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第十二話 監視役は朝からいる

 春先の眩しい朝の光が、森の家を照らしていた。


 翌朝、私は畑の前でしゃがみ込んでいた。

 昨日まいたばかりの種は、当然ながらまだ芽を出していない。


 分かっている。

 ――分かってはいる。


 種をまいた翌朝に芽が出るわけがない。

 畑にも都合がある。土の中の種だって、起きる準備が必要だ。

 ……それくらい、頭では理解している。


 けれど、見たいものは見たい。


 私は湿った土をじっと見つめた。


 昨日、マーサに教わりながら作った小さな畝。

 不格好で、少し曲がっていて、高さも均一ではない。


 それでも、私の畝だ。

 その下に、私の種がある。


「……まだね。」


 当たり前のことを呟く。

 畝は当然、返事をしない。


 森の朝は静かだった。

 鳥の声。葉のこすれる音。遠くで小さな獣が草を踏むような音。


 朝露を含んだ空気はひんやりとしていて、肺に入るたび、体の奥が少しだけ目を覚ます。

 私は手袋をはめたまま、畝の端の土をそっと押さえた。


 水は足りているだろうか。

 多すぎるだろうか。

 鳥に食べられていないだろうか。

 昨日の夜、寒すぎなかっただろうか。


 心配が次々に浮かぶ。

 種をまいただけでこんなに気になるなら、子育てとは一体どれほど心臓に悪いのだろう。


 いや、今は種だ。

 種に集中しよう。


 私は立ち上がり、井戸の方へ歩いた。

 歩みを進めながらも、頭の中は勝手に昨夕のことを思い出していた。


 寝台の下には、昨夜しまい込んだ上質な小箱がある。

 売ったはずの耳飾り。首飾り。ブレスレット。


 ヴィルヘルムが買い戻し、丁寧な布に包んで置いていったものだ。


 受け取らないと言った。

 置かないでくださいとも言った。

 それでも彼は、これはあなたのものです、と言って柵の外の石の上に置いていった。


 あのまま外へ放っておけば、湿気る。盗まれるかもしれない。傷もつくだろう。

 だから私は、仕方なく家の中へ入れた。

 仕方なくである。


 決して、戻ってきたことが嬉しかったわけではない。

 むしろ困る。


 私は売ったのだ。

 自分の意思で手放したのだ。


 公爵令嬢だった過去の私の一部として。


 それを上質な箱に入れて戻されると、まるで私の決断まで箱の中へ戻されたような気がする。


 腹が立つ。

 とても。


 怒りを鎮めながら、動作を意識して丁寧に水を汲む。

 水汲みも少し慣れてきた。

 今日の水は少しだけだ。やりすぎはよくないとマーサが言っていた。


 畑は、世話をすればするほどいいわけではない。

 構いすぎると根が弱る。

 人間関係みたいだ。


 ……嫌なことを考えた。


 私は頭を振った。

 考えない。


 昨日の夕方、黒馬に乗って現れた監視役のことなど考えない。

 髪を切ったんですか、と真っ先に言った男のことなど考えない。


 監視だの安全確認だの、手続きだの命令だの、冷たい言葉ばかり並べた男のことなど考えない。


 そして最後に、私の畝を見て「芽が出るといいですね」などと余計なことを言った男のことなど、絶対に考えない。


「……考えてるじゃないの。」


 私は井戸の前で自分に呆れた。


 水は冷たく、澄んでいる。

 飲み水として使うにはまだ不安があるが、掃除や畑に使う分には十分だ。


 私は小さな桶に水を移し、畝へ戻った。


 少しずつ、そっと土へ水をやる。

 水が染み込んでいく。


 それだけの光景なのに、妙に満足感がある。


 よし。

 今日の種の世話は終わり。

 ここで追加で水をやらない。


 偉い。

 私は非常に自制心がある人間だ。


 私は桶を置き、畑の残りの藪を見た。

 ……とても広大である。


 昨日切り開いた一角など、全体から見れば爪の先ほどだ。

 藪は相変わらず堂々としている。


 背の高い草。絡まる蔓。小さな木のようなもの。棘のある枝。まだ見ぬ虫たち。


 決して荒れているのではない。

 雄大なのだ。


 私と藪の戦いは、始まったばかりだった。


 今日は、昨日の畝の周りを少し整える。

 それから、家の中の掃除の続き。

 台所の棚をもう一度拭き、鍋を置く場所を決める。

 買い足すものを紙に書いて、マーサに針仕事のことを聞く。


 あとは、薪。

 薪が必要だ。


 火を入れるには薪がいる。

 火がある生活は素晴らしいが、薪がなければ続かない。


 生活とは、気づくたびに新しい必要品が生まれるものらしい。


 私は畑の周りの草を少しだけ抜き始めた。

 昨日ほど全力ではない。

 今日は体を壊さない程度にする。


 昨日の私は少し興奮しすぎた。

 種をまいた喜びで、腰の警告を無視した結果、今朝はなかなかの痛みである。


 私は学習する女だ。

 だから今日は、ほどほどにする。


 草を抜く。

 根を払う。

 石を拾う。

 畝の周りを少し整える。


 十五分ほど作業したところで、森の道の方から馬の蹄の音が聞こえた。


 私は動きを止めた。


 まさか。

 いや、まさかではない。


 昨日、彼は言った。

 監視は継続します、と。


 つまり、来る。

 来ると言ったら来る男だ。


 真面目で、融通が利かず、命令や義務を盾にすれば何でも通ると思っている、たいへん迷惑な男だ。


 私は畑の前でゆっくり立ち上がった。


 森の道から、黒馬が現れる。

 昨日と同じ、美しい馬。


 その横に、やはり昨日と同じように整った姿のヴィルヘルムがいた。

 ただし、今日は馬から降りて手綱を引いている。


 私の家の柵の少し手前で、彼は足を止めた。


 昨日、私が家に入れないと言ったからだろうか。

 柵の中へ入ってこない。

 それだけで、少し意外だった。


 彼にも一応、昨日の会話を理解する節度はあるらしい。


 朝の光の中で見ると、昨日の夕暮れよりもはっきりと分かる。


 淡い金髪は、柔らかな光に縁取られて銀にも近い色に見えた。

 切れ長の碧眼は遠くからでも澄んでいて、何かを確認し続けているような静けさを持っている。


 外套は深い紺色で、背筋のまっすぐな彼の体格をいっそう際立たせていた。

 細身に見えるが、昨日、手綱を握る指に力が入っていたことを私は知っている。


 八歳で質子として敵国に置かれ十年。

 軍事訓練こそなかったものの、剣も乗馬も続けてきた男の体だ。


 王宮の廊下に立っている時とはまた違う。

 朝の森の中で、馬を引いて歩いてくる彼は、絵画ではなく、現実の人間だった。


 腹立たしい。

 そんな姿で来るな。


 私は手袋を外さず、彼を見た。


「おはようございます、レベッカ嬢。」


「おはようございます、監視役殿下。」


 ヴィルヘルムの眉が、ほんのわずかに動いた。


 しまった。

 少し嫌味が強かったかもしれない。


 いや、ちょうどいい。

 彼は監視に来たのだから。


「朝からご苦労なことです。」


「所在確認です。」


「昨日と同じ場所にいます。」


「確認しました。」


「では、お帰りください。」


「周辺の確認も行います。」


「私の敷地には入らないでください。」


「柵の外から確認します。」


 思ったより素直だ。

 私は少し調子が狂った。


 ヴィルヘルムは柵の外をゆっくり見回した。


 森。

 道。

 石垣。

 柵。

 家の窓。

 裏手の方。


 彼の視線は、驚くほど細かかった。


 ただ眺めているのではない。

 危険な場所、侵入できそうな場所、死角。そういうものを確認している目だった。


 質子として敵国で育った王子。

 彼の中には、常に周囲を警戒する習慣があるのかもしれない。


 私は少しだけ黙った。

 腹立たしい人だ。


 だが、有能ではある。


 それもまた腹立たしい。


 ヴィルヘルムの視線が、畑へ向いた。


 昨日まいた畝。

 水をやったばかりの土。

 私の足元の草の山。


「もう作業を?」


「朝は涼しいので。」


「昨日、かなり無理をしていたように見えましたが。」


「監視していたのですか。」


「見えました。」


「つまり監視ですね。」


「はい。」


 正直に認められると、嫌味が続けにくい。

 この男、厄介である。


 私は草を脇へ寄せながら言った。


「ご心配なく。今日はほどほどにします。」


 ヴィルヘルムは少しだけ沈黙した。

 それから、黒馬の鞍に取り付けていた布袋を外した。


 何だろう。

 まさか。

 まさか金銭ではないだろうな。

 私はそっと身構える。


 彼は柵の外の石の上に、その布袋を置いた。


「これは、周辺確認中に不要と判断したものです。」


「意味が分かりません。」


「余ったものです。」


「何がですか。」


「作業用の手袋と、軟膏です。」


 私は無言になった。

 ヴィルヘルムは相変わらず表情を変えない。


「監視役がなぜ作業用の手袋と軟膏を余らせるのですか。」


「同行予定だった者が来られなくなりました。」


「嘘が下手ですね。」


「……不要でしたら捨ててください。」


 そう言って、彼は手を引いた。


 私は布袋を見た。

 開けていないので中身は分からない。


 だが、手袋と軟膏。

 昨日、私の手を見ていた。


 草で赤くなった指先。

 泥で汚れた手。


 彼はそれを見て、今日これを持ってきたのだろう。


 監視役として。

 義務として。

 たぶん。

 おそらく。


 そういうことにしているのだろう。


 私は胸の奥が少し変に揺れるのを感じ、慌てて眉を寄せた。


「受け取りません。」


「捨ててください。」


「なら、ご自分で捨ててください。」


「私は不要です。」


「私も不要です。」


「今使っている手袋は、指の縫い目がほつれています。」


 私は反射的に自分の手を見た。


 確かに、右手の指先の縫い目が少しほつれている。

 昨日、棘のある枝に引っかけたのだ。


 なぜ気づく。

 怖い。


 この人、監視役としては有能すぎる。


「見すぎです。」


「監視ですので。」


「便利ですね、監視。」


「はい。」


 腹が立つ。

 けれど、手袋が必要なのは事実だ。


 軟膏も、正直、少し欲しい。

 昨日から手がひりひりしている。


 しかし、ここで受け取れば、彼の手配を受け入れることになる。


 それは嫌だ。

 非常に嫌だ。


 私は布袋を睨んだ。


 布袋は何も悪くない。

 むしろ、有用そうだ。


 有用なものほど厄介である。


 その時、坂の下からマーサの声がした。


「おお、手袋と軟膏かい。いらないなら私が買い取るよ。」


 振り返ると、マーサが籠を持って歩いてきた。

 彼女は柵の外に置かれた布袋を覗き込み、ふんふんと頷いた。


「丈夫そうだね。軟膏も悪くない。薬草の匂いがする。」


「マーサさん。」


「レベッカ、これはもらうんじゃなくて、買い取りにしな。」


「買い取り?」


「そう。殿下さん、それいくらだい。」


 ヴィルヘルムは一瞬、言葉に詰まった。

 王宮の会議でも見たことのない顔をしている。


 完全に想定外だったらしい。


「……代金は不要です。」


「それじゃこの子は受け取らないよ。」


「では。」


 ヴィルヘルムは少し考えた。


「銅貨一枚で。」


「安すぎる。怪しい。」


「では、適正価格が分かりません。」


 マーサは声を出して笑った。


「あんた、変なところで正直だね。」


 私は唖然とした。

 ヴィルヘルムも少しだけ困った顔をしている。


 困った顔。

 ほんのわずかだが、確かに困っている。


 王宮でいつも完璧だった氷の王子が、手袋の値段を決められずに困っている。


 これは少し面白い。

 しかし笑ってはいけない。

 私は唇を結んだ。


 マーサは布袋の中身を確認し、手袋と軟膏の状態を見た。


「中古扱いなら、このくらいかね。」


 彼女が金額を言った。

 思ったより安いが、銅貨一枚よりはずっと現実的だ。


 私は迷った。


 買う。

 買うなら、贈り物ではない。

 施しでもない。


 取引だ。

 それなら、私の気持ちも少しは保たれる。


 私は小銭袋から硬貨を出した。


「その金額で買います。」


 ヴィルヘルムは私を見た。

 何か言いたそうだったが、何も言わなかった。


 私が硬貨を差し出すと、彼は受け取った。


 手袋と軟膏が、私のものになる。

 代金を払った。

 つまりこれは、私が買った道具である。


 私は胸の中でそう強く確認した。


「ありがとうございます。監視役殿下の不要品、大切に使います。」


 ヴィルヘルムの眉が、またほんの少し動いた。

 マーサは横で笑いをこらえていた。


 私は布袋から手袋を取り出した。

 確かに良い品だ。


 厚手で、指の部分もしっかりしている。

 畑仕事には少し上等すぎる気もするが、丈夫ならそれでいい。


 軟膏の小瓶を開けると、薬草と蜜蝋のような匂いがした。


 懐かしい。

 王宮で使っていたものほど香りは強くないが、質は悪くなさそうだ。


 私は小瓶を閉じた。


「買い取りましたので、これは私のものです。」


「はい。」


「ですから、あなたに感謝はしません。」


「分かっています。」


「取引です。」


「はい。」


「……ありがとうございます。」


 最後の一言は、思ったより小さく出た。


 しまった。

 言ってしまった。


 いや、取引なら礼を言うのは普通だ。

 そう。

 普通の礼だ。


 特別な意味はない。


 ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。


「役に立つなら、何よりです。」


 その声が妙に柔らかく聞こえて、私は慌てて顔を背けた。


 気のせい。

 気のせいである。


 この人は監視役だ。

 私を追放した側の人間だ。


 黒馬に乗って不要品を売りに来る謎の監視役だ。

 何を動揺しているのだ、私は。


「ところで、マーサさん。今日は針仕事のお話を伺おうと思っていたのですが。」


「ああ、そうだったね。うちの古い布の繕いを頼みたいんだ。あと、夫の上着の袖もほつれてる。」


「お引き受けします。」


「代金は硬貨でもいいし、野菜でもいいよ。今なら玉ねぎと芋がある。」


「芋。」


 魅力的な言葉である。

 私は真剣に考えた。


「では、半分は硬貨、半分は芋でお願いできますか。」


「欲張りだね。」


「生活がかかっていますので。」


「いいよ。」


 交渉成立。

 私は嬉しくなった。


 仕事だ。

 小さいが、仕事である。

 自分の手でできることが、この土地で少しずつお金や食べ物になる。


 これほど心強いことはない。

 私は思わず笑った。


 その時、柵の向こうから視線を感じた。

 ヴィルヘルムがこちらを見ていた。


 無表情。

 でも、どこか不思議な顔だった。


 私がマーサと芋の交渉をして喜んでいることが、理解できないのだろうか。


 そうだろう。

 王宮の人間には分かるまい。


 芋は偉大なのだ。

 私は少し胸を張った。


「ヴィルヘルム殿下。所在確認はお済みでは?」


「済みました。」


「周辺確認も?」


「概ね。」


「では。」


「道具置き場が外から丸見えです。」


「え?」


 彼は家の横を指した。


 昨日、私が箒や桶を一時的に置いた場所だ。

 確かに、柵の外から少し見える。


「作業道具は盗まれる可能性があります。せめて物置に入れるべきです。」


「物置はまだ片づいていません。」


「では、家の中へ。」


「泥が落ちます。」


「布を敷けばいい。」


 正論だ。

 腹立たしい。


「あと、裏手の柵が一部緩んでいます。夜間、小動物が入りやすい。」


「獣除けですか。」


「はい。」


「監視役は獣除けにも詳しいのですか。」


「詳しいというほどではありません。しかし貴族学院で、領地管理の基礎は学びました。」


 貴族学院。

 私は、少しだけ懐かしいような、遠いような気持ちでその言葉を聞いた。


 カイエンも、ヴィルヘルムも、十六歳から貴族学院に入った。

 私は通っていない。

 王妃教育のために、私の学びの場は王宮だった。


 学院の教室ではなく、王宮の小さな講義室。


 同年代の令息令嬢たちと肩を並べるのではなく、家庭教師や官僚たちに囲まれ、王妃になるために必要なものを詰め込まれた。


 外交史。

 礼法。

 財政。

 領地経営。

 農政と治水の基礎。


 王妃教育にも、そういう科目はあった。

 ただし、教科書の中で。


 今日の私のように、泥だらけの畑の前で聞くものではなかった。


「つまり、机上の知識ですね。」


「はい。」


 素直に認めた。


「実践については、マーサ殿に確認した方が確実です。」


 なぜそこでマーサさんへの信頼が出てくるのか。

 私はますます調子が狂った。

 マーサは横で満足そうに頷いている。


「分かってるじゃないか、殿下さん。」


 ヴィルヘルムはわずかに頭を下げた。


「こちらの土地のことは、土地の方に聞くべきです。」


 正しい。

 腹立たしいほど正しい。

 私は渋々頷いた。


「ご指摘ありがとうございます。参考にします。」


「必要なら、柵の補強を――。」


「自分でやります。」


 即答した。

 ヴィルヘルムは黙った。


「マーサさんに相談します。」


「そうしな。」


 マーサが横から言った。

 ヴィルヘルムは何かを飲み込むように、口を閉じた。


 その顔が、少しだけ面白かった。


 手を出したいのに出せない。

 口を出せば怒られる。

 監視役の立場を保とうとしているくせに、細かいところが気になって仕方ない。


 そんな感じだ。


 いや、違うかもしれない。

 単に義務感が強すぎるだけかもしれない。


 私は余計な解釈をやめた。


「今日は、もうお帰りください。」


 私が言うと、ヴィルヘルムは素直に頷いた。


「また来ます。」


「来なくて結構です。」


「監視ですので。」


「知っています。」


 彼は黒馬の手綱を引いた。

 その時、ふと畝の前で足を止めた。


 柵の外から、私の小さな畑を見ている。

 昨日より土が少し整っていることに気づいたのだろうか。


「水をやりすぎない方がいい。」


「え?」


「土の表面が湿っているなら、朝だけで十分です。根が弱ります。」


 私は目を瞬いた。


「……畑も分かるんですか。」


「実際に耕した経験は、ほとんどありません。」


 でしょうね。

 私は思わず心の中で頷いた。


 ヴィルヘルムが鍬を持って畑を耕している姿など、想像できない。


 いや、想像しようとすればできなくはない。

 無表情で完璧な角度で鍬を入れ、周囲の農夫たちを困惑させる姿が浮かんだ。


 少し腹立たしい。


「では、なぜ。」


「貴族学院で学んだことと、王宮の薬草園の管理記録を読んだことがあります。」


「薬草園の管理記録。」


「はい。」


 私は無言になった。

 この人は、どうしてそういうものまで読んでいるのだろう。


 人質としてエルセリアに置かれていた彼には、自由に出歩ける場所も、関われる人間も限られていた。


 王宮の中で許された書庫。

 貴族学院の授業。

 教師が与える資料。

 庭師や薬草師が残す管理記録。


 彼は、そういうものを片端から読んでいたのかもしれない。


 退屈だったからか。

 生き延びるためか。

 それとも、ただ知識を集める癖があったのか。


 どれにせよ、腹立たしい。

 役に立つ知識を、そんな涼しい顔で持ってこないでほしい。


「では、監視役殿下。芽が出る日も、机上の知識でお分かりですか。」


 ヴィルヘルムは畝を見た。

 少し真剣に。


「種の種類によりますが、早ければ三日から五日。気温が下がればもう少し。ただし、これは一般論です。」


「……そうですか。」


 聞いてしまった。

 そして役に立つ答えだった。

 ……悔しい。


「ありがとうございます。」


 また礼を言ってしまった。

 礼儀は大事だが、今日は少し負けた気がする。


 ヴィルヘルムは、ほんのわずかに目元を和らげた。

 本当にほんのわずか。

 普通の人なら気づかない程度。


 でも私は気づいてしまった。

 昔から、彼の表情の細かな変化には気づいてしまう。


 別に気づきたいわけではないのに。


「芽が出たら。」


 ヴィルヘルムが言った。


「出たら?」


「……確認します。」


「監視として?」


「はい。」


 やっぱり腹立たしい。

 私は冷たく言った。


「芽まで監視対象ですか。」


「あなたの畑ですので。」


「意味が分かりません。」


「私にも、正確には分かりません。」


 今、何と言った。

 私は目を瞬いた。


 ヴィルヘルムは、自分でも少し困ったように視線をそらした。


 それから、いつもの無表情に戻る。


「では、失礼します。」


 黒馬に乗る。

 その動作は相変わらず綺麗だった。

 ……悔しい。


 黒馬は静かに森の道へ歩き出す。

 去り際、ヴィルヘルムは一度だけ振り返った。


 私ではなく、畝を見た。

 それから私の手袋を見た。

 最後に私の顔を見て、軽く頭を下げた。


 私は反射的に会釈しそうになり、途中でやめた。

 なぜこちらが礼を。


 しかし完全に無視するのも大人げない。

 結局、小さく頷いてしまった。


 彼はそのまま森の奥へ消えた。


 蹄の音が遠ざかる。

 静けさが戻る。


 マーサが隣で腕を組んでいた。


「妙な男だね。」


「迷惑な男です。」


「それはそうだ。」


「監視ですから。」


「そう言ってるね。」


 マーサは、ヴィルヘルムが去っていった森の道をじっと見ていた。


「ただの監視にしちゃ、ずいぶん細かいところを見る男だ。手袋のほつれに、柵の緩み、水のやりすぎ。まあ、警戒して損はないよ。」


「やはり、私が何かしないか見張っているのでしょうね。」


「かもしれないね。」


 マーサはあっさり頷いた。

 私は少しだけ肩の力を抜いた。


 そうだ。

 監視。

 これは監視だ。


 変に考える必要はない。


 ヴィルヘルム殿下は、カイエン王子の要請で私を見張りに来ている。

 私が何か問題を起こさないか。王宮に不都合なことをしないか。惨めに暮らしているか。


 それを確認しているだけだ。


 そう思うと、胸の奥が少しちくりとした。

 私はその痛みに気づかないふりをした。


 マーサが私の顔をちらりと見て、何か言いかけた。

 けれど、結局言わなかった。


「まあ、あの男が来たら家には入れるんじゃないよ。」


「入れません。」


「よし。それでいい。」


 その日の午後、私はマーサの家で古い布の繕いを引き受けた。


 針を動かす作業は、畑とはまた違う静けさがあった。

 糸を通し、布を合わせ、ほつれを閉じる。

 壊れたものを、少しずつ使える形に戻していく。


 掃除も、畑も、繕いも、どこか似ている。

 傷んだものを捨てるのではなく、手を入れる。


 時間をかける。

 少しずつ、また使えるようにする。


 私も、そうなれるだろうか。


 傷んでも。

 破れても。


 少しずつ繕って、また生きられる形になれるだろうか。


 夕方、私はマーサから芋と硬貨を少し受け取った。


 仕事の対価。

 自分の手で得た初めての報酬。


 私はそれを両手で受け取った。


「ありがとうございます。」


「こちらこそ。縫い目が綺麗だね。また頼むよ。」


「ぜひ。」


 帰り道、私は胸がいっぱいだった。


 今日は、手袋を買った。

 軟膏を手に入れた。

 畑の水加減を知った。

 針仕事をした。

 芋をもらった。

 硬貨も少し得た。


 ……そして、相変わらず監視役は現れた。


 でも、朝よりも少しだけ、この家の暮らしは前に進んだ。


 家に戻ると、畝の土は静かだった。

 私はしゃがんで、そっと見た。


 まだ芽は出ていない。

 当然だ。


 ――早ければ三日から五日。


 ヴィルヘルムの声が頭に浮かぶ。

 私はむっとした。

 なぜあの人の声で思い出すのか。


 腹立たしい。

 腹立たしいけれど、少し楽しみが増えた。


 三日後。

 五日後。

 その頃、私はこの畝の前で何を思うのだろう。


 そして、あの監視役は本当に確認しに来るのだろうか。


「来なくていいのに。」


 そう呟いた。

 だが、畝を見つめる自分の声は、思ったほど強くなかった。


 私は慌てて立ち上がり、家へ戻った。


 今日は芋のスープにしよう。

 マーサにもらった芋。

 自分で稼いだ芋。

 少しだけ、干し肉も入れよう。


 暖炉に火を入れ、鍋をかける。

 芋の甘い匂いが、部屋に広がっていく。


 私は鍋を混ぜながら、今日買い取った手袋をちらりと見た。

 良い品だ。

 悔しいくらい。


 軟膏も効いた。

 悔しいくらい。


「監視役の不要品、ね。」


 呟くと、自分でも少し笑ってしまった。


 この先、あの人が何を考えているのか、私には分からない。


 監視なのか。

 義務なのか。

 同情なのか。


 それとも、ただ罪悪感なのか。


 でも、私は私の暮らしを続ける。


 芽が出るまで水をやりすぎず。

 畑を少しずつ広げ。

 針仕事をして。

 スープを作って。

 鍵を閉めて眠る。


 私の人生は、監視役が来たくらいでは止まらない。


 鍋の中で、芋が柔らかくなっていく。

 暖炉の火が、ぱちぱちと鳴る。


 私は木べらでスープを混ぜながら、明日の予定を考えた。


 畑の周りの石をもう少し拾う。

 マーサの上着の袖を繕う。

 薪を買う。


 それから、種を見すぎない。

 見すぎない。


 多分、無理だ。


 私は一人で笑った。


 窓の外では、森が夜へ沈んでいく。

 家の中には、火と芋の匂いがある。

 そして机の上には、新しい手袋と小さな軟膏。


 やっぱり気に入らない。

 非常に気に入らない。


 でも、なんだか少しだけ心強い。


 私はそれを認めたくなくて、スープを少し強めに混ぜた。

 鍋の中で芋が崩れた。


 まあいい。


 今日は、少しだけ優しい味になりそうだった。

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