた。
朝と同じ鍵だ。
けれど、今朝より少しだけ違って見える。
今朝までは、家へ入るための鍵だった。
今は、今日一日かけて掃除した場所へ戻るための鍵だ。
目を閉じると、風の通った居間が浮かぶ。
磨いた窓。
窓辺の古い釦。
空の棚。
夕方の光。
明日、そこへ鍋と寝具が加わる。
やがて食べ物の匂いがする。
火の音がする。
そして眠り、朝を迎える。
私は寝台へ横になった。
腕も腰も、すでに痛い。
明日の朝は、もっと痛いだろう。
それでも、明日が楽しみだった。
「明日は、火を入れましょう。」
誰にも聞こえない声で言う。
今日、古い家へ風を入れた。
明日は、あの家へ火を入れる。
そうやって一つずつ、空き家を暮らす場所へ変えていく。
そして私も、一つずつ変わっていくのだ。
捨てられた女から。
追放された罪人から。
誰かに決められた役ではなく。
――自分の明日を、自分で用意する人間へ。
目を閉じると、窓を開けた時の風を思い出した。
古い埃を巻き上げ、暗い部屋へ光を運んだ風。
あの風は、家の中だけを通り抜けたのではない。
私の中で、長く閉じていた場所にも、少しだけ届いた気がした。




