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第七話 森のそばの古い家

 目が覚めた時、私はなぜか右手を握りしめていた。

 まるで、何かを落とさないように握っているかのように。


 けれど、開いた掌の中には何もなかった。あるのは、爪が残した薄い跡だけだ。


 私は寝台の上でぼんやりと瞬きをした。

 それから、自分が何を握っていたつもりなのかに気づき、ばっと飛び起きた。


 そうだ。

 鍵だ。


 ――まだ見たこともない、どこかの家の鍵。

 昨日、不動産屋へ行こうと決めたのだった。


 何もない掌を、しばらく見つめる。


 公爵家でも、王宮でも、私が鍵を持つことはなかった。扉はいつも侍女や侍従によって管理されていた。

 かつての自分の部屋でさえ、そもそも鍵が掛けられるのかどうかも知らない。

 皮肉なことに、王宮で初めて聞いた鍵の音は、私を部屋へ閉じ込めるためのものだった。


 しかし、今日得るだろう鍵は、私が自分で使うものだ。


 ――私を閉じ込めるものではなく、私の場所を守るための鍵。


 私は空の掌を見つめ、小さく息を吸って気合を入れた。


 短い髪を整えるのには、やはりほとんど時間がかからなかった。

 顔を洗い、服を着て、耳の横へ落ちてくる髪を指で払う。

 それだけで身支度が終わる。


 鏡の中には、まだ見慣れない女がいた。


 地味な服。

 耳の下で揃った赤褐色の髪。

 少し痩せた頬。


 けれど、目だけは昨日より落ち着いて見える。


 私は小さな机に紙を広げ、所持金を数えた。

 首飾りと耳飾りを売った金。ドレスや靴を売った金。髪を売った金。


 五枚の金貨は、スカートの内側に縫い付けた袋の中だ。

 絶対に使わないと決めたわけではない。どうしても生きるために必要なら使う。


 ただ、今はまだ、自分で売ったものから得た金だけで動ける。

 ならば、そうしたかった。


 私は紙の上に項目を書き出した。


 宿代。

 食費。

 衣服。

 日用品。


 そして、家賃。


 宿には三日分を先払いしてある。

 もし今日仮に家が決まらなかったとしても、今夜と明日の夜までは泊まれる。


 だが、その先も宿暮らしを続ければ、お金はかなりの速さで減っていくに違いない。

 食費も、削るには限界がある。衣服はすでに必要最低限だ。


 ――となれば、今見直すべきはやはり住居費である。


「よし。」


 私は硬貨を用途ごとに分けた。


 今日持ち歩く小銭。

 契約に使うだろう金。

 絶対に人前で出さない予備。


 一つの袋にすべて入れるほど、私はもう無防備ではない。

 紙を畳み、服の内側へしまう。


 宿の食堂へ下りると、主人が鍋からスープをよそっていた。

 根菜類と鶏肉だろうか。空腹を誘う、香草の香りが漂っている。


「おはよう。今日は早いな。」


「おはようございます。不動産屋へ行こうと思いまして。」


「昨日、女将から聞いたのか?」


「はい。市場の近くに、青い屋根の店があると。」


「ローレンスのところだな。」


 主人はパンを皿へ置きながら、少しだけ顔をしかめた。


「信用できない方ですか?」


「いや。契約で人を騙すような男じゃない。ただし、空いている部屋を全部よく見せる才能がある。」


「商売人としては正しいですね。」


「客としては気をつけろということだな。」


 主人は私の前へスープを置いた。器からふわりと温かな湯気が立ち上る。

 代金を置いて、私は器を手に取った。


「どんな家を探してるんだ?」


「とりあえず、家賃が安くて、女一人でも暮らせる程度に安全で、内側から鍵をかけられるところ、ですかね。街の中心からは離れていても構いません。水と火が使えて、できれば人の出入りが少ないところを。」


「ずいぶん具体的だな。」


「具体的にしておかないと、時間が無駄になるかもしれません。」


「手強い客になりそうだな。」


 主人は笑い、それから腕を組んだ。


「中心部は高い。南側は安いが、女一人には勧められないな。夜になると酔っ払いが多い。東側は人も少なく静かだが、店はないし、買い物は不便だろうな。」


「東側。」


「古い家も結構ある。大体、庭か畑つきが基本だ。ただし、畑と呼べる状態とは言えないかもしれないが。」


 匙を持つ手が止まった。


「畑があるのですか?」


「お。食いついたな。」


「食費に関わる重要事項ですから。」


「そこは単に野菜を育ててみたいと言えばいいだろう。」


「経費削減が主目的です。」


「分かった、分かった。」


 主人は楽しそうに笑った。


「そういえば東の森の手前に、結構長く空いている家が一軒あったな。井戸もあるし、昔は畑も使ってたらしい。ただ、街まではかなり歩く。屋根も古いし、庭は藪状態だ。冬は寒いし、森が近いから、夜は獣の声もする。」


「家賃は?」


「安い。」


「なるほど。」


 私の返事が早すぎたのだろう。

 主人は少し呆れたように私を見た。


「すぐに決めるなよ。まずはしっかり見ろ。」


「もちろんです。」


「井戸と屋根と煙突は必ず確認すること。安い家には、安い理由がある。」


「肝に銘じます。」


 私はスープを最後の一滴まで飲み干した。

 物件探しは、実のところ交渉が肝だ。


 そして人は空腹のまま交渉してはいけない。空腹は焦りを生む。

 これは王妃教育では教わらなかったが、おそらく正しい。


 朝の市場は、昨日よりずっと騒がしかった。

 荷車が行き交い、店主たちが声を張り、野菜を詰めた木箱が次々と運ばれていく。

 焼きたてのパン。干した薬草。革製品。鍋。刃物。色とりどりの布。


 その中に、小さな種袋を並べた店があった。

 私は思わず足を止めた。


 袋には、葉物や豆らしき絵が描かれている。胸に期待のようなものが広がった。

 今日、もしかしたら畑が手に入るかもしれない。今ここで一つ買ってしまうのもいいかもしれない。


 いや。

 私は自分を戒めた。


 家が先だ。

 土もないのに種を買うのは、さすがに気が急きすぎている。


 私は種袋から無理やり視線を引き剥がした。


「まずは家。家よ。」


 小さく呟き、青い屋根を探す。


 それは市場の東端にあった。

 色褪せた青い屋根。窓には、貸し部屋や店舗の案内が何枚も貼られている。


 中心街の家具つき部屋。

 職人向けの長屋。

 商店の二階。

 郊外の一軒家。


 最後の文字に目が留まった。


 私は扉を開けた。

 小さな鈴が鳴る。


 店の中には、紙とインクと乾いた木の匂いが満ちていた。

 壁一面に街の地図が貼られ、棚には契約書の束が並んでいる。


 不動産屋にしては広い店内だった。

 小売業もしているのだろうか、奥には商品棚のようなものがいくつも並び、日用品が売られているようだった。

 食堂の女将が、雑貨店も併設と言っていたことをふと思い出す。


 机の向こうに座っていた男が、こちらに気付き、すぐに立ち上がった。

 四十歳ほどだろうか。

 薄茶色の髪。細い目。人当たりのよい笑顔。


 ……確かに、どの部屋もよく見せそうな顔だった。


「いらっしゃいませ。お住まいをお探しですか?」


「はい。一人で暮らせる場所を探しています。」


「ご希望の地区は?」


「地区にはこだわりません。家賃が安いこと。夜に内側から施錠できること。水と火が使えること。できれば、隣室と壁一枚ではない場所を希望します。」


 男の視線が、私の服、靴、外套、髪、手元を素早く通った。

 こちらの支払い能力を測っている。


 私も男の机を見た。

 帳簿は整理されている。契約書は物件ごとに分けられている。

 机の端には、預かったらしい鍵が番号札つきで並んでいる。


 ――少なくとも、仕事は雑ではなさそうだ。


「ローレンスさんですね。」


「ええ。ローレンスと申します。失礼ですが、ご職業は?」


「これから探します。」


 笑顔がほんの少しだけ薄くなった。


「保証人はいらっしゃいますか?」


「いません。」


 さらに薄くなる。


「ただし、半年分の家賃を先払いできます。」


 笑顔が戻った。

 実に分かりやすい。

 お金の力は、大体何でも解決してしまう。これは世の常である。


「それでしたら、中心部にもよいお部屋がございます。家具つきで、共同の井戸も近く、商店街まで五分ほどです。」


「集合住宅ですか?」


「左右と上階に、それぞれご家族が。」


「もう少し人の少ない場所はありますか。」


「では、こちらはいかがでしょう。大通り沿いの二階で、窓が大きく、築年数も比較的新しいです。」


「窓が大きい……外から部屋の中が見えますか。」


「昼間は、多少。」


「なるほど。結構です。」


 ローレンスの目が少し細くなった。


「目立ちたくないご事情がおありで?」


「人生には、いろいろあります。」


 彼は一瞬黙った。

 それから、声を上げて笑った。


「確かに。人生には、いろいろありますな。」


「深く尋ねないでいただけると助かります。」


「私は家を貸す人間です。人生相談を聞く人間ではありません。」


「それは助かります。」


「では、街の東側はどうでしょうかね。少し不便ですが、静かな物件がありますよ。」


「畑つきの古い家ですか?」


 ローレンスの笑顔が止まった。


「……赤い壺亭のご主人ですかな。」


「取り扱いの物件ではありませんか?」


「いいえ。ただ、かなり長く空いている場所ですので……。」


 言い方が少し苦しい。何かあるのだろうか。


「どのくらい長く空いていますか?」


「数年ほど。」


「正確には?」


「……五年です。」


「空いている理由は?」


「街から遠い。森に近い。井戸が古い。傷みもひどく、屋根の一部に染みがある。庭は荒れている。畑も、今は藪です。」


「ほかには?」


「冬は冷えます。」


「ほかには?」


「虫が……多少。」


「その『多少』は、きっと信用できないのでしょうね。」


 ローレンスは咳払いをした。どうやら正解を当ててしまったようだ。


「家賃は?」


 彼が告げた額は、中心部の部屋の半分に近かった。

 もしここにすれば、当初立てていた予定より大分安く済む。一年半くらいの猶予が稼げるかもしれない。


「内見できますか。」


「お客さん、本気ですか?」


「見てから最終決定したいと思います。」


 ローレンスは私の顔をしばらく見たあと、少し嘆息して机の引き出しを探り、一本の古い鉄の鍵を取り出した。


 番号札のついた、黒ずんだ鍵。

 とても綺麗とは言い難いが、見た瞬間、朝から空だった掌が、わずかに疼いた気がした。



 それからローレンスと共に店を出て、町の東側へ向かった。


 町の中心を離れるにつれ、道の両側から店が減っていった。代わりに民家の庭が広くなり、低い石垣や木の柵が増える。


 さらに東へ進むと、道の端に草が生え始めた。

 遠くに森が見える。

 深い緑が重なり、風が吹くたび、葉の表面が光った。鳥の声が聞こえる。

 街の喧騒は、もう背後に薄く残るだけだ。


「市場までは、徒歩で三十分少々です。」


 今日は風は冷たいが、陽の光が眩しい。

 物件資料で目元に影を作りながらローレンスが言った。


「雨の日は?」


「道が少しぬかるみます。」


「夜道に灯りは?」


「街道まではあります。この細道にはありません。」


「近隣の家は?」


「坂をだいぶ下ったところに二軒。そこから更に少し離れて農家が一軒です。」


 私は道を覚えながら歩いた。


 市場までの距離。

 人家の位置。

 逃げ込めそうな場所。

 森から家へ続く獣道の有無。


 若い女が一人で暮らすなら、もしもの時の確認は重要だ。


「ずいぶん確認なさいますな。」


「確認せずに契約する方が不思議です。」


「……おっしゃる通りです。」


 街道から細い道へ入る。

 しばらく進むと、古い石垣と、蔓の絡んだ木の柵が見えた。


 ――その向こうに、家があった。


 私は足を止めた。


 白い壁は雨風にくすみ、ところどころ灰色になっている。

 屋根には薄く苔が生え、軒先の一部がわずかに下がっていた。


 玄関扉は厚い木で作られているが、蝶番が古い。窓は小さい。

 庭は草に覆われ、柵には蔓が絡みついている。


 奥には、かろうじて畝の跡と分かる盛り上がりがあった。正直今は畑というより、緑色の塊である。

 その脇に古い井戸。さらに奥には、小さな物置。

 家の裏手には森が広がっていた。


 風が木々を渡った。


 ざわり、と大きく葉が揺れ、新緑の白い葉裏がちらつく。

 湿った土、茂る草木、どこか温かい春先の風に古い木の匂いが混じっていた。


 とても立派とは言えない。

 綺麗でもない。


 問題なら、遠目であってもいくつも見つかる。


 それなのに。


 胸の奥で、何かが小さく動いた気がした。


 公爵家の私の部屋は、公爵令嬢のいるべき場所として常に正しく管理されていた。

 王宮での私の居場所は、王妃教育を受ける者のためのものとしていつも整えられていた。


 何かのために。

 ふさわしい場所として。


 しかしこの家には、正しさも規律も感じない。

 ただただ古くなり、空いたまま、誰も整えずそこにある。


 ――もし私が借りれば。


 私が窓を開ける。

 私が掃除する。

 私が火を入れる。

 私が畑を耕す。


 ――すべて私が整え、暮らしていく。


 なぜかその想像が、妙に鮮明だった。


「どうです?」


 ローレンスに尋ねられ、私は即答しかけた。

 ……危ない。

 一目で気に入った時ほど、欠点を探さなければならない。


「中を見せてください。」


 ローレンスが鍵を差し込んだ。

 固い音がして、錠が回る。


 扉は少し持ち上げなければ開かなかった。


「まず、蝶番の調整が必要ですね。」


「使えないわけではありません。」


「使いにくいことは認めるのですね。」


「……認めます。」


 中は埃っぽかった。

 ローレンスが窓を開けると、細い光が差し込み、舞い上がった埃が白く浮かんだ。

 口元に袖を当てながら、さっと家の中を確認して回る。


 居間には古い暖炉。

 奥に小さな台所。

 寝室が一つ。

 物置部屋が一つ。


 一人で暮らすには十分な広さだ。


 私は玄関へ戻り、扉の内側を確認した。

 錠はある。だが古い。

 裏口には、木のかんぬきがついている。これも交換が必要かもしれない。

 窓の留め具は、三つのうち一つが緩んでいた。


「鍵は交換をお願いいたします。」


「借主負担になります。」


「構いません。信頼できる職人を紹介してください。」


 次に床を踏む。

 軋む場所はあるが、沈み込むほどではない。


 壁を確認する。

 煤の汚れや微かなひび割れはあるが、大きな亀裂があるわけではない。


 天井を見上げる。

 居間と寝室は乾いている。

 しかし物置部屋の隅には、薄い染みがあった。


「これは?」


「以前、強い雨の時に少し。」


「雨漏りですね。」


「常に漏るわけではありません。」


「雨漏りです。」


「……はい。」


 私は染みの位置と広がりを確認した。

 今すぐ天井が落ちる状態ではない。だが、放置してよいものでもないだろう。


「修繕する場合は、借主負担ですね?」


「ええ。この家は、現状のまま安く貸し出す条件です。」


「分かりました。では、雨漏りの跡が入居前からあったことだけ、契約書に記録してください。」


「修理費はお支払いできませんよ。」


「承知しています。退去時に、私がつけた傷みと誤解されないためです。」


 ローレンスは少し意外そうに私を見たあと、頷いた。

 私は暖炉へ移った。


「煙突は最後にいつ掃除を?」


「二年ほど前です。」


「五年空いているのに?」


「三年前に、短期間だけ借り手がいたのです。」


「先ほど、五年空いていると。」


「長期の借り手がいなかった、という意味で。」


「そういう情報は先に出してください。」


「……申し訳ありません。」


 前の借り手が短期間で出た理由も、念のため確認した。

 仕事の都合で街を離れたらしい。事件や事故があったわけではないようだ。

 少なくとも、記録上は。


 煙突掃除は必要。

 井戸も清掃と水質確認が必要。

 窓の留め具は修理。

 屋根の染みは、次の雨までに確認。


 私は頭の中でざっと概算の見込み費用を計算した。

 安い家賃だけを見れば得だ。

 だが、初期費用はかかる。


 それでも中心部に半年住むよりは、格段に安いに違いない。


「外も確認します。」


 私は庭へ出た。


 井戸の蓋は重く、腐ってはいない。

 しかし縄と桶は大分古くなっている。こちらは頃合いを見て交換した方がいいだろう。

 家から井戸までは近かった。これは掃除も炊事も便利そうだ。


 畑らしき場所は、家の南側にあった。

 午前から昼過ぎまでは日が当たりそうだ。森の影が伸びても、すべてが覆われるわけではないだろう。


 私は草をかき分け、畝の跡へしゃがんだ。

 土へ指を差し入れる。


 冷たい。

 少し湿っている。


 握ると固まり、指で押すとほろりと崩れた。

 完全に痩せた土ではない、と分かった。


 草の根は深いだろう。石も多そうだ。今すぐ種をまける状態では決してない。

 それでも、土だ。


 私が手を入れれば、何かを育てられるかもしれない土。

 自分で育てたものを、自分で食べる。


 ――その未来が、指の間にある。


 胸の奥に、小さな熱が灯った。


 昨日、温かい煮込みを食べた時に感じたものと似ている。


 ――生きるための、小さな火。


「笑っていますよ。」


 後ろからローレンスに言われた。

 私はばっと振り返った。


「笑っていません。」


「その藪を見て笑う人は、正直初めてです。」


「食費削減の可能性を確認していただけです。」


「野菜を育てたいのでしょう?」


「結果として、食費が下がります。」


「はいはい。」


 ……なぜ皆、私の説明を信じないのだろう。

 私は立ち上がり、手についた土を払った。


 もう一度、家を見る。


 古い。

 不便。

 修理も掃除も必要。

 店は遠い。

 冬は寒い。

 虫も、多少では済まない可能性がある。


 だが、玄関から畑が見える。井戸がある。近所の家も遠すぎない。


 ――何より、ここには自分の暮らしを作っていく余地がある。


「契約条件を詰めましょう。」


 ローレンスが目を瞬いた。


「借りるのですか?」


「条件が合えば。」


「もっと新しい家もありますよ。」


「今の私には、新しい家より、この家が合っています。」


 交渉は、その場で始まった。


「半年分を先払いします。その代わり、月額を少し下げてください。」


「すでに十分安い物件です。」


「五年間、長期の借り手がついていません。」


「……短期の方はいました。」


「長期の借り手がついていません。」


 ローレンスが黙る。


「私は保証人を用意できません。その代わり、半年分を先に払います。家主にとっても、空室を続けるより確実です。」


「下げられても、ほんのわずかです。」


「構いません。雨漏りを含め、必要な修繕費は私が負担します。ただし、入居前からある傷みは記録に残し、退去時の原状回復費には含めないでください。」


「それでしたら問題ありません。」


「当然のことほど、契約書に書くべきです。」


 ローレンスは、また少しだけ感心したような顔をした。


「鍵の交換、煙突掃除、井戸の清掃は私が負担します。ただし、職人の紹介料は取りませんね?」


「……取りません。」


「庭と畑は、家賃に含まれますか?」


「含まれます。ただし、森の木を勝手に伐採することはできません。」


「庭の枯れ枝と藪は?」


「自由に片づけて構いません。」


「古い家具は?」


「残っているものは使っていただいて結構です。」


「一覧を契約書へ添えてください。最初から壊れているものも記録します。」


「徹底していますな。」


「あとで争う方が面倒ですので。」


 ローレンスはしばらく考え、やがて両手を上げた。


「分かりました。店へ戻って契約書を作りましょう。家主には私から説明します。」


「屋根の染みも、入居前の状態として記載を。」


「記載します。」


「書面で。」


「書面にします。」


「ありがとうございます。」


「礼を言われている気がしませんな。」


「感謝はしています。」


「交渉は一歩も譲らないのに?」


「感謝と契約は別です。」


 ローレンスは額を押さえた。ふっと溜息が漏れる。


「あなた、本当に何者です?」


「人生には、いろいろありますから。」


「……便利な言葉ですな。」


「ええ。乱用しています。」


 店へ戻ると、ローレンスはすぐに契約書を作った。

 私は渡された紙を、最初の一行から最後の一行まで読んだ。


 物件の所在地。

 契約期間。

 家賃。

 半年分の先払い。

 解約時の条件。

 雨漏りを含む修繕費は借主負担。

 入居前からある傷みは借主の責任外。

 鍵、煙突、井戸の整備は借主負担。

 庭と畑の使用権。

 森の樹木を伐採しないこと。

 残置家具の一覧。


 窓の留め具についての記載がない。


「窓の留め具の修理も、入居前の不具合として追記してください。」


「見逃しませんな。」


「見ましたので。」


 追記された文を確認する。

 ほかに不利な条項はない。


「問題ありません。」


「そこまで読まれる借り手は、久しぶりです。」


「契約書は、読まなければ意味がありません。」


「まったくもって正しい。」


 私は署名欄へペンを置いた。


 ――レベッカ。


 それだけを書いた。


 もちろん先日に引き続きエルヴェシアの名はない。

 爵位もない。

 誰かの婚約者という肩書きもない。


 ただのレベッカ。

 それでも、契約は成立した。


 私は半年分の家賃を数え、机の上へ置いた。

 革袋が一気に軽くなる。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 これだけあれば、何日宿に泊まれただろう。何食分のパンを買えただろう。

 だが、これは失う金ではない。

 これから半年、自分の扉を持つための金だ。


 ローレンスが受領書を作り、契約書の控えと一緒に差し出した。

 そして最後に、机の端へ古い鉄の鍵を置いた。


「こちらが、今の玄関の鍵です。交換までの間は、これをお使いください。」


 私は鍵を手に取った。


 冷たい。

 黒ずんでいる。


 手のひらに収まるほど小さいのに、不思議な重みがあった。


 初めて自分で得た鍵。


 私が探した。

 私が欠点を確かめた。

 私が条件を交渉した。

 私が署名した。


 これは、誰かが私に与えた場所ではない。


 ――私が選んだ場所だ。


「明日から入れますか?」


「今日からでも。ただ、寝具はありませんよ。」


「分かっています。宿の方にあと二泊泊まる予定なので、二日かけて眠れる状態までなんとか整えます。」


「それが賢明です。」


「鍵職人と煙突掃除、それから井戸を見られる方の手配をお願いできますか。」


「本当に、すぐ始めるのですね。」


「あと二日しかありませんから。支出削減のためです。」


 ローレンスは苦笑しながら頷いた。


「承知しました。明日の午後までに職人へ話を通します。明後日また来店ください。」


「ありがとうございます。」


 今度の礼には、きちんと感謝を込めた。



 店を出たあと、私は市場で安い紙の束と鉛筆、それから箒を一本買った。


 明日には石鹸、布巾、桶とブラシも必要だろう。

 寝具も。

 鍋も。

 食器も。

 灯りも。


 すべてを今日買うことはできる。

 だが、持って歩けない。

 そして、焦って選べば不要なものまで買う。

 今日は箒までだ。


 明日は家を開け、必要なものを一つずつ確認してから買う。


 種屋の前を通った時、また足が止まりかけた。

 けれど、今度は止まらなかった。


 まずは掃除。

 次に水。

 その次に火。


 畑は、そのあとだ。


 私は少しだけ成長している。

 たぶん。


 赤い壺亭へ戻ると、主人が箒を見て眉を上げた。


「決まったのか?」


「はい。東の森のそばの古い家を借りました。」


「本当に、あそこにしたのか。」


「畑がありますので。」


「やっぱり、そこか。」


「食費削減です。」


「はいはい。」


 また信じてもらえなかった。なぜだろう。


「宿は、予定通りあと二泊でお願いします。明日から新居の掃除を始めるつもりです。」


「まず煙突と井戸を見てもらえ。急ぎ過ぎるなよ。」


「その予定です。」


「鍵は?」


 私は掌を開いた。

 古い鉄の鍵が、夕方の光を鈍く返した。


「受け取りました。」


 主人は鍵を見て、それから私の顔を見た。


「よかったな。」


 たったそれだけだった。

 けれど、その言葉が胸へ静かに落ちた。


「はい。」


 私は鍵を握った。


「よかったです。」


 部屋へ戻ると、机の上へ契約書と受領書を広げた。

 もう一度、内容を確認する。


 間違いはない。


 東の森のそばの古い家。

 半年契約。

 借主、レベッカ。


 私は新しい紙へ、明日やることを書き出した。


 一、朝食を取る。

 二、箒と布巾を持って家へ行く。

 三、すべての窓を開ける。

 四、床と家具の状態を確認する。

 五、桶とブラシを買う。

 六、井戸は確認が終わるまで飲まない。

 七、煙突掃除が終わるまで火をつけない。

 八、寝具を買う前に、寝室を掃除する。

 九、虫が出たら、種類を確認して駆除。


 ……正直最後だけ、自信がない。


 私は紙の横へ鍵を置いた。

 朝、空だった掌に、今は本物の重みがある。


 数日前まで、私の未来には王宮の大広間しかなかった。


 王妃になること。

 国のために働くこと。

 カイエンの隣に立つこと。


 そこから外れれば、人生そのものがなくなると思っていた。


 けれど今、机の上には古い家の鍵がある。


 明日は窓を開ける。

 埃を払い、床を掃き、自分が眠る場所を作る。


 未来というものは、もっと大きく、立派な形をしていると思っていた。

 しかし本当は、こんなものなのかもしれない。


 黒ずんだ鉄の鍵。

 一本の箒。

 明日やることを書いた紙。


 ――それだけでも、人は次の朝へ進める。


 私は鍵を握り、寝台へ横になった。

 鉄の冷たさが、少しずつ掌の温度に変わっていく。


「明日、開けに行きましょう。」


 自分の扉を。

 自分の窓を。

 自分の暮らしを。


 作るのだ。


 自分の力で、自分の居場所を。

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