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第十三話 雨の日の監視役

 朝から、空は低かった。


 森の上に灰色の雲が重く垂れこめ、木々の葉はいつもより暗く沈んで見える。

 風は湿っていて、土の匂いが濃い。


 私は家の扉を開けた瞬間、空を見上げた。


「……降るわね。」


 誰に言うでもなく呟く。

 返事の代わりに、森の奥で鳥が一声鳴いた。


 昨日の夜から、空気が変わっていた。

 暖炉の煙の上がり方が重く、家の中の木材もどこかしっとりしている。


 王宮で暮らしていた頃なら、雨の気配など侍女や使用人の報告で知った。


 今日は違う。


 私は自分で空を見て、自分で洗濯物をどうするか考え、自分で畑の水加減を心配する。

 生活とは、空と相談することも必要なのだと、最近ようやく分かってきた。


 私は外套を羽織り、畑へ向かった。


 昨日より少しだけ整えた畝は、静かに湿っている。

 もちろん、まだ芽は出ていない。


 分かっている。


 ――三日から五日。


 そう言ったのは、監視役殿下だった。

 あの声が勝手に頭の中で再生されるのが、やはりたいへん腹立たしい。


 私は畝の前でしゃがみ込み、少し湿った土の表面を見た。

 水はやらなくてよさそうだ。


 むしろ今日は雨が降るなら、畝の周りに小さな溝を作っておいた方がいいかもしれない。

 雨水が溜まりすぎると、きっと種によくない気がする。


 ――根が弱る。


 また、あの声が頭の中で言った。


「……もう。」


 私は額を押さえた。

 なぜ私は、畑の水加減を考えるたびにあの男の声を思い出さなければならないのか。


 監視役のくせに。

 私を国外追放にした側のくせに。

 しかも、妙に役に立つことを言う。


 ……最悪である。


 私は小さな溝を作るため、昨日マーサに借りた小さな鍬を手に取った。

 畝の周囲を少しずつ削る。力を入れすぎると土が崩れるが、浅すぎても水が流れず意味がない。


 思っていたより加減が難しい。

 私は腰をかがめ、慎重に作業した。


 少し掘ったところで、頬に何かが当たった。


 一粒。

 冷たい。

 雨だ。


 空を見上げると、灰色の雲から細かな雨粒が落ち始めていた。


「早いわね。」


 私は慌てて鍬を置き、畝の様子を確認した。


 まだ大雨ではない。

 細い雨が、土を柔らかく濡らしていく。今の時点では種にとっては恵みの雨かもしれない。


 ただし、降りすぎると困る。

 何事もほどほどが大切だ。

 ……人間関係と同じである。

 脳内でまた淡い金髪が思い出されそうになり、慌てて頭を振る。


 私は鍬を片づけ、家の横に置いていた桶と布を急いで中へ運んだ。

 昨日ヴィルヘルムに指摘された道具置き場だ。


 外から丸見え。

 盗まれる可能性。

 布を敷けばいい。


 すべて正論だった。

 非常に悔しいので、今朝すぐに家の中へ道具置き場を作った。

 玄関脇に古い布を敷き、泥のついた道具を置けるようにしたのだ。


 つまり、私はヴィルヘルムの指摘を参考にした。


 悔しい。

 だが、便利だ。

 さらに悔しい。


 雨は少しずつ強くなっていった。

 古い家に当たる雨音が、ぽつぽつから、ぱらぱらへ変わる。


 私は窓を少しだけ開け、外を見た。


 森が濡れていた。

 葉の一枚一枚が雨を受け、透明な雫を湛えて重たげに揺れている。庭の草も、白い小さな花も、しっとりと色を深めていた。


 雨の日の森は、晴れの日とは別の美しさがあった。

 世界中の輪郭が少し柔らかくなり、音が雨粒に包まれて、家の中だけが小さな船のように感じられる。


 私は少しだけ見とれた。


 貴族の屋敷の庭園では、雨の日に外を見る余裕などあまりなかった。

 濡れないように窓が閉められ、侍女が部屋を整え、私は予定通りの履修をした。


 けれど今は違う。


 雨で畑の予定が変わる。

 洗濯物の干し方も変わる。

 薪の置き場所も考えなければならない。


 そういう面倒さまで含めて、暮らしなのだ。


 私は机の上に紙を広げ、今日やることを書き出した。


 一、道具を濡らさない。

 二、薪の残りを確認。

 三、マーサの上着の袖を繕う。

 四、鍋で豆を煮る。

 五、雨が弱くなったら畑の排水確認。

 六、監視役が来ても家に入れない。


 六番目を書いてから、私は少し手を止めた。


 今日は来ないのではないだろうか。


 雨だ。

 森の道もぬかるむ。


 監視とはいえ、毎日来る必要があるのだろうか。

 いや、あの男なら来るかもしれない。

 真面目で、融通が利かず、言ったことをそのまま実行する人間だ。


 私は窓の外を見た。

 雨の森の道には、当然誰もいない。


 少しだけほっとする。

 その一方で、今日の予定が一つ減ったような、妙な空白感があった。


「……何を考えているの。」


 私は自分に低く言った。


 来るかもしれないと、予想していただけだ。

 予想が外れたら、少し調子が狂うなと思っただけ。


 もし来たら面倒。

 そういうことにする。


 私は針仕事を始めた。


 追加で頼まれたマーサの夫の上着は、袖口がかなり擦り切れていた。

 布も古い。でも、しっかりした生地だ。

 補強すればまだ使えるだろう。


 私は針に糸を通し、袖口を丁寧に縫った。

 雨音を聞きながら静かに針を動かす。

 不思議と心が落ち着く。


 畑仕事は体を動かす作業だが、針仕事は心のほつれまで縫い合わせるような感覚がある。


 一針。

 また一針。


 布の端を合わせ、ほつれた糸を押さえ、形を整える。

 壊れたものを、捨てずに直す。


 この家も。

 畑も。

 私も。


 同じように、少しずつ手を入れていくのだ。



 どれくらい縫っていただろう。

 雨音の中に、別の音が混じった。


 馬の蹄。

 私は針を止めた。


 まさか。

 いや、もう驚かない。

 来ると思っていた。


 思っていたけれど、本当に来るとは。

 窓へ近づく。


 雨に濡れた森の道の向こうから、黒馬が現れた。

 その馬の横に、ヴィルヘルムがいた。


 今日も騎乗していない。


 手綱を引き、ぬかるんだ道を歩いている。

 黒い外套の肩に雨粒が光っていた。淡い金髪も、少し濡れて額にかかっている。


 普段の彼は、どこか作りもののように整っている。

 王宮の廊下や図書室で見る彼は、皺ひとつない衣服、乱れのない髪、感情の見えない顔で、まるで人ではなく彫像のようだった。


 けれど、雨の中の彼は違った。

 外套の裾には泥がはね、手袋は雨で暗く濡れ、額に落ちた金髪を、彼は指先で無造作に払った。


 そのしぐさが、妙に人間らしかった。


 長い指が金の前髪をかき上げる。

 雨粒が一つ、頬を伝う。


 彼はそれを気にする様子もなく、青い目でこちらの家を見た。

 灰色の雨の中で、その瞳だけがひどく澄んで見える。


 悔しい。

 本当に雨の中まで絵になる必要がどこにある。

 監視役なら、もっと監視役らしく目立たないようにしていればいいのに。


 私はなぜか慌てて窓から離れた。


 心臓が変な動きをした気がする。

 違う。

 これは驚いただけだ。

 雨の日にまで本当に来たことに驚いただけ。


 それ以外の理由はない。


 扉を叩く音がした。

 控えめに二度。


 王宮で聞いていた彼のノックと同じ。

 あの頃も、こちらが部屋の中にいるかを確認する時、必ず二度だった。

 なぜそんなことを覚えているのだろう。


 私は少し間を置いてから、扉越しに言った。


「家には入れません。」


「承知しています。」


 低い声が返ってくる。

 雨音に混じって、少しだけ柔らかく聞こえた。


「所在確認です。」


「私はここにいます。」


「……確認しました。」


「では、お帰りください。」


「雨脚が強くなっています。」


「見れば分かります。」


「畑の排水を確認した方がいい。」


 私は扉を見た。

 的確な指摘に扉越しでも腹が立つ。

 しかし、正しいのは正しい。

 ちょうど気になっていたところだった。


「今、雨の中で畑を見ろと?」


「今でなくても構いません。ですが、雨が止んだ直後では水の流れが分かりにくい。」


 正しい。

 これもまた正しいことが分かってしまう。

 私は額を押さえた。

 ……正しいことを言う監視役ほど、厄介なものはない。


「……柵の外で待っていてください。」


「はい。」


 素直だ。

 私は外套を羽織り、手袋をつけた。


 昨日買い取った、いや、買い取らされた、いや、取引によって私のものになった手袋である。


 軟膏のおかげで手の痛みも少し引いていた。

 本当に腹立たしい。


 扉を開けると、雨の冷たい空気が入り込んできた。


 ヴィルヘルムは玄関から少し離れた場所に立っていた。

 約束通り、扉の中へ入ろうとはしていない。


 黒い外套の肩から雨水が滴っている。

 髪はいつもより少し乱れ、頬にも雨粒がついていた。

 それなのに、姿勢はまっすぐだった。


 濡れても、泥がはねても、背筋が崩れない。

 顎の角度も、手綱を持つ手の位置も、静かに整っている。


 生まれと教育が、こういう時に出るのだと思った。

 ……やっぱり腹立たしい。


「濡れていますよ。」


 言ってから、しまったと思った。

 なぜ私が気にしているようなことを言うのか。


 ヴィルヘルムはわずかに瞬きをした。


「雨ですので。」


「それはそうですね。」


 会話終了。

 結果、非常に不毛。


 私は外に出て、畑の方へ向かった。


 ヴィルヘルムは柵の外を歩く。

 きちんと敷地に入らないようにしているところが、また妙に気に障る。


 昨日、私が言ったからだろう。


 命令には従わないくせに、境界線は守る。

 彼なりの線引きなのかもしれない。


 畑の畝は、雨に濡れていた。


 朝に溝を作ったおかげで、今のところ水は大きく溜まっていない。

 ただ、森側から少し水が流れ込んでいる気がする。

 ヴィルヘルムは柵の外からそれを見た。


「森側にもう少し深い溝を作った方がいい。」


「……見ただけで分かるんですか。」


「水の流れが見えます。」


 私はじっと目を凝らした。


 確かに、薄く水が流れている。

 雨粒に紛れて見えにくいが、土の表面に細い筋ができていた。


「……よく見えますね。」


「見る訓練は受けています。」


「貴族学院で?」


「学院でも。王宮でも。」


 そう言って、彼は一瞬だけ口を閉じた。

 質子としての生活。

 敵国の王宮で、常に見て、覚えて、先を読む。

 彼の観察眼は、単なる才能だけではなく、必要に迫られて研がれたものなのかもしれない。


 私はそのことに気づき、少しだけ言葉を失った。

 だが、すぐに気を取り直す。


 同情はしない。

 今のこの人は監視役だ。


「つまり、監視に向いているわけですね。」


「はい。」


 やはり否定しない。

 この男は、時々正直すぎる。


 私は小さく息を吐き、鍬を取りに戻ろうとした。

 その時、ヴィルヘルムが言った。


「無理に今やる必要はありません。雨で土が重くなっています。」


「今見ないと水の流れが分からないとおっしゃったのは、あなたです。」


「確認は済みました。作業は雨が弱まってからでもいい。」


「それでは、あなたが来た意味がなくなりますね。」


「所在確認と周辺確認は済みました。」


「……それは、便利ですね。」


「はい。」


 私は彼を睨んだ。

 その視線を受けてもヴィルヘルムは相変わらず無表情だった。


 ただ、雨粒が顎の線を滑り、外套の襟元へ落ちた。

 その横顔が、妙に綺麗だった。


 切れ長の青い目。

 雨に濡れて色を深めた金髪。

 白い肌に、濡れた睫毛。


 まるで絵画の中の王子だ。

 ……いや、実際に王子だった。


 そして、私を監視しに来た男だった。


 私は意識的に視線を畑へ戻した。


 危ない。

 危うく、顔だけで許してしまうところだった。


 いや、許していない。

 顔で罪は消えない。


 しかし顔が良いことは認めざるを得ない。


 たいへん不本意である。


「ヴィルヘルム殿下。」


「はい。」


「雨の日にまで監視する必要はあるのですか。」


「あります。」


「なぜ。」


「雨の日は、外部から人が来にくい。逆に言えば、何かあった時に発見が遅れます。」


 私は少し黙った。

 彼が言っていることは分かる。理解はできる。


 この家は森に近い。街からも少し離れている。雨の日は人通りが減る。

 もし私が怪我をしても、誰かがすぐに気づくとは限らない。


 だから見に来た。


 監視として。

 安全確認として。

 ……そういうことなのだろう。


「ご親切な監視ですね。」


「王室の処分直後に対象者が死亡すれば、手続き上問題があります。」


 胸の中に、また少し生まれかけた何かが一瞬で消え失せる。


 手続き上。

 そう。

 この男はそういう言い方をする。


 私は冷たく笑った。


「そうですか。私が死ぬと、王室の手続き上問題があるのですね。」


 ヴィルヘルムの指が、手綱を握る位置でわずかに強張った。


「……そうです。」


「よく分かりました。私は王室の手続きのために、できる限り死なないよう努力いたします。」


「レベッカ嬢。」


「何でしょう。」


「そういう意味だけではありません。」


「では、どういう意味ですか。」


 彼は口を開いた。

 雨音が強くなる。


 葉を叩く音。

 家を打つ音。

 畑の土に染みる音。


 その中で、ヴィルヘルムはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「……監視対象の安全を確認するのは、監視役の責務です。」


 私は呆れた。

 ここまで徹底していると、もはや感心する。

 この男はなんでこんなに人の気に障る言い方しかできないのだろう。


「分かりました。監視役殿下はたいへん責任感がおありなのですね。」


「はい。」


「嫌味です。」


「理解しています。」


 理解していて、なぜそんな涼しい顔で受け取るのか。

 やはりこの男は厄介だ。


 その時、坂の下から声がした。


「レベッカ、雨の中で何してるんだい! 濡れてるじゃないか。」


 マーサだった。

 頭に布をかぶり、籠を抱えてこちらへ歩いてくる。


「雨ですので。」


 私は答えて少し視線を上げた。

 彼女は私とヴィルヘルムを見て、すぐに状況を理解したように眉を上げる。


「ああ、また来たのかい、監視の殿下さん。」


「おはようございます、マーサ殿。」


 ヴィルヘルムは雨の中でも丁寧に頭を下げた。

 その所作は本当に綺麗だった。

 手袋の指を揃え、深すぎず浅すぎず、相手に敬意を示す角度。

 相手が王族でも貴族でもなく、近所の女性であっても、彼の礼は崩れない。


 そういうところは、評価できる。

 身分に関わらず、礼を尽くす。

 それは正しいことだ。


 ただ評価できるというだけのことで、それ以上でも以下でもない。


 マーサは雨の中のヴィルヘルムを見上げ、ふんと鼻を鳴らした。


「濡れ鼠だね。」


「雨ですので。」


「あんたたち、さっきから同じこと言ってないかい?」


 私は気まずくなった。

 言った。

 確かに、私も言った。

 思わず目線を下に逸らす。


 マーサは籠を私に差し出した。


「昨日の針仕事の追加だよ。あと、芋を少し持ってきた。雨だから、今日は外仕事はやめときな。」


「ありがとうございます。」


「それと、畑は雨が弱まってからでいい。今やると腰を痛める。」


 ヴィルヘルムと同じことを言った。

 少しだけ悔しい。


「分かりました。」


「素直でよろしい。」


 マーサは満足そうに頷き、それからヴィルヘルムを見た。


「あんたも、監視だか何だか知らないけど、雨宿りくらいしていけばいい……と言いたいところだけど、この子の家には入れられないからね。」


「承知しています。」


「そこの古い物置の軒下なら、柵の外からでも少し雨を避けられる。馬も濡れっぱなしじゃ可哀想だ。」


 ヴィルヘルムは一瞬、私を見た。

 私の許可を確認するように。


 物置は敷地内だ。

 だが軒先は柵に近い。

 微妙な位置。


 私は少し迷った。


 このまま雨の中に立たせておけばいい、と意地悪な自分が言う。

 しかし、馬は悪くない。

 黒馬は本当に美しい馬で、雨の中でも静かに立っている。

 濡れた毛並みに雨粒が滑り、長い睫毛が伏せられている。


 馬を濡らし続けるのは、確かに少し可哀想だ。

 監視役はともかく、馬は悪くない。


「馬だけなら。」


 私は言った。

 ヴィルヘルムが瞬きをする。


「馬だけ?」


「馬は軒下へ。あなたは柵の外です。」


 マーサが吹き出した。

 ヴィルヘルムは少しだけ、ほんの少しだけ、困ったような顔をした。

 その表情がまた綺麗で、私は腹が立った。


「……承知しました。」


 本当に承知した。


 ヴィルヘルムは黒馬を物置の軒下近くへ誘導した。

 柵の外から手綱を伸ばし、馬だけが雨を避けられる位置に立たせる。

 自分は雨の中に残る。


 律儀すぎる。

 面倒くさい。


 マーサが肩を震わせて笑っている。


「いやあ、あんた、意外と面白い男だね。」


「面白くはありません。」


 ヴィルヘルムは真面目に答えた。

 それがまた少し面白かった。

 私はもう笑わないように必死だった。


 だが、その次の瞬間、私は動きを止めた。


 ヴィルヘルムが、黒馬の鼻先を手袋越しにそっと撫でた。

 その手つきが、あまりにも柔らかかった。


 報告書を持つ手。

 書類を整えた手。

 手綱を握る手。


 それと同じ手が、雨の中で、馬の鼻筋をゆっくりとなぞっている。


 声も出さない。

 何も言わない。

 ただ、そっと。


 黒馬が、目を細めた。

 安心したように、小さく鼻を鳴らす。


 人に向ける言葉は冷たく、無骨で、監視と責務しか言わない人間が、馬にはああして触れるのだ。


 なぜだろう。


 ――馬は、嘘を吐きませんから。

 過日の少年の声が甦る。


 馬は裏切らないから。

 馬は政治的な意図を持たないから。

 命令で動くのではなく、信頼で動く生き物だから。


 質子として敵国に置かれた子どもにとって、馬だけが純粋に信頼できるものだったのかもしれない。


 ……私はまた、余計なことを考えてしまった。


「マーサさん。」


「何だい。」


「今日は家で針仕事をします。」


「それがいい。」


 私はマーサから籠を受け取り、玄関へ戻ることにした。


 ヴィルヘルムはまだ柵の外にいる。

 黒馬は軒下で静かに雨を避けている。

 監視役は雨ざらし。


 それはそれで、少し気になる。


 気になるが、自分で承知したのだから仕方ない。

 私は扉の前で一度振り返った。


 ヴィルヘルムは柵の外で、雨の向こうに立っていた。


 黒い外套。

 濡れた金髪。

 静かな青い目。


 彼はまっすぐこちらを見ていた。

 いや、私ではなく、家の扉と窓と周囲を見ているのかもしれない。


 ――監視だから。


 そう思うことにした。


「風邪をひいても、私は看病しませんからね。」


 なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。


 ヴィルヘルムは少しだけ目を見開いた。

 そして、すぐにいつもの顔に戻った。


「監視に支障が出ないよう、気をつけます。」


 私は扉を閉めた。

 閉める直前、マーサの笑い声が聞こえた。


 もう。

 本当に。

 何なのだろう、あの男は。


 家の中に戻ると、雨音が少し遠くなった。

 私は籠を台所に置き、深く息を吐いた。


 なぜあんなことを言ったのか。


 風邪をひいても看病しない。

 まるで心配しているように聞こえるではないか。

 断じて、違う。


 でもあの言い方では、彼の体を案じているみたいだ。

 全くそういう意味ではないのに。

 単に、監視役が体を壊せばさらに厄介な後任が来るかもしれないという、現実的な懸念から言ったのだ。


 ……本当に?


 私は首を振った。


 考えない。

 今日は考えない。


 私はマーサが持ってきてくれた布を取り出した。

 また繕い物だ。

 芋もある。


 今日は外仕事をやめて、家の中で針仕事をし、豆を煮る。

 雨の日の過ごし方としては悪くない。


 窓の外を見ると、ヴィルヘルムはまだ柵の外にいた。

 黒馬は軒下で雨を避けている。


 彼だけが、灰色の雨の中に立っている。


 また、馬を撫でていた。

 今度は手袋を外していた。


 素手で、馬の首筋を静かになでている。

 長い指が、雨に濡れながら、黒い毛並みの上をゆっくりと動いていく。


 人に向ける時とは、まったく違う手だ。


 書類を整えた時の、あの冷静で計算的な手ではない。

 馬を撫でる時だけ、彼の指は迷いがない。


 迷わずに、柔らかく、ただそこにある。


 私はそれを見てはいけないような気がして、視線を針仕事へ戻した。


 針に糸を通す。

 一針。

 また一針。


 外では、監視役が雨の中に立っている。

 中では、私は芋と布と針を前にしている。


 妙な一日だ。

 でも、悪くはない。


 少なくとも、雨の日に一人で心細く過ごすよりは、少しだけ賑やかだった。

 もちろん、本人には絶対に言わない。


 昼近くになると、雨は少し弱まった。


 私は窓からそっと外を見た。

 ヴィルヘルムの姿はもうなかった。

 黒馬もいない。


 いつの間に帰ったのだろう。

 ふと気づくと柵の外の石の上に、小さなものが置かれていた。


 私は眉をひそめ、外套を羽織って外へ出た。

 雨はまだ霧のように細く降っている。


 石の上に置かれていたのは、薄い油紙に包まれた小さな束だった。


 また何か。

 私は警戒しながら開く。


 中には、乾いた細い薪が数本入っていた。

 火付け用の小枝だ。

 それから、小さな紙片。


 文字は整っていた。


 ――雨の日は火付きが悪くなります。不要なら捨ててください。


 名前はない。

 なくても分かる。


 私は油紙の包みを見つめた。

 乾いた小枝。

 雨の日に、火をつけるためのもの。


 とても実用的。

 とても監視役らしい。


 そして、とっても腹立たしい。


「……不要なら捨ててください、って。」


 またそれか。


 私は小枝を手に取った。

 軽い。よく乾いている。

 確かに、雨の日にはありがたい。

 とてもありがたいが。


 だからこそ腹が立つ。


 私は空を見上げた。

 細かい雨粒が頬に落ちる。

 森の道に、もうヴィルヘルムの姿はない。


 ――そういえば彼は一体どこから来て、どこに帰っていくのだろう。


 その問いが、頭の端に引っかかった。


 監視なら、本来町の詰所に頼めばいい。少なくとも、毎日来る必要などない。


 なのに毎日来る。

 雨の日にも来る。


 そして、帰りがけに乾いた小枝を置いていく。

 不要なら捨ててください、と書いて。


「今度から、値段を書いておいてください。」


 届かない声で言った。

 それから、乾いた小枝を抱えて家へ戻る。


 捨てるわけがない。

 雨の日の乾いた薪は貴重だ。

 私は現実的な女である。


 暖炉の前に小枝を置くと、部屋の中が少しだけ心強くなった。


 悔しいけれど。

 とても悔しいけれど。


 今日はこの小枝で火を入れよう。

 そして芋と豆のスープを作ろう。


 それは私が決めたことだ。

 監視役から押しつけられたのではない。


 私は油紙の包みをたたみ、机の端に置いた。

 それから、針仕事の続きを始めた。


 雨音はまだ続いている。

 森は静かに濡れている。

 畑の種は土の中で眠っている。


 暖炉のそばには乾いた小枝がある。

 そういえば、彼はいつこれを用意したのだろう。


「……監視役のくせに。」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 その声は自分で聞いても、怒っているようで、少しだけ困っているようでもあった。


 雨の日の家は、なぜか昨日より少し温かかった。

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