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第五話 夜会のドレスを売りました

 知らない街を、私は皺だらけの夜会用のドレスで歩いていた。


 堂々と。

 とにかく、堂々と。


 この格好で真昼間の商業街を歩くことには、何の不自然さもありません、という顔をする。

 ……もちろん、どこからどう見ても不自然である。


 三日間の馬車旅で皺だらけになった銀色のドレス。

 崩れかけた髪。泣き腫らした目。細い踵の靴。

 祭りから帰り損ねた花嫁か、舞台から逃げてきた役者か。


 ――どちらにしても、まともには見えまい。


 八百屋の少年が、林檎を磨く手を止めてぽかんと口を開いている。

 酒屋の女主人が、私の顔とドレスを交互に見てぎょっとする。

 荷車を引いていた男は、すれ違ったあとで二回振り返った。


 分かる。

 私でも見る。


 だから怒りはしない。

 ……ただし、できればもう少し控えめに見てほしい。


 こちらは今、人生の立て直し初日である。決して見世物ではない。


 私はドレスの裾を持ち上げ、通りの看板を読んだ。

 文字は分かる。エルセリアとこの隣国アインシュヴァルドは、公用語がどちらもアストリア語だ。


 アストリア語はこの世界で最も使用する国の多い国際言語であるが、そもそも私の祖国は百年前の独立戦争まではこの国の一部だった。

 だからこそ文化、地理、商慣習、法体系から最近の社交界の流行まで、隣国に関するあらゆる内容は王妃教育で徹底的に叩き込まれている。


 問題ない。

 街での売買は初めてだが、きっといける。


 まさか、王妃教育で学んだことが、自分の装身具を売るために生きるとは。人生とは奥深い。


 私は腕を組み、うんうんと頷いた。

 近くを通った親子連れが「あれなに?」「見ちゃだめよ。」と会話する声はもちろん聞こえている。


 まずは、宝飾品を買い取る店だ。

 高級店では必ず身元を尋ねられるだろうし、安すぎる店では買い叩かれる。

 評判がよく、鑑定のできる中規模の商会が望ましいだろう。


 しかし問題は、その店がどこにあるか分からないことだ。


 地図はない。

 土地勘もない。

 そして私は、かなり目立つ。


 前世なら携帯端末で検索できた。今の私にあるのは、長すぎる髪と、売却予定の装身具と、王宮仕込みの観察眼だけである。


 よし。

 人に聞こう。


 私は周囲を見回した。


 通りの角に、買い物籠を提げた婦人がいる。

 四十代半ばほどだろうか。エプロン姿で、周囲の店主たちと親しげに挨拶を交わしている。この街の住人に違いない。

 少なくとも、観光客を狙う客引きには見えない。


 私は婦人へ歩み寄り、できるだけ柔らかく穏やかな声を装う。


「失礼いたします。」


 婦人が振り返り、あきらかに目を丸くした。

 まず私の顔を見る。次にドレス。もう一度、顔。


 ……非常に正直な視線だった。


「まあ。どうしたんだい、その格好。」


 これはもっともな質問である。


「少々、人生に予定外の変更がありまして。」


「少々には見えないねえ。」


「私も、そう思います。」


 婦人の口元がわずかに緩んだ。

 私もそれに小さく微笑み返し、少しだけ声を落とす。


「この辺りで、宝飾品を適正な値で買い取る店をご存じありませんか。」


「宝飾品?」


「ええ。急ぎ、手放したいものがあります。」


 婦人は私をじっと見つめた。

 事情を尋ねられるかと身構えたが、結局彼女は何も聞かなかった。


「それなら、あの角を曲がって二軒目のカルナリア商会だね。店は少し堅いけど、鑑定はまともだよ。」


「ありがとうございます。」


「最初に出された値で売るんじゃないよ。若い女一人だと分かれば、少しは下げてくる。」


「心得ました。」


「それから。」


 婦人は少し迷い、私の足元を見た。


「転ぶ前に、その靴も替えた方がいいね。」


「……最優先事項に加えます。」


 婦人はとうとう笑った。朗らかな明るい笑い声。


「お嬢さん、大丈夫かい?」


 その問いに、思わず喉が詰まった。


 ――大丈夫です。

 いつものように、そう答えかけた。


 私はカイエンとの婚約から七年間、いや、母が亡くなって前世の記憶を取り戻してから十二年間、何を尋ねられても大丈夫だと言ってきた。


 疲れていません。

 問題ありません。

 つらくありません。


 そう答えるのが、立派な公爵令嬢だと思っていた。


 けれど今の私は、もはや公爵令嬢でも王子の婚約者でもない。

 それどころか、家も、お金も、家族もない。

 そして、このまったく知らない街で、これから装身具と服を売る。


 ――ここで平気なふりをしても、何の役にも立たない。


「今は……あまり。」


 私は正直に答えた。

 親切そうな婦人の顔が、少しだけ曇る。


「でも、大丈夫にします。」


 口にしてから、不思議と胸へ落ちた。


 大丈夫ではない。

 だから、大丈夫にする。

 今の私には、その方が正しい。


 婦人は静かに微笑んで、ゆっくり頷いた。


「そうかい。なら、まずは靴を替えな。」


「はい。」


「それと、日が落ちる前に宿を決めるんだよ。」


「ありがとうございます。」


 私は大げさにならないように気を付けながら、礼をした。

 婦人は「丁寧な子だねえ。」と呟きながら、人波へ戻っていく。

 その背を見送り、私は今度こそ小さく息を吐いた。


「大丈夫にします。」


 もう一度、呟いた。


 悪くない。

 今日の標語にしよう。



 カルナリア商会の入口には、頑丈な扉と鉄格子の窓があった。

 華美ではないが、店内は清潔だ。

 壁際には小さな金庫。カウンターの奥には、秤と拡大鏡と鑑定用の石。

 少なくとも宝飾品の扱いには慣れていそうなのが、私でも分かる。


 扉を開けると、まず眼鏡をかけた中年の店員が、私を見るなりぎょっとした顔で眉を上げた。


「ご、ご用件は?」


「買取をお願いいたします。」


「……品物は?」


「首飾りと、耳飾りを一組。」


 私は首元へ手をやった。

 そこには、細い銀鎖の中央に淡い青の宝石が一つ。


 カイエンの名で贈られた首飾りだった。十六歳の誕生日に届いたものだ。

 添えられていたカードには、側近の筆跡で短い祝いの言葉が書かれていた。


 カイエンが選んだのではないと、その時にはもう気付いていた。

 それでも当時の私は、少し嬉しかった。


 私を婚約者として覚えていた証のように思えたから。


 今から売るのは、宝石だけではない。

 あの時の、ささやかな期待も一緒だ。


 私は留め金を外した。

 首が軽くなる。


 次に、細い銀の耳飾りを外した。

 これは王宮へ上がるようになった頃、自分のために選んだものだった。

 派手ではなく、どんな衣装にも合わせやすい。

 私が自分の好みで持っていた、数少ない品だ。


 だから少し迷った。


 だが、思い出は腹を満たさない。


 耳飾りは、宿代になる。

 首飾りは、当面の生活費になる。


 今は、その方が重要だ。


 私は二つをカウンターへ置いた。

 店員は手袋をつけ、まず慎重に首飾りを光へかざした。

 目つきが変わる。


「これは、どちらで?」


「贈り物です。」


「贈り主を伺っても?」


「お答えできません。」


「……由来の確認ができない品は、当店でも扱いが難しく。」


「盗品を疑っておられるのですね。」


 店員はしばらく黙し、否定しなかった。

 まあ当然の警戒だろう。


「どうか首飾りの留め金をご覧ください。エルセリア王都の工房印があります。裏面に製造番号も刻まれているはずです。」


 こちらの説明に店員が拡大鏡を留め具に当てる。

 小さく声が漏れた。


「耳飾りには、同じ工房の販売印があります。贈答品ではなく、私物です。」


「……よくご存じですね。」


「私の所有物ですので。」


 私はまっすぐ店員を見た。できるだけ余裕があるように、軽く腕を組む。


「事情はお話しできません。ただし、必要であれば、私は所有権に関する誓約書へ署名します。身元の記録も、王家や貴族家へ照会しないという条件なら残します。」


「随分と条件が多いようですが。」


「売り急いではいますが、考えずに売るつもりはありません。」


 店員はしばらくじっと私を見つめた。


 皺だらけの夜会用ドレス。

 乱れた髪。

 腫れた目。


 だが、言葉と所作は貴族のもの。


 彼の頭の中に、いくつもの推測が浮かんでいるのが分かった。


 家出。

 駆け落ち。

 没落。

 破談。


 ふ。惜しい。


 複数正解である。


「鑑定いたします。少々お待ちください。」


「品ごとの査定額を、別々にお願いいたします。」


 店員がまた私を訝しげに見やる。


「一方だけ売る可能性もありますので。」


「……承知しました。」


 彼は品物を奥へ運んだ。

 私はその姿を見送った後、カウンターの前で静かに待った。


 手の中には、まだ出所不明の金貨五枚がある。だが、これは使うには非常にリスクが高い。

 使うなら、生き延びるために本当に必要な時だけ。


 まずは自分の持ち物を、自分の生活へ換える。

 それが今の私の基本方針だ。


 壁の時計が、規則正しく音を立てる。

 店の外では、人々が家路を急ぎ始めていた。


 日没まで、あまり時間はない。


 焦るな。

 急いでいることを、相手に悟らせるな。


 やがて店員が戻ってきた。

 先ほどよりも、態度が明らかに丁寧になっている。


「どちらも、確かな品でした。」


 彼は紙へ二つの金額を書いた。


 首飾り。

 耳飾り。

 合計額。


 ……悪くない。

 むしろ、思っていたより高い。


 最低限の暮らしをしながら節約すれば、きっと一年は暮らせるだろう。


 安堵が顔に出ないよう、私は紙を見つめた。


「手数料は、この金額から引かれますか。」


「はい。鑑定料を含め、こちらの割合を。」


「では、実際の受取額は?」


 店員が別の数字を書く。

 私は即座に計算する。

 ……合っている。

 だが。


「耳飾りの査定が、少し低いようですが。」


「石のない銀製品ですので。」


「細工代が反映されていませんね。工房印の年代から見ても、現在の量産品ではないはずです。」


 店員の眉がわずかに上がった。


「お詳しいですね。」


「身につけていたものですから。」


「こちらも商売ですので。」


「私も、これから生活がかかっています。」


 しばらく、互いにじっと紙を見つめる。

 店員が小さく息を吐き、耳飾りの数字を書き直した。

 少し上がった。


 私は内心で拳を握った。けれど表情には決して出さない。


 王妃教育で培った交渉術を、実践の場で活かすことができた。

 これなら、私でも生きていけるかもしれない。


「こちらで、いかがでしょう。」


「お願いします。」


「二点とも?」


 私は耳飾りを見た。

 公爵令嬢として自由が限られた世界で、自分が選んだ、数少ないもの。

 いつか、買い戻せるだろうか。


 ……分からない。


 それでも、今の私は未来のために売る。


「はい。二点とも。」


 店員は契約書を用意した。

 私は内容を一行ずつ確認する。

 品物の特徴。査定額。手数料。所有権に関する申告。店側が第三者へ身元照会を行わないこと。


 問題ない。

 しかし、署名欄で手が止まった。


 レベッカ・イザベル・フォン・エルヴェシア。


 昨日までなら、そう書いていた。

 今、その名を書く資格があるのか分からない。いや、きっともうない。


 私はペン先を紙へ置いた。


 レベッカ。


 ただ、それだけを書いた。


 短く、ひどく心許ない。

 けれど、今の私に書けるのはそれしかない。


 店員は私の署名を見ても特に何も言わず、受領証と革袋を差し出した。

 私は硬貨をその場で数えた。

 合っている。


 渡された革袋は、ずしりと重かった。

 そして、首元と耳元は寒々しいほどに軽くなった。


 その代わり、手の中には一年分の時間がある。


 食事。

 宿。

 服。

 次の仕事を探すまでの猶予。


 爵位よりも、婚約者という肩書きよりも、今はこの硬貨の方が私を守ってくれるに違いない。


「ありがとうございました。」


「こちらこそ。」


 店員は少し迷ってから、声を落とした。


「この先を右へ曲がると、ナディアという女が古着屋を営んでいます。旅装も靴も揃う。その格好では、宿へ行くまでにも目立つでしょう。」


「痛感しております。」


「暗くなる前にお行きなさい。裏通りには入らないように。」


「ご忠告、感謝いたします。」


 私は店を出た。

 今日二人目の、見知らぬ人からの親切だった。


 親切には、まだ少し身構える。

 それでも、すべてを拒む必要はないことは分かってきた。

 受け取ってよいものを、自分で選べばいい。



 古着屋は、店先からして賑やかだった。

 外套、帽子、スカート、作業着。

 色も形もばらばらな服が、軒先に所狭しと吊られている。


 店へ入ると、短い黒髪の女性がこちらを振り返った。

 三十代前半ほどだろうか。大ぶりの耳飾りと、よく動く黒い目が印象的だった。


 彼女は私を上から下まで眺め、感心したように言った。


「ずいぶん派手な迷子が来たねぇ。」


 たしかに、人生の迷子ではあるな。

 私は少しだけ笑った。笑えたことに自分でもほっとした。


「ナディアさんですか。」


「そうだけど。誰に聞いた?」


「カルナリア商会の方に。」


「なるほど。宝石を売って、次は服ってわけだ。」


 察しがよい。

 嫌いではない。


「目立たず、動きやすく、洗いやすい服が必要です。」


「予算は?」


「一式を揃えられる程度には。ただし、贅沢はいたしません。」


「下着、靴、外套、替えのシャツ。荷物袋もいるね。」


「はい。それから、このドレスと靴を買い取っていただけますか。」


 それを聞いてナディアの目つきが商人のものへ変わった。


「まず、品を見せてもらおうか。」


 店の奥には、布で仕切られた着替え場所があった。

 ナディアが私の背中を見る。


「一人で脱げる?」


「もちろんです。」


 答えたあと、私はすぐに背中へ手を回した。

 しかし、留め具になかなか指が届かない。


 いや、正確には届く。

 だが、その先に結んである紐が外せない。さらに手で探ると、内側にも留め具があることに気付いた。


 一体どういう構造なのだろう。

 昨日まで毎日着ていたのに、私は自分のドレスの脱ぎ方を知らない。


 貴族令嬢の服は、侍女がいることを前提に作られている。

 着る時も。

 脱ぐ時も。

 整える時も。


 一人では完成しない。


「……訂正します。」


「うん。」


「一人では無理です。」


「だろうね。」


 ナディアは笑いを堪えながら、私の背後へ回った。

 これは大分恥ずかしい。最初から手伝ってもらうようお願いしていれば良かった。


「手伝おう。」


「お願いします。」


「礼はいいよ。その代わり、動かないで。」


 背中の留め具が、一つずつ外される。

 固く締められていた紐が緩む。


 胸へやっと空気が入った気がした。


「……息がしやすい。」


「今まで息をしてなかったのかい?」


「最低限でした。」


「貴族ってのも大変だねえ。」


 何気ない言葉に、思わず息を呑む。

 ナディアの手が、一瞬止まった。


「やっぱり、お嬢様だった?」


 私は少し考えた。


「昨日までは、そのようなものでした。」


「今日は?」


「無職の女です。」


 ナディアが吹き出した。


「そこまで急に下がる?」


「私も驚いています。」


「じゃあ明日は?」


「少なくとも、仕事を探せる身にはなると思います。」


「いいね。話が早い。」


 最後の留め具が外れた。

 重いドレスが肩から滑り落ちる。

 銀色の布が、足元へ広がった。


 私は薄い肌着姿で、そのドレスを見下ろした。


 数日前まで、これを着て成婚時期を発表されるはずだった。

 職人たちは、何度も私の体へ合わせて布を調整した。侍女が数日かけて選び抜いた真珠を使い、王家の色を控えめに刺繍へ入れた。


 ――このドレスは、未来の王妃が着る衣装として、完璧に仕立てられていた。


 そして、それを着た夜、私は婚約を破棄された。

 悪女にされ、罪人にされ、国を追われた。


 ――完璧な衣装は、何一つ私を守らなかった。


 けれど、このドレスが悪いわけではない。

 私も同じだ。


 あの夜、何もできなかったからといって、七年間の私が無価値だったわけではない。

 ただ役目を終えただけだ。


 私はしゃがみ、銀色の裾へ触れた。


「お疲れさま。」


 小さく言った。


 ナディアは聞こえたはずだが、何も尋ねなかった。

 その沈黙がありがたかった。


「売ります。」


 私はすっと立ち上がった。


「できるだけ、高くお願いします。」


「急に現実へ戻ったね。」


「生活がかかっていますので。」


「任せな。」


 ドレスを置いた後、ナディアが持ってきたのは、生成りのシャツ、濃い茶色のスカート、丈夫な上着、灰色の外套だった。


 布は少しざらついていた。装飾も特にない。

 だが、非常に軽かった。


 腕が上がる。

 腰を曲げられる。

 自分一人で着られる。


 これはとても素晴らしい。

 私はその場で膝を曲げ、腕を回した。


「何してるんだい?」


「可動域の確認です。」


「服を買う客が、その言い方をしたのは初めてだよ。」


「問題ないようです。よく動けます。」


「それはよかった。」


 次に、丈夫な革靴へ足を入れる。

 踵が低く、靴底が厚い。地面を踏んでいる感覚があった。


 私は数歩歩き、軽く足踏みする。


「走れそうです。」


「何から逃げる気?」


「……人生には、いろいろありますから。」


「便利な言葉だね、それ。」


「最近、よく使います。」


 ナディアは声を上げて笑った。


 鏡の前に立つ。

 そこにいたのは、見慣れない女だった。


 地味な服に疲れた顔。

 まだ不釣り合いに長く、複雑に結われた髪。


 公爵令嬢には見えない。少なくとも、王妃候補にはまったく見えない。


 ――それでも、鏡の中の私はきちんと立っていた。


「変ではありませんか。」


「服はね。」


「服は?」


「髪が派手すぎる。頭だけ夜会から抜け出せてないね。」


 的確である。


「明日、切ります。」


 口にした瞬間、胸が少しだけ痛んだ。

 ナディアが鏡越しに私を見る。


「思い切るね。」


「手入れをする人も、時間もありません。それに。」


「それに?」


「売れるでしょう。」


「あんた、たくましいねえ。」


「そうでなければ困ります。」


 ナディアはドレスと夜会用の靴を、一つずつ丁寧に確認した。

 それぞれの買取額を示し、そこから新しい服一式の代金を引く。私はまた即座に計算する。


「外套の袖口に、少し擦れがあります。」


「中古だからね。」


「その分は下がりませんか。」


「さっきまで夜会服を着ていたお嬢様が、値切るのかい?」


「先ほど宝石店でも値切りました。」


「おっと、それは筋がいいね。」


 少し下がった。

 私は満足して頷いた。


 ナディアは呆れたように笑いながら、二つの小さな布袋を用意した。


「金は分けて持ちな。全部を一つの袋に入れるのは駄目だ。」


「一つは服の内側へ縫いつけます。」


「縫える?」


「はい。」


「なら、今やっていきな。」


 私は糸と針を借り、スカートの内側へ小さな隠し袋を簡単に縫いつけた。

 そこに袋から金貨を取り出し、差し込む。


 いつ何時どんなことが起こるか分からない。

 自分の身を守るためにも、これはここに隠しておいた方がいいだろう。


 そして、金貨の入っていた袋に買取で得たまとまった額を入れ、小銭は腰の袋へ分けた。


 自分で稼いだ金。

 正確には労働は伴わないが、お金に換えたのは私だ。何も差し支えない。


「宿は決まってるのかい?」


「これから探します。」


「なら、『赤い壺亭』へ行きな。ここを戻って、パン屋の角を左だ。」


「安全ですか。」


「女の一人客も泊まる。主人夫婦は口が堅い。部屋は狭いけど、鍵は内側からかかる。」


 最後の条件が一番重要だった。身の危険はもはや少ないだろうが、警戒するに越したことはない。


「ありがとうございます。」


「その礼の仕方も直した方がいいね。」


「おかしいですか。」


「丁寧すぎる。腰を曲げるたびに、育ちがいいですって触れ回ってるようなものだよ。」


 私は動きを止めた。

 礼法が身を守らない場面があるのか。

 それは考えたこともなかった。


「どうすれば?」


「軽く頭を下げるだけでいい。肩の力も抜く。歩幅も、もう少し広く。」


 私は鏡の前で試した。

 肩を下げる。顎を少し引く。歩幅を広げる。


 ……どうだろう。


「まだ、お忍びの姫様みたいだね。」


「街で浮きますかね。」


「三日もすれば、少しはましになるんじゃないか。」


「三日。」


「泥道を歩けば一日。」


「なるほど。」


 実践的である。

 王妃教育では教わらなかった。


 ナディアは最後に、余り布で作った髪紐を一つ、袋へ入れた。


「これはおまけ。明日切るまで、その髪をまとめておきな。」


「ありがとうございます。」


 最後に、銀色のドレスを振り返る。

 もう私のものではない。


 それでも、手放したことに後悔はなかった。

 あの服を着ていた私が消えるわけではない。売った金で、今の私が生きるだけだ。

 それでいい。


 店を出ると、ほとんどの人が私を見なくなった。


 地味な服。

 灰色の外套。

 丈夫な靴。

 布袋を持った、疲れた若い女。

 街にいくらでもいる姿だ。


 少し寂しく、そしてかなり安心した。

 服一つで、人の視線はこれほど変わる。


 王宮での私は、いつも見られていた。

 姿勢。表情。言葉。髪。婚約者として正しいか、未来の王妃として美しいか。


 ――今は誰も私を見ていない。


 私は初めて、人目の中で一人になれた気がした。



 赤い壺亭は、教えられた通りの場所にあった。


 丸い赤い壺が描かれた、少し色褪せた看板。

 高級宿ではない。窓は小さい。扉にも細かな傷がある。

 だが、中から煮込み料理の匂いがした。


 私は入口の前で立ち止まる。


 ここは、誰かが手配した宿ではない。

 私が選んだ。

 私が代金を払い、私の責任で泊まる場所だ。


 当たり前のことが、ひどく大きく感じられた。


 扉を開ける。

 温かな空気が頬へ触れた。


 カウンターの向こうから、恰幅のよい男が顔を上げる。


「いらっしゃい。食事か、宿か?」


「宿を。一人です。」


 私は背筋を伸ばしかけ、ナディアの言葉を思い出した。

 肩の力を抜く。

 礼は浅く。


「空いている部屋はありますか。」


「二階の小部屋なら。狭いが、内鍵はある。」


「窓は?」


「中庭向きだ。」


「階段以外に、外へ出る方法は?」


 主人が怪訝そうに私を見る。


「火事の時は、廊下の突き当たりに外階段がある。」


「分かりました。そこをお願いします。」


「……用心深いな。」


「一人旅ですので。」


「食事は別で、この値段。湯はまた別料金になる。」


 私は提示された額を頭の中で換算した。

 相場から大きく外れてはいなさそうだ。


「三泊分、前払いします。湯もお願いします。」


 三日間。

 明日、髪を切る。

 その次に、長く暮らせる場所を探す。


 三日あれば、きっと最低限の見通しを立てられる。


 主人は硬貨を数え、木札の鍵を差し出した。


「食事は一階。湯は部屋へ運ばせる。貴重品は自分で管理しな。」


「承知しました。」


 自分で金を払い、自分で鍵を受け取る。

 それだけのことに、胸の奥が少し温かくなった。


 私はもう、誰かの娘としてここにいるのではない。

 王子の婚約者でも、王妃候補でもない。

 ただの客だ。


 対価を払い、部屋と食事を得る。

 単純で、明確で、安心できる関係だった。


 夕食は、豆と野菜と肉の煮込みだった。

 湯気の立つ皿と、少し硬い黒パン。王宮の料理に比べれば、もちろん質素である。


 だが、一口食べた瞬間、体の奥がほどけた。


 温かい。

 味が濃い。

 おいしい。


 自分で選び、自分で払った、私の食事。

 その事実が、何よりの調味料だった。


 私は急いで食べそうになるのを抑え、ゆっくり噛んだ。

 生き延びるためには、胃も大切にしなければ。


 食後、部屋へ運ばれた湯で三日分の埃を落とした。


 髪を洗うだけで、桶の湯を何度も替えることになった。

 長い髪は、やはり手間がかかる。

 一人で乾かすのも大変だった。

 腕が疲れるし、時間もかかる。


 売れるだろうか。

 ――たぶん、売れる。


 私は濡れた髪を布で挟みながら、現実的に考えた。


 手入れに必要な香油。

 乾かす時間。

 目立つ外見。

 そして、売却価値。


 結論は明らかだった。


 部屋には、狭い寝台と、小さな机と、水差しが一つ。

 私は窓の留め具を確認した。


 扉の内鍵もかける。

 念のため、椅子を扉の前へ置いた。


 少しやりすぎだろうか。

 しかし、この町に着いてまだ一日目だ。間者の可能性は低いとは思うが、用心に越したことはない。


 寝台へ座り、今日残ったものを確認した。


 自分で売った品の代金。

 買った服。

 丈夫な靴。

 三日分の宿。


 そして、まだ売れる長い髪。

 ――十分だ。


 私は髪を手に取った。

 腰まで届く、濃い赤褐色の髪。


 幼い頃から、何度も褒められた。


 公爵令嬢にふさわしい。

 王族の隣に並び立つのに釣り合う。


 そして一度だけ、静かな声で。


 ――今日の髪は、よく似合っています。


 その声を思い出し、私は眉を寄せた。

 今、思い出す必要はない。


 手入れできない美しさより、明日の生活費だ。


 私は髪を背中へ払い、寝台へ横になった。

 馬車の座席より、ずっと柔らかい。


 目を閉じる前に、明日の予定を口にした。


「明日は、髪を切ろう。」


 言葉にすると、未来が一日分だけ形を持った気がした。


 明日やることがある。

 なら、私は明日も生きる。


 自分で買った服。

 自分で払った寝台。


 その日、私は初めて、自分が生きるための代金を自分で支払ったのだ。

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