第六話 髪を切った日
目を覚ました瞬間、髪に引っ張られた。
「痛っ。」
寝返りを打った拍子に、腰まである髪を自分の背中で踏んでいたらしい。
私は痛みに呻きつつ寝台の上で体を起こし、布団に絡まった髪を一本ずつ外した。
重い。
長い。
そして、面倒である。
昨夜は乾かすだけで腕が痛くなった。
香油も櫛も、以前使っていたものはもう手元にない。動きやすいように複雑に結ってくれる侍女も、もちろんもういない。
この髪は、今の暮らしには明らかに過剰だ。
私は寝台の端に座り、濃い赤褐色の髪を両手ですくった。
細く艶やかなそれは、朝日を受けると一本一本が柔らかく光る。
――美しい。それは否定しない。
幼い頃から、何度も褒められてきた。
公爵令嬢に、王子の隣に、将来王妃となる者にふさわしい髪。
つまり、いつも何かにふさわしい髪だった。
私自身が好きかどうかを聞かれたことはない。
私もそれを当然とし、深く考えたこともなかった。
母はよく言っていた。
――髪は女の品格を表すものです。
――人に見られることを、決して忘れてはなりません。
私はその言葉を守った。
毎日丁寧に梳き、香油をなじませ、毛先が傷まないよう眠る時にも気をつけた。
母が亡くなったあとも続けた。
別棟へ移されても、家族の食卓から外されても、カイエンが私を見なくても。
この髪を美しく保っている限り、私はまだ公爵家の娘で、王子の婚約者で、未来の王妃候補なのだと思えたからだ。
そのどれもが、もうない。
――なら、この髪は誰のためにあるのだろう。
私は指の間から髪を落とした。さらりと音を立て、髪が膝の上へ上質な布のように広がる。
それに、少しだけ胸が痛んだ。
宝石やドレスとは違う。髪は最初から私の一部だった。
母に叱られた日も、父を待ち続けた夜も、王妃教育の机で眠りかけた朝も、ずっと私の背中にあった。
だから、切ることは過去を否定するようで少し怖い。
――けれど。
私は昨日、自分で決めた。
「今日、切る。」
声に出す。
髪は返事をしなかった。当然である。
返事をされたら、むしろ困る。
私は立ち上がり、窓を開けた。
春先の朝の冷たい空気がふわりと部屋へ入り、長い赤茶色の髪を静かに揺らす。
裏庭からは桶を運んでいるのだろうか、水と石畳を踏む音が聞こえた。どこかで鶏も鳴いている。
知らない街の、普通の朝だった。
王宮の侍女は来ない。
今日の予定を告げる事務官もいない。
私の髪形を決める人もいない。
――だから、私が決める。
耳の下まで切って、手入れの手間と時間を減らす。
売った代金は宿代か家賃にする。
大変合理的である。
合理的であるはずなのに、胸の奥にはまだ、昨晩思い出した声が残っていた。
――今日の髪は、よく似合っています。
低く、静かな声。
私はぎゅっと眉を寄せた。
「今、思い出す必要はないでしょう。」
自分に言った。
しかし、一度浮かんだ記憶は簡単には消えてくれない。
それは、王宮の図書室でのことだった。
隣国の使節を迎える前日、私は菫色の細いリボンを髪に編み込んでいた。
母が昔好んだ色だった。
侍女にも太鼓判を押され、珍しく少しだけ、誰かに気づいてほしいと思っていた。
カイエンは、やはり気づかなかった。私の隣を通り過ぎ、窓の外の騎馬訓練を眺めていた。
いつものことだった。期待していなかった。
少なくとも、そう思っていた。
資料を探しに部屋の奥へ入ると、ヴィルヘルムが窓際で本を読んでいた。
私が脚立へ手を伸ばした時、彼が顔を上げた。
澄んだ碧眼が一瞬だけ私の髪に止まる。
「今日の髪は、よく似合っています。」
それだけだった。
彼はすぐに本へ視線を戻した。私は礼を言い、何事もなかったように資料を探した。
けれど、その日一日、菫色のリボンが少しだけ軽く感じられた。
誰かが見てくれた。
私がいつもと違うことに気づいてくれた。
――たったそれだけのことが、嬉しかった。
だから、今も覚えている。
そして、覚えている自分に腹が立つ。
その人は、私を断罪する書類を持っていた。
王家への詐称疑惑。貴族籍の剥奪。国外追放。
私の逃げ道を塞ぐ言葉を、あの人は誰より正確に並べた。
――髪を褒めたことと、私を斬る書類を整えたこと。
どちらも同じ人がした。
片方だけを忘れることはできない。
私は長い髪を一つにまとめ、昨日ナディアにもらった紐で結んだ。
「あなたが褒めた髪は、今日なくなりますからね。」
鏡のない部屋で、誰もいない空間へ告げる。
「少しでも惜しいと思うなら、ざまあみろ。」
言ってから、少しだけ気分がよくなった。
非常に子どもっぽい。
だが、国外追放された四日後くらい、少々子どもっぽくても許されるだろう。
私は小銭袋と部屋の鍵を確認し、扉の前の椅子をどかした。
今日の目的は、過去への意趣返しだけではない。生活費の確保である。
そこは忘れてはいけない。
赤い壺亭の食堂には、すでに数人の旅人がいた。
私は黒パンと野菜のスープを頼み、先に代金を払った。
昨日より、硬貨を出す手が少しだけ自然になっている。
――人間は慣れる。
王宮から追放されることには慣れたくないが、自分で朝食代を払うことには早く慣れたい。
宿の主人が、私の背中へ垂れた髪を見た。
「昨夜言っていたが、本当に切るのか?」
「はい。髪を買い取ってくれる理髪店をご存じですか。」
「東通りのロゼの店だな。切る腕もいいし、かつら職人とも取引している。」
「女性一人でも問題ありませんか。」
「店主も女だ。口は少し悪いが、腕と勘定は確かだよ。」
腕と勘定が確か。
重要である。
「東通りの、どの辺りでしょう。」
主人はパン屋と薬屋を目印に、道順を教えてくれた。私は忘れないよう、頭の中で三度繰り返す。
「それから。」
主人は少し声を落とした。
「切った髪の値段は長さだけじゃなく、傷み具合と色で決まる。最初に値段を聞きな。切ってからでは戻せないからな。」
「ありがとうございます。」
見知らぬ街で、今日もまた実用的な親切をもらった。
私はスープを飲み干した。温かいものが胃に入ると、決断が少し現実になる。
髪を切る。
売る。
その金で、次の暮らしへ進む。
私は気合を入れて立ち上がった。
東通りの理髪店は、淡い緑の扉が目印だった。
窓辺には小さな花鉢が並び、硝子はきれいに磨かれている。
扉を開けると、軽やかな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい。」
奥から現れたのは、四十代ほどの女性だった。
黒髪には少し白いものが混じっている。背筋は伸び、濃い赤の口紅がよく似合っていた。
彼女は私の顔より先に、髪を見た。
職業人の目だ。
「切りたいの?」
「はい。」
「毛先を整えるくらい?」
「いえ、耳の下まで。」
女性の眉が上がった。ごほん、と一度咳ばらいをする。
「もう一度聞くわ。どこまで?」
「耳の下までお願いします。」
顎に手を当てしばらく考えた後、彼女は私の髪を持ち上げ、長さと艶を確かめた。
「腰まであるのよ。」
「承知しています。」
「今日、嫌なことでもあった?」
「嫌なことがあったのは四日前です。」
「では、勢いではないのね。」
「四日考えました。」
正確には、実用上の問題は昨日からしか考えていない。
だが、髪に結びついた人生については、ずっと考えてきた気もする。
「切った髪を売りたいのですが、買い取っていただけますか。」
「状態を見て、うちからかつら職人へ回せるわ。ただし、先に査定する。」
「お願いします。」
話がとても早い。信頼できそうだ。
女性はマダム・ロゼと名乗った。それから私を鏡の前へ座らせ、髪をほどく。
ナディアにもらった紐は、丁寧に畳んで台の上へ置いてくれた。
櫛が、頭頂から毛先まで通る。長い髪が椅子の背を渡り、座面の下あたりまで垂れた。
「よく手入れされているわ。」
「毎日、かなりの時間を使っていました。」
「香油も上等なものね。」
「今後は買えません。」
「だから切る?」
「それも理由の一つです。」
ロゼは髪をいくつかの束に分けて傷みを調べ、それから長さを測って紙へ数字を書きつけた。
「この長さを残して切るなら、これくらい。」
提示された額は、数日分の宿代と食費にはなる。
宝石やドレスほどではない。だが、十分だった。
「理髪代と仲介料を引いた受取額ですか。」
ロゼが鏡越しに私を見た。
「違うわ。そこから理髪代を引く。」
「仲介料は?」
「買い手から取る。」
「では、最終的に私が受け取るのは、この額から理髪代を引いた金額ですね。」
「そうね。」
「分かりました。」
切られたあとで条件が変わっても、髪は戻らない。
確認は大切だ。
ロゼは少し笑った。
「失恋で飛び込んできたお嬢さんにしては、随分冷静ね。」
「失恋ではありません。」
「さっき、嫌なことがあったと言ったでしょう。」
「恋を失ったのではなく、婚約と家名と住んでいた国をまとめて失いました。」
ロゼの手が止まった。
「……聞かない方がよさそうね。」
「そうしていただけると助かります。」
「分かったわ。」
彼女は余計な同情を口にしなかった。
ただ、私の髪を扱う手つきが少しだけ丁寧になった。
気遣いが有難い。ここで何を問われても、私には返せる言葉がまだあまりない。
「ところで。」
ロゼが髪を束ねながら尋ねる。
「耳の下というのは、何か理由があるの?」
「洗いやすく、乾きやすく、邪魔にならない長さがよいのです。」
「見た目より実用性ね。」
「はい。」
「では、顔まわりは少し長さを残すわ。完全に揃えると、朝起きた時に好き勝手な方向へ跳ねるから。」
「短い髪にも、そのような問題が。」
「髪は長くても短くても、多少は人間へ逆らうものよ。」
なるほど。
短くすればすべての問題が消えるというわけではないらしい。
それでも、今のままよりはずっと楽になるだろう。
ロゼは髪を根元近くでいくつかの束に分け、紐で固く結んだ。長い髪を商品として傷めず切るためだ。
鏡の中に、見慣れた私がいる。
地味な服には似合わないほど長く艶やかな髪。
――公爵令嬢だった私の、最後の名残。
「まだやめられるわよ。」
ロゼが言った。優しい口調だった。
「切ったあとは、どれだけ後悔しても元の長さには戻せない。」
私はもう一度鏡の中の自分を見た。
十九年間、この顔で生きてきた。
母に認められようとした。父に見てもらおうとした。カイエンの隣にふさわしくあろうとした。
髪も、言葉も、姿勢も、笑い方も、すべて誰かの期待に合わせて整えた。
その期待に沿う未来こそ失ったが、十九年が無駄だったとは決して思わない。
あの頃の私は、あの頃の私なりに必死に生き延びようとしていた。
髪を切るのは、その自分を罰するためではない。
捨てるためでもない。
――これからの私が、動きやすくなるためだ。
私は鏡の中の自分へ、小さく頷いた。
「お願いします。」
ロゼが鋏を持ち上げた。金属が朝の光を返す。
「では、切るわね。」
刃が最初の束を挟んだ。
ざくり。
思っていたより、鈍く重い音だった。
肩が軽くなる。
切り離された束がロゼの手の中へ移った。
それはまだ私の髪なのに、もう私の一部には見えなかった。
ざくり。
二つ目の束が離れる。
首筋へ、冷たい空気が触れた。
ざくり。
三つ目。
背中を覆っていた重みがなくなる。
鏡の中の輪郭が、少しずつ変わっていく。
公爵令嬢らしい優雅さが消え、隠れていた首筋が見える。頬の線がはっきりする。目の強さが、前より目立つ。
最後の束が切り離された時、私は反射的に息を止めた。
軽い。
心許ない。
寒い。
――そして、少しだけ寂しい。
涙が一粒、頬を伝った。私は慌てて拭おうとした。
「動かないで。」
ロゼが言った。
「鋏を持っている時に動く方が危ないわ。」
「すみません。」
「泣くのは構わない。耳を切らせないで。」
非常に現実的な慰めだった。
私は少しだけ笑った。
「気をつけます。」
ロゼは何も聞かず、短くなった髪を整えていった。
耳の下で長さを揃え、顔まわりには少しだけ長さを残し、襟足を軽くする。
細かな髪が、肩を覆う布へ落ちた。
長い髪を切り離す時とは違う、軽い鋏の音が続く。
やがてロゼが布を外した。
「終わり。」
私は鏡を見た。
知らない女がいた。
濃い赤褐色の髪は耳の下で軽く揺れている。
顔が小さく見える。目元はまだ少し腫れている。
けれど、弱そうには見えなかった。
むしろ、何かを睨み返しそうな顔である。
「……強そうです。」
「第一声がそれ?」
「一番必要なことです。」
ロゼは声を上げて笑った。
「似合っているわ。長い髪の時より、ずっと顔が見える。」
――顔が見える。
その言葉が胸に残った。
今までの髪が私を隠していたとは思わない。
けれど、髪を褒められることは多くても、私自身を見てもらえたと感じることは少なかった。
鏡の中には、髪ではなく私の顔がある。
私は短くなった毛先へ触れた。
軽い。
慣れない。
――でも、嫌ではない。
「ありがとうございます。」
「その顔なら、大丈夫そうね。」
「はい。大丈夫にします。」
以前、通りで出会った婦人へ答えた言葉が自然に出た。
ロゼは優しく少し目を細める。
「そう。では、代金の話をしましょう。」
泣いた直後でも、勘定は必要だ。
私は椅子から立ち上がった。
切った髪はロゼがその場で買い取ってくれた。正確には、提携するかつら職人へ渡す分を彼女が立て替える形らしい。
長い束が、白い布の上に並べられている。
――濃い赤褐色。艶がある。先ほどまで私の背中にあった髪。
私は、それをしばらく見つめた。
手放したくないわけではない。ただ、十九年分の時間があまりにも小さくまとまって見えた。
「持ち帰る?」
ロゼが尋ねた。
「いいえ。売ります。」
「本当に?」
「はい。そのために切りました。」
ロゼは査定額から理髪代を引き、硬貨を並べた。私は一枚ずつ数える。
数日分の食事と宿代。
あるいは、新しい家の初期費用の一部。
髪は思い出ではなく、これからの暮らしへ形を変えた。
私は受取証へ、レベッカとだけ署名した。
当然名字は書かない。私はもう公爵令嬢ではない。
「これで取引成立ね。」
「はい。」
私は硬貨を小袋へ入れた。
ロゼが切った髪を布で包む。濃い赤褐色が、白い布の中へ隠れていく。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
私は包みに向かって、心の中で言った。
今まで、ありがとう。
あなたがあったから、私は何度もきちんと立てた。
でも、これからは軽い方がいい。
「さようなら。」
気付くと声に出てしまっていた。
ロゼは何も言わなかった。ただ、包みを扱う手を少しだけゆっくり動かした。
店を出ると、まだ冷たい風が直接首筋へ触れた。ぞわりと肌が粟立つ。
「寒い。」
思わず声が出た。
自由とは、少し寒いものらしい。
私は外套の襟を引き寄せた。
歩くたび、短い髪が頬へ触れる。そして背中には何も揺れない。
無意識に肩の後ろへ手を伸ばし、そのたびに空を掴んだ。
変な感じだ。
けれど、歩きやすい。
視界も広い気がする。
実際には髪が視界を遮っていたわけではないので、たぶん気分の問題である。
店の窓に映る自分を見た。
地味な服。
丈夫な靴。
短い髪。
公爵令嬢にはもう全く見えない。
それでも、これまでの私が消えたわけではない。
語学も、法律も、計算も、礼法も覚えている。
母に教えられたことも、私自身が努力して得たものも、髪と一緒に切り落としたわけではない。
持っていくものは、私が選べる。
捨てるものも、私が選べる。
それが少し嬉しかった。
そして、ふと思う。
――もしヴィルヘルムがこの髪を見たら、どんな顔をするだろう。
驚くだろうか。惜しいと思うだろうか。
それとも、いつもの無表情で、合理的ですねとでも言うだろうか。
私は短い髪を耳へかけた。
「もう、あなたには関係ありません。」
通りの端で、一人で言う。
近くを歩いていた老人が、少しだけこちらを見た。私は咄嗟に微笑み、何事もなかった顔で歩き続けた。
私は決して危ない人ではない。
少し人生が大変なだけである。
昼食は市場近くの食堂で取った。
豆の煮込みとパン。安く、温かく、量もある。
私は食べながら、周囲の会話へ静かに耳を傾けた。
手放せるものはすべて手放した。次はその手放して得たもので、生活組み立てていかなければならない。
宿暮らしを続ければ、資金は確実に減る。
市場の場所。治安の悪い区画。職人街の賃金。部屋の家賃。
三泊分はすでに払っているが、その間に、長く暮らせる場所を探さなければならない。
できれば、仕事も。
焦って粗悪な部屋を借りるのは危険だ。
だが、慎重になりすぎて宿代を払い続けるのも危険。必要なのは、相場の確認と現地確認だ。
王妃候補として国の財政を学んだ女が、自分の家賃で破綻するわけにはいかない。
女将が水を足しに来た。
「お姉さん、旅の人?」
「今は宿暮らしですが、部屋か家を探しています。」
「一人で?」
「はい。」
「なら、南の安い区画はやめておきな。東側の方がまだいいよ。」
「どこか信頼できる不動産屋をご存じですか。」
「市場の青い屋根。ローレンスの店ね。雑貨店も併設してるわ。」
女将はそれから腰に手を当て少し考え、付け加えた。
「笑顔は胡散臭いけど、契約書をごまかすほど悪くはない。」
……これは、褒めているのだろうか。
判断に迷う紹介だった。
だが、複数の人から名前を聞ければ、最低限の裏づけにはなる。
「ありがとうございます。明日、行ってみます。」
「今日じゃなくていいの?」
私は自分の体へ意識を向けた。
正直追放されてから、まともに休めていない。
馬車で三日。昨夜、ようやく自分の選んだ寝台で眠った。
今朝は髪を切り、売り、街を歩いた。
頭はまだ動く。
だが、足は少し重い。
「今日は休みます。」
口にすると、少しだけ誇らしい気持ちになった。
以前の私なら、まだ動けると言い張っただろう。
限界まで働くことを、努力だと思っていた。
けれど今は、倒れた時に看病してくれる人はいない。
休むことも、生きるための仕事である。
「それがいいよ。」
女将はあっさり頷いた。
私は食事を終え、赤い壺亭へ戻った。
宿の主人は、私を見るなり目を丸くした。
「本当に切ったのか。」
「はい。」
「ずいぶん変わったな。」
私は少し身構えた。
やはり、長い方がよかったと言われるだろうか。
「似合ってるよ。旅をするにも、その方が楽だ。」
素直な言葉だった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ありがとうございます。」
「部屋の掃除は昼過ぎに入った。椅子も元へ戻しておいたぞ。」
「また扉の前へ置きます。」
「好きにしな。」
主人は笑った。
私は二階へ上がり、部屋へ入った。
内鍵をかける。窓を確認する。それから、椅子を扉の前へ戻した。
万が一に備え安全確保は大切だ。
机に硬貨を並べる。
これまでに得た金額。髪の売却額。昼食代。明日必要になるだろう経費。残額。
紙がないので、頭の中で計算する。
明日は紙と筆記具も買おう。
今後は収支を記録していかなければならない。
次に、不動産屋だ。
希望条件を整理する。
女一人でも安全。内側からかかる鍵。高すぎない家賃。水場がある。できれば、火を使える。
街の中心でなくてもいいから、人目をあまり気にしなくていい場所。
私はそこで少し考えた。
――小さな庭があれば、何か育てられるだろうか。
前世で、狭い場所に鉢を置いていた記憶がある。水をやり、芽が出るのを待つ時間が好きだったと思う。
この世界へ来てから、土は庭師が扱うものだった。
けれど、これからは私が触ってもいい。
畑つきの家。
さすがに贅沢だろうか。
いや。
聞くだけなら無料である。条件の一つとして、伝えてみよう。
私は寝台へ横になった。
枕へ頭を置く。いつもの重みがない。髪を背中から引き出す必要もない。
寝返りを打っても、自分で踏まない。
「楽。」
これは、かなり重要だった。
私は短い髪へ触れた。
まだ少し寂しい。胸の奥には、切った時の鈍い音が残っている。
けれど、後悔はなかった。
公爵令嬢だった私を、切り捨てたわけではない。
あの頃の私は、本当によく頑張った。誰にも見てもらえないと思いながら、それでも立っていた。
だから、もう無理に背負わせなくていい。
ここから先は、今の私が引き受ける。
私は目を閉じた。
短い毛先が、頬へ触れる。軽くて、頼りなくて、新しい感触。
明日は家を探す。
自分で選び、自分で鍵をかけられる場所を。
そのことを考えると、髪を失った寂しさより、まだ見ぬ鍵への期待の方が少しだけ大きくなった。
あの「よく似合っています」という一言を、本当にどうでもいいと思える日は、いつ来るか分からない。
けれど今日は、それでいい。
忘れることより先に、暮らさなければならない。
私は眠りへ落ちる直前、短い髪をもう一度だけ撫でた。
もう、誰かにふさわしい髪ではない。
私が生きるのに、ちょうどよい髪だった。




