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第十五話 監視役は柵を直す

 芽が出た翌朝、私は畑の前で腕を組んでいた。

 小さな畝には、昨日より少しだけ増えた緑が並んでいる。


 まだ頼りない。

 本当に小さい。

 風が強く吹けば倒れてしまいそうだし、鳥が気まぐれにつつけば、一瞬で消えてしまいそうだ。


 それなのに、私にはその小さな緑が、王宮の庭園に咲いていたどんな花より誇らしく見えた。


 芽が出た。

 増えた。

 生きている。


 私はしゃがみ込み、畝をじっと見つめた。


「……増えてる。」


 声が少し弾む。


 いけない。

 あまり浮かれてはいけない。

 畑の母親は構いすぎると嫌われる、とマーサに言われたばかりだ。


 ……だが、見たいものは見たい。


 私は畝の前で、できるだけ静かに喜んだ。

 静かな喜びとは、どうやら口元が勝手に緩むものらしい。


 仕方ない。

 芽が可愛いのが悪い。


 しばらく畝を眺めたあと、私は視線を裏手の柵へ向けた。

 現実は、いつも喜びの横に問題を置いてくる。


 裏手の柵は、昨日ヴィルヘルムに指摘された通り、雨のあとさらに傾いていた。


 斜めに沈んだ支柱。

 緩んだ横木。

 絡まった蔓。


 森側から押されるように、柵の一部が内側へ倒れかけている。


 あれでは、小動物が入りやすい。

 芽を守るためにも、早急にどうにかしなければならない。

 私は腰に手を当てた。


 柵の手入れ。

 やったことはない。

 しかし、今までもやったことがないことばかりだった。


 買取交渉も、宿探しも、物件探しも、火起こしも、井戸水汲みも、畑作りも、全部やったことはなかった。

 それでも私は、どうにかしてきた。


 柵もどうにかなる。

 たぶん。


 私は物置から、昨日マーサに借りた古い紐と、小さな木槌を持ってきた。

 釘は少しだけある。

 板はない。


 支柱を支えるには、斜めに添え木が必要かもしれない。

 添え木。

 どこから調達すればいいのだろう。


 森の枝を勝手に切ってはいけない契約だった。

 庭に落ちている太めの枝なら使えるだろうか。


 私は庭を見回した。

 枝はある。

 ただ、使えるかどうかは分からない。


 太すぎる枝。

 細すぎる枝。

 曲がりすぎた枝。

 虫がいそうな枝。


 私は最後の枝をそっと遠ざけた。

 ……虫がいそうな枝は、今日は保留である。


 柵の前にしゃがみ、支柱を押してみる。

 ぐらり。

 かなり動いた。


「……あなた、思ったより深刻ね。」


 支柱に向かって呟く。

 当然ながら、返事はない。


 私は紐で支柱を仮固定しようとした。


 結ぶ。

 引っ張る。

 緩む。

 もう一度結ぶ。

 また緩む。


 腹立たしい。

 紐というものは、なぜこちらの思う通りに固まらないのだろう。


 王妃教育で礼装の帯やリボンの結び方は学んだが、倒れかけた柵の応急固定は習っていない。

 履修内容にたいへん偏りがあると言わざるを得ない。

 私は三度目の結び直しに挑んだ。


 その時、森の道の方から馬の蹄の音が聞こえた。


 私は手を止めた。

 もう驚かない。当然来ると思っていた。


 監視役は来る。

 雨の日にも来る。

 芽の日にも来る。

 ……なら、柵の日にも来るのだろう。


 案の定、黒馬が森の道から姿を現した。


 今日の彼は、黒に近い深緑の外套をまとっていた。

 森の色に溶けるようで、それでいて彼だけが不思議と浮かび上がって見える。


 淡い金髪は朝の光を受け、濡れていないのに柔らかく艶めいていた。


 まっすぐな背筋。

 静かな歩幅。

 長い脚。

 手綱を持つ指。


 何度見ても、無駄のない立ち姿だった。

 腹立たしい。

 朝の森まで味方につける必要がどこにあるのか。


「おはようございます、レベッカ嬢。」


「おはようございます、監視役殿下。」


 いつものやり取りだ。

 ヴィルヘルムは、私の手元と柵を見た。


「柵を直すのですか。」


「ご覧のとおりです。」


「はい。」


「本日も監視ですか。」


「はい。」


 素直な返事にまた調子を狂わされる。

 連日これではたまったものではない。


「では、柵の手入れは監視対象外です。」


「いえ。柵が壊れれば、獣が入ります。畑に被害が出る可能性があります。」


「畑も監視対象でしたね。」


「はい。」


 なぜこんなことを真顔で言えるのか。

 私はため息をついた。


「ご覧の通り、私は作業中です。所在確認は済みましたね。」


「済みました。」


「では。」


「その結び方では、支柱は固定できません。」


 私は動きを止めた。

 ……やはり見たな。


 いや、監視だから見ているのは当然なのかもしれない。

 それでも腹立たしい。


「また机上の知識ですか。」


「いえ、これは、結び目を見れば分かります。」


「また嫌な言い方を。」


「すみません。」


 すぐ謝る。

 でも撤回はしない。

 この男、本当に厄介である。


「マーサさんに相談します。」


「それがよいと思います。」


「では。」


「ただ、マーサ殿が来る前に倒れる可能性があります。」


 私は柵を見た。

 確かに、支柱はかなり傾いている。

 風が吹けば危ない。

 いや、風が吹かなくても、私が少し引っ張っただけでぐらついた。

 ここに小動物が体当たりでもしたら、あっさり倒れそうだ。


「応急処置だけなら、今できます。」


 ヴィルヘルムが言った。

 私は彼を見る。


「あなたが?」


「はい。」


「殿下が、柵を?」


「応急処置です。」


「王族が?」


「質子でしたので、王族らしい扱いばかりではありませんでした。」


 淡々とした声だった。

 私は言葉を失った。


 彼はすぐに続けた。


「それに、貴族学院では簡単な構造物の維持管理も学びました。実作業は職人に任せるものですが、壊れ方を見て応急判断する知識は必要です。」


「机上の知識。」


「はい。」


 また素直に認める。

 だが、その目はもう柵を見ていた。

 これはすでに手順を考えている顔だ。


 私は迷った。


 頼みたくない。

 非常に頼みたくない。

 だが、芽が心配だ。

 畑が心配だ。


 柵が倒れれば、せっかく出た芽が危ないかもしれない。

 マーサはまだ来ていない。

 私の結び方では固定できない。

 ヴィルヘルムの知識は、腹立たしいことに役に立つ。


 私はしばらく無言で柵を見た。


 それから、低い声で言った。


「敷地には入らないでください。」


「では、柵の外から可能な範囲で。」


「……柵を直すのに?」


「内側からでなくても、一部は固定できます。」


 そう言って、ヴィルヘルムは黒馬を道の脇へ寄せた。

 手綱を木に軽く結ぶ。

 その結び目が、私の雑な結び方とは違い、一瞬でしっかりまとまる。


 見なかったことにしたい。

 しかし、見てしまった。


 長い指が紐を扱う動きは、驚くほど滑らかだった。


 彼は外套の留め具を外した。

 私は思わず目を止めた。

 濃い外套が肩から外される。


 その下には、白いシャツと暗い色のベスト。


 王宮で見る礼装ほど飾りはない。

 けれど、仕立てのよい布が体の線に沿っていて、普段外套に隠れていた肩幅がはっきり分かった。


 思っていたより、広い。


 細身だと思っていた。

 華奢ではないことは分かっていたが、彼の体つきについて深く考えたことはなかった。

 王宮ではいつも、隙のない礼服と冷たい無表情が先に目に入ったからだ。


 けれど、外套を脱いだヴィルヘルムは、思ったより男の人だった。

 しなやかで、無駄がなく、背筋から肩にかけてきちんと鍛えられている。


 人質として十年。

 剣術も乗馬も、姿勢を保つための鍛錬も、彼にとってはただの嗜みではなかったのかもしれない。


 礼服に隠れていただけで、それは確かにある。

 細く見えるのに、弱くはない。

 むしろ、静かな強さがあった。


 彼は外套を黒馬の鞍にかけ、白い手袋を外した。

 次に、シャツの袖をまくる。

 手首のボタンを外し、布を肘の少し下まで丁寧に折り上げる。


 そのしぐさが、妙に目についた。


 指先は相変わらず綺麗だ。

 だが、露わになった前腕には、思っていた以上に筋肉がついていた。


 太すぎるわけではない。

 無骨でもない。

 けれど、手綱を引き、剣を握り、体を支えてきた腕だと分かる。


 筋の通った手首。

 張りのある前腕。

 白い肌の下に、無駄のない力がある。


 私は慌てて視線を逸らした。


 危ない。

 非常に危ない。


 監視役が袖をまくっただけで何を見ているのか、私は。

 顔だけでなく腕まで危険とは、どういうことだ。


 ヴィルヘルムは、私の動揺など気づかないように、柵を見ていた。


 いや、気づいていないはずだ。

 気づいていないことにする。


「工具は?」


「小さな木槌と紐と釘が少し。板はありません。」


「太めの枝は?」


「庭に落ちているものなら。」


「見せてください。」


 私は少し迷ったが、柵の内側にあった枝を拾って見せた。


 ヴィルヘルムは柵越しにそれを受け取り、重さと硬さを確かめた。

 指で枝の表面を押し、折れ目を見て、余分な小枝を手で払う。


 その動きが手慣れているとまでは言えない。

 だが、判断が早い。


「これなら、応急の添え木には使えます。」


「本当に?」


「はい。」


「枝ですよ。」


「支えになれば十分です。見た目は悪くなりますが。」


「見た目はもう十分悪いので問題ありません。」


「そうですか。」


 ヴィルヘルムは少しだけ、ほんの少しだけ口元を動かした気がした。


 笑ったのだろうか。

 いや、まさか。

 この人が、柵の悪口で笑うなど。


 私は目を細めたが、彼はもう真顔で作業に移っていた。


 柵の外から支柱の傾きを確認し、枝を斜めに当てる。

 位置を決め、紐で仮留めする。

 その紐の結び方が、やはり綺麗だった。


 美しいという表現が正しいのか分からないが、無駄がないのだ。


 引けば締まり、緩まない。

 ほどく時にはほどけるのだろう。


 私は自分のぐちゃぐちゃの結び目を思い出し、そっと足で隠した。


「釘を。」


 ヴィルヘルムが言う。

 私は慌てて釘と木槌を渡した。


 彼は受け取る時、私の指に触れないよう、ほんの少し角度を変えた。


 細かい。

 そういうところが、やけに細かい。

 指の一本も、勝手には触れない。


 木槌を握る手は、先ほどまでの優雅な手袋の動きとは違った。

 指が柄を包み、手首がわずかに固まる。

 腕の筋肉が動く。


 ヴィルヘルムは狙いを定め、釘を打った。


 かん、と乾いた音が森に響く。


 もう一度。

 かん。

 さらにもう一度。

 かん。


 力任せではない。

 だが、弱くもない。


 正確で、まっすぐで、迷いがない。


 木槌を振るたび、まくった袖の下で前腕の筋が動いた。

 肩から腕へ伝わる力の流れに、無駄がない。

 剣を握る所作の延長のような、整った打ち込みだった。


 汗ではなく、朝露に近い湿り気が彼のこめかみに光る。

 金髪の一筋が額に落ちる。

 彼はそれを気にせず、釘を打ち込んだ。


 私は気づけば、作業そのものより、その横顔を見ていた。


 整った鼻筋。

 伏せられた睫毛。

 集中して少しだけ細められた青い目。

 唇は固く結ばれている。


 王宮の冷たい美しさとは違う。

 今の彼は、少し土臭く、少し力強く、そしてとても静かだった。


 綺麗な王子ではなく、手を動かして何かを直す男の人。

 その事実が、なぜか胸の奥を落ち着かなくさせた。


「そこ、押さえていただけますか。」


「え?」


「支柱です。内側から軽く。強く押すとずれます。」


「あ、はい。」


 私は慌てて支柱を押さえた。

 何を見ていたのか。


 柵だ。

 私は柵を見ていた。


 監視役の腕ではない。

 絶対に違う。


 ヴィルヘルムは、私の手の位置を見て、少しだけ眉を寄せた。


「そこは棘が出ています。」


「え?」


「少し右へ。」


 私は手をずらした。

 確かに、先ほどの位置には小さな棘があった。


 また気づく。

 怖い。

 細かすぎる。


 作業に集中しながら、私の手の位置の棘まで見ている。


「見すぎです。」


「危険でしたので。」


「監視ですか。」


「はい。」


 もう、その言葉にも少し慣れてしまった自分が嫌だ。


 ヴィルヘルムは釘をもう一本打ち、紐を締め直した。

 柵が少し安定する。

 完全ではない。

 だが、さっきのようにぐらぐらとは揺れない。


 彼は支柱を軽く押して確認した。

 それから、枝の角度を変え、もう一箇所を紐で固定する。


「これで、数日は保つはずです。きちんと直すなら、板と新しい支柱が必要です。」


「数日保てば十分です。マーサさんに相談します。」


「はい。」


 彼はあっさり引いた。

 その時、坂の下から声がした。


「おや、もう直したのかい。」


 マーサだった。

 籠を抱え、こちらへ歩いてくる。


 彼女は柵とヴィルヘルムの腕まくり姿を見て、目を丸くした。


「殿下さん、意外と手が動くんだね。」


「応急処置です。」


「いや、十分だよ。結びも悪くない。」


 ヴィルヘルムは軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


 マーサは柵を確認し、支柱を押した。


「うん。これならしばらく平気だ。レベッカ、あんた一人でやってたら、たぶん昼までに柵と一緒に転んでたね。」


「否定しきれません。」


「そこは否定しな。」


 マーサは笑った。

 私は少し悔しい。

 しかし事実だ。


 支柱は思ったより重かったし、紐は思ったより難しかった。

 ヴィルヘルムがいなければ、かなり苦戦していただろう。


 感謝。

 しなければならない。

 これは完全に手を借りてしまった。


 私はヴィルヘルムを見た。

 彼は木槌を返そうとしていた。


 袖をまくったまま。

 外套を脱いだまま。

 少し土のついた手で。


 前髪が一筋、頬に落ちている。

 その姿が、妙に目に残る。


 私は視線を木槌へ落とした。


「……ありがとうございます。」


 小さく言った。

 ヴィルヘルムの手が、一瞬止まった。


「いいえ。」


「応急処置として、助かりました。」


「監視区域の危険箇所の補修です。」


 台無しである。

 せっかく素直に礼を言ったのに。


 私は冷たい目で彼を見た。


「私の庭ですから。」


「はい。あなたの庭です。」


 返事が早かった。

 私はそれに少しだけ詰まった。


 ヴィルヘルムは続けた。


「あなたの庭の柵が倒れると、あなたの畑に被害が出ます。」


「……だから?」


「監視対象の生活環境に影響します。」


「徹底して監視ですね。」


「はい。」


 腹立たしい。

 腹立たしいが、なぜか先ほどほど嫌ではなかった。


 いや、嫌だ。

 嫌だけれど、柵は直った。

 それは事実だ。


 ヴィルヘルムは木槌を返し、釘を置いた。

 それから、手についた土を布で拭う。

 袖を戻す前に、一瞬だけ前腕がまた見えた。


 私は見ないふりをした。

 見ないふりをして、しっかり見てしまった。

 なぜ見てしまうのか。

 腕というものは、そんなに見るものだっただろうか。

 王宮で紳士の腕を見るなど、礼儀に反する。


 しかし今、彼は私の庭で柵を直した監視役であり、袖をまくっている。

 これは状況が悪い。

 私ではなく、状況が悪い。


 ヴィルヘルムは手早く袖を戻し、手袋をはめた。

 外套を羽織ると、先ほどの作業中の男らしさはすぐに隠れた。


 再び、整った王子の姿に戻る。


 それが少しだけ惜しいような気がして、私は自分に驚いた。


 惜しい?

 何が?

 馬鹿なのか、私は。


「レベッカ嬢。」


「何ですか。」


「柵の根元は、今日中に踏み固めない方がいい。雨上がりで土が柔らかいので、明日以降、マーサ殿と確認してください。」


「分かりました。」


「芽の周囲には、簡単な鳥除けを。」


「マーサさんと作ります。」


「はい。」


「あなたは作らなくて結構です。」


「承知しています。」


 そこは素直だ。

 本当に調子が狂う。

 マーサが柵をもう一度見て言った。


「殿下さん、板があればちゃんと直せるのかい?」


「職人ほどではありませんが、応急以上には。」


「ふうん。」


 マーサの目が面白そうに光った。


「じゃあ、今度板を用意しておくかね。」


「マーサさん。」


 私は慌てて止めた。


「頼むとは言っていません。」


「言ってないね。」


「では。」


「でも柵は直した方がいい。」


「それはそうですが。」


「レベッカ、意地で畑を守れなくなったら本末転倒だよ。」


 正論。

 非常に正論。


 この村の人々は、どうしてこう現実的なのか。

 いや、暮らしとは現実だからだ。


 私は口を閉じた。

 ヴィルヘルムは、私とマーサの会話に割って入らなかった。

 ただ静かに立っている。

 こういうところも、少しだけ意外だった。


 王宮の会議では、彼は必要な時にすぐ口を挟み、無駄を許さない人だった。

 けれどここでは、マーサの言葉を待っている。

 土地の人間の判断を尊重している。


 それが分かってしまうのが、また腹立たしい。


「板があるなら、マーサ殿の指示で補修できます。」


 ヴィルヘルムが静かに言った。


「私の指示、ではなく?」


 マーサがにやりと笑う。


「この土地の柵の直し方は、私よりマーサ殿の方が詳しいでしょう。」


「分かってるじゃないか。」


 マーサは満足そうだった。

 私は少しだけ感心した。

 ヴィルヘルムは、自分の知識を絶対視しない。

 机上の知識だと認める。

 実践は土地の人に聞くべきだと言う。


 そこは、評価できる。


 好ましい、ではない。

 評価できる。


 それだけだ。


「では、今日の監視は終わりですか。」


 私が尋ねると、ヴィルヘルムは頷いた。


「はい。」


「柵の手入れまでしていただき、監視役殿下はお忙しいですね。」


「必要な確認でした。」


「でしょうね。」


「ただ。」


「まだ何か。」


 ヴィルヘルムは私の手元を見た。


「手袋をしていても、棘は貫通することがあります。今日は軟膏を塗った方がいい。」


「……分かりました。」


「軟膏の小瓶は?」


「あります。」


「使ってください。」


「買ったものですから、使います。」


「はい。」


 彼はそれだけ言うと、黒馬へ向かった。

 外套を整え、手綱を取る。


 黒馬が彼の肩へ鼻を寄せた。

 ヴィルヘルムはその首を軽く撫でた。


 先ほど木槌を握っていた手が、今度は驚くほど柔らかく馬に触れる。


 力強く釘を打つ手。

 小さな芽の石を除く手。

 馬の首を撫でる手。


 同じ手なのに、全然違う。

 何なのだろう、この人は。


 彼は馬にまたがった。

 外套が揺れる。

 朝の光が金髪を淡く縁取る。


 柵を支えた後だというのに、彼はやはり気品を失っていなかった。


 私は唇を引き結んだ。

 認めたくない。

 非常に認めたくない。


 けれど、今日のヴィルヘルムは少し、かっこよかった。


 ほんの少し。

 柵を支えた分だけ。


 いや、柵を支えたことへの評価であって、決して本人への評価ではない。


 そういうことにする。


「また確認に来ます。」


「柵も芽も、監視対象ですものね。」


「はい。」


「本当に迷惑です。」


「承知しています。」


 いつものやり取り。

 だが、今日は少しだけ、私の声に力がなかったかもしれない。


 ヴィルヘルムは軽く頭を下げ、黒馬を森の道へ進めた。


 その背中が木々の間に消えていく。

 私はしばらく見送ってしまった。


 マーサの声が横から飛んできた。


「見送るんだね。」


「監視役が本当に帰るか確認しているだけです。」


「そうかい。」


「そうです。」


「顔、赤いよ。」


「柵の作業で疲れただけです。」


「ほとんど殿下さんがやってたけどね。」


「支柱を押さえました。」


「それはそれは。大仕事だったねえ。」


 マーサが笑う。

 私は言い返せなかった。


 悔しい。

 非常に悔しい。


 本当に赤いとすれば、それは情けなさのせいだ。


 あの腕のせいではない。

 断じて違う。


 私は直った柵を見た。

 完全ではない。

 枝と紐と釘で支えただけの応急処置。


 それでも、確かに倒れかけていた柵は持ち直している。


 私の畑を守るように。

 私の小さな芽を守るように。

 監視役が直した柵。


 腹立たしい。

 でも、ありがたい。


 その二つが同時に胸の中にある。

 私はため息をついた。


「マーサさん。」


「何だい。」


「鳥除けの作り方を教えてください。」


「いいよ。あと、板の調達も考えよう。」


「……はい。」


「意地はほどほどにね。」


「努力します。」


 私は畝の方へ歩いた。

 小さな芽は、朝の光の中で静かに揺れていた。


 柵の向こうには、ヴィルヘルムが直した支柱。

 家の中には、彼から買い取った手袋と軟膏。

 暖炉のそばには、雨の日に置いていった乾いた小枝。


 私の生活の中に、少しずつ監視役の痕跡が増えている。


 それが、とても気に入らない。


 気に入らないのに、どれも役に立つ。

 もっと気に入らない。


 そして、今日の柵。

 あの外套の泥。

 まくった袖の下の、思いがけずしっかりした腕。


 あれは演技ではない。

 本当に、ここで働いた痕跡だ。


 私は畝の前にしゃがみ、小さな芽に向かって呟いた。


「あなたは、あの人に懐かないでね。」


 芽は返事をしない。

 ただ、風に揺れた。


 それが少しだけ、笑っているように見えた。


 私はその揺れを見て、少しだけ唇を尖らせた。


 鳥除けを作る。

 柵をきちんと直す方法を考える。

 針仕事も進める。


 やることは多い。


 けれど、昨日より畑は少し守られている。

 芽も増えた。

 柵も、ひとまず倒れずに立っている。


 その事実だけは、認めてもいい。


 私は立ち上がり、マーサの方へ向かった。


「まずは鳥除けですね。」


「そうだね。布と紐と、音の出るものがいるよ。」


「音の出るもの。」


「小さい鈴でも、古い金具でもいい。鳥は慣れるけど、ないよりましだ。」


「分かりました。」


 私は頷いた。

 柵の向こう、森の道はもう静かだった。

 監視役の姿はない。


 けれど、直された柵だけが、そこに残っている。


 それが腹立たしくて、少しだけ心強かった。

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