第十四話 小さな芽が出ました
朝、目が覚めた瞬間、私は布団の中で固まった。
――何かが違う。
家の中の空気が、昨日より少しだけ明るい。
雨の匂いが薄くなり、代わりに森の若い葉の匂いが窓の隙間から入ってきている。
私はゆっくり起き上がり、窓の外を見た。
雨は止んでいた。
雲の切れ間から朝日が差し、濡れた庭の草が小さな宝石のように光っている。森の葉も、昨日の雨をたっぷり吸ったせいか、いつもより艶やかだった。
雨上がりの朝。
私は寝台から飛び起きた。
いや、飛び起きたつもりだった。
実際には、昨日根を詰めすぎた針仕事の疲れで、腰が少しだけ抗議した。
「うっ。」
小さく呻く。
しかし、今は腰の機嫌を取っている場合ではない。
畑。
畑を見なければ。
昨日の雨で、畝がどうなったか。水は溜まっていないか。種は流れていないか。
そして、もしかすると。
もしかすると、何か変化があるかもしれない。
まだ早い。
分かっている。
監視役殿下は、早ければ三日から五日と言っていた。
今日は、種をまいてからまだ三日目だ。
ぎりぎり、「早ければ」の範囲である。
ただし、期待してはいけない。
期待しすぎると、出ていなかった時にきっと落ち込むのは分かっている。
私は冷静な女だ。
ちゃんと分かっている。
分かっているけれど、足はすでに扉へ向かっていた。
顔を洗うのもそこそこに、外套を羽織り、手袋をつける。
監視役から買い取った手袋だ。
丈夫で、指が動かしやすく、非常に使いやすい。
腹立たしいほど使いやすい。
私は扉を開けた。
雨上がりの空気が、胸いっぱいに入ってくる。
冷たい。
でも、気持ちいい。
庭の土はしっとりと濡れていた。白い小さな花には雨粒が残り、柵に絡まる蔓から水滴がぽとりと落ちる。
森の奥では鳥が何羽も鳴いている。
昨日の雨で世界が一度洗われて、朝になって新しく開いたみたいだった。
私は畑へ向かった。
小さな畝。
私が泥だらけになって作った、不格好な畝。
その前でしゃがみ込む。
水は溜まっていない。よかった。
昨日、慌てて作った溝も、なんとか役目を果たしたようだ。
土の表面はほどよく湿っている。
私はほっと息を吐いた。
そして、何気なく畝の端を見た。
小さな緑があった。
私は動きを止めた。
見間違いかもしれない。
雨上がりの草の欠片かもしれない。昨日抜ききれなかった雑草かもしれない。
私は慎重に顔を近づけた。
小さな、小さな緑。
土を押し上げるように、二つ折りになった細い芽が出ている。
ひとつ。
その少し横に、もうひとつ。
さらに向こうに、もうひとつ。
私は息を吸うのを忘れた。
出ている。
芽が。
芽が出ている。
本当に出ている。
「……出た。」
声が震えた。
「出たわ。」
誰もいない畑に向かって、私はもう一度言った。
「芽が出た!」
嬉しかった。
驚くほど嬉しかった。
たった数本の小さな芽。
まだ葉とも呼べない、頼りない緑。少し強い雨が降れば倒れてしまいそうで、鳥がついばんだら消えてしまいそうで、指で触れることすら怖いほど小さい。
それなのに、その小さな芽は、私の胸をいっぱいにした。
種をまいた。水をやった。雨を心配した。
朝、見に来た。
そして、芽が出た。
たったそれだけ。
けれど、たったそれだけが、今の私には奇跡のようだった。
この種は、誰かが私のために用意したものではない。
私が市場で種屋の老婆に教わって、少しだけ買った種だ。
私がまいた。
私が水をやった。
私が心配した。
その全部が、今ここで、土から顔を出している。
私は両手を握りしめた。
なんなら叫びたい。
誰かに言いたい。
見てください、芽が出ました、と。
マーサさんに。
種屋のおばあさんに。
赤い壺亭の女将さんに。
誰でもいい。
誰かに言いたい。
私はしばらく畝の前で小さく跳ねそうになったが、足元の土を踏み荒らしてはいけないので我慢した。
偉い。
芽が出た朝に畑を踏み荒らさない私は、とても偉い。
私は畝の端にしゃがみ込み、そっと手を合わせた。
「よく出てきたわね。」
芽は返事をしない。
けれど、朝日を受けて、小さな緑が少しだけ光った。
胸が熱くなる。
最近、私はたくさんのものを失った。
名前。
家。
婚約者。
父。
髪。
未来。
でも今、土の中から新しいものが出てきた。
私がまいた種から。
私の畑に。
私の家のそばで。
それが、たまらなく嬉しい。
その時、森の道の方から馬の蹄の音がして、私ははっと顔を上げた。
来た。
また来た。
しかも、よりによってこのタイミングで。
黒馬が、朝の光を受けながら森の道から姿を現す。
昨日の雨で道は少しぬかるんでいるはずなのに、馬は静かに、優雅に歩いていた。
その手綱を引いていたのは、やはりヴィルヘルムだった。
今朝の彼は、濃紺の外套を羽織っていた。
昨日の黒い外套より少し軽く、朝の光の中で深い青に見える。
淡い金髪はきちんと整えられていたが、森の湿った風に少しだけ揺れている。
朝日が髪の一筋一筋を透かして、輪郭にうっすらと金の縁を作っていた。
すっと伸びた背筋。
長い脚。
馬の歩みに合わせても乱れない姿勢。
……歩くだけで、どうしてあんなに品があるのだろう。
本当に気に障る。
ここは私の泥だらけの畑の前であって、決して王子の登場場面ではない。
それなのに、朝露の残る森と黒馬と金髪の王子は、どうしようもなく絵になっていた。
まるで森の方が、彼に合わせて背景を整えたとでもいうように。
私は小さな芽を背に、立ち上がった。
「おはようございます、レベッカ嬢。」
「おはようございます、監視役殿下。」
いつもの挨拶。
だが、今日の私の声は少し弾んでいたかもしれない。
まずい。
これは芽が出た喜びが隠せていない。
ヴィルヘルムの視線が、私の顔に留まった。
澄んだ青い瞳が、ほんの一瞬、私の表情だけをまっすぐに見る。
私が何を喜んでいるのか、確かめるように。
そして、畝へ向かう。
彼はすぐに気づいたようだった。ほんのわずかに、目元が動いた。
氷のように動かないその顔の中で、それは確かな変化だった。
「芽が出たのですね。」
「……監視が細かいですね。」
「昨日、確認すると申し上げました。」
「本当に芽まで確認しに来るとは思いませんでした。」
「監視ですので。」
私は畝を庇うように半歩前へ出た。
「芽は監視対象ではありません。」
「あなたの畑の変化です。」
「ますます意味が分かりません。」
「私にも、正確には分かりません。」
またそれだ。
この人は時々、自分でも分からないことを淡々と言う。
やめてほしい。
こちらまで調子が狂う。
ヴィルヘルムは柵の外で馬を止めた。
そして、畝をじっと見た。
朝の光の中で、彼の青い瞳が静かに細められる。
見下ろす視線ではない。
観察する目だ。
けれどそこに、昨日までの冷たい義務感だけではないものが、ほんの少しだけ混じっている気がした。
気のせいだ。
きっと、植物の生育確認をしているだけだ。
貴族学院で習った農政の机上知識が、たまたま発動しているだけだ。
「近くで確認しても?」
「なぜですか。」
「雨で土が固まりすぎていないか、見た方がいい。」
「机上の知識で?」
「はい。」
素直である。
私は畝とヴィルヘルムを見比べた。
入れるべきではない。
私の敷地に入れることになる。
しかし、畝の状態は気になる。芽は出たばかりで、私は正直どう扱えばよいか分からない。
マーサはまだ来ていない。
そしてヴィルヘルムの知識は、腹立たしいことに役に立つ。
私は深く息を吐いた。
「畑の端までです。」
ヴィルヘルムが瞬きをした。
「よろしいのですか。」
「畑の端までです。畝に近づいてよいのはそこまで。家には近づかないでください。芽を踏んだら、監視役殿下でも許しません。」
「承知しました。」
彼は黒馬の手綱を柵の外の木に軽くかけると、門を開けた。
その動作が、また丁寧だった。
他人の敷地に入ることを、ちゃんと自覚している動き。
門を乱暴に押すのではなく、古い蝶番に負担をかけないよう、片手を添えて静かに開ける。
長い指が古びた木に触れる。
たったそれだけなのに、やけに目についた。
ヴィルヘルムは畑へ向かって歩いてきた。
泥を避けながらも、不自然に遠回りはしない。
長い脚で、ひと足ごとに濡れた草を踏み分けてくる。
靴の先に土がついても、眉ひとつ動かさない。
王宮ではいつも磨き上げられた床の上にいた人が、今は私の荒れた畑のそばに立っている。
その光景が、不思議だった。
……そして、少しだけ落ち着かない。
「そこです。そこから先は踏まないでください。」
「分かっています。」
彼は畝の前で立ち止まった。
それから、何のためらいもなく片膝をついた。
私は目を見開いた。
え。
膝をついた。
ヴィルヘルムが。
土の上に。
昨日の雨でまだ湿っている地面に、外套の裾が触れる。
それでも彼は気にしない。
背筋をまっすぐに保ったまま、片膝をつき、畝の小さな芽を覗き込む。
屈み込んだ姿勢でも、肩から背にかけての線は崩れない。
金髪が前に流れ、伏せた睫毛が頬に淡い影を落とす。
整いすぎた横顔が、土の匂いの中にある。
その不釣り合いが、なぜか目を引いた。
白い手袋を外し、彼は素手で畝の端の土に触れた。
指が長い。
書類や本を持つための手。
剣や手綱を扱う手。
王宮の図書室で、静かにページをめくっていた手。
昨日、雨の中で馬を撫でていた手。
その手が今、私の畑の土に触れている。
節のしっかりした、けれど形のよい指が、汚れることをまるで厭わずに、湿った黒い土に沈む。
彼は芽そのものには触れなかった。
少し離れた場所の土を指先でそっと押し、固さを確かめる。
次に、小さな石を見つけ、それを長い指で摘まんで畝の外へ置いた。
その動きが、とても静かだった。
力強くはない。
でも、迷いがない。
小さな芽を傷つけないように、丁寧で、慎重で、それでいて無駄がない。
大の男の手が、頼りない緑の前で、これほど慎重になるものか。
外套を汚しながら、片膝をついて、私の畑の小石を一つどかしている。
私は思わず見入ってしまった。
いやいや。いけない。
見入ってはいけない。
たいへん迷惑な監視役が、ただ泥に触っているだけだ。
そしてその姿が、少し絵になっているだけだ。
それだけだ。
「土は、悪くありません。」
ヴィルヘルムが言った。
「ただ、雨のあとに表面が固まりやすいようです。芽の周囲は触らず、少し離れたところだけ軽くほぐすとよいでしょう。」
「……分かりました。」
「水は今日は不要です。」
「分かっています。」
「鳥除けは、早めに考えた方がいい。」
「マーサさんに相談します。」
「それがよいと思います。」
彼はあっさり頷いた。
それから、畝の端にもう一つ小さな石を見つけ、摘まんで外へ置く。
「そこまでしなくても。」
「芽の近くでしたので。」
「芽に優しい監視役ですね。」
「監視対象の周辺環境の確認です。」
「芽の環境まで?」
「はい。」
無表情で言い切った。
私は呆れた。
だが、胸の奥が少しだけ温かい。
どうして。
意味が分からない。
この人は、私を監視しに来ている。
私が何かしないか見張っている。
私がどこで何をしているか、第一王子に報告するのかもしれない。
なのに、私の畑の小さな芽のそばから、石を除いている。
一体どういうことなのだ。
私は腕を組んだ。
「ヴィルヘルム殿下。」
「はい。」
「あなたは本当に、何をしに来ているのですか。」
彼の手が止まった。
畝のそばに片膝をついたまま、彼は私を見上げる。
普段は見下ろされることが多い彼に、下から見上げられるのは奇妙だった。
朝の光が彼の睫毛に落ちている。
青い瞳が、少しだけ眩しそうに細められる。
その顔が、ひどく整っていて、私は少し腹が立った。
なぜ畑で片膝をついているだけで、そんなに王子らしいのか。
「監視です。」
「芽の石を除くことも?」
「監視中に気づいた危険の除去です。」
「危険。」
「小石程度でも、芽が曲がることがあります。」
「……そうですか。」
つまり、芽の成長を妨げる小石は危険。
それを除去するのは監視。
なるほど。
全く納得できない。
ヴィルヘルムは立ち上がった。
膝についた土を、手袋をはめる前の素手の指で軽く払う。
外套の裾にも少し泥がついていた。
彼はそれを一瞥しただけで、特に気にする様子もない。
立ち上がると、また背が高い。
私を見下ろす位置に、青い瞳がある。
王宮にいた頃、彼はいつも完璧だった。
皺も泥も汗もなく、感情も見せず、誰にも踏み込ませない。
けれど今の彼には、外套の裾に泥があり、素手の指先に土がついている。
それでも姿勢は崩れない。
整った外見と泥の対比が、妙に目についた。
彼は思ったより、現実の人間だ。
王宮の廊下を歩く彫像ではなく、道を歩いて泥をはね、片膝をついて土に触れる。
そのことが、腹立たしいことに、分かってしまった。
私は視線をそらした。
危ない。
たいへん危ない。
この監視役は、見た目だけなら非常に危険だ。
「レベッカ嬢。」
「何ですか。」
「嬉しそうでしたね。」
私は固まった。
「何がですか。」
「芽を見て。」
私は咳払いした。
「それは、当然です。私がまいた種ですから。」
「そうですか。」
ヴィルヘルムは畝を見た。
その目元が、ほんの少しだけ和らいだ。
いつも凍りついたように動かない表情が、その一瞬だけ、確かにゆるむ。
氷の張った湖の、ほんの端だけが溶けるように。
そして、その柔らかな目が、畝から、喜びを隠しきれない私の顔へと、また移った。
「よかったですね。」
低い声だった。
ただそれだけ。
たった一言。
けれど、その一言は、私の芽を見て言ったというより、私の喜びそのものを見て言ったように聞こえた。
やめてほしい。
そんな普通のことを、普通に言わないでほしい。
監視役なら、もっと監視役らしくしていてほしい。
私は顔をそらした。
「監視対象の畑に芽が出て、よかったですね。」
わざと意地悪く言う。
ヴィルヘルムは少し黙った。
それから、静かに答えた。
「はい。」
そこは否定しないのか。
私はまた調子が狂った。
「あなたは、本当に会話をしづらい方ですね。」
「よく言われます。」
「言われるんですか。」
「はい。」
誰に。
王宮の誰かにだろうか。
教師か。
側近か。
カイエンか。
あるいは、昔の私か。
そういえば、王宮の図書室で一度、彼に言った気がする。
殿下は会話ではなく報告書を読んでいるみたいですね、と。
彼はその時も、そうですか、としか言わなかった。
私は思い出してしまい、少しだけ胸が痛んだ。
過去は、雨上がりの水たまりのように、何でもない時に足元へ現れる。
気をつけないと、踏んでしまう。
ヴィルヘルムは手袋をはめ直した。
その動作がとても綺麗だった。
長い指を一本ずつ布の中へ収め、手首の留め具を整える。
何でもない動作なのに、無駄がない。
王族として身につけた所作なのだろう。
土に触れた直後の手が、また優雅な手袋の中へ戻っていく。
その落差が、なぜか目に残った。
私は、その手袋が昨日まで少し濡れていたことを思い出した。
雨の中、黒馬の手綱を引いていた手。
乾いた小枝を置いていった手。
そして今、小さな芽のそばの石を除いた手。
何なのだろう。
本当に、何なのだろう。
「今日の確認は終わりですか。」
私は言った。
「はい。」
「では、お帰りください。」
「その前に、一つ。」
「まだ何か。」
ヴィルヘルムは柵の方へ視線を向けた。
「裏手の柵ですが、昨日の雨でさらに傾いています。」
「……見ましたか。」
「柵の外から見えました。」
「監視が細かすぎます。」
「監視ですので。」
またそれだ。
「小動物が畑に入る可能性があります。」
「マーサさんに相談します。」
「それがよいと思います。」
素直に引いた。
これも少し意外だった。
彼は続けた。
「ただ、直すまでの応急処置として、紐で固定した方がいい。支柱の根元が緩んでいます。強く引くと倒れるので、斜めに支える形で。」
「机上の知識ですか。」
「これは見れば分かります。」
「嫌な言い方ですね。」
「すみません。」
謝るのも早い。
私はもう諦めて深く深く息を吐いた。
「……分かりました。確認します。」
「道具がなければ。」
「自分で何とかします。」
「はい。」
彼は口を閉じた。
本当は何か言いたかったのだろう。
道具を持ってくるとか、補強方法を教えるとか、いっそ直すとか。
でも私が嫌がると分かって、飲み込んだ。
そのくらいは、私にも分かった。
言いたい言葉を喉の奥へ戻す時、彼の唇がほんのわずかに動いて、そして閉じた。
「ヴィルヘルム殿下。」
「はい。」
「私の柵です。」
「はい。」
「私の畑です。」
「はい。」
「私の家です。」
「はい。」
「忘れないでください。」
ヴィルヘルムは、少しだけまっすぐ私を見た。
朝の光の中で、その青い瞳が静かに揺れた。
何かをこらえるような、けれど、そのこらえているものをこそ大切にしているような、不思議な揺れ方だった。
「忘れません。」
短い返事だった。
けれど、その声は妙に重かった。
まるで、私の言った言葉とは別の何かを、自分自身に誓っているような重さだった。
――忘れません。
私はそれ以上言えなくなった。
ヴィルヘルムは柵の外へ戻り、黒馬の手綱を取った。
黒馬が鼻を鳴らす。
彼はその首筋を軽く撫でた。
昨日見た、あの柔らかな手つき。
長い指が、黒い毛並みをゆっくりと滑る。
馬は安心したように目を細める。
この人は、馬には優しい。
いや、馬にも、かもしれない。
私はまた余計なことを考えそうになり、慌てて畑を見た。
芽。
芽を見よう。
芽は平和だ。
ヴィルヘルムは馬に乗る前に、もう一度だけ畝を見た。
「鳥除けは、早めに。」
「分かりました。」
「マーサ殿なら、よい方法をご存じでしょう。」
「はい。」
「では。」
彼は黒馬にまたがった。
その動作は、やはり美しかった。
片足を鐙にかけ、体を軽く持ち上げる。
無駄のない動き。
長い脚が鞍をまたぎ、上体がまっすぐ起き上がると、馬上の彼はいっそう背が高く見えた。
外套が朝の風にふわりと揺れる。
手綱を取る指が静かに整う。
馬上の彼には、乗り慣れた人間の静けさがある。
王宮で書物をめくる姿とは違う。
馬上の彼は、もう少し男らしい。
静かで、強くて、遠い。
私はその姿を見てしまい、すぐに目を逸らした。
だめだ。
この男は見た目だけなら危険すぎる。
ヴィルヘルムは、そんな私の動揺には気づいていないように、軽く頭を下げた。
「また確認に来ます。」
「来なくて結構です。」
「監視ですので。」
「芽の監視ですね。」
「はい。」
真顔だった。
私は負けた気がした。
黒馬が静かに歩き出す。
森の道へ向かう背中を、私は見送った。
朝の光が、彼の金髪と濃紺の外套を柔らかく照らしている。
その背中は、王宮にいた頃より少しだけ近く、けれどやはり遠かった。
森の入口で、彼が一度だけこちらを振り返った。
気がした。
木漏れ日のせいで、確かめられなかった。
やがて、木々の間に姿が消える。
蹄の音も遠くなる。
私は畑の前に残された。
小さな芽が、朝日の中で震えている。
私はしゃがみ込み、そっと畝を見つめた。
「あなたも大変ね。」
芽に向かって言う。
「監視対象になってしまったわ。」
芽は当然、返事をしない。
けれど、小さな緑は雨上がりの風に揺れていた。
私は少し笑った。
嬉しい。
やっぱり、嬉しい。
ヴィルヘルムが来たせいで少し変な気持ちになったが、それでも芽が出た喜びは消えない。
むしろ、誰かに見られたことで、少しだけ現実味が増した気がした。
私の畑に芽が出た。
それを見た人がいる。
監視役だけれど。
腹立たしい監視役だけれど。
でも、彼は「よかったですね」と言った。
あの、一瞬だけ和らいだ目で。
義務で来た人間が、なぜそんな顔で、そんなことを言うのか。
その問いは、まだ答えが出ないまま、胸の片隅に残っていた。
私は土のそばに手を置いた。
触らない。
ただ、そばに置く。
「大きくなってね。」
小さく言う。
その時、坂の下からマーサの声がした。
「レベッカ! 芽は出たかい?」
私はぱっと顔を上げた。
そして、今度こそ我慢できずに笑った。
「出ました!」
声が弾む。
マーサが柵の向こうからこちらを見て、にやりと笑った。
「そりゃよかった。じゃあ今日から、あんたは畑の母親だ。」
「母親。」
「構いすぎると嫌われるよ。」
「……気をつけます。」
さっきのヴィルヘルムの言葉より、ずっと現実的で分かりやすい。
私は畝の前に座り込み、もう一度小さな芽を見た。
今日、芽が出た。
それだけで、世界は昨日より少し明るい。
監視役が来ても。
柵が傾いていても。
鳥除けを考えなければならなくても。
――私の生活は、少しずつ前へ進んでいる。
私は立ち上がり、短い髪を耳にかけた。
朝の風が首筋を通り抜ける。
今日は、鳥除けを考えよう。
それから、マーサに柵のことを相談しよう。
そして、芽を見すぎないようにする。
――多分、無理だけれど。
私は笑いながら、小さな畝のそばにしゃがみ直した。
森の家の朝は、昨日より少し賑やかだった。




