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第四話 御者の奇妙な親切

 その日の昼過ぎになると、馬車は街道脇の休憩所へ入った。


 苔むした小さな井戸と馬のつなぎ場、それに風雨で変色した屋根付きの木製の長椅子があるだけの簡素な場所だった。

 ゆっくりと馬車が止まり、扉の向こうから御者の声がする。


「レベッカ様。馬を休ませます。よろしければ、少しお歩きになりますか。」


 ……また、様。


 私は扉が開くのを待ってから、御者の顔を見た。

 三十代の終わり頃だろうか。日に焼けた顔に、目尻の細かな皺。地味な上着はよく手入れされており、靴にも泥がこびりついていない。

 王家に雇われた御者としては、いかにも親切で真面目そうな男だった。


「その前に、一つお願いがあります。」


「何でしょうか。」


「何度も言いますが、私はもう公爵令嬢ではありません。様づけは本当に不要です。」


 御者は分かりやすく困った顔をした。


「ですが。」


「レベッカ。で結構です。」


「承知いたしました、レベッカ様。」


 ……まったく承知していない。

 私は一旦諦めて、小さく息を吐いた。


「お名前を伺っても?」


「リンツと申します。」


「ではリンツさん。せめて、あなたが様づけをやめられない理由を教えてください。」


 リンツは黙って、へらりと笑って頭を掻いた。額に汗が浮かぶのが分かる。

 なるほど。

 やはり答えられない事情があるらしい。


「……長旅のお客様には、礼を尽くすよう言いつけられておりますので。」


「罪人であっても?」


 リンツの眉がわずかに動いた。


「私がお運びしているのは、罪人ではございません。お客様でございます。」


 返答が異様に早い。どう考えても、自分で選んだ言葉ではない。


 ――最初から、そう扱うよう命じられている。

 そんな言外の雰囲気をひしひしと感じる。


 私は諦めて馬車を降りた。

 そして足が地面についた瞬間、膝からカクンと力が抜けかけてよろめく。

 数時間ほど揺られていただけなのに、足が自分のものではないようだった。


 リンツがすぐに腕を差し出す。


「だ、大丈夫です。」


「しかし。」


「足が少し固まっただけです。どうかお構いなく。」


 私は震える足に力を入れ、自力で姿勢を立て直した。

 まるで生まれたての小鹿のようだ。


 そして、柔らかい地面に足を踏み出した時、また困った。

 夜会用の靴は、決して街道を歩くために作られていない。歩くたびに細い踵が柔らかな土へ沈む。


 歩きにくい。

 非常に歩きにくい。


 第一の換金対象はやはり靴かもしれない。

 いや、靴は売るより先に買い替える必要がある。裸足で古着屋へ行くわけにはいかない。


 私は裾を持ち上げ、長椅子まで歩いた。わずかに震えの残る足と、土に食い込む踵のせいで、まったく優雅に見えない。


 ――さしずめ、胸を張った鵞鳥というところだろうか。


 社交界の薔薇と言われた私が、今や胸を張った鵞鳥である。

 自分で想像して、少し笑えた。もちろん心の中での空笑いだ。


 馬留の近くで話していた商人らしき男たちが、ぎょっとした顔でこちらを二度見する。

 無理もない。

 真昼の街道に、しわだらけの夜会用ドレスを着て、鵞鳥のように歩く女がいる。

 むしろ見ろと言っているようなものである。


 リンツは馬に水を飲ませ、蹄と車輪を手早く確認した。

 それから私のところへ、革袋に入れた水を持ってくる。


「こちらをどうぞ。」


「ありがとうございます。」


 水を一口飲み、もう一度考える。


 王宮で支給されたものより上等な食料。

 厚手の、一目で安物ではないと分かる毛布。

 忍ばされた金貨。

 そして、この罪人に対しては、あまりにも丁寧すぎる御者。


 ――だめだ。

 やはりそのままにしておくには不可思議すぎる。


「……今夜は、どこまで進む予定ですか。」


「本日はウィニアの町まで参ります。日暮れ前には到着できるかと。」


「宿は?」


「手配されております。」


「明日も?」


「はい。」


「もしや、目的地に到着した後もですか?」


 リンツが一瞬だけ詰まった。


「……はい。」


「そもそも、私はどこまで護送されるのでしょうか。」


 単に国外追放ならば、国境を越えてすぐに放り出されても文句は言えない。

 それとも、私一人ではそうそう国へ戻れない距離まで送る必要があるのか。


「……先に決められた場所までお連れする予定でございます。」


「なるほど。私には教えていただけないのですね。」


 それもそうか。

 罪人には、知らぬ場所で野垂れ死ぬ権利はあるが、知る権利はない。

 まあ、それは適当な権利と言えるだろう。


 私はしばらく考えを巡らせ、嘆息しながら水袋の口を閉じた。


「目的地は教えられないのに、宿の手配はあるとは、なんとも不可思議な処遇ですね。」


「……護送の行程に必要な手配でございます。」


「誰が手配を?」


「…………王室でございます。」


 聞くたびに、答えるまでの沈黙が長くなっていく。

 断罪も追放ももちろん初めての経験ではあるが、これはさすがにおかしい。


「王室が、財産を一切持たせずに追放した罪人へ、わざわざ上等な食事と金貨を?」


 リンツの表情が固まった。


 なるほど。

 どうやら彼は金貨については知らなかったらしい。

 ということは、あの包みを用意した別の協力者も王宮内にいた、と。


「金貨が入っていることは、あなたはご存じなかったのですね。」


「……私から申し上げられることはございません。」


「もう今ので十分です。」


 これが尋問の授業なら、教師から褒められたかもしれない。

 実生活でまったく役立ってほしくはなかった技術だ。


 リンツは見るからに狼狽していた。

 悪い人間ではないのだろう。むしろ、秘密を守る仕事には向いていないほど正直な人に見える。


 ――だからこそ、警戒する必要がある。


 善良な人間が、善良な目的のためだけに働かされているとは限らない。

 命令した者の本当の目的までは、もしかするとリンツ自身も知らないかもしれない。


「今夜の宿は、利用しません。」


「えっ。」


「馬車で休みます。」


 リンツの顔色が変わった。


「いけません。まだ春先でございます。夜は冷えます。」


「毛布があります。」


「馬車内の席は寝台とは違います。必ずお体を痛めます。」


「承知しています。」


「食事も、湯も。」


「食事は必要です。代金が分かるなら、後で返します。」


「そのようなことを申し上げているのではございません。」


 リンツの声が少しだけ強くなった。

 私は静かに視線を上げ、彼を見やった。

 リンツは慌てた様子ですぐに帽子を取り、頭を下げる。


「し、失礼いたしました。」


「いいえ。心配してくださっていることは分かります。」


 彼に、おそらく何の悪意も計略もないだろうことは分かっている。

 ただ、私の体調や安全を案じているのだろう。


 昨日までの私にとって、人の親切や気遣いは確かに受けて当然のものだった。

 それが上に立つ者の礼儀だったから。

 公爵令嬢として、基本的に向けられた善意を疑うのは失礼であり、差し出された手を取るのが正しいと教えられてきた。


 しかし昨夜、私の人生は、その常識ごと信じていた人々の手で綺麗に切り捨てられた。


「リンツさん。」


 私は少し迷いながら言葉を選んだ。


「私は今、自分で決められることが、ほとんどありません。」


 婚約を破棄された。家名を奪われた。名誉も汚された。

 国を出る時刻も、通る道も、乗る馬車も何一つ選べず、身の支度もさせてもらえないまま急かすように追い出された。


「だから、少なくとも今夜どこで眠るかくらいは、自分で決めたいのです。」


 リンツは口を結んだまましばらく黙っていた。手の中で帽子が歪んでいる。

 宿を手配した者への説明か、私への説得か、揺れているのが分かる。

 やがて、彼は苦しそうに渋々といった様子で頷いた。


「承知いたしました。」


「……ありがとうございます。」


「ただし、ご体調を崩された場合は、私の判断で宿へお連れさせてください。」


「分かりました。」


「約束していただけますか。」


「はい。約束します。」


 リンツはまだ納得していない顔だった。

 それはそうだろう。私自身も、自分の判断が合理的だとはまったく思っていない。

 それでも、その時の私には必要だった。


 誰かが整えたであろう道から、一度だけでも降りることが。



 夕暮れ前、馬車はウィニアの町へ着いた。


 リンツが止めたのは、街道沿いでもひときわ立派な宿だった。

 白い壁。丁寧に磨かれた窓。入口には季節の美しい花々が飾られ、宿の主人らしき男と数人の従業員が、緊張した様子で私たちの到着を待っていた。

 どう見ても、罪人が護送途中に泊まっていい宿でも、罪人の客に対する態度でもない。


 ――怪しすぎる。

 むしろここで私が怪しまないと思われていたら、甚だ遺憾である。


「お待ちしておりました。」


 主人は私を見ると、深々と頭を下げた。予約の名を確かめることすらしない。

 もう、それに驚くこともない。


「お部屋には湯を用意しております。お食事も、すぐに。」


 ――温かい湯。満足な食事。快適な寝台。


 全身が、疲れたと訴えていた。昨夜からまともに眠っていない。

 髪は乱れ、肌は冷え、ドレスの中まで旅の埃が入り込んでいる。

 温かい湯に浸かり、このまま柔らかな寝台へ横になれたら、確かにどれほど楽だろう。


 私は扉の向こうに見える暖炉の火を見やった。

 静かにゆらめく炎は、あまりにも親切そうだった。


 ――だからこそ、嫌だった。


「申し訳ありませんが、今夜は泊まりません。」


 宿の主人が目を丸くした。リンツは口を結んで目を閉じた。


「せ、せめて、お食事だけでも――」


「それはいただきます。」


 生きるために必要なものまで拒むほど、今の私に余裕はない。



 その夜、私は馬車の中で毛布にくるまった。


 結論から言えば、やはりかなり愚かだった。

 夜が深くなるにつれ、気温は容赦なく下がっていった。


 当たり前だが座席は硬い。首が痛いし、腰も痛い。

 足先は毛布を二枚重ねても氷のように冷えた。

 眠りかけては、馬車の小さな軋みで目を覚ます。


 ――自分で選んだ夜だから耐えられる。

 そう思った。


 だが、耐えられることと、良い選択だったことは別である。

 前世で徹夜明けに何度も学んだはずだった。睡眠不足は、人間の判断力を確実に奪う。


 これはまったく自立とは程遠い。

 ただの意地に近い。


 私は寒さに身を縮ませながら、毛布の中で猛省した。

 それでも、その選択が今夜だけは必要だった。

 誰かに用意された寝台ではなく、自分で選んだ不自由の中で眠ることが。


 夜半、小窓の向こうに人影が見えた。

 リンツだった。


 馬車のそばに小さな椅子を置き、外套にくるまりながら座っている。彼は眠っていない。

 きっと私が体調を崩さないか、見張っているのだろう。

 足元には、火の始末をした小さな炭籠が置かれていた。


 私は目を閉じた。


 ――非常に申し訳なかった。


 けれど、今さら宿へ入ると言うこともできなかった。それだけはどうしてもしたくなかった。

 今さら間者の心配をしているわけではもちろんない。


 食事を手配し、宿を手配し、金貨を用意したであろう人間に、私は思いどおりにはできないと、そう示してやりたかった。


 ――ただの子どものような意地張りである。

 そして、それに他人を巻き込んだ。


 私の自立への道は、どうやら全身の痛みと他人を煩わせることから始まるらしい。

 まったく格好よくない。


 いや、むしろとても格好悪い。



 翌朝、私は馬車から降りた瞬間、腰を押さえた。


「……痛っ。」


 リンツが何も言わずにこちらを見る。


「言いたいことがあるなら、何でも仰ってください。」


「……ございません。」


「顔には書いてございます。」


 思わずそっと顔を逸らした。


「本日は、どうか宿にお泊まりください。」


「検討します。」


「お願いいたします。」


 リンツは疲れて消耗しながら、けれども深々と頭を下げた。

 これはもう、完全に私が悪い。


「……昨夜は、ご迷惑をおかけしました。」


「いいえ。」


「眠れなかったでしょう。」


「仕事でございますから。」


「……そういう言い方は、ずるいですね。」


 そこでリンツは少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。


 彼は昨夜のことをまったく責めなかった。

 恩着せがましいことも、もちろん言わない。

 ただ、私に朝食のパンといくつかの果物を渡し、温かい飲み物を用意してくれた。

 普通、罪人の令嬢の我が儘にここまで付き合わされれば、態度が硬化してもおかしくないのに。

 リンツの親切は、やはり奇妙だった。


 命令なのか。

 彼自身の意思なのか。


 たぶん、両方なのだろう。


 その日私は、リンツへ行程を細かく尋ねた。

 次の休憩所。水場。予定されている宿のこと。国境までの距離。検問での手続き。


 彼は答えられることには、すべて丁寧に答えた。そして答えられないことには、非常に困った顔で黙り、手元を所在なさげに彷徨わせた。

 実に分かりやすい。


 私は少しずつ、この御者を信用してよい範囲を決めていった。

 馬車の扱い。道の選択。食料と水。身の安全。

 そこまでは信用していいだろう。

 しかし、この旅を用意した者の意図までは、絶対に信用しない。


 人を信じるか、信じないか。そんなふうに無理矢理二つへ分けなくてもよいのかもしれない。

 信じられる部分だけ信じる。分からない部分は保留する。それでいい。

 それは、昨夜までの私にはできなかった考え方だった。



 三日目の昼過ぎ、馬車は国境へ着いた。


 十年前の戦火の名残か、見渡せるかぎり長く続く、石造りの高い塀。重厚な鉄の門。隣国アインシュヴァルドの軍服を纏い、槍を持った兵士。

 しかし、その門の向こうには、当たり前にエルセリアと同じような街道と、同じような空が続いていた。

 ――当たり前か。百年ほど前には、元々同じ国だったのだ。


 しかし、私はこれまで祖国を出たことはなかった。だからこそ、国境とは、もっと何か劇的なものだと思っていた。

 一歩越えれば、空の色が変わるような。

 いや、さすがにそれはないか。


 書類を確認した兵士が、事務的に告げる。


「通行を認める。」


 馬車が動き出した。


 この先が、隣国であり大国。

 アインシュヴァルド。


 ――門を越えた。


 風の冷たさも、車輪の音も変わらない。

 けれど、私は分かった。


 ――今、私は生まれた国の外へ出たのだ。


 自分で出ていくのではなく、追い出された。隣国へ、捨てられた。

 その事実は、決して綺麗な言葉で飾ってはいけない。

 胸は確かに、小石を詰めたように痛んだ。

 それでも、結局涙までは出なかった。


 窓の外を見やる。

 街道脇に、名前は分からないが、小さな黄色い花が咲いていた。エルセリアの道でも何度か見た花だった。


 国境のこちら側にも、この花は咲くらしい。

 そんな当たり前のことに、なぜか少しだけ救われた気がした。



 その日の夕刻に、馬車は国境付近から続いていた森を越え、街へ入った。リンツによれば、この付近では比較的大きな街らしい。

 石造りの建物。赤茶色の屋根。少し聞き慣れない訛り。

 行き交う人々の服装も、建物や看板の様式も、よくよく観察すればエルセリアとは少しずつ違う。


 王妃候補だった頃なら、人々の仕草や口調、建築様式まで細かく観察しただろう。

 しかし今の私に必要なのは、現金、着替え、安全な寝床だ。


 ――そんなものを観察しても何の意味もない。


 馬車は街の中心にある大きな宿の前で止まった。

 昨日より、さらに立派な宿だった。


 夕陽の光を受けて鈍く輝く、艶やかに磨かれた真鍮の取っ手。

 大きく透明度の高い硝子を使用した窓。

 重厚な正面扉の前には、黒と赤を基調とした上品な制服を纏った従業員たちが並んでいる。


 ……どう見積もっても、私が自分の金で長逗留を選ぶべき場所ではない。


 リンツがこちらに気遣いながら慎重に扉を開けた。


「レベッカ様。どうか、何卒、今夜はこちらへお泊まりください。」


 昨日より必死だった。


「お断りします。」


「昨日は、お泊まりくださらなかったではありませんか。」


「昨晩は、あなたにこれ以上ご迷惑をおかけしないためです。今夜は、自分で宿を選びます。」


「この街で、女性がお一人で宿を探すのは危険です。」


「だから、明るいうちに探します。」


「費用のご心配はございません。」


「では、それは誰かが払ったのですか。」


 リンツは口を閉じた。


 私は静かに馬車を降りた。


 足はまだ痛い。ドレスは三日分の皺と埃をまとっている。髪も、おそらくひどい。

 馬車の揺れを引きずるように足はまた小鹿のように揺れていたが、なんとか意地で耐えた。

 耐えて、自分の足で立った。


「リンツさん。ここまで運んでくださったことには、本当に心から感謝しています。」


「でしたら、どうか。」


「しかし感謝することと、従うことは別です。」


 私がぴしゃりと言うと、リンツは息を呑んだ。


「私は、誰が何のために用意したか分からない宿には泊まれません。」


「危害を加える意図など、決してございません。」


「あなたにないことは分かっています。」


「でしたら。」


「あなたへ命じた方にもないとは、まだ分かりません。」


 リンツの顔が歪んだ。

 言いすぎたかもしれない。

 しかし、ここで曖昧にするわけにはいかなかった。


「ですが、殿下が――。」


 リンツは、そこで止まった。


 遅かった。


 夕暮れの往来の中で、その一語だけが妙にはっきりと聞こえた。


 ――殿下。


 カイエン殿下、ではない。

 彼のはずはない。

 私を最も惨めな形で追い出そうと、必死になって今回の舞台を用意したのは彼のはずだ。

 加えて、毛布、林檎、金貨。

 そして、旅程のすべてへ手を回しながら、自分の名だけは伏せるような回りくどいことをする理由もない。


 ただ、もう一人だけ思い当たる人がいる。


 ――殿下、と呼べる人間が。


 私が林檎を選ぶことに気づいていたかもしれない人。

 法の言葉で、私を国外へ追い出す道を整えたであろう人。

 最後に、一歩だけ踏み出しかけた人。


「ヴィルヘルム殿下ですね。」


 リンツは答えなかった。

 答えないことが、答えだった。


 胸の奥が氷を詰めたように冷える。


 やはり、彼だった。

 ――なぜ。


 断罪した相手へ、なぜ食料を用意する。なぜ金を持たせる。なぜ宿を押さえる。

 最後の情けか。罪悪感か。

 それとも罠か。


 分からない。


 ただ私に言えるのは、もうこれ以上、何も分からないまま人の手の上で生きるのは嫌だということだけだった。


「私は何も聞いておりません。」


 私は極めて冷静に聞こえるように言った。


「リンツさんも、何もおっしゃいませんでした。」


「レベッカ様。」


「ですから、安心してください。あなたが約束を破ったことにはいたしません。」


 リンツは顔を歪めてとうとう泣きそうな顔をした。

 彼は秘密を守る仕事には向いていない。本当に向いていない。

 少し胸が痛んだが、その痛みを振り切るように左手首へ触れた。

 そこには細い銀のブレスレットがあった。六歳の時、母が私の手首へ嵌めたものだ。


 あの日のことは、よく覚えている。


 母は留め金を確かめると、いつもの厳しい声で言った。


「失くしてはなりません。」


 似合っているとも、大切にしなさいとも言わなかった。

 ただ、失くすなと。


 私はその言葉を、長い間、愛情の代わりに握っていた。


 母が本当の母ではなかったとしても。あの人が私を娘と思っていたか分からなくても。

 このブレスレットが、私の手首にあった時間だけは本物だった。


 私は留め金を外した。


 手首が急に軽くなる。

 胸の奥が、少し痛んだ。


 けれど、自分から手放すことと、失うことは違う。

 これは、私が選んで手放すのだ。


 私はブレスレットをリンツへ差し出した。


「ここまでの謝礼です。」


「受け取れません。」


「では、一昨日あなたを眠らせなかった迷惑料も含めます。」


「なおさら受け取れません。」


「困りましたね。」


 リンツは口を噤み、黙った。

 私は彼の手を取り、掌へブレスレットを置いた。


「これは、命じた方への支払いではありません。」


「ですが。」


「あなたへのお礼です。」


 三日間、私を罪人として扱わなかった。何度拒んでも、怒鳴らなかった。私の選択を受け入れ、寒い中、馬車の傍で待機してくれた。

 その親切に助けられたことまで、否定したくはなかった。


「受け取ってください。」


「できません。」


「では、謝礼として受け取ったあと、どうするかはリンツさんにお任せします。」


「そのような。」


「売っても構いません。私も、これから装身具を売って暮らすのですから。」


 そう口にすると、胸の奥がまた少し痛んだ。


「ただ、もし手放すことになったら、どの店へ売ったかだけ覚えておいてください。」


「なぜですか。」


「いつか余裕ができたら、私が買い戻します。それまで、なくさないでください。」


 母と同じ言葉を口にしたことに、言ってから気づいた。

 リンツも、何かを察したようだった。掌のブレスレットを見つめ、強く唇を結ぶ。


「……必ず、お返しします。」


 私は静かに一礼した。


「ここまで、本当にありがとうございました。」


 そして、宿とは反対の方向へ歩き出した。


「レベッカ様。」


 リンツの声に呼び止められる。

 しかし私は振り返らなかった。


 振り返れば、温かい湯と安全な寝台に負ける自信があった。それはそれで、人間として生きるための正常な判断だ。


 ――だが、今だけは歩きたかった。


 誰かが用意した馬車を降りて。

 誰かが選んだ宿を離れて。

 自分で決めた方向へ。


 夕暮れの街には、パンや肉を焼く香ばしい匂いが漂っていた。

 商人の声。荷車の音。石畳を行き交う、知らない人々の足音。


 誰も私を知らない。

 ――それが怖くて、少しありがたい。


 まずは、装身具を買い取る店だ。

 次に、服と靴。

 それから、自分で選んだ宿。


 やることは多い。

 呆けている暇も落ち込んでいる暇も、まったくない。


 私は皺だらけのドレスの裾を持ち上げ、背筋を伸ばした。


 ヴィルヘルムが何を考えていたのかは、正直よく分からない。

 確かにリンツは親切で、食事や旅程はすべて配慮されたかたちで整えられていた。

 同情か計略か。それとも背後に私の知らないまた別の何かがあるのか。


 なんにせよ、施しを受けたからといって、相手へ人生の行き先まで預けられるわけがない。

 思い通りになるわけにはいかない。


 私は、自分の足で、自分が決めた方向へ歩いていた。


 それだけで、三日前までとは違う人生が始まった気がした。

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