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第十六話 市場へ行く日

 柵の応急処置を終えた翌朝、私は家の中で硬貨を数えていた。


 机の上には、小さな革袋が三つある。


 一つは家賃や大きな支払い用。

 一つは日々の食費用。

 一つは、マーサの針仕事で得た硬貨や細かな収入を入れるための袋だ。


 こうして分けておくと、少しだけ安心する。


 お金は、まとめて持つと頼もしい。

 しかし、まとめて減ると恐ろしい。


 だから、用途ごとに分ける。

 前世の記憶も、今世で叩き込まれた帳簿の知識も、そこは同じことを言っている気がする。


 今日は市場へ行く。

 目的は二つ。


 一つ、鳥除けの材料を買うこと。

 二つ、柵の補修に使える板や釘を買うこと。


 私は紙に書いた買い物一覧を確認した。


 紐。

 古布。

 木片。

 釘。

 小さな鈴か、音の出るもの。

 豆。

 塩。

 安い油。

 紙。

 糸。

 種。


 できれば、余裕があれば、もう一種類の種。


 最後の一行を見て、私はしばらく黙った。

 これは必要か。

 必要ではない。


 まだ最初の芽が出たばかりだ。畑も小さい。欲張ってはいけない。

 種屋の老婆も、畑は人間の欲を見抜くと言っていた。

 しかし、鳥除けを作るついでに市場へ行く。

 市場には種屋がある。

 見るだけなら無料である。


 私は紙を畳んだ。


 見るだけ。

 見るだけなら問題ない。

 自分にそう言い聞かせ、外套を羽織る。


 家を出る前に、畑へ寄った。

 小さな芽は、昨日よりほんの少しだけ背を伸ばしている気がする。

 気がするだけかもしれない。


 でも、可愛い。

 非常に可愛い。


「今日は市場へ行ってくるわ。」


 芽に向かって言う。

 返事はない。


「鳥除けを作るから、鳥には食べられないように頑張って。」


 頑張るのは芽ではなく私だ。

 分かっている。

 分かっているが、声をかけたくなるのだ。


 私は畑の周囲を確認し、裏手の柵も見た。


 ヴィルヘルムが直した部分は、まだしっかりしている。

 枝と紐と釘だけなのに、思ったより安定している。


 腹立たしい。

 監視役のくせに、柵を直すのが上手い。

 ……しかも、袖をまくった腕が思ったよりたくましかった。


 私はそこまで思い出して、慌てて首を振った。


 違う。

 柵の強度を確認していただけだ。

 決して腕の強度ではない。


 私は門に鍵をかけ、市場へ向かおうとした。


 その時だった。

 森の道の方から、聞き慣れた馬の蹄の音がした。


 聞き慣れたくなかった。

 非常に聞き慣れたくなかった。


 けれど、もう分かってしまう。

 あの静かで規則正しい蹄の音。


 黒馬。

 そして、監視役殿下。


 私は門の前でゆっくり振り返った。


 朝の森の道から、ヴィルヘルムが姿を現した。


 今日の彼は、濃紺の外套をまとっていた。

 淡い金髪は朝の光を受けて、銀にも金にも見える。


 すっと伸びた背筋。

 長い脚。

 手綱を持つ指。


 ただ馬を引いて歩いているだけなのに、どうしてこうも目立つのか。

 ここは王宮の回廊ではない。

 私の森の家の前である。


 そして私は今、傷物の鈴と紐と豆を買いに行くだけなのだ。


「おはようございます、レベッカ嬢。」


「おはようございます、監視役殿下。私は今から市場へ行きますので。今日の所在確認はお済みですね。」


「市場へ同行します。」


「結構です。」


 即座に言った。

 ヴィルヘルムは瞬きをした。


「監視のためです。」


「でしたら、なおさらです。あなたと並んで市場を歩く気はありません。」


「理由を伺っても?」


「目立つからです。」


 私ははっきりと言った。


「あなたは目立ちます。非常に目立ちます。森の道ならまだしも、市場にその姿で現れたら、どう考えても目立ちます。私が平穏に傷物の鈴を値切れなくなります。」


「傷物の鈴を?」


「鳥除けに使います。」


「なるほど。」


 納得しないでほしい。

 そして伝えたいのはそこではない。


「それに、市場に馬を連れていくのも邪魔になります。荷馬車や屋台も多いでしょうし、馬留めを探すだけで目立ちます。」


「では、馬はここに置いていきます。」


「そこまでして来るのですか。」


「監視ですので。」


 この男。

 本当に引かない。


 私は額に手を当てたくなった。


 ヴィルヘルムは黒馬を柵の外の木陰へ連れていった。

 馬は慣れているのか、静かに鼻を鳴らす。


 彼は手綱をきつく結びすぎず、しかし外れないように整えた。

 その結び目が、また無駄なく綺麗だった。

 昨日の私のぐちゃぐちゃの紐とは違う。


 見なかったことにしたい。

 しかし、見てしまった。


 ヴィルヘルムは馬の首を一度だけ撫でた。

 黒馬が安心したように目を細める。


 馬には本当に柔らかく触れる。

 その手が、昨日は木槌を握り、柵を直していた。


 私はまた余計なことを思い出しそうになり、慌てて視線を外した。


 ヴィルヘルムがこちらへ戻ってくる。


 馬なし。

 徒歩。

 それでも、存在感はほとんど減っていない。


 むしろ、黒馬という目立つ要素が消えたぶん、本人の整った姿がそのまま前面に出ている気がする。


 困る。

 とても困る。


「とにかく、同行者だと思われるのは困ります。」


「なぜですか。」


「噂になるからです。私は今、できるだけ目立たず、静かに暮らしたいのです。そこへ王都の高貴な男性が連れ立って歩いていたら、どう見ても目立ちます。」


「高貴な男性。」


「ご自覚がないのですか。」


 ヴィルヘルムは少し黙った。


「……立場上、目立つことはあります。」


「立場以前に、外見です。」


 言ってから、しまったと思った。

 ヴィルヘルムの青い瞳が、こちらを見る。

 私は咳払いした。


「つまり、その、身なりが整いすぎています。市場向きではありません。」


「承知しました。」


「本当に承知しましたか。」


「はい。距離を取ります。」


「絶対に、同行者と思われない距離を取ってください。」


「監視可能な範囲で。」


「できるだけ遠く。」


「監視可能な範囲で。」


 譲らない。

 この男、こういうところだけ本当に頑固だ。


「では、少なくとも私が店の人と話している時に、背後に立たないでください。怖いです。」


「危険がなければ。」


「危険がなくても、あなたが後ろに立つと店の人が緊張します。」


「……承知しました。」


 少し間があった。

 本当に分かったのだろうか。

 不安しかない。


 私は深く息を吐き、市場へ向かって歩き出した。

 少し後ろから、ヴィルヘルムの足音が続く。

 馬の蹄の音はしない。


 それだけで少しはましだ。

 少しは。


 だが、存在感は消えていない。

 まったく消えていない。

 監視役殿下は、馬がいなくても目立つらしい。


 ……たいへん迷惑である。


 市場へ続く道は、少しずつ人の気配が増えていく。


 荷車を押す男。

 籠を抱えた女。

 鶏を運ぶ少年。

 洗濯物を抱えた少女。


 私はその中に混じって歩いた。


 短い髪。

 地味な服。

 丈夫な靴。

 肩から下げた布袋。


 もう、夜会用ドレスで注目を浴びた女ではない。

 少しずつ、街の中に溶け込み始めている。

 そのことが嬉しかった。


 私が誰だったのか。

 誰に捨てられたのか。

 どんな断罪を受けたのか。

 ここでは誰も知らない。


 私はただ、市場へ買い物に行く一人の女だ。


 そう思いたかった。

 だが。


 少し後ろから、淡い金髪の高貴な男性が徒歩でついてきている。

 馬がいないだけ、多少はまし。

 しかし、溶け込むには、やはり存在感が強すぎた。


 通りすがりの女性が、ちらりと彼を見る。

 その隣の少女も見る。

 荷車を押していた男ですら、ちらりと見る。


 当然だ。

 しかも彼は、自分が目立っていることを分かっているのかいないのか、相変わらずまっすぐな姿勢で歩いている。


「もう少し目立たないようにしてください。」


 私は少し後ろへ声を投げた。


「努力します。」


「できていません。」


「……承知しました。」


 ……なぜ、承知で解決すると思うのか。


 市場は朝から賑わっていた。

 雨上がりの空気に、野菜の青い匂い、焼きたてのパンの匂い、魚の匂い、油の匂いが混じっている。

 人の声が重なり、荷車の車輪が軋み、店先の布が風に揺れる。


 王宮の夜会も人は多かった。

 けれど、あれは整えられた人混みだった。


 こちらは違う。

 市場は生きている。

 音も匂いも動きも、全部がこちらへぶつかってくる。


 私はまず金物屋へ向かった。

 釘と小さな鈴を探すためだ。


 鳥除けに、布を結び、風で揺れるものや音の鳴るものを使えるとマーサが教えてくれた。


 立派なものは要らない。

 安く、軽く、壊れても惜しくないもの。


 店の前で、私は小さな鈴の値段を尋ねた。


「鳥除けに使うなら、こっちの傷物で十分だよ。」


 金物屋の主人が箱を出してくれる。

 中には、少し歪んだ鈴や、紐の切れた金具が入っていた。


「音は鳴りますか。」


「鳴る。見た目が悪いだけだ。」


「見た目は問いません。鳥が嫌がれば十分です。」


「現実的なお嬢さんだ。」


「生活がかかっていますので。」


 私は鈴をいくつか手に取った。

 指でつまんで軽く振ると、ちりん、と小さく鳴る。


 澄んだ音ではない。

 少し歪んでいる。

 けれど、ちゃんと鳴る。


 ――完璧でなくても、音は鳴る。


 その事実が、なぜか少しだけ胸の奥を温めた。


 これは鳥除け用の傷物の鈴だ。

 それ以上の意味はない。


 それでも、傷物でも役に立てるというのは、悪くない響きだった。


 その時、金物屋の主人が私の後方をちらりと見た。


「あの綺麗な兄さん、あんたの連れかい?」


「違います。」


 私は即答した。

 少し強すぎたかもしれない。


 主人が目を丸くしたので、私は慌てて言い直した。


「少し事情のある知り合いです。同行者ではありません。」


「事情のある知り合いねえ。」


「ええ。少し面倒な知り合いです。」


 主人はおかしそうに笑った。


「そりゃまた、ずいぶん目立つ面倒だ。」


「……本当に。」


 私は心から頷いた。

 少し離れた場所に立っていたヴィルヘルムが、こちらを見た気がした。


 聞こえたのだろうか。

 聞こえていないことにした。

 聞こえていたとしても、面倒なのは事実である。


 面倒な知り合い。

 言ってみると、思ったより口に馴染んだ。

 悔しいが、これ以上的確な表現がない。


 監視役殿下、では少し長い。

 それに、外ではその呼び方を控える必要がある。


 私は気を取り直し、鈴を選んだ。


「もう少し安くなりませんか。歪みが大きいものを選びますので。」


「歪んでても音は鳴るよ。」


「では、見た目の分だけ。」


「手厳しいね。」


「鳥は見た目を気にしませんので。」


 金物屋の主人は笑いながら、少しまけてくれた。

 交渉成立。

 私は鈴を布袋へ入れた。


 少し離れたところで、ヴィルヘルムが静かに立っている。

 約束通り、背後には立たない。

 けれど、私が値切るやり取りを、彼はじっと見ていた。


 咎める目ではない。

 何かを確かめるような目だった。


 値切りに勝った私が思わず小さく胸を張ったのを、彼に見られた気がして、私は急いで次の店へ向かった。


 次は古布。

 それから釘。

 紐。

 糸。

 紙。

 塩と豆。

 安い油は、少しだけ。


 私は市場を歩きながら、必要なものを一つずつ揃えていった。


 途中、種屋の前を通った。

 通っただけ。

 立ち止まってはいない。

 足が少し遅くなっただけである。


「見るだけかい?」


 老婆が店先から声をかけてきた。

 なぜ分かる。


「今日は鳥除けの材料を買いに来ただけです。」


「芽が出たんだろう?」


「出ました!」


 思わず声が弾んだ。

 老婆は楽しそうに笑った。


「そりゃよかった。なら今日は買わなくていい。まずはその芽を守りな。」


 なんと正しいことを言うのか。

 商売人なのに売りつけてこない。

 私は少し感動した。


「はい。鳥除けを作ります。」


「風で揺れる布と、音の鳴るものを少し。あと、鳥は賢いから時々場所を変えるんだよ。」


「分かりました。」


「もう少し畑が落ち着いたら、豆を増やすといい。」


「豆。」


 魅力的な言葉だ。

 私は種袋を見た。

 小さな袋。

 未来の食卓。


 ……いけない。

 今日は買わない。


 私は強い意志で視線を戻した。


「今日は買いません。」


「偉いね。」


「ありがとうございます。」


 褒められた。

 私は少し誇らしい気持ちで種屋を離れた。


 その時、前方から二人組の男が歩いてきた。

 片方は酔っているのか、朝から声が大きい。


 市場では珍しくない。


 私は布袋を体の前に寄せ、少し道の端へ避けた。

 だが、男の一人がこちらを見た。


「おや、可愛いお嬢さんだ。」


 面倒な気配。

 私は顔を上げずに通り過ぎようとした。


 こういう時は相手にしない。

 前世の記憶も、今世の常識も、同じことを言っている。


「ちょっと待ちなよ。何買ったんだ?」


 男が近づいてくる。

 私は一歩下がった。


 その瞬間、私の背後に気配が立った。


 すっと、空気が変わった。

 何か冷たいものが一枚、私と男たちの間に下りたようだった。


 振り返らなくても分かった。

 ヴィルヘルムだ。


 彼は何も言わなかった。

 ただ、私の少し後ろに立った。


 近すぎない。

 触れない。

 けれど、確実に間に入れる位置。


 私を庇い、けれど、私の領分は侵さない。

 たった半歩の距離に、彼の判断が詰まっていた。


 男たちが顔を上げる。

 その表情が変わった。


 無理もない。

 ヴィルヘルムは、黙って立っているだけで圧がある。


 整った顔。

 静かな青い目。

 まっすぐな姿勢。

 上質な外套。


 そして何より、感情の読めない無表情。


 美しい。

 だが、近寄りがたい。

 冬の湖のような人だ。


 表面は澄んでいるのに、触れれば凍えそうな冷たさがある。


「……連れがいたのか。」


 男の一人が気まずそうに言った。

 私はすぐに言った。


「連れではありません。」


 ヴィルヘルムも少し遅れて、淡々と付け加えた。


「隣国での知人です。」


 私は思わず彼を見た。

 言い直した。


 監視役です、ではなく。

 隣国での知人。


 市場へ来る前に念押ししたことを、一応覚えていたらしい。


 男たちは、それでも十分面倒だと思ったのか、明らかに関わりたくない顔をして、そそくさと去っていった。


 その背中が人混みに紛れると、ヴィルヘルムは音もなく元の距離へ下がった。

 私は深く息を吐いた。


「……助かりました。」


「接触者の排除です。」


「お礼を言った私が馬鹿でしたね。」


「危険はありませんでしたか。」


「ありません。あなたが来たので。」


 言ってから、少しだけ気まずくなった。

 ヴィルヘルムは私を見た。

 その目が、ほんの一瞬だけ柔らかくなった気がした。


 気のせいだ。

 市場の光の加減だ。


「距離を取るとお約束したのでは?」


 私は話を逸らすように言った。


「危険接近がありましたので。」


「監視ですね。」


「はい。」


「まだ少し近いです。」


「……失礼しました。」


 彼はもう一歩下がった。

 本当に距離を戻す。


 その律儀さが、少しだけおかしかった。

 私は笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。


 笑ってはいけない。

 監視役だ。


 私は次に、板を扱う材木屋へ向かった。


 柵の補修に使える板の値段を聞く。


 板は思ったより高かった。

 安い端材なら買えるが、長さが足りないものも多い。


 私は店主に用途を説明し、使えそうな端材を見せてもらった。


「柵の補修なら、このあたりかね。」


「もう少し安いものはありますか。」


「虫食いがあるものなら安いが、柵には向かんよ。」


「では、虫食いは除外で。」


「賢い判断だ。」


 店主は端材をいくつか並べてくれた。

 私は寸法を確認する。

 といっても、正確な長さは分からない。昨日の柵の記憶と照らし合わせるしかない。


 困った。

 こういう時、現場の寸法を測っておくべきだった。


 私は紙に大体の長さを描こうとして、止まった。

 少し離れた場所から、低い声がした。


「支柱の補強なら、それでは短いと思われます。」


 ヴィルヘルムだった。

 背後には立っていない。

 少し距離を取っている。

 でも、聞こえる位置にはいる。


 私は目を細めた。


「距離は取っていますね。」


「はい。」


「でも口は出すのですね。」


「短いものを買うと無駄になります。」


「それは困ります。」


「ですので、口を出しました。」


「正論で殴らないでください。」


 ヴィルヘルムは一瞬、意味を測るように沈黙した。


「殴ってはいません。」


「比喩です。」


「なるほど。」


 店主が笑った。


「嬢ちゃん、面白い知り合いを連れてるね。」


「連れていません。勝手についてきているのです。」


「監し……。」


 ヴィルヘルムが何か言いかけた。

 私はすぐに振り返り、強めに彼を見た。


 ヴィルヘルムは一拍置いて、言い直した。


「……隣国での知人です。」


 そこは正しい。

 正しいが、なぜか少しぎこちなかった。


 店主はおかしそうに眉を上げる。


「隣国での知人ねえ。」


「少し面倒な知り合いです。」


 私は補足した。

 店主は声を出して笑った。


「いいねえ。じゃあ面倒な知り合いさん、こっちはどうだい。支柱ならこっちの端材の方がましだ。」


 結局、ヴィルヘルムが昨日の柵の状態を簡潔に説明し、店主が適した板を選んでくれた。


 腹立たしいことに、かなり助かった。

 しかも、端材の中から安くて丈夫なものを選べた。

 さらに、店主が運び賃を少しまけてくれた。


 理由は、「面白いものを見せてもらったから」だそうだ。


 ありがたい。

 ありがたいが。


 不本意である。

 とても不本意である。


「ありがとうございます。」


 私は店主に礼を言った。


「毎度。その面倒な知り合いさんもまたどうぞ。」


 ヴィルヘルムは無表情で頷いた。


「必要があれば。」


 必要があってたまるか。

 私は心の中で突っ込んだ。


 板の手配を終え、市場の端で少し休むことにした。

 買ったものは布袋に入っている。


 鈴。

 古布。

 紐。

 釘。

 糸。

 紙。

 塩と豆。

 油は少しだけ。


 板は明日の午後に家へ届けてもらう。


 私は市場の端の石段に腰を下ろした。

 少し疲れた。


 人混みは思ったより体力を使う。

 王宮の夜会も人混みだったが、あれとは違う。


 市場は生きている。

 声と匂いと動きが、すべて体にぶつかってくる。


 私は布袋を抱え、息を整えた。

 少し離れた場所に、ヴィルヘルムが立っている。


 約束通り、距離を取っている。

 だが壁際に立つ姿は、やはり目立つ。


 本人は溶け込むつもりなのかもしれないが、無理だ。

 どう見ても貴族。

 しかも高位の貴族。


 腕を組むでもなく、所在なげにするでもなく、ただまっすぐ立っている。

 その立ち姿だけで、周囲の喧騒から一人だけ切り離されて見えた。


 ……腹立たしい。


 その時、近くのパン屋から焼きたての匂いが流れてきた。

 お腹が鳴りそうになる。

 私は朝食を軽く済ませただけだった。


 パンを買おうか。

 少し迷う。


 節約は大事だ。

 しかし、昼食を抜いて倒れる方がよくない。


 私は立ち上がり、パン屋へ向かった。

 安い丸パンを二つ買う。


 一つは昼食。

 もう一つは夕食のスープ用。


 店主の女性が、私の後方をちらりと見た。


「あの綺麗な人、知り合い?」


「隣国での知り合いです。」


 私は今度は慎重に答えた。


「ただ、同行者ではありません。少し事情があって、離れて歩いていただいています。」


「へえ。事情ねえ。」


「はい。少し面倒な事情です。」


「ずいぶん綺麗な事情だね。」


「見た目だけは。」


 思わず本音が出た。

 店主が声を上げて笑った。


「まあ、あれだけ綺麗なら、市場が少し明るくなるよ。」


「私は目立って困っています。」


「そりゃそうだ。じゃあ迷惑料に、少し大きいのを入れとくよ。」


「ありがとうございます。」


 面倒な知り合いが、なぜかパンを少し大きくしてくれた。

 世の中、何が得になるか分からない。


 帰り道、ヴィルヘルムはやはり少し後ろを歩いた。

 人混みでは近づきすぎず、けれど私が完全に見えなくなる距離までは離れない。

 その距離感が絶妙だった。


 守っているのか、見張っているのか。

 私には分からない。


 たぶん、見張っているのだ。

 そう思う方が楽だった。


 市場を抜ける頃、私は少し足を止めた。


 重い。

 布袋がかなり重くなっていた。

 鈴や釘は小さいが、豆や塩もある。油もある。パンもある。

 家まで歩くには、なかなかの重さだ。


 だが、自分で持つと決めた。


 私は布袋を持ち直した。

 その瞬間、横から静かな声がした。


「持ちます。」


 ヴィルヘルムだった。

 いつの間に距離を詰めたのか。

 私は袋を抱え込む。


「結構です。」


「重そうです。」


「重いです。」


「では。」


「重いからといって、あなたに渡す理由にはなりません。」


 ヴィルヘルムは黙った。

 私は袋を肩にかけ直した。


「これは私が買ったものです。私が使うものです。だから私が持ちます。」


「……分かりました。」


 彼は引いた。

 ただし、少しだけ歩く速度を落とした。


 私に合わせている。


 腹立たしい。

 見えないところで気を遣うな。


 私は少し意地になって歩いた。

 だが、途中で本当に重くなった。


 肩が痛い。

 腕も痛い。

 でも渡さない。

 絶対に渡さない。


 その時、道の端に大きめの石が転がっていた。

 私は布袋の重さに気を取られ、足元を見るのが遅れた。


 つまずきかける。


「っ。」


 転ぶ、と思った瞬間、腕を支えられた。

 しっかりした力だった。

 痛くない。


 必要な分だけ支え、体勢が戻るとすぐ離す。

 布越しにも、その手の確かさが伝わった。


 昨日、柵を直し、釘を打った手だ。


 私は体勢を立て直した。


 ヴィルヘルムは、私の腕から手を離し、一歩下がった。


「失礼しました。」


「……いえ。」


「石があります。」


「見れば分かります。」


「転びかけていました。」


「それも分かっています。」


「怪我は?」


「ありません。」


「荷物は?」


「無事です。」


「では、よかった。」


 低い声で、短くそう言った。


 それだけ。

 それだけなのに、胸が変な音を立てた。


 違う。

 これは転びかけた驚きだ。


 支えられたせいではない。

 腕に残る手の感触など、気のせいだ。


 ヴィルヘルムは、道の端の石を足で少し寄せた。

 他の人がつまずかないように。

 何気ない動作だった。


 でも、見てしまった。

 この人は、本当に細かい。

 細かすぎる。


「……ありがとうございます。」


 私は小さく言った。


「危険回避です。」


「監視とは言わないのですね。」


「外では控えるように、とのことでしたので。」


 覚えている。

 この人は、妙なところで律儀だ。


「では、危険回避のための知り合いですね。」


「それは肩書きですか。」


「嫌味です。」


「……承知しました。」


 思わず雑なやり取りになった。

 ヴィルヘルムが少しだけ目を瞬いた。

 その反応が珍しくて、私は少しだけ笑いそうになった。


 家に着く頃には、肩がかなり痛くなっていた。

 だが、私は荷物を最後まで自分で運んだ。


 森の家が見えてくると、黒馬が柵の外の木陰で静かにこちらを見た。

 ヴィルヘルムが置いていった場所から動いていない。

 賢い馬だ。


 私は門の前で立ち止まり、鍵を開ける。

 ヴィルヘルムは柵の外で止まった。

 約束を守っている。


 私は荷物を玄関の中に置き、少し息をついた。

 それから振り返る。


「今日の確認は終わりですか。」


「はい。」


「市場での接触者も確認できましたか。」


「概ね。」


「私が傷物の鈴を値切っている姿も?」


「はい。」


「惨めでしたか。」


 ヴィルヘルムの表情が、ぴくりと動いた。


 私はすぐに後悔した。

 なぜそんなことを聞いたのか。

 けれど、言葉はもう戻らない。


 ヴィルヘルムは、しばらく私を見ていた。

 青い瞳が、静かに揺れる。


「いいえ。」


 彼は言った。


「あなたは、必要なものを選び、不要な支出を避け、交渉していました。」


「つまり、生活感があって面白かったと?」


「堅実でした。」


 堅実。

 その言葉に、私は一瞬黙った。


 公爵令嬢として白く美しい手を求められていた自分。

 侍女が荷物を持ち、値段など考える必要もなかった自分。

 それが今、傷物の鈴を値切って、重い袋を一人で運んでいる。


 それを堅実と言われた。


「……そうですか。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは少し間を置いて、付け加えた。


「市場で値切りに成功した時、少し胸を張っていました。あれは、悪くない姿でした。」


 私は固まった。

 やはり見ていたのか。


 あの、つい胸を張ってしまった一瞬を。


 その言葉が、ただの評価なのか、褒めているのか、私には分からなかった。

 けれど、嫌ではなかった。

 むしろ、耳の奥に長く残った。


「では、報告が必要ならそう書いてください。レベッカ嬢は堅実に鳥除け用の鈴を値切っていた、と。」


「必要があれば。」


「本当に書かないでください。」


「分かりました。」


 真面目に答える。

 私は少し疲れた。


「もうお帰りください。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは軽く頭を下げた。

 そして、黒馬の手綱を外す。

 黒馬は彼の肩に鼻先を寄せた。

 ヴィルヘルムはその首を一度撫でた。

 その手つきはやはり柔らかい。


 市場では誰にも触れず、私の腕を支えた時でさえすぐに離した手が、馬にはためらいなく優しく触れる。

 私はそれを見てしまい、また視線をそらした。


 ヴィルヘルムは馬にまたがらず、しばらく手綱を引いて歩き出した。

 森の道の途中までは、馬を休ませるつもりなのかもしれない。


 その背中を見て、私はふと思い出した。

 彼は、私が重い荷物を持っても、無理に奪わなかった。


 手を差し出した。

 断れば引いた。

 ただ、歩く速度を落とした。


 転びかけた時だけ支えた。

 すぐ離した。


 これも、監視なのだろうか。


 ……たぶん、そうなのだろう。


 私はそう思うことにした。

 そう思わなければ、少し困る。


 家に入り、布袋を開ける。


 鈴。

 古布。

 紐。

 釘。

 糸。

 紙。

 塩。

 豆。

 油。

 パン。


 今日の成果が机の上に並ぶ。


 私は少し嬉しくなった。

 買い物は成功だ。


 板も明日届く。

 鳥除けも作れる。

 パンも少し大きい。


 なぜかは考えない。


 私は丸パンを一つ取り出し、昼食にすることにした。

 かじると、外は香ばしく、中は柔らかい。


 おいしい。

 町のパンは、赤い壺亭のものとはまた違った味がする。


 私は窓の外を見た。

 畑の小さな芽が、風に揺れている。

 柵はまだ応急処置のままだが、倒れてはいない。


 明日には板が届く。

 マーサと相談して、鳥除けも作る。


 ――生活は少しずつ形になっている。


 ただ、そこに監視役の影が少しずつ混じっていることが、気に入らない。


 でも、今日は助けられた。


 市場で。

 材木屋で。

 道の石の前で。


 私はパンをもう一口かじった。


「……面倒な知り合い、ね。」


 呟く。

 監視役殿下よりは、少しだけましな言い方かもしれない。


 けれど、その声が昨日ほど棘だらけではなかったことに気づいて、私は少しだけ慌てた。


 違う。

 私は疲れているだけだ。


 荷物が重かったから。

 市場が賑やかだったから。

 転びかけたから。


 だから少し調子が狂っている。

 そういうことにした。


 明日、マーサが来たら、鳥除けを作る。

 鈴をつけ、布を結び、芽を守る。


 私は机の上の鈴を一つ手に取った。

 小さく振ると、ちりん、と歪んだ音が鳴った。


 完璧ではない。

 でも、ちゃんと鳴る。


 私の暮らしも、きっと同じだ。

 歪んでいても、欠けていても、ちゃんと音が鳴ればいい。


 私は少し笑った。


 窓の外で、風が吹く。

 小さな芽が揺れる。


 遠く、森の道の方で、黒馬の蹄の音はもう聞こえなかった。

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