第二話 父は私を娘ではないと言った
このドレスがいくらで売れるか、おおよその試算が終わる頃、私は王宮の一室へ閉じ込められた。
案内された部屋はそれなりに広く、窓も寝椅子もあった。壁紙は上等で、絨毯は厚く、燭台には惜しげもなく蜜蝋の蝋燭が使われている。
ただし、扉の外には騎士が二人。内側には鍵がない。
つまり、客室ではない。
――ここは罪人を朝まで置いておくための、綺麗な箱だ。
「お、お水を、お持ちいたしましょうか。」
しばらくして部屋へ入ってきた若い侍女が、目を伏せたまま尋ねた。声がわずかに震えている。
私が怒鳴るとでも思っているのだろうか。あるいは、近づいただけで呪われる悪女だとでも。
――そんなわけはない。私は理性的な普通の人間だ。
内心で嘆息する。
「ええ。お願いします。」
できるだけ穏やかに見えるように答えると、侍女は目を瞬いた。
「多めにいただけると助かります。今夜は喉が渇きそうですので。」
「は、はい。ただいま。」
彼女は急いで部屋を出ていった。扉が閉まり、外側で金属の触れ合う音がした。外から閉められる鍵の音。
ここから私を出さないための音だった。
私はそれからしばらく、呆けたように扉を見つめていた。大広間の音楽も、貴族たちのざわめきも、ここには届かない。
ただ蝋燭の焦げる匂いと、重い静寂だけがあった。
――金で飾っても、檻は檻だな。
そう理解した途端、膝から力が抜けた。
寝椅子まで、あと三歩。その三歩が遠くて、私はそのまま倒れ込むように絨毯の上へ座り込んだ。
銀色のドレスが、扇のように床に大きく広がる。先ほど値踏みしたばかりの、当面の生活資金。
皺になる。分かっている。
――分かっているが、今だけは許してほしい。
私は両手でドレスの布をぎゅっと握った。はっと息を吐く。
感情の暴走を許してはいけない。今後の展開に向けて状況を確認し、できることを組み上げなければならない。
出立の時刻。持ち出せるもの。護送の行程。そして、父との面会。
父。
――エルヴェシア公爵。
その言葉を思い浮かべただけで、胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。
夜会には出席していたはずだ。しかし、先ほどの大広間で私は結局どこにも父の姿を見つけられなかった。
真偽のほどは分からないが、さきほどの断罪劇によれば、私は孤児院から引き取られたのだという。
もしそれが本当であったとして。
あの人は、私の出自を知っていたのだろうか。それとも、知らなかったのだろうか。
どちらにしても、娘が衆人環視の中で罪人にされている間、父であるエルヴェシア公爵は姿を見せなかった。
――期待するな。今さら、あの人が私を守るはずがない。
そう言い聞かせても、心のどこかで考えてしまう。
――直接会えば、何か言ってくれるのではないか。
――せめて一度くらい、嫌疑を否定して私を娘と呼んでくれるのではないか。
その時、平坦な音で扉が叩かれた。
私は慌てて震える足を力ずくで立たせ、寝椅子へ座った。そして、すっと背筋を伸ばす。
王妃になる未来は失っても、七年間で身につけた意地と姿勢までは奪われてはならない。
「どうぞ。」
入ってきたのは、先ほどの侍女ではなかった。灰色の髪をきっちり撫でつけた中年の事務官。
手には水差しではなく、書類を持っている。
「レベッカ・イザベル嬢。」
――公爵令嬢ではなく、嬢。
眉間が微かに動く。呼称一つで、人の身分はずいぶん簡単に消えるらしい。
「処分内容の確認に参りました。」
「……その前に、父に会わせてください。」
考えるより先に言葉が出た。事務官は、わずかに眉を動かす。
「エルヴェシア公爵閣下へは、すでに事の次第をお伝えしております。」
「では、父はどちらに。」
「面会は望まない、とのことです。」
一瞬、意味が分からなかった。
誰が。誰との面会を。
「……もう一度、お願いいたします。」
声が少し掠れた。
「父に会わせてください。私の出自について、直接確認したいことがあります。」
「公爵閣下から、書面をお預かりしております。」
事務官は私の言葉に取り合わず、几帳面な様子で手元の紙を開いた。そして、税の通知でも読み上げるような平坦な声で告げる。
「此度の件は、亡きイザベラ前公爵夫人が独断で行ったものと認識する。私はレベッカ嬢の出自について、一切関知していない。」
事務官が一度、静かに息を継ぐ。
「ゆえに今後、レベッカ嬢を我が娘として扱うことはない。エルヴェシア公爵家とは無関係の者とし、その処遇は王家に一任する。」
事務官が静かに書類を閉じた。ぱたん、と乾いた音がした。
それだけだった。
十九年間の親子関係が終わる音としては、驚くほど軽かった。
――我が娘として扱うことはない。
――無関係の者。
頭の中で、二つの言葉が繰り返される。
父は、私を娘ではないと言った。
血がつながっていないからではない。
私が本当は誰の子であるかを確かめる前に、自分の娘ではないと決めたのだ。
家名へ傷が及ばないように。罪人となった私を、できるだけ早く切り離すために。
――実に合理的でいらっしゃる。さすが、エルヴェシア公爵閣下。
私はそう思おうとした。
思えなかった。
「これは、本当に父の言葉ですか。」
「公爵閣下ご本人の署名がございます。」
「私へ、ほかに何か伝言は。」
「ございません。」
「……そうですか。」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
分かっていた。分かっていた、はずだった。父が私を愛していないことなど。
母が亡くなった時さえ、父は私の頭を撫でなかった。
喪が明けぬうちに継母と異母弟妹が屋敷へ入った時も、私への説明はなかった。継母の手によって私が別棟へ移されても、一度も様子を見に来なかった。
父の代わりに行った執務も数多くあったが、言葉は一度もなかった。現王妃に見初められ、王子の婚約者として内定した時でさえ、一言の伝言のみだった。
――それでも。
私は心のどこかで、いつか振り向いてもらえるかもしれないと思っていた。
勉強を頑張れば。完璧な令嬢になれば。王妃として国を支えられる女になれば。
父もいつか、私を娘として認めてくれるかもしれないと。愛情が得られるかもしれないと。
――馬鹿だった。
その僅かな期待がまだ残っていたから、こんなにも痛い。
「処分内容の確認を続けてもよろしいでしょうか。」
事務官の声に、はっとする。私は膝の上で握っていた手を開いた。指先は冷たい汗でひどく冷えていた。
「……ええ。お願いします。」
まだだ。
まだ耐えなければ。
今夜だけで何度目かになるか分からない喝を、私は自分に入れた。
「公爵家の財産は、持ち出しを認められません。」
「現在、身につけているものは。」
「衣服および装身具は、処分の対象外です。」
ドレス、首飾り、耳飾り、ブレスレット。
これで当座の金は用意できるだろう。
――私はこんな胸が潰れそうな時でも、まだ金勘定ができるのか。
内心でふっと息を吐く。
私は偉い。
賢く、理性的で、しぶとい女だ。
「それでは、一度公爵家へ戻り、私物を受け取ることはできますか。」
「認められません。」
「侍女との面会は。」
「認められません。」
「手紙を送ることは。」
「出立までは認められません。」
本当に、今身につけているものだけで出ていけということらしい。
なるほど。人一人を社会から切り離す手順としては、見事なほど整っている。
「出立は、明朝の日の出前です。国境までは王家の護送がつきます。道中の食事と宿泊についても、すでに手配されています。」
――食事と宿泊。
私はそこで事務官の言葉に少しだけ眉を寄せた。財産を一切持たせない割に、護送は妙に手厚い。
罪人を確実に国外へ出すためだろうか。
考えても、今は答えが出ない。
「承知いたしました。」
事務官は一礼して部屋を出た。扉が閉まる。
また、鈍い鍵の音がした。
しかし、その音を聞いた瞬間、今度こそ指が震え始めた。
ぶるぶると細かく震える白い手を見やる。確かに私の手だ。なのに、止めようとしても頭で制御できない。
自分でも何が起こっているのか、分からなかった。
情報は確認した。明日の予定も分かった。至急考えるべきことは残っていない。もう、堪える理由はない。だから――。
けれど私はなおも、明日からのことを考えようとした。
国境を越えたら、装身具を換金する。
動きやすい服と靴を買う。
安全な宿を探す。
仕事は。
読み書き。計算。語学。礼儀作法。
まだできることはある。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
私には前世の記憶がある。庶民としてしぶとく働き、苦労しながらもそれなりに幸せだった経験もある。この世界でも王妃教育という最高水準の教育を受けた。もちろん、自身でも努力を怠らなかった。他の人よりもずっとできることは多い。
だから、絶対に、大丈夫。
――大丈夫。
しかし何度繰り返しても、その言葉は胸の中へ入っていかなかった。
代わりに、なぜか亡くなった母の顔が浮かんだ。
私が前世の記憶を取り戻したのは、母が亡くなった七歳の時だった。
イザベラ。
――私の母。
黒に近い濃茶の髪と、菫色の瞳。痩せていて、白くて、いつも少し神経質そうな顔をしていた。
母は、私に厳しかった。
もっと背筋を伸ばしなさい。
笑い方がはしたない。
泣くのはおやめなさい。
公爵家の娘として、恥ずかしくないようになさい。
褒められた記憶は、ほとんどない。
子どもの頃の私は、ただただ母が怖かった。けれど、後にも先にも公爵家の中で唯一私を見てくれた存在だった。
近くにいると息が詰まるのに、遠ざかると、その眼差しを追いかけた。
見てほしかった。
褒めてほしかった。
――一度だけでも、よくできました、と言ってほしかった。
母が亡くなった日、冷たい棺の前で、自分が一体何を感じているのか、感じてもいいのか、自分でも分からなかった。
悲しかった。怖かった。
少しだけ、ほっとした。
そして、もう二度と褒めてもらえることはないのだと思うと、悔しくて惨めだった。
私は、母の本当の子ではなかったのだろうか。
母は、私のことを少しも愛していなかったのだろうか。
将来のためと、つきっきりで手ずから礼儀作法を教えた。庭へ出ようとした私の腕をつかみ、病気や怪我をしてはいけないと叱った。逃げ出した私を見つけては、真っ青な顔をして連れ戻した。
愛だったのか。恐れだったのか。義務だったのか。
それでも、少なくとも父のように無関心ではなかった。私は、いつもそこに少しでも愛を見出そうとしていた。
――あなたは、私をどこから連れてきたのですか。
――本当に、あなたの子ではなかったのですか。
――それなら、どうしてあそこまで厳しく公爵家の娘であることを求めたのですか。
――あなたは一度でも、私を娘だと思ってくれましたか。
答えはない。
母は、もういない。
そして、父は、私を娘ではないと言った。
喉の奥から、潰れた音が漏れた。
私は両手で口を覆った。
だめだ。声を出してはいけない。扉の外に騎士がいる。誰かに聞かれる。そんな恥ずべきことはしてはならない。
そう思うのに、結局涙は止まらなかった。
視界が滲み、蝋燭の灯りがいくつにも割れる。
私は大広間で泣かなかった。
膝をつかなかった。
許しを乞わなかった。
最後まで背筋を伸ばして、自分の足で歩いた。
だから。
今夜、この鍵のかかった部屋でくらい、泣いてもよいのではないか。
「……お母様。」
口からこぼれた声は、自分でも驚くほど幼かった。
母が生きていた頃、公の場では母上と呼びなさいと何度も叱られた。
けれど、今はもう叱る人もいない。
「私、頑張ったのよ。」
返事はない。
「本当に、頑張ったの。」
母が亡くなり、一人別棟に移されてからも。これからは一人で食事をするようにと父に言われてからも。王子から見向きもされなくなってからも。
必死に。
公爵家のために。王妃になるために。この国のために。
いつか誰かに認めてもらいたくて。
「でも、駄目だったみたい。」
声が震えた。
「私、本当にあなたの子ではなかったのかしら。」
胸が痛くて、息が詰まった。
「それでも……一度くらいは、娘だと思ってくれたことがありましたか。」
静かな部屋は、何も答えてくれなかった。
私は寝椅子へ体を伏せ、声を殺して泣いた。
十九歳にもなって。
前世では三十数年も生きて。
それでも今の私は、父に捨てられ、母を求めて泣く子どもだった。
今日くらいは、それでよかった。
私にも、強くなくてもよい夜が、きっと一晩くらいあってもいい。
どれほど泣いたのか、分からない。気づけば夜会の音楽は止み、部屋の蝋燭が二本、燃え尽きていた。
扉が控えめに叩かれる。
「お食事と、お水をお持ちしました。」
先ほどの侍女だった。私は緩慢に起き上がり、乱れた髪をそっと手で整えた。
「どうぞ。」
侍女は盆を運び入れ、私の赤く腫れた目を見た。何か言いかけ、しかし何も言わず口を閉じる。
代わりに、水差しを二つテーブルの上へ置いた。
「多めに、とのことでしたので。」
「……ありがとう。」
「いいえ……。」
侍女は、それ以上何も聞かなかった。扉の前まで戻り、一度だけ振り返る。
「パンは、今夜のうちにお召し上がりください。明朝は早いと伺っております。」
「そうします。」
彼女が出ていく。再び鍵はかかった。
けれど、先ほどより少しだけ、その音が遠く聞こえた。
私は水を飲んだ。泣きすぎた喉に、痛いほど冷たい水が染みた。
食欲はもちろんない。それでも、パンを一口ちぎって無理矢理口へ入れた。先ほど噛み締めた口内が痛い。鉄の味が混じる。
――噛む。飲み込む。もう一口。
明日は、また歩かなければならない。考えなければならない。
生きるために、食べなければ。
泣いたあとにも水を飲み、喉が痛かろうがパンを食べる。これが生きることだ。
恰好がつかなかろうが、それでいい。
今夜の私には、もうそれで十分だ。
寝椅子に横になっても、なかなか眠れなかった。
目を閉じれば、父の書面が浮かぶ。
――我が娘として扱うことはない。
――エルヴェシア公爵家とは無関係の者。
手で耳をふさいでも、響く騒めき。
カイエンの嘲笑。セレスティアの涙。黙る王。悪女の行く末を窺う観客たち。
そして、断罪を告げるヴィルヘルムの声。
台本に仕立てられた、観劇の舞台のような一幕。
悪女の断罪。
彼が何を考えていたのかは分からない。
なぜ収監ではなく追放だったのか。なぜ身につけている品だけは持ち出せるのか。なぜ罪人のために、宿や食事まで手配されているのか。
考え始めれば、疑問はいくつもあった。
けれど今夜は、もうこれ以上誰の心も推し量りたくない。父の言葉に、あらぬ期待をして、十分に傷ついた。
私は毛布を引き寄せ、目を閉じた。
少しでも眠らなければ。
明日、私は追放されるのだから。
夢は見なかった。
それだけが救いだった。
夜明け前、扉を叩く音で目を覚ます。
窓の外は、まだ暗い。僅かな月と星の輝きが暗い室内をぼんやりと照らしていた。
寝椅子からゆっくりと身を起こす。
鏡を見なくても、自分がひどい顔だと分かった。目は腫れ、髪は乱れ、ドレスには皺が寄っている。
――まるで夜会のあとにうち捨てられた人形だな。
それでも私はゆっくりと立ち上がった。
髪を手櫛で整える。
ドレスの皺を手で伸ばす。
背筋を正す。
扉の外には、昨夜の事務官と数人の騎士が待っていた。
「出立の時間です。」
「承知、いたしました。」
声は掠れていた。
けれど、なんとか足は動いた。
長い廊下を歩く。誰も見送りには来なかった。
継母も。異母弟妹も。公爵家の使用人も。七年間を過ごした王宮の者たちも。
そして、父も。
薄い夜会靴の底から、石床の冷たさが伝わってきた。
一歩。また一歩。
踵の音だけが、自分がまだここにいることを教えてくれる。
王宮の裏門を出ると、一台の馬車が待っていた。貴族向けの装飾された馬車ではないが、しっかりとした作りに見えた。
夜明け前の空は、深い藍色だった。まだ星もいくつか残っている。
香水と蝋燭の煙に満ちた王宮の一室とは違う、鋭く澄んだ空気が頬に触れた。
私は馬車の前で、一度だけ立ち止まった。
振り返らない。見送る者のいない場所を見たところで、何も変わらない。代わりに、冷たい空気を肺の底まで吸い込んだ。
父は私を娘ではないと言った。
公爵家は、私を無関係の者とした。
今日から私は、エルヴェシア公爵令嬢ではない。
第一王子の婚約者でもない。
未来の王妃でもない。
それでも。
――私が私でなくなったわけではない。
私は馬車へ乗り込んだ。扉が閉まる。車輪が静かに動き出す。
これまでの私のすべてを置いて、馬車は夜明け前の王都を走り始めた。




