第十一話 監視役は畑に立つ
私は髪を切った。
公爵令嬢であった過去と一緒に。
そして売った。
私を公爵令嬢として成り立たせていたドレスや装飾具と同様に。
前へ進むために。
生きていくために。
私は泥だらけの手袋をぎゅっと握りしめた。
胸の奥に、熱いものと冷たいものが同時に広がる。
怒り。
悲しみ。
戸惑い。
そして、ほんの少しだけ、見てほしくなかった姿を見られてしまったような、ひどく腹立たしい痛み。
ヴィルヘルムの瞳が、わずかに揺れた。
「売った……?」
「はい。長い髪は手入れが大変ですし、目立ちますし、売れば数日分の宿代になりますので。」
わざと、事務的に言った。
数日分の宿代。
食費。
生活費。
それが、あの髪の行き先だ。
あなたが以前褒めたあの髪は、私のパン代になりました。
そう言ってやりたかった。
言わなかった。
言えば、自分まで傷つきそうだったから。
鏡を覗くたびに、短くなった髪を見て痛む心がまだなくなったわけではなかったから。
ヴィルヘルムは何か言いかけた。
けれど、その前に低い女の声が割って入った。
「ちょっと待ちな。」
マーサだった。
彼女は畑の横から、鍬を片手にずんずん歩いてきた。
腰に手を当て、泥だらけの私と、黒馬を連れた高貴な青年を見比べる。
その目は、先ほどまで畑を教えてくれていた時とはまるで違った。
鋭い。
完全に警戒している。
「あんた、どこの誰だい。いきなり若い娘の家に押しかけてきて。」
ヴィルヘルムの視線が、初めてマーサへ向いた。
王宮にいた頃なら、彼の視線を受けただけで多くの者は怯んだだろう。
大国アインシュヴァルドの第三王子。
氷の王子。
貴族や官僚たちでさえ、彼の沈黙には圧を感じる。
だが、マーサは怯まなかった。
鍬を持ったまま、むしろ一歩前へ出た。
強い。
畑の人は強い。
私は心の中で少し感動した。
ヴィルヘルムは黒馬から降りた。
動作は流れるように美しかった。
悔しいが、彼は絵になる。
夕暮れの森。
艶やかな黒馬。
淡い金髪の王子。
整った顔。
長い外套。
どう見ても、物語の中から抜け出してきたような姿である。
……問題は、ここが物語の舞台ではなく、私の泥だらけの畑だということだ。
ヴィルヘルムはマーサに向かい、わずかに頭を下げた。
「突然の訪問、失礼しました。ヴィルヘルム・レオンハルトと申します。」
家名を省いた。
アインシュヴァルドの名を。
第三王子であることを。
それが配慮なのか、都合の悪さなのか、私には分からなかった。
けれど、私の口は怒りと共に勝手に動いた。
「この方は、私を前の家から追い出した方々のうちのお一人です。」
ヴィルヘルムの顔が、わずかに強張った。
マーサの目が一気に険しくなる。
「へえ。」
短い一言だった。
だが、鍬の握り方が変わった。
もはや完全に敵を見る目である。
「そいつはまた、ご立派なお知り合いだね。」
「知り合いというほど親しくはありません。」
私は即座に言った。
言ってから、なぜか少し胸が痛んだ。
親しくはなかった。たしかに、親しくはなかったはずだ。
何度も議論はした。
同じ卓で同じ教師の授業を受けた。
図書室で何度も顔を合わせた。
舞踏も乗馬も共にしたことがある。
時々、髪や装飾品を褒められたことも。
けれど、それだけだ。
それだけだったはずだ。
だから、この痛みは私の勘違いだ。
「レベッカ。」
ヴィルヘルムが静かに私の名を呼んだ。
その声に、マーサがぴくりと反応する。
「名を呼ぶほどの仲なのかい?」
「昔、王宮で何度か話しただけです。」
「王宮。」
マーサの目が、今度は私へ向いた。
しまった。
こちらもまた余計なことを言った。
しかし、今さら隠しても遅い。
私は深く息を吸った。
「人生には、いろいろありまして。」
「便利な言葉だけど、そろそろ便利すぎるね。」
「自覚しています。」
マーサは鼻を鳴らした。
それから、鍬を構えたままヴィルヘルムへ向き直る。
「で、その王宮の何とかさん。あんたは、この子に何の用だい。」
この子。私はまた少し驚いた。
会ってまだ一日も経っていない。
それでもマーサは、私をこの子と呼んだ。
その言葉が、胸にじんわり広がる。
父に無関係の者と言われた私を、昨日会ったばかりの人が、この子と呼んでくれる。
変なところで泣きそうになった。
いや、泣かない。
今は絶対に泣いていい場面ではない。
ヴィルヘルムは、私ではなくマーサに答えた。
「彼女の安全確認と監視です。」
――監視。
その言葉が、畑の上に硬く落ちた。
私はすっと目を細めた。
マーサの眉も吊り上がる。
「監視だって?」
「はい。」
ヴィルヘルムの声は淡々としていた。
まるで王宮の会議室で報告書を読み上げる時のように。
「レベッカ嬢は、エルセリア王国第一王子カイエン殿下の命により国外追放となりました。ただし、王室としては、処分後も一定期間、彼女の所在と行動を確認する必要があります。」
私は、思わず笑った。
今度は本当に、乾いた笑いだった。
――有無を言わせず私からすべてを奪って追い出しておいて、今さら確認に来るとは。
「まだ私を疑っているのですか。」
「疑いというより、手続き上の確認です。」
「手続き。」
「はい。」
手続き、監視、確認。
なんて冷たい言葉だろう。
この人は、本当に何をしに来たのだろう。
私が髪を切り、ドレスを売り、泥だらけで畑を耕している姿を見て、それでも言うことは監視なのか。
そうか。
分かった。
きっと、見に来たのだ。
自分たちにざまあされた女が、どれほど惨めに暮らしているか。
断罪された悪女が、貴族令嬢の外側を剥がされ、髪まで売って、泥にまみれている惨めな姿を。
王宮で私を裁く書類を整えたこの人は、それをわざわざ確認しに来たのだ。
監視という名目で。
私は短く息を吐いた。
「ご満足ですか。」
ヴィルヘルムの眉が、ほんのわずかに動いた。
「何がです。」
「断罪された女が、髪を売って、安い服を着て、森のそばの古家で泥だらけになっている姿をご覧になって。」
「レベッカ。」
「惨めな姿を確認しにいらしたのでしょう。」
ヴィルヘルムの顔が強張った。
「違います。」
「小賢しい女が、ざまあみろとでも仰ったらどうですか。」
「違います。」
「では、監視とは何ですか。」
「第一王子からの要請です。」
「便利な言葉ですね。」
私は小さく笑った。
「カイエン殿下の命令なら、私の暮らしを覗きに来てもよいと?」
「覗きに来たわけではありません。」
「では、何をしに?」
「あなたが、手配した宿にいなかったからです。」
手配した宿。
やはり、か。
私は彼を見た。
「誰が手配したのですか。」
ヴィルヘルムはすぐには答えなかった。
その沈黙で、十分だった。
「あなたですね。」
「……エルセリア王室の手配です。」
「王室を通じて、あなたが手配したのでしょう。」
「あなたの安全のためです。」
「頼んでいません。」
「承知しています。」
「承知していて、勝手に?」
「必要と判断しました。」
必要と判断しました。
あまりにもヴィルヘルムらしい言い方だった。
正しく、冷たく、隙がない。
そして、私の意思がない。
「あなたは、いつもそうですね。」
私は吐き捨てるように言った。
「正しいと思ったことを、こちらに相談せずに決める。」
ヴィルヘルムは無言だった。
「私の断罪に必要な罪状を整えた時も、そうだったのでしょう。あなたの中では、それが最善だった。王室のためだった。国のためだった。手続き上必要だった。」
「……。」
「でも、その手続きで傷つく人間がいるとは、あまり考えなかった。」
ヴィルヘルムの表情は変わらない。
けれど、指先がわずかに動いた。
私はそれを見た。
見てしまった。
見たくなどないのに。
「レベッカ嬢。」
ヴィルヘルムは、今度は私を嬢と呼んだ。
距離を置くための呼び方。
王宮で見せる、義務的な顔。
それがまた腹立たしい。
「この家は、あなたが暮らすには適していません。領主館へ移動していただきます。」
私は呆気にとられて瞬きをした。
髪。監視。
次はそれか。
この男は、本当に。
本当に。
「何をもって、そう判断なさるのですか。」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
ヴィルヘルムは家を見た。
古い壁。
苔のある屋根。
荒れた庭。
私が切り開いたばかりの小さな畝。
「森に近すぎます。街からも離れている。夜は危険です。井戸も、煙突も、まだ完全ではないでしょう。あなた一人では――」
「私一人では?」
彼の言葉を遮るように被せた。
ヴィルヘルムが口を閉じる。
「どうぞ続けてください。私一人では、何ですか。」
「……生活するには、負担が大きすぎる。」
「なるほど。」
私は泥のついた手袋をゆっくりと外した。
指先が少し赤くなっている。
草を抜き、鍬を握り、土をほぐした手だ。
先日からの掃除もあって、皮も剥げ、ざらざらとしている。とても公爵令嬢の手とはいえないだろう。
でも、これは、今日の私が生きるために働いた手だ。
ここからここで生きていくために。
「ご心配いただかなくても、昨日煙突も掃除してもらいました。家に火を入れ、スープも作れました。鍵も替えました。寝床もあります。畑も、今日少しだけ開けました。ご覧の通り、種もまきました。」
私は畝を指した。
「ここは、私が借りた家です。私が選びました。私が家賃を払いました。私が掃除をして、私が火を入れて、私が種をまいた場所です。」
言葉にするほど、胸の中の火が大きくなっていく。
「ですので、適しているかどうかは、私が決めます。」
ヴィルヘルムは黙った。
その沈黙に、王宮の夜会の記憶が重なる。
あの時も、彼は黙っていた。
私が悪女にされる場で。
私が罪人にされる場で。
あの沈黙が、私を傷つけた。
――だから、今度は私が黙らない。
「それに、ヴィルヘルム殿下。」
私は彼を、あえて殿下と呼んだ。
マーサがわずかに眉を上げる。
ヴィルヘルムが一瞬、目を伏せた。
名乗らなかった身分を、私が暴いた形になったからだ。
でも、隠す気遣いなどいらない。
ここで取り繕う方が、よほど嫌だった。
「私はもう、あなた方の用意した場所には行きません。」
彼の顔が強張る。
「高級宿にも泊まりません。領主館にも行きません。誰かが先回りして用意した安全で上等な部屋にも、入りません。」
「レベッカ嬢、あれは安全確保のためです。」
「頼んでいません。」
「あなたが頼む前に必要でした。」
「そういうところです。」
ヴィルヘルムが言葉を止めた。
「そういうところが嫌だと言っているんです。私が何を考え、何を望み、何を嫌がるかを聞かずに、あなた方は勝手に決める。婚約破棄も、断罪も、国外追放も、宿も、食事も、保護も、監視も。」
私は畝の前に立った。
小さな畝。
不格好で、曲がっていて、私が泥だらけになって作った畝。
「でも、ここは違います。ここは、私が選びました。」
マーサが、少し離れたところで頷いた。
その動きが見えた瞬間、胸が少し強くなる。
私は一人ではない。
少なくとも今、この場には、私を「この子」と呼んでくれる人がいる。
「……家の中を確認します。」
ヴィルヘルムが言った。
私は耳を疑った。
「何を?」
「危険がないか確認します。玄関、窓、裏口、暖炉、井戸、寝室。最低限の安全確認が必要です。」
「お断りします。」
「レベッカ嬢。」
「私の家です。」
私ははっきりと言った。
「あなたを入れる理由がありません。」
マーサが横から言った。
「そうだね。若い娘の家に、いきなり男を上げるもんじゃないよ。しかも監視だ何だと言う男なら、なおさらだ。」
ヴィルヘルムはマーサを見た。
マーサは平然と見返した。
その光景が少しだけおかしかった。
王宮の誰もが扱いに困る氷の王子を、近所の畑上手な女性が鍬一本で牽制している。
――世界は広い。
私は少しだけ元気になった。
「マーサさん。」
私は彼女に向き直った。
「すみません。少しだけ、庭先で話します。」
「一人で大丈夫かい?」
「はい。」
「大声を出せば聞こえるところにいるよ。」
「ありがとうございます。」
マーサは頷いた。
それから、ヴィルヘルムを睨む。
「あんた、妙な真似をしたら、その綺麗な顔に土を投げるからね。」
ヴィルヘルムは少しだけ目を瞬いた。
「……承知しました。」
そこで承知するのか。
私は状況も一瞬忘れて笑いそうになった。
マーサは鍬を持ち、畑の少し向こうへ移動した。
完全には帰らない。
でも、会話の細かいところまでは聞こえないくらいの距離。
ありがたかった。
ヴィルヘルムと私は、畑の前で向き合った。
夕方の光が、彼の髪を淡く染めている。
美しい人だ。
腹立たしいほど。
そして、ひどく疲れて見えた。
よく見ると、外套の裾には旅の埃がついている。髪もわずかに乱れている。
手袋の指先には、馬を急がせたのか、革の擦れが見えた。
彼はきっと私を探したのだろう。
高級宿にいない私を。
御者リンツから報告を受け、街中を探し、ローレンスの店に行きつき、この家まで来た。
そう考えると、胸の奥が少しだけ揺れた。
――揺れてしまう自分が嫌だった。
「何のために来たのですか。」
私は尋ねた。
ヴィルヘルムは少しだけ口を開き、閉じた。
そして、間をあけてようやく言った。
「監視のためです。」
その一言で、揺れかけた胸がすっと冷えた。
そう。
この人は監視に来たのだ。
心配ではない。
慰めでもない。
好意でもない。
義務。
命令。
手続き。
私は、あんな形で王宮を追い出されたあとまで、まだ管理される対象らしい。
「それと。」
ヴィルヘルムが言った。
「返却すべきものがあります。」
彼は黒馬の鞍に取り付けていた革の鞄から、細長い箱を取り出した。
深い青の革張りの箱だった。
角には銀の留め具があり、内側には柔らかな布が張られているのだろうと、見ただけで分かる。
王宮の贈答品に使われるような、上質で、静かで、腹立たしいほど丁寧な箱。
私はそれを見た瞬間、嫌な予感がした。
「何ですか。」
「あなたが街で手放したものです。」
ヴィルヘルムは箱を開けた。
夕方の光を受けて、金属の細い光が揺れる。
耳飾り。
首飾り。
ブレスレット。
私が売ったものだった。
宿代にするために。
生活費にするために。
過去と切り離すために。
自分の手で、値を聞き、交渉し、手放したもの。
――それが、何事もなかったように、上等な箱の中に並んでいた。
私は喉の奥がぐっと詰まるのを感じた。
「買い戻したのですか。」
「はい。」
「なぜ。」
「所在確認のため、あなたの足取りを追いました。買取店で、売却品を確認しました。」
「確認しただけでは、普通買い戻しはしません。」
「……はい。」
ヴィルヘルムは否定しなかった。
否定しないところが、また腹立たしい。
「私は、それを売りました。」
「承知しています。」
「私の意思で売りました。」
「はい。」
「では、戻さないでください。」
ヴィルヘルムは箱を持ったまま、少しだけ沈黙した。
「これは、王室のものではありません。カイエン殿下のものでも、私のものでもない。あなたのものです。」
「私のものだから、私が売ったのです。」
「では、もう一度どう扱うかも、あなたが決めてください。」
正論のような顔をしている。
だが違う。
これは、私の決定を一度巻き戻す行為だ。
私が売ったものを、彼が買い戻し、上質な箱に入れて、また私の前へ差し出す。
――まるで、私が必死の思いで決意して、手放したことなどなかったように。
腹が立つ。
そして、少しだけ泣きたくなる。
「受け取りません。」
「では、ここに置きます。」
「置かないでください。」
「あなたのものですので。」
「便利ですね、その言い方。」
「はい。」
ヴィルヘルムは、柵の内側には入らず、柵の外の平たい石の上に箱を置いた。
丁寧に。
雨に濡れないよう、外套の内側にあった薄い布で包んで。
その細やかさが、また嫌だった。
私は箱を睨んだ。
箱は何も悪くない。
中身も、何も悪くない。
悪いのは、これを今ここへ戻してきた男である。
「では、私からも返すものがあります。」
私はスカートの内側に縫いつけた小さな隠し袋を引きちぎった。
使わなかったもの。
使えなかったもの。
馬車の中に、誰かが忍ばせた金貨五枚。
私は袋を開き、差し出した。
「これも、あなたですね。」
ヴィルヘルムの視線が、布袋へ落ちた。
ほんのわずかに、指が強張る。
それで十分だった。
「やはり。」
「……安全確保のためです。」
「頼んでいません。」
「承知しています。」
「必要ありません。」
「私は、必要と判断しました。」
「あなたの独善的な判断を、私は望んでいません。」
私は布袋をさらに差し出した。
「お返しします。受け取ってください。」
「生活費に使ってください。」
「使いません。」
「レベッカ嬢。」
「私の生活に、あなたのものを混ぜたくありません。」
声が少し震えた。
だが、言葉ははっきり出た。
「私は、髪を売りました。装飾品を売りました。ドレスを売りました。家を借り、火を入れ、畑を耕しました。惨めに見えるかもしれません。でも、それは私が選んだことです。」
布袋の中で、金貨が小さく鳴った。
「だから、これは返します。」
ヴィルヘルムは、しばらく布袋を見ていた。
受け取らないつもりかと思った。
だが、彼はゆっくり手を伸ばした。
私の指に触れないよう、ほんの少し角度を変えて、布袋を受け取る。
「分かりました。」
「このようなことは二度とおやめください。」
「……分かりました。」
その返事が、いつもより少しだけ重かった。
私は息を吐いた。
これで金貨五枚は、私の手元から消えた。
それとともに胸の奥に少しだけ不安が生まれる。
金貨五枚があれば、もっと楽だったかもしれない。冬の毛布も、薪も、食料も、少しは安心できたかもしれない。
でも、同時に、体の中から小さな棘が一つ抜けたような気もした。
今、私が持っているお金は、私が自分で得た、返す必要のないものだけだ。
「では、ご覧の通りです。」
私は口の端を上げて両手を広げた。
「私はここにいます。髪もドレスも売り、この家で一人で生活しています。誰かを脅してもいませんし、王子に執着してもいません。もちろんセレスティア嬢に嫌がらせをする暇もありません。」
「そういう意味ではありません。」
「どういう意味でも、今の私にはもう関係ありません。監視は不要です。」
私は静かに言った。
「私はもう、カイエン殿下の婚約者ではありません。エルヴェシア公爵家の娘でもありません。王宮に仕える者でもありません。あなた方が私を国外追放にしたのです。私にはもう利用価値もありません。」
ヴィルヘルムは黙っている。
私はふっと口を歪め、冷笑した。わざと挑発して見えるように。
「追い出した相手を、今度は監視する。王族の方々は随分と都合がよろしいのですね。お暇なのかしら。」
ヴィルヘルムの目線が、すっとこちらを向く。
「カイエン殿下とセレスティア嬢の婚礼が終わるまでです。」
私は息を止めた。
カイエンとセレスティア嬢の婚礼。
胸の奥が、変な形に軋んだ。
愛情が残っているわけではない。
絶対に。
少なくとも、今の私はカイエンに恋い焦がれてはいない。
けれど七年間、私は彼の婚約者だった。
将来王になる彼を支える為に、励み、学び、必死に努力してきた時間。
その七年間の終わりを、彼は別の女性との婚礼で飾る。
私が悪女として追放されたあとで。
――私への断罪が、彼らの幸福の踏み台になる。
そう考えると、吐き気に似た不快感があった。
ヴィルヘルムは、私の表情を見た。
その目がほんの少しだけ揺れた気がした。
私がカイエンの名に傷ついたと思ったのだろうか。
違う。
否定したかったが、説明する気にもならなかった。
「そうですか。」
私は言った。
「それはそれは、おめでたいことですね。」
声に棘が混じった。
ヴィルヘルムの顔は変わらない。
「その婚礼が無事に終わるまで、あなたの所在確認を続けます。」
「私が何をすると?」
「分かりません。」
「分からないのに監視を?」
「王室の要請です。」
「要請、またですか。」
ヴィルヘルムは否定しなかった。
私はだんだん疲れてきた。
畑を耕し、種をまいたあとに、こんな会話をするものではない。
人間には体力の限界がある。
精神的にはもうとっくの昔に限界を超えていた。
「分かりました。」
私は言った。
「あなたが勝手に監視するのは、もう止めようがないのでしょう。けれど、私の家に入ることは許しません。私の生活に口を出すことも許しません。私に領主館へ行けと言うことも、宿へ戻れと言うことも、金貨を受け取れと言うことも、すべてお断りします。」
ヴィルヘルムは静かに聞いていた。
「私はここで暮らします。」
私は畑を見た。
「この家で。私が借りた家で。私が火を入れた家で。私が掃除した家で。私が種をまいた畑のそばで。」
自分の足元を見る。
泥のついた靴。
王宮の大広間には絶対に立てない格好。
でも、今の私にはこちらの方がずっと似合っている気がした。
「だから、今日は帰ってください。」
ヴィルヘルムは、長い沈黙のあと、低く答えた。
「分かりました。」
私は少しだけ驚いた。
もっと食い下がると思っていた。
だが彼は、静かに頷いた。
「今日は帰ります。」
――今日は。
その言葉が、とても気になった。
「明日以降も来るおつもりですか。」
「監視は継続します。」
即答だった。
私は額に手を当てたくなった。
「迷惑です。」
「承知しています。」
「承知しているなら、やめてください。」
「できません。」
この男。
本当に。
「では、せめて家には近づかないでください。」
「安全確認が必要な場合は近づきます。」
「必要ありません。」
「判断はこちらでします。」
「そういうところです!」
思わず声が大きくなった。
遠くでマーサがこちらを見た。
私は片手を上げ、大丈夫だと示した。
いや、全然大丈夫ではないが、今のところ土は投げなくていい。
ヴィルヘルムは表情を変えなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を落とした。
その先には、私の手がある。
草で赤くなり、泥で汚れ、皮も剥げ、爪の間にも土が入り込んだ手。
彼はそれを見て、何か言いかけた。
けれど、言わなかった。
……何なのだろう。
どうせまた、あなた一人では無理だとか、慣れないことをするからだとか、そんなことを言うつもりだったのだろう。
言われなくてよかった。
言われていたら、今度こそ本当に土を投げていたかもしれない。
「レベッカ嬢。」
ヴィルヘルムが言った。
「何ですか。」
「髪は。」
そこで言葉が止まる。
私は目を細めた。
「髪が、何ですか。」
ヴィルヘルムは、ほんの一瞬だけ喉を詰まらせたように見えた。
けれど次に出た声は、いつも通り低く、整っていた。
「短い方が、作業には適していると思います。」
私は無言になった。
何だ、それは。
褒めたのか。
嫌味なのか。
それとも本当に、作業効率の話なのか。
分からない。
分からないが、とにかく腹が立つ。
「ええ。実用的でしょう。」
「はい。」
「見物できてよかったですね。」
「……見物ではありません。」
「では、監視でしたね。」
「はい。」
だめだ。
腹が立つ。
そして、なぜか少し悲しい。
この人は、私の髪を見て動揺したように見えた。
けれど結局、言葉に出るのは結局実用性と監視なのだ。
そう。
それがヴィルヘルムという人なのだろう。
私が勝手に、過去の記憶を大切にしていただけで。
「お帰りください。」
私はもう一度言った。
ヴィルヘルムは黒馬の手綱を取った。
だが、乗る前に一度だけ、私の畝を見た。
「……種をまいたのですか。」
「はい。」
「何を。」
「葉物です。初心者向けだそうです。」
「そうですか。」
彼はほんの少しだけ黙った。
「芽が出るといいですね。」
不意に、そんなことを言った。
私は言葉に詰まった。
監視。
義務。
手続き。
その冷たい言葉ばかりを並べていた人が、急に畑の芽の話をする。
やめてほしい。
そういう、ほんの少しだけ人間らしいところを見せないでほしい。
怒り続けるのが難しくなる。
私は視線をそらした。
「……どうも。」
それ以上は言わなかった。
ヴィルヘルムは馬に乗った。
夕暮れの光の中で、黒馬が小さく嘶く。
彼は手綱を引き、森の道へ向かう。
去り際、もう一度だけ振り返った。
私は見返した。
逃げなかった。
背筋を伸ばし、泥だらけのまま、畑の前に立っていた。
やがて、ヴィルヘルムの姿は木々の間に消えた。
馬の蹄の音も遠ざかる。
森が静かになる。
私は、その場に立ち尽くした。
力が抜けた。
精神的なものなのか、肉体的な疲れなのか、膝が少し震えていた。
マーサが近づいてきた。
「大丈夫かい。」
「……多分。」
「多分ね。」
彼女は私の顔を覗き込んだ。
「泣くかい? 土なら貸すよ。顔を伏せても汚れは増えないからね。」
「それは慰めですか?」
「実用的な提案だよ。」
私は少し笑った。
笑った瞬間、涙がぽろりと零れ落ちそうになって慌てて上を向く。
夕方の空が少し滲んでいた。
「監視だそうです。」
「聞こえたよ。」
「まだ私を疑っているんですね。」
「さあね。」
「さあね?」
マーサは鍬を肩にかけた。
「あの男、口では監視と言ってたけどね。あんたの髪を見た時の顔は、監視役の顔じゃなかったよ。」
私は心臓が少し跳ねるのを感じた。
「……どういう意味ですか。」
「さあね。」
「マーサさん。」
「年寄りの勘だよ。」
「マーサさんは年寄りではありません。」
「そういうところは可愛いね。」
マーサは笑った。
私は何も言えなくなった。
あの顔。
髪を見た時のヴィルヘルムの顔。
あれは、何だったのだろう。
同情。
後悔。
驚き。
あるいは、自分たちが断罪した女が思ったより惨めになっていて、さすがに気まずかったのか。
分からない。
分からないものを考えても仕方がない。
私は畝の前にしゃがんだ。
小さな畝。
そして湿った土。
その下には、今日まいた種がある。
さっきまで、ここは未来の象徴だった。私の新しい家の新しい生活。
今はそこに、過去の影が落ちている。
けれど、種は変わらない。
ヴィルヘルムが来ても。
私が怒っても。
泣きそうになっても。
土の下の種は、きっと、ただ静かに芽を出す準備をしている。
私は畝にそっと触れた。
「大丈夫。」
種に言ったのか、自分に言ったのか分からなかった。
「あなたは、あなたの速度で芽を出して。」
――私も、私の速度で立ち直るから。
夕暮れの風が、短くなった髪を静かに揺らした。
マーサが言った。
「今日はもう、畑は終わりにしな。」
「はい。」
「飯を食べて、鍵を閉めて、寝る。考えるのは明日でいい。」
「はい。」
「それと、あの男を家に入れるんじゃないよ。」
「入れません。」
「よし。」
マーサは鍬を担いだ。
「鍬は明日まで貸しとく。無理して続きをやるんじゃないよ。」
「ありがとうございます。」
「あと、泣くなら火の始末をしてからにしな。」
「……実用的ですね。」
「暮らしってのは、だいたい実用だよ。」
マーサはそう言って、坂の下へ帰っていった。
私は一人、畑の前に残された。
森の道はもう静かだった。
黒馬の姿も、淡い金髪の王子の姿もない。
でも、胸の中には、まだ彼の言葉が残っていた。
監視。
命令。
安全確認。
そして。
――芽が出るといいですね。
「……何なのよ。」
小さく呟いた。
怒りたい。
怒っている。
でも、少しだけ分からなくなった。
だから私は、考えるのをやめた。
今日はスープを温めよう。
鍵を閉めよう。
暖炉に火を入れよう。
そして、もし泣くならそのあとだ。
暮らしは続く。
過去が追いついてきても。
監視役が畑に立っても。
私は今日、種をまいたのだ。
――その事実だけは、誰にも奪えない。




