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第一話 婚約破棄を申し渡されました

本作は全100話完結済(脱稿済)です。

初日は第15話まで一挙公開、以降は毎日18時に更新予定です。

最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

「レベッカ・イザベル・フォン・エルヴェシア。君との婚約を、ここに破棄する。」


 楽団の誰かが、弦を弾き損ねた。


 硝子を引っかくような音が大広間を裂き、それきり音楽が止まる。

 静まり返った会場で、ただ数百本の蝋燭の細い炎だけが、陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。

 扇が閉じられる音。誰かが息を呑む音。


 そして、私に突き刺さる無数の視線。


 今夜は、エルセリア王国第一王子カイエン殿下の十八歳を祝う夜会だった。

 本来なら、この場で発表されるはずだったのは婚約破棄ではない。公爵令嬢である私と、カイエンとの成婚時期である。


 この祝宴には、国内の有力貴族だけでなく、近隣諸国の使節や大商会の代表まで招かれている。

 つまりカイエンは、私を捨てる瞬間を国の内外へ披露するため、今夜これだけの観客を集めたことになる。


 ――なるほど。ずいぶん豪華な見世物だ。


 私は扇を閉じ、胸の前で両手を重ねた。予想外の事態に体は硬く、指先は冷え、手のひらには汗が滲んでいる。

 けれど、表情は崩さない。


 十二歳でカイエンの婚約者に選ばれてから七年。外交、法学、財政、語学、礼法、舞踏。戦後復興策から地方ごとの穀物備蓄量、他国の貴族史まで、王妃に必要だと言われたものはすべて学んだ。

 やれと言われた以上のこともやった。

 それは私が、この国の王妃になるはずだったからだ。


 つい先ほどまでは。


「殿下。」


 自分でも感心するほど、声は冷たく、いつものように平静だった。


「恐れながら、今のお言葉の意味を確認してもよろしいでしょうか。」


「言葉のとおりだ。私は君との婚約を破棄する。」


 カイエンは、自分の傍らに立つ少女へ手を差し伸べた。

 淡い蜂蜜色の髪は腰まで伸び、薄紫の瞳はアメジストのように煌めいている。白い花びらを重ねたような可憐なドレスは、まるで百合の花のようだった。

 男の庇護欲を掻き立てるような美しい姿で、今にも泣き出しそうな顔をしてカイエンを見上げているのは、リュミエール侯爵令嬢セレスティアだ。


 カイエンは十六歳になった年に、社会勉強と人脈構築のためと称して、王都の子息子女が通う貴族学院へ通い始めた。

 私は王妃教育のため学院には通えなかったが、公爵家筋の在学生から、定期的に殿下の近況報告を受けていた。


 ――勉学はそこそこに、何人かの女生徒と懇意になり、かなり奔放な学院生活を送っている。


 そんなことは、すでに二年前から把握していた。

 王子の恋愛事情など、正直どうでもいい。自分の父母のように愛人が堂々と許される世界では、結婚後の貞操など保証されないだろう。

 ただ懸念していたのは、その噂になっている子女の中に、私の実家であるエルヴェシア公爵家の政敵、その家門の令嬢が含まれていたことだった。


 そう。今、カイエンの腕にぴたりと寄り添い、あからさまに恐々といった様子でこちらを窺うリュミエール侯爵令嬢セレスティアである。


 確かに分かっていた。

 しかし私が直接その関係を諫めようものなら、あのカイエンのことだ。ますます反発し、さらに交友を深める可能性があった。

 父である公爵にも、一度陛下に現状を伝えるため謁見の手続きを取ってほしいと願ったが、事なかれ主義の公爵は私の懸念をついぞ真剣に取り合わなかった。


 ――婚約者はお前なのだから。

 ――ただの遊びだろう。

 ――それぐらい、殿下も分かってやっている。


 そんな言葉で、逆に私が諫められたくらいだ。


 そのため結局、私にできたのは、カイエンの近況報告を定期的に受け取り、将来の伴侶という最側近として彼を補佐するために、勉学と人脈構築のための社交に励むことだけだった。


 ――その対応が甘かったのだ。私の考えが。

 内心で臍を噛む。


「私が妃に望むのはセレスティアだ。君のように冷たく人を見下し、私の周囲を監視する悪女ではない。」


 ああ。監視。そう来たか。


「殿下。私が殿下のご交友について報告を受けていたのは、王家と有力貴族との間に不要な混乱が生じるのを防ぐためでございます。」


 よりにもよって、リュミエール侯爵家。

 エルヴェシア公爵家が属する王族派と牽制し合う、貴族派の最大勢力である。


「そうやって、いつも正論ばかりだ。」


 カイエンの声に、子どものような苛立ちが滲んだ。


「国のため、王家のため、私のため。そう言いながら、本当はいつも私を見下していたのだろう。自分の方が賢いと、自分の方が王にふさわしいとでも思っていたのではないか。」


 大広間に一瞬にして波のようなざわめきが広がる。


 ――各国の使節が見ている前で、王位継承者が自らの劣等感を告白してどうする。

 私は状況も忘れかけ、思わず言葉を掛けそうになった。


 しかし、私はもうカイエンの婚約者ではないらしい。今後の余計な口出しは受け入れられないばかりか、逆に身の危険を招きかねない。


「私情による婚約破棄であれば、正式な手続きが必要です。カイエン殿下、これは王家と公爵家の契約でございます。両家の合意、賠償、対外的な説明、継承問題への影響を――」


「まだ分からないのか、レベッカ。」


 カイエンが口の端を上げ、私の言葉を遮った。勝ち誇っているようにも、何かに怯えているようにも見える笑みだった。

 ぞわりと嫌な悪寒が背を辿る。


 これは、まだ他に何かある。


 私は咄嗟に扇を開き、口元へ当てて身構えた。


「これは、ただの婚約破棄ではない。君には王家を欺いた罪がある。」


「……王家を欺いた罪、でございますか。」


「君は、エルヴェシア公爵家の血を引いていない。」


 大広間が、今度こそ大きくどよめいた。男女問わない微かな悲鳴のような呟きが泡のように弾けては消えていく。


「君は亡きイザベラ公爵夫人が孤児院から引き取った子だ。公爵家の血を偽り、王子の婚約者の座に収まっていた。これは王家への背信だ。」


 ――孤児院。引き取られた子。公爵家の血を引いていない。


 言葉の意味自体は分かる。しかし、それが頭の中で糸を結ばない。父である公爵はもちろん、亡き母からも、そんな話を聞いたことはなかった。

 たしかに私は、父にも母にもあまり似ていなかった。髪色も瞳も顔立ちも。しかし、母方の祖母は私と同じ赤褐色の髪を持ち、また曾祖母は私と同じ色の瞳であったと聞いたことがある。

 これは私の動揺を誘って失態を引き出すための陽動か、あるいは今後の婚約破棄に向けて一時的にでも正当性に疑念を向けさせるための布石か。どちらかだろう。


 ――けれど、もし本当なら。


 父が私に関心を示さなかったことも。

 母の死後すぐに私だけ別棟へ移され、継母と異母弟妹たちとは違い、家族の食卓に参加を許されなかったことも、別の意味を持って胸に突き刺さる。


「証拠を拝見しても?」


 私が尋ねると、カイエンの後ろにいた伯爵令息ルーカスが進み出た。彼はカイエンの学院での取り巻きの一人であり、リュミエール侯爵家の傍系家門の出であったはずだ。


「聖エステル孤児院の受け入れ記録、および故イザベラ公爵夫人の私的支出記録が確認されています。複数の証言からも、レベッカ嬢が公爵夫人の実子ではない疑いは極めて濃厚です。」


 ルーカスの言葉に体が強張る。

 公爵家の支出記録。つまり、公爵家内部の者が協力している。


 ――この筋書きは、単なる学院内の恋愛騒動に留まるものではない。


「疑い、ですか。」


 できるだけ時間を稼ぎ、早く事態を把握しなければならない。私は咄嗟に、相手の言葉尻を拾った。


「では、確定した事実ではないのですね。」


 ルーカスの眉が動く。

 この場は法廷でもなければ尋問室でもない。疑いや偽造可能な証拠だけをもって、こちらの罪を確定することは困難なはずだ。


 しかし、ここは諸外国の使節が集う夜会の大広間である。何の準備もなく、ここまでの大事をカイエン殿下が起こすとは考えにくい。さすがにそこまで愚かではないはずだ。

 少なくとも、誰かがそうならないよう整えている。


 ――一体誰が、どこまでの内諾を得て、どの結末を待ちながら、この一幕を操っているのか。


 私は広間をさっと見渡した。

 上座では、王妃アデライード陛下が青ざめた顔で肘掛けを握っていた。その隣の国王は、目を伏せ沈黙を貫いている。

 公爵家のために用意された席には、父の姿がなかった。


 そして広間の一角では、リュミエール侯爵が静かに杯を傾けていた。騒然とした大広間で、彼だけが幕引きを待つ観客のように落ち着いている。


 その姿を見た瞬間、散らばっていたものが一つにつながった。


 ――これは、やはり結論の決まった芝居だ。


 侯爵家が台本を書き、カイエンが主役を演じ、セレスティアの涙が彩りを添える。そして、恐らく王室も公爵家の継母たちも、それを把握し、抵抗するどころか協力している。

 この国の継承制度は長子優先だ。王子の婚約者に選定された段階で、ある程度継母たちの関心は逸らしたものと考えていたが、どうやら足りなかったらしい。

 再び自分の甘さを恥じ、目を伏せそっと扇の下で口元を引き結ぶ。それから再び目線を上げる。


 ――では、この筋書きを組んだのは誰か。


 答えは。


 私はカイエン殿下から数歩下がった左奥に佇む青年を見やった。

 淡い金髪。感情を映さない澄んだ碧眼。長い指に挟まれた数枚の書類。


 ――ヴィルヘルム・レオンハルト・フォン・アインシュヴァルド。


 隣国アインシュヴァルドの第三王子。

 十年前、和平の証として八歳でこの国へ送られてきた貴賓であり、実質的な人質。


 私は彼と、王妃教育の場で何百時間も机を並べた。

 誰もが私に追従するか、恐れて黙る中、彼だけは私に対し正面から反論した。法学の議論でも、盤上の勝負でも、互いに一歩も譲らなかった。

 悔しいが、彼は天才だった。私が前世の知識と今世の努力を総動員して辿り着く答えへ、涼しい顔で手を伸ばす。

 勝率はこちらが劣る。私にそこまで言わせる人間は、ほかにいない。


 そうだ。ルーカスやカイエン殿下の頭で、不安定な事実関係から処分までの法的な筋書きを作れるはずがない。

 これは、きっと彼の仕事だ。


 それならば、この場に挙げられていない証拠や論拠まで、完璧に用意されている可能性は非常に高い。


 ――つまり、私に勝算の見込みはないということか。


 彼は無表情だった。

 いつものように、何の感情も映さない氷のような瞳。


 ただ、書類を持つ指だけが、紙に白く食い込んでいた。

 それに気づいた瞬間、心の中にふっと戸惑いに似た気持ちが生まれた。


 ――どうして。


 私は、彼と議論する時間が好きだった。

 負ければ腹が立ち、勝てば嬉しかった。あの孤独な七年間で、対等に言葉を交わせる存在がいることが、どれほど私を救っていたか。


 ――その才が今夜、私を斬るために使われる。


 カイエンの婚約破棄よりも、なぜかその事実の方が深く刺さった。


「出自だけではありません。」


 ルーカスが続ける。


「あなたは地位を守るため、殿下のご友人へ圧力をかけ、セレスティア様を脅し、学院内で殿下の行動を探らせた。」


「……私がセレスティア様を脅した、と?」


 私はセレスティアへゆっくりと視線を向けた。少女はびくりと肩を揺らし、カイエン殿下の腕へ縋った。カイエンがすぐさまそれを支えるように彼女の腰を抱き、こちらを睨む。



「そもそも私は王妃教育のため、学院には通っておりません。直接の接触は困難です。日時と場所、内容をお示しください。目撃者がいるならば、証言も確認する必要がございます。」


「わ、わたくし……怖くて……」


「ひとまず、怖かったというお気持ちと、実際に何があったかは分けて考えるべきでしょう。」


「レベッカ!」


 カイエン殿下が堪えきれないという様子で怒鳴った。

 王族が公式の場で簡単に声を荒げるとは。思わず眉間に皺が寄りかける。


「まだセレスティアを追い詰めるのか!」


「殿下、私は事実を確認しているだけでございます。」


「その態度だ。その冷たさこそ、君の本性だ!」


 十八にもなって、ただの感想でしか私を非難できないのか。一瞬、彼の愚鈍さに背筋が凍る。

 やはり、もっと徹底的に追い詰めてでも教育しておくべきだった。


「本性ですか。それが、何か証拠にでもなるのでしょうか。」


 何も言わなければ、罪を認めたことになる。問いただせば、か弱い令嬢を追い詰めたことになる。


 ――実に便利な悪女だ。

 私は内心で嘆息した。


「レベッカ・イザベル・フォン・エルヴェシア。」


 低く静かな声だった。

 決して大声ではないのに、大広間のざわめきがすっと引いていく。


 ――ヴィルヘルムが私の名を呼んだ。


 私は彼を見た。

 恐らく今回の断罪劇を、単なるカイエンの身勝手な思いつきではなく、貴族派と王室、その双方に利のある形へ仕上げたであろう彼を。


 彼も、私だけを見ていた。


「公爵家は、あなたの出自について関知していなかったと申し立て、今後の身柄と処遇を王家へ委ねています。」


 その瞬間、私の体を再度緊張が襲った。喉が引きつりそうになるのを、必死に堪える。


 父が。

 私の身柄を王家へ委ねると決めた。


 ――私を、捨てた。


 この、私を。


 会場に姿が見えなかった時点でどこか覚悟していたはずなのに、突きつけられた事実に胸の奥が軋む。

 詳しく考えてはいけない。私が父の子ではないと、まだ決まったわけではない。


 ――幼少期の忘れたはずの悲哀に、足を掬われてはいけない。


「王家への詐称疑惑、王族周辺への不当な干渉、複数の貴族子女への威迫行為。以上を理由として、エルセリア王家はあなたの貴族籍を剥奪し、国外追放とする処分を決定しました。」


 貴族籍剥奪。

 国外追放。


 世界から音が消えた。


「財産の持ち出しは認められません。処分は即日発効。ただし、収監および身体拘束は行わず、国境まではエルセリア王家の責任において護送します。」


 ヴィルヘルムの言葉は、あまりにも簡潔だった。

 人一人の人生を壊すための文章としては、見事なほどに。


「……つまり私は、本日この場で婚約を破棄され、公爵家の血を偽った罪人として貴族籍を剥奪され、財産を持たずに国外へ追放される、と。」


 自分の声が、どこか遠くから聞こえた。


「そういう理解でよろしいでしょうか。」


 誰も答えない。

 皆、私が泣き崩れるのを待っているのだろうか。ここで膝をつき、許しを乞うことを期待しているのだろうか。


 ――そんな無様な姿、私が晒すわけがない。


 心の中で冷笑する。


 今の私には、泣くより先に考えなければならないことがある。

 それに集中する。これは結末の決まった茶番だ。つまり、さきほど私に下された沙汰はもう変わらない。


 冷静に、対策を立てなければ。即座に。

 持ち出せるもの。国境までの日数。移動中の刺客の可能性。隣国の治安。金銭に換えられる技能。


 ――感情よりも、生き残ることを優先しなければ。


 感情の発露が許されるのは、ある程度考えがまとまってからだ。

 私は誰にも気づかれぬよう、奥歯でぐっと口内を噛み締める。


「そうだ。」


 唐突にカイエンが言った。なんともいやらしい声だった。


「最後に申し開きがあるなら、聞くだけは聞いておこうか。」


 正式な法廷でもなく、弁護人も証人も呼べず、証拠の原本も見られず、処分はすでに決定済み。


 ――ずいぶん寛大な申し開きの機会だ。

 私は胸の内で失笑した。


「では、一つだけ。」


 私は深く礼をした。

 七年かけて磨いた、最も美しい礼を。


 最後まで完璧に。


「カイエン殿下。どうか、よき王におなりくださいませ。」


 カイエンの顔が歪んだ。その腕に縋るセレスティアの表情も固まる。


「この国には、戦後復興、地方の貧困、穀物備蓄、退役兵への補償、孤児院への支援、隣国との交易と、まだ多くの課題がございます。」


「黙れ。」


「耳触りのよい言葉だけでなく、必要な言葉にも耳を傾けてくださいませ。」


「黙れと言っている!」


「私はもう、殿下へ小言を申し上げる立場ではなくなりますので。七年分の、最後のご忠告でございます。」


 言い終えて、私は顔を上げた。

 少し長すぎたかもしれない。だが、七年間の子守の退職挨拶としては妥当だろう。


「連れて行け!」


 カイエンが怒りのまま、焦るように命じた。

 二人の騎士が私の両脇へ進み出る。拘束はされない。


 私は背筋を伸ばしたまま踵を返す。夜会のために仕立てた銀色のドレスが、磨き上げられた床を滑った。

 今回の夜会のために、王室御用達の衣装店で作らせた品だ。

 つまり最高級品である。


 ――これは、売れるだろうか。


 真珠はいくつ付いていただろう。取り外して別々に手放した方が高値になるだろうか。

 財産を持ち出せないなら、今身につけているものが当面の資金になる。


 首飾り。耳飾り。ブレスレット。ドレス。髪も売れるかもしれない。


 考えるべきことは多い。悲嘆、後悔、憤怒なぞ、あとからいくらでもできる。


 観衆が閉幕を見守る中、私が大広間の扉へ近づいた時、背後で靴音がした。


 一歩だけ。


 私は振り返らなかった。けれど、その足音が誰のものかは、なぜか分かった。


 ――ヴィルヘルム。


 彼は一歩を踏み出し、そして止まった。

 何をしようとしたのか。何を言おうとしたのか。


 ――知りたくない。


 今さら手を伸ばすくらいなら、最初から私を斬る道など作らなければよかったのだ。

 彼なら、それができたはずだ。いや、むしろ彼にしかできなかっただろう。


 扉が開く。

 冷たい廊下の空気が、熱を持った頬に触れた。そこで私は、自分がかなり動揺していることに改めて気づく。


 私はそのまま振り返らずに大広間を出た。

 後ろで大広間の重厚な扉が、重い悲鳴のような軋みを上げて閉じる。


 ここまで十九年間を費やした世界が、今、私の背後で断ち切られた。


 気を抜けば身を屈めそうなほどの吐き気が襲う。カタカタと細かく震える足元は、今にも崩れそうだった。

 それでも私は前を向き、いつもの通りを装って、静かにゆっくりと歩みを進めた。前を行く騎士の背中には、罪人となった私への気遣いなどもちろん微塵も感じられない。


 私には、日本という国で生きていた記憶があった。

 いわゆる前世、というものだろうか。


 前世の私は、特別な人間ではなかった。特段の才能も、権力も、財産もなかった。

 ただ、とにかくしぶとかった。


 恐らく、恵まれた家庭でもなかったのだろう。家族の影は、霞がかったように遠い。

 しかし、一向に楽にならない暮らしの中で、私は踏まれても踏まれても起き上がり、失敗すれば別の方法を探し、耐え忍び、それだけで三十数年を生きた。その記憶があった。


 そして、前世でそれなりに日本のサブカルチャーに親しんでいたのだろう私には、このシチュエーションに何となく思い当たる節があった。


 ――悪役令嬢、断罪、追放、ざまあ。


 自分の身に起こったと思えば、腹立たしいことこの上ないが、まあ、ありがちな物語だ。


 そして、またありがちな通り、私はとても、とても、しぶとい。

 加えて、真面目で、現実主義者だ。


 王妃になる未来は、今日確かに消えた。

 家も、名前も、居場所も、明日には失うだろう。


 ――それでも私は、まだ生きている。

 生きていれば、人間なんとかなるものだ。


 口元を引き結んだ。

 しぶとい私には、悲しむより先に考えなければならないことがある。


 二度目の人生を根こそぎ引き抜かれた夜。

 私が最初に考えたのは、このドレスが、いくらで売れるかだった。

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