第三話 現代日本の庶民をなめるな
馬車は、夜明け前の王都を走り抜けた。
城門をくぐる時、私は窓の外を見なかった。膝の上へ視線を落とし、ただ銀色のドレスに施された刺繍を数える。
花が四つ。蔓が八本。真珠が七粒。
数えている間は、何も考えずに済んだ。
やがて車輪の音が変わった。固い石畳を叩く音から、均された土を踏む、鈍く柔らかな音へ。
――王都を出たのだ。
私はようやく顔を上げた。窓の外には、薄青い朝の野が広がっている。
街道沿いの木々。朝露に濡れた草。遠くに霞む丘。
城壁も、王宮の塔も、もう見えなかった。
「……本当に、出たのね。」
返事はない。
馬車の中には、私一人だった。
胸の奥には依然として大きな穴が開いているようだった。
けれど昨夜のように、そこから涙が溢れることはなかった。泣きすぎて、もう残っていないのかもしれない。
しかし、人間の体は意外と合理的である。涙が出ないとなると、体は今度は空腹を訴え始めた。
私は腹部へ手を当てる。昨夜、パンを少し食べただけだ。
――悲しみに打ちひしがれていても、腹は減る。
ずいぶん無神経な臓器である。しかし、嫌いではない。
生きろ、と言われているような気がした。
私は背もたれへ体を預け、深く息を吐いた。
さて。
これから、どうするか。
考えた途端、昨夜の光景がまた脳裏へ蘇った。
婚約破棄。身に覚えのない罪。公爵家からの絶縁。財産の没収。国外追放。
並べてみると、ひどい。改めて確認するまでもなく、ひどい。
前世で何か悪行をした覚えはない。まったくない。
善良で理性的な庶民として、毎日懸命に働いた。
現世では、国のために学んだ。
カイエンが読まない報告書を読み、彼が逃げ出した教科を代わりに受け、いつまで経っても覚えない条約を覚え、まったく関心を示さない貧困地区の予算まで確認した。
王子を支えるために必要だと言われたから。
――それが、どうして。
「……よりにもよって、なんで、私が。」
声にした途端、胸の穴の底からふつふつと熱いものが湧き上がった。
悲しみではない。
怒りだ。
どうして私が、カイエンの劣等感を隠すための悪女にされなければならない。
どうして侯爵家との権力争いのために、十九年の人生を奪われなければならない。
どうして父の保身のために、娘ではなかったことにされなければならない。
何より腹立たしいのは、彼らがこの先の私をもう決めたつもりでいることだ。
家もない、金もない、身分もない若い女が一人、知らない国へ放り出される。
きっとすぐに行き詰まる。泣いて許しを乞う。あるいは、誰にも知られず野垂れ死ぬ。
そう思っているのだろう。
私は手袋の甲で目元を拭った。
――ふざけるな。
私には、現代日本で生きた記憶があるのだ。
朝は始発に乗り、昼は次から次へと押し付けられる業務に追われ、夜は終電に乗って半分眠りながら帰宅する。
給料日には銀行の残高を確認し、ぎりぎりまで貯金に回し、残った額を日数で割って節制する。
疲れていても家事をし、熱があっても無理やり食べ、誰もいない深夜の職場で一人泣いても、翌朝にはまた出勤して働いた。
誇れるほど華やかな人生ではない。
だが、しぶとく生き続けることについてなら、王侯貴族よりはよほど詳しい。
私は温室から出た瞬間に枯れる花ではない。そもそも前世では、花として扱われた記憶もない。
花というより雑草だ。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
雑草は強い。
少なくとも、踏まれたくらいですぐには枯れない。むしろ踏まれることで増えることすらある。
私はすっと姿勢を正した。
「まずは、現状確認から。」
金銭に変えられるもの。私は自分の体を上から順に確認した。
イヤリング。首飾り。ブレスレット。夜会用のドレス。靴。そして、髪。
腰のあたりまで伸びた、美しく手入れされた赤褐色の髪を、一房つまむ。
手入れには金も手間もかかる。長旅には邪魔だ。そして、状態のよい長い髪は売れる。
「これもお金に変えられるな。」
一昨日までの自分が聞いたら引くかもしれない。だが、背に腹は代えられない。
髪はまた伸びるが、命は今のところ一本しかない。
装身具は、国境を越えてから換金しよう。できれば一軒目で売らず、複数の店で値を聞く。
ドレスも売る。ただし、着替えを先に確保しなければならない。
裸で古着屋を出るわけにはいかないので、順番は重要である。
「衣服、靴、安全な宿。」
次に仕事だ。
刺繍。読み書き。計算。帳簿。代筆。翻訳。礼儀作法、一般教養の指導。
王妃教育で学んだ知識の一部は、王妃になれなくても使える。
法学も財政も、それだけでは腹を満たしてはくれない。
しかし、文字が読めず、計算が苦手な者はどこにでもいる。必要としてくれる場所を探せばよい。
技能職で見つからなければ、別の仕事をまた考えればいい。
筋力には自信はないが、簡単な肉体労働ならできるだろう。
皿を洗う。床を磨く。荷物を運ぶ。
畑を耕す。
農業に携わった経験はないが、教えてもらえば何とかなるだろう。
少なくとも、カイエンへ彼が興味のない条約を覚えさせるよりは簡単なはずだ。
私は頭の中で、必要なものと、できることを並べた。
不安が消えたわけではない。けれど、正体の分からない巨大な不安は、項目に分けると少しだけ小さくなる。
一つずつ片づければよい。人生を一度に立て直す必要はないのだ。
今日を越え、明日を越え、その次の日を越える。
一日一日をなんとか重ねていく。
それを繰り返せば、いつかは暮らしになる。人生になる。
「きっと生きられる。」
口に出してみる。掠れた小さな声は少し頼りなかった。
「生きてやる!」
言い直して、私は膝の上で拳を握った。
右。左。
小さく拳を突き出す。
前世で、疲れた時に動画を見ながら真似した運動だ。本格的な技術はない。気分だけのシャドーボクシングである。
右。左。
私を悪女にした者たちの顔は、あえて思い浮かべない。
復讐で未来は描けないと、前世の経験からよく分かっているからだ。
代わりに、諦めそうになる自分を追い払うように拳を突き出す。
右。左。右――。
その時、大きな石でも踏んだのか、馬車が大きく跳ねた。
「ひゃっ。」
突き出していた拳が、窓枠へぶつかった。
「っ……!」
痛い。非常に痛い。
思わず、くうっと身をよじる。
「申し訳ございません、レベッカ様。」
御者台から、慌てた声がした。
「道が少し荒れております。お怪我はございませんか。」
私は咄嗟に、赤くなった拳を反対の手で押さえた。
「……も、問題ありません。」
自分で窓枠を殴ったとは言えない。
元公爵令嬢としての、最後の矜持である。
そこで、はたと別のことに気づいた。
今、御者は私を何と呼んだ。
「御者さん。」
「はい。」
「私のことは、レベッカとお呼びください。もう敬称は必要ありません。」
少し間があった。
「承知いたしました、レベッカ様。」
「……ついています。」
「申し訳ございません。」
どうやら直す気はないらしい。
御者はごまかすように軽く咳払いをした。
「寒くはございませんか。座席の下に毛布がございます。」
確かめると、厚手の上等な毛布が数枚丁寧に畳まれていた。
「お食事もご用意しております。どうか足元の包みをご確認ください。水が足りなければ、いつでもお申し付けください。」
「……罪人の護送にしては、ずいぶん手厚いのですね。」
また、奇妙な間があった。
「……道中でお体を損なわれては、護送の責任を果たせませんので。」
苦しい。
かなり苦しい説明である。
しかし一旦気を取り直して、私は足元の包みを持ち上げた。
中には、柔らかな白パン、干し肉、固焼きの菓子、水筒、そして赤い林檎が入っていた。
罪人の携帯食としては、明らかに豪華だ。
……なぜだろう。
私は無意識に林檎へ手を伸ばしかけ、そこで止まった。
――林檎は私の好物だった。
王宮で長時間の講義がある日、休憩に果物を選べるなら、私はよく林檎を取った。
特別に公言したことはない。だが、何度も同じ机を囲んだ者なら、気づいていてもおかしくはない。
脳裏に、なぜか淡い金髪と澄んだ碧眼が浮かんだ。
私は咄嗟に目を瞑り、林檎を包みへ戻した。
いやいや、待て。
林檎は世界中に存在する果物だ。決して誰か一人だけが調達できる希少品ではない。
これだけで結論を出すのは、まったくもって論理的ではない。
なんとか気分を変えて次にパンを持ち上げると、その下から小さな布袋が転がり出た。
金属の擦れる軽い音が鳴った。
……とても嫌な予感がした。
紐をほどく。
金貨が五枚、入っていた。
「…………。」
これは、論理以前の問題である。
財産の持ち出しは禁止されていたはずだ。
もし仮に王家が公式に支度金を渡したのなら、昨夜の事務官が説明したはずだろう。
つまり。
この金貨は今回の処分とは別に、誰かが忍ばせたものだ。
誰が。なぜ。
善意か。罪悪感か。それとも、罠か。
私は布袋を膝の上へ置き、しばらく見つめた。
絶対に返すべきだろう。少なくとも、何も考えず使用していいものではない。どんな意図や目的が隠れているか分からない。
しかし、返し先も返し方も分からない。
――では捨てるべきか。
金貨を街道へ捨てるほどの余裕も度胸も、今の私にはない。
私はじっと考えた。そして、ぎゅっと布袋の紐を固く結んだ。
「保留。」
出所不明金として一時的に保管する。
もし万が一どうしても必要になれば使う。その時までは、いつでも返せるように他の資産と分けて保管しておく。
実に合理的な判断である。
私は袋を包みに戻し、白パンを一つ取り出した。
一口かじる。
柔らかい。そして、ほんのり甘い。
昨夜の冷えたパンより、明らかに上等なものだった。
「……おいしい。」
悔しい。
誰が用意したか分からないのに、非常においしい。
私はもう一口食べた。
毒を疑うべきだったかもしれないが、ここまで大がかりに国外追放してから毒殺するのは効率が悪すぎる。
それに、御者も同じパンを食べているのが小窓から見えた。
――おそらく、大丈夫だ。
元王妃候補としては慎重さに欠けるが、空腹の庶民としては妥当な判断である。
パンを食べ終え、私はさきほどの林檎を手に取った。
よく磨かれた、赤い林檎。
かじると、しゃくり、と小気味よい音がした。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。
……これもとてもおいしい。
なぜだろう。目の奥が、少しだけ熱くなった。
これは、絶対に虚しいとか悔しいとか悲しいからではない。
林檎の味に、過ぎし日の思い出が、少し懐かしかっただけだ。
お腹が満たされると、世界はほんの少しだけましに見えた。
窓の外では、すでに朝日が昇っていた。
名も知らない草木へ光が差し、夜露がきらきらと細かく輝いている。
王都は、すでに遠い。
そして、私はもう公爵令嬢ではない。王子の婚約者でもない。
――王妃になる未来も、もうない。
残っているのは、売れそうな装身具と、それなりに健康的な十九歳の体。
これから身一つで生きていくことを考えれば、きっと十分とは言い難い。
だが、ゼロでもない。
ゼロでないなら、なんとかなる。
私は林檎をもう一口かじった。
「しぶとい庶民を、なめるなよ。」
カイエン。父。私を悪女に仕立てた者たち。
そして、金貨を用意した誰か。
私は、決して、あなたたちの思いどおりにはならない。
今度こそ、誰のためでもなく、自分のために、自分の人生を、自分で選ぶ。
たしかに怖くないかと言われれば嘘になる。
虚しくないと言えば、もっと大きな嘘になるだろう。
それでも、これからは自分の足で立って、歩くのだ。
雑草のように生きて、生きて、生き抜いてやる。
馬車は、国境へ向かって走り続けた。
甘酸っぱいはずの林檎の味は、やはり少しだけ塩辛く感じた。




