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10/15

第十話 畑の藪を切り開く

 翌朝、私は自分の家で目を覚ました。


 目を開けた瞬間、まず天井が低いと思った。

 朝の光に照らされた古い壁には、昨日は気付かなかった小さな染みがあった。

 窓の外では、森の葉が朝の風に揺れているのか、乾いた音が重なって聞こえる。


 私は、昨日買ったばかりの敷き布団の上で、毛布にくるまっていた。


 ああ。

 そうだ。


 ――ここは、私の家だ。


 その事実は、昨日より少しだけ静かに胸へ落ちてきた。

 初めて鍵を受け取った時のような高揚ではない。初めて火を入れた時のような震えでもない。


 もっと小さくて、もっと確かなもの。

 朝起きたら、そこにあるもの。


 昨夜は、森の音に何度か目を覚ました。

 風が枝を揺らす音。小さな獣が草を踏むような音。家の木材がきしむ音。


 そのたびに私は、鍵を確認したくなった。

 実際、二度確認した。


 玄関の鍵。裏口のかんぬき。窓の留め具。暖炉の火の始末。

 全部確認して、ようやく眠った。


 怖くなかったと言えば嘘になる。

 けれど、不思議と寂しくはなかった。


 家が古い音を立てるたび、この家も私と一緒に踏ん張っている気がしたから。


 私は毛布の中で伸びをした。

 体は相変わらず痛い。腕。腰。肩。あちこちが日頃の運動不足を責めるように抗議を始めている。


 だが、そんなことには構っていられない。


 今日は畑を見るのだ。

 そう、見るだけ。


 昨日の夜、私はそう決めた。


 今日は畑を見るだけ。

 どこから手をつけるか、手順を確認するだけ。

 草の種類を見て、日当たりを見て、土を少し触るだけ。


 決して無理をしてはいけない。家の中もまだ完全には整っていないのだ。

 井戸の確認も終わっていないし、鍋もまだ一つしかない。


 生活基盤を整える方が、よほど先である。

 だから、今日は畑を見るだけ。


 私は自分にそう言い聞かせながら起き上がった。


 顔を洗い、昨夜の残りのスープを温める。

 暖炉に小さく火を入れるのは、昨日より少しだけ上手くできた。


 火花が飛び、細い木くずに赤い点が灯る。息を吹きかけると、小さな炎が生まれる。

 昨日のように感動で座り込むことはなかったが、それでも胸は弾んだ。


 火がつく。

 湯気が立つ。

 スープが温まる。


 私は生きている。


 朝食を食べながら、窓の外を見た。

 庭の向こうに、藪がある。


 昨日までは、荒れた畑と呼んでいた場所。今朝はどこか違って見える。

 ……いや、実際には何も変わっていない。


 草は伸び放題。蔓は絡み放題。やはり小さな木としかいえないものまで生えている。

 畑というより、緑の塊だ。


 けれど、その下には土がある。

 土があれば、何かを育てられる。

 何かを育てられるなら、可能性がある。


 私は匙を置いた。


 今日は見るだけ。

 見るだけ。

 見るだけ。


 私は食器を洗い、外套を羽織り、昨日買った作業用の手袋をはめた。

 見るだけなのに手袋をするのか。


 もちろんする。

 安全のためだ。


 見るだけでも、棘があるかもしれない。蔓を少しどける必要があるかもしれない。土を触るかもしれない。

 だから手袋が必要である。

 ……これは決して、草を抜く気満々だからではない。


 私は自分にそう説明しながら、庭へ出た。



 朝の空気は冷たく、澄んでいた。


 森から湿った土の匂いがする。鳥が鳴いている。

 草の先には朝露がついていて、光を受けて小さく輝いていた。


 王宮の宝石よりもずっと小さな光。

 けれど、これまで見てきたどの宝石よりも輝いて見えた。


 荒れた畑の前に立つ。


「さて。」


 腕を組む。

 藪も揺れを止め沈黙している。


 なかなか手強い相手に違いない。風格に手練れ感がある。


 昨日、種屋の老婆が言っていた。

 畑は人間の欲を見抜く。最初から広げすぎると、草に負ける。


 まずは小さく。

 自分が世話できる分だけ。


 ――大事だ。


 私はこれまで、世話できないほど大きなものを背負おうとして失敗した。

 だからこれからは、小さく始めると決めた。


 この巨大な藪全体を相手にしてはいけない。

 まずは一角だけ。日当たりがよく、井戸からも近く、家から見える場所。


 私は畑の端を歩き、場所を確認した。

 南側の一角に、少し草が低い場所がある。日当たりも悪くない。家の窓からも見える。


 そこなら、今日少しだけ手を入れられるかもしれない。

 ……いや、見るだけの予定のはずだ。


 だが、草を少しどけてみなければ、土の状態は分からない。

 土の状態を見るためには、ほんの少しだけ草を抜く必要がある。


 これは作業ではない。

 確認であり、見ることの一部である。


 私は自分にそう言い聞かせ、膝を折った。


 手袋越しに草を掴む。

 まずは片手で引いてみる。

 抜けない。


 もう一度次はもう少し力を入れて引く。

 ……まだ抜けない。


 かなり強い根が張っているようだ。仕方がない。

 私は両手で掴み、腰を入れた。


「んんっ……。」


 ぶちっ、と音を立てて草が抜けた。

 勢い余って、尻もちをつく。


 朝露で少し湿った土の上に、見事に座り込んだ。

 ……お尻が冷たい。

 スカートが汚れた。


 私はしばらく呆然として、空を見上げた。


 ――青い。

 実に青い。


「……なかなか強敵ね。」


 草に向かって言う。

 草は当然、返事をしない。


 だが、勝負は始まったのだ。

 頭の中で試合開始のゴングが鳴り響く。


 私は立ち上がり、まず抜いた草を脇へ置いた。

 土が少し見えた。

 黒っぽく、湿り気がある。

 ――これは悪くない。


 私は土を指でつまみ、ほぐしてみた。少し固い。

 でも、粘土のような粘り気も少しだけある。

 手を入れれば、使えるかもしれない。


 その「かもしれない」が、私の胸を強くくすぐった。


 私はもう一本、草を抜いた。

 それから、もう一本。

 また一本。


 見るだけの予定は、三本目で完全に崩壊した。


 まあ、仕方ない。

 現地確認とは、時に実作業を伴うものである。

 私は自分にそう言い訳しながら、草を抜き続けた。


 作業は思っていたより大変だった。

 小さな草は抜きやすい。だが、蔓は絡まる。

 棘のある枝は手袋越しでも痛い。根の深い草は、全身で引かないと抜けない。


 虫もいた。

 小さな虫。やや大きな虫。

 ……見なかったことにしたい虫。


 私は何度か固まった。

 しかし叫ばなかった。

 ……いや、一度だけ小さく「ひゃっ。」と言ったかもしれない。


 でも、あれはきっと叫びではない。

 音である。

 不可抗力の音である。


 私は藪と格闘しながら、少しずつ畑の一角を切り開いていった。


 草を抜く、蔓をほどく、枯れ枝をどかす、石を拾う、土をほぐす。

 汗が出る。髪が頬に貼りつく。


 短くしておいて本当によかった。

 長い髪のままだったら、私は今ごろ蔓と一体化していたかもしれない。


 草と元公爵令嬢の融合体。

 考えるだに恐ろしい。


 無心で作業をしていると、なぜか数日前のことが何度も頭をよぎった。

 強烈な記憶はやはりなかなか消えてくれないらしい。

 ……この藪よりも、引き抜くのはきっと大変なのかもしれない。


 大広間の視線。

 カイエンの声。

 父の伝言。

 書類を持つヴィルヘルムの白い指。

 私が退場しようとした時、一歩だけ前に出かけたように見えた姿。


 けれど、そのたびに私は草を引いた。

 ぶちっ。


 また思い出す。

 ぶちっ。


 また痛む。

 ぶちっ。


 また怒る。

 ぶちっ。


 そのうち、少し面白くなってきた。

 まるで心の中に絡みついた感情まで、一緒に抜いているようだった。


 もちろん、草と違って、心の痛みは根こそぎ抜けるわけではない。

 だが、それでもきっと少しずつ空間はできるのだろう。


 光が入る余地ができる。

 風が通る余地ができる。


 ――家に風を入れたように。

 今日は、畑と心に風を入れる日なのかもしれない。



 昼前になる頃には、私は泥だらけだった。

 手袋も、スカートの裾も、靴も、頬も。


 なぜ頬が泥で汚れるのかは分からない。人は土と戦うと、なぜか顔まで汚れる。

 非常に不思議である。


 畑の一角は、ほんの少しだけ開けていた。

 幅は私の両腕を広げたくらい。奥行きも、それほどない。


 けれど、朝とは違う。

 そこには草ではなく、土が見えていた。


 私はそれを見つめた。

 たったこれだけ。


 広い藪の中の、ほんの小さな一角。

 でも、私が切り開いた場所だ。


 私の手で。

 私の汗で。

 誰かに命じられたのではなく。

 誰かに見せるためでもなく。


 私は、自分のための種を植えるためにここを開いた。


 胸の奥が、じんわり温かくなった。


 その時、背後で声がした。


「あんた、朝から何してるんだい。」


 驚いて振り返ると、柵の外に女性が立っていた。

 四十代くらいの、がっしりした体格の女性だ。日に焼けた顔。腕まくりした服。腰には小さな籠。

 いかにも、このあたりで暮らしている人という感じがする。


 私は慌てて立ち上がった。


「おはようございます。昨日からこちらの家を借りているレベッカと申します。」


 丁寧に礼をしかけて、やりすぎだと気づき、途中で少しだけ庶民風に直した。

 かなりぎこちない。


 女性は目を細めた。


「ああ、ローレンスから聞いてるよ。私はマーサ。坂の下の家に住んでる。」


「よろしくお願いいたします。」


「で、その泥だらけの格好で、何を?」


「畑の状態を確認していました。」


 マーサは畑を見た。

 私を見た。

 また畑を見た。


「確認にしては、戦ってるね。」


「少し負け気味です。」


「だろうね。」


 マーサは柵を開け、庭へ入ってきた。

 遠慮がない。

 だが、嫌な感じはしない。


 彼女は畑の一角を見て、しゃがみ、土をつまんだ。


「悪くないよ。草は多いけど、土は生きてる。前の住人が少しだけ野菜を作ってたからね。」


「本当ですか?」


「十年くらい前だけどね。」


「十年。」


 畑としては、かなり眠っていたということだろうか。

 マーサは藪を見回した。


「全部を一人でやろうとするんじゃないよ。腰を壊す。まずはここだけ。あんたが今開けた分くらいでいい。」


「やはり、最初は小さい方がいいのですね。」


「当たり前さ。畑は赤ん坊みたいなもんだよ。世話できる分だけ増やすんだ。」


 種屋の老婆と同じことを言う。

 畑に関わる人々は、皆同じ知恵を持っているのかもしれない。


「何を植えるつもりだい?」


「まだ決めていません。初心者にも育てやすいものをと思っています。」


「葉っぱものなら早い。豆もいい。根菜は土をもう少しほぐしてからだね。あと、ここは森が近いから獣除けも考えな。」


「獣。」


 なんということだ。

 私が種をまく前から、敵が多い。


 草。

 虫。

 獣。


 畑は戦場である。

 しかし、戦場なら準備すればいい。

 私は真剣に頷いた。


「対策を教えていただけますか。」


 マーサは私の顔を見て、にやりと笑った。


「あんた、本気だね。」


「はい。」


「じゃあ、午後に少し見てやるよ。古い鍬も余ってる。まだ使えるはずだ。買うかい?」


「買います。」


「値段は安くしとく。代わりに、時々うちの針仕事を手伝ってくれると助かるね。目が疲れてきてさ。」


「針仕事ならできます。」


 これはありがたい。

 収入、あるいは物々交換の可能性が出てきた。

 私は思わず身を乗り出した。


「本当に、ぜひ。縫い物、繕い物、刺繍、簡単な帳簿、手紙の代筆もできます。」


 マーサは少し驚いた顔をした。


「ずいぶん色々できるんだね。」


「色々仕込まれました。」


「訳ありかい?」


「……人生には、いろいろあります。」


「便利な言葉だ。」


「最近、よく使います。」


 マーサは声を上げて笑った。

 その笑い声は明るく、森の空気によく馴染んだ。


「よし。じゃあ、昼を食べたらまた来るよ。無理するんじゃないよ。」


「ありがとうございます。」


 マーサが去ったあと、私は畑の前に立ち尽くした。


 近所の人。

 助言。

 古い鍬。

 針仕事。


 もしかしたら、ここで少しずつ暮らしの輪ができていくのかもしれない。


 見知らぬ街で、誰にも知られず、一人で生きるつもりだった。

 でも、完全に一人でなくてもいいのかもしれない。


 少し距離を保ちながら。

 自分の足で立ちながら。


 ――それでも、助けてもらえる時は助けてもらってもいいのかもしれない。


 私は家に戻り、昨夜の残りのスープをまた温めて昼食にした。

 やはり豆は昨日より柔らかくなっている。二度温め直したせいだろうか、味もだいぶ馴染んでいる。

 二日目のスープ、実に素晴らしい。



 食後、私は市場へ行くか迷った。


 種。

 買うなら今日だ。

 いや、まだ早い。


 でもマーサが午後に来る。

 鍬も見せてくれる。畑の一角は開けた。土も少しほぐした。


 ……もし、もしも今日のうちに少しだけ種をまけたら。


 明日から毎朝、水をやれる。

 芽が出るのを待てる。


 私は暖炉の前で腕を組んだ。

 種はまだ買わない、と昨日決めた。


 しかし、状況は変わったのだ。


 畑の一角が開けた。

 近所の助言者も得た。


 であれば、少量の種を買うのは、無謀ではなく計画的な投資ではないだろうか。


 そう。

 投資である。

 未来への投資。


 食費削減のための初期費用。

 私は立ち上がった。


「少しだけよ。」


 誰に言うでもなく呟く。


「少しだけ買う。」


 私は小銭袋を持ち、急いで市場へ向かった。

 種屋の老婆は、私を見るなり笑った。


「来たね。」


「少しだけです。」


「皆そう言う。」


「本当に少しだけです。」


「何をまく?」


「初心者向けの葉物を。森のそばで、日当たりは午前から昼過ぎまで。畑は長く使われていなかったようですが、土は悪くないと言われました。」


 老婆は目を細めた。


「あんた、ちゃんと聞いてきたね。じゃあ、これだ。早く芽が出る。失敗しても泣かない量だけまきな。」


「失敗する可能性は?」


「畑に絶対はないよ。」


「なるほど、格言ですね。」


「そういうことさ。だから面白い。」


 私は小さな種袋を一つだけ買った。

 一つだけ。

 本当に一つだけ。


 自分で自分を褒めたい。


 帰り道、種袋を服の内側にしまいながら、私は何度もそこへ触ってしまった。

 小さな袋。

 軽い。


 けれど中には、これから芽になるものが入っている。

 不思議だ。

 こんなに小さいのに、未来の気配がする。


 家へ戻ると、マーサがすでに柵の前で待っていた。

 足元には古い鍬と、小さな熊手のような道具が置かれている。


「買ってきたね。」


「少しだけです。」


「はいはい。」


 本当に少しだけなのに。

 そんなに信用できない顔をしているのだろうか。


 マーサは畑に入り、鍬の使い方を教えてくれた。


 腰を入れる。

 腕だけで振らない。

 深くやりすぎない。

 根を取り除く。

 土をほぐす。

 石をどける。


 私は何度も失敗した。鍬は重い。思った方向に入らない。土が硬いところでは跳ね返される。

 それでも、マーサが見本を見せてくれ、私は真似をした。


 少しずつ、ほんの少しずつ、土が柔らかくなっていく。

 マーサは容赦なく言った。


「そこ、雑。」


「はい。」


「根が残ってる。」


「はい。」


「腰が高い。」


「はい。」


「返事はいいね。」


「王妃教育で鍛えました。」


 しまった。

 作業に集中して、つい言ってしまった。


 マーサがこちらを見た。


「王妃教育?」


「……言葉の綾です。」


「ふうん。」


 彼女はそれ以上聞かなかった。

 ……ありがたい。


 昨日から、どうも心の壁が緩みがちだ。

 私は今後、うっかり発言に気をつける必要がある。


 夕方前、ようやく小さな畝が一つできた。

 不格好だった。

 曲がっている。

 高さも均一ではない。

 でも、畝だ。


 私が作った、初めての畝。


 私は泥だらけの手で、その畝を見つめた。


 なんだか、もう。胸がいっぱいだった。


「まくかい?」


 マーサが聞いた。

 私は小さな種袋を取り出した。


 袋を開けると、中には細かな種が入っていた。

 思っていたより小さい。


 こんな小さなものが、芽を出すのか。

 葉になるのか。

 食べられるのか。


 生命とはすごい。


 私はマーサに教わりながら、種をまいた。


 深くしすぎない。

 間隔を空ける。

 土をそっとかぶせる。


 最後に、井戸水を少しだけやる。

 水が土に染み込んでいく。


 それだけの光景を、私は息を止めるように見つめた。


 終わった。

 まいた。

 私は、本当に種をまいた。


 何日で芽が出るのだろう。

 ちゃんと出るだろうか。

 鳥に食べられないだろうか。

 水をやりすぎてもいけないのだろうか。


 心配は次々に湧いてくる。


 けれど、それ以上に、胸が弾む。


 明日、見に来よう。

 明後日も。

 その次の日も。


 私はきっと、毎朝この畝を見る。

 まだ何も出ていない土を見て、芽を待つ。


 ――なんて贅沢な時間だろう。


 マーサは私の顔を見て、少し優しく笑った。


「初めての畑は、子どもみたいなもんだね。」


「はい。」


「毎朝、見に来たくなる。」


「はい。多分そうなります。」


「しばらくは何も出ないよ。」


「分かっています。」


 でも、見たい。

 私は畝の前にしゃがんだ。


 土は静かだった。ただ湿って、夕方の光を受けて、そこにある。

 でも、その下には種がある。

 未来が埋まっている。


 私はその土に、そっと手を置いた。


 公爵家でも、王宮でも、私はずっと上へ上へと伸びようとしていた。

 認められるために。

 選ばれるために。

 失望されないために。


 けれど今、初めて下を見ている。


 土を見る。

 根を張る場所を見る。


 この種はここから始めるのだ。


 上に伸びるしかない花ではなく、まず土の中の小さな種から。

 ゆっくりと、じっくりと。


 それでいいのだと思った。


 私はもう、誰かの王妃になるためだけに生きなくていい。

 誰かの娘として認められるために、完璧でなくてもいい。


 今の私は、泥だらけで、髪は短くて、腕は痛くて、服は汚れている。

 でも、ちゃんと生きている。


 火をつけ、スープを作り、家を掃除し、畑を耕し、種をまく。


 ――私は、私の人生をちゃんと始められている。


 胸の奥に、灯った小さな火が、少しだけ大きくなった気がした。


「私。」


 気づけば、声が出ていた。


「ここでなら、生きていけるかもしれない。」


 言った瞬間、鼻の奥がつんとした。

 でも泣かなかった。


 泣く代わりに、笑った。


 泥だらけの顔で。

 畝の前にしゃがみ込んだまま。


 きっと、かなりひどい顔だったと思う。

 でも、私は笑っていた。


 マーサが少し離れたところで、何も言わずに見守ってくれていた。


 その時だった。


 森の道の方から、馬のいななきが聞こえた。

 私は顔を上げた。


 ――こんな夕方に、誰だろう。


 マーサも振り返る。


 木々の間から、一頭の黒馬が現れた。

 美しい馬だった。


 艶のある黒い毛並み。

 長い脚。

 手入れの行き届いた馬具。


 このあたりの農家や商人が使う馬ではない。


 そして、その手綱を握っていた人物を見た瞬間、私は息を止めた。


 淡い金髪。

 澄んだ碧眼。

 彫刻のように整った顔。

 無表情。


 けれど、今はその無表情が、どこかひび割れて見えた。


 ヴィルヘルム・レオンハルト・フォン・アインシュヴァルド。


 私を断罪する刃を整えた男。

 王宮の図書室で、私の髪を褒めた男。

 国境の宿を手配していたかもしれない男。


 その男が、森の道に立っていた。


 なぜ。

 どうして。

 こんなところに。


 私の思考が止まる。


 ヴィルヘルムの視線が、私を捉えた。


 泥だらけの服。

 土のついた手袋。

 頬についた泥。

 畑の前にしゃがんだ姿。


 そして。


 耳の下で揺れる、短くなった髪。


 彼の顔から、すっと血の気が引いた。

 ほんの一瞬だけ、彼は言葉を失ったように見えた。


 それから、低い声で言った。


「髪を……切ったんですか。」


 最初にそれか。


 私は、泥だらけのまま立ち上がった。

 胸の奥に、怒りと悲しみと、ほんの少しの動揺が一気に押し寄せる。


 でも、私は笑った。

 かなり冷たい笑みだったと思う。


「ええ。売りました。」


 ヴィルヘルムの瞳が、わずかに揺れた。

 その揺れを見た瞬間、私は思った。


 ざまあみろ。


 そして、同時に。


 どうして、そんな顔をするの、と。


 夕方の森に、風が吹いた。


 小さな畝の土が、静かに湿っていた。


 私がようやくまいたばかりの未来に、過去が追いついてきたのだ。

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