第十七話 鈴の鳴る鳥除け
翌日の午後、材木屋から板が届いた。約束の時間より少し早かった。
庭先に荷車の音が近づいてきた時、私はちょうど傷物の鈴を一つずつ確認していたところだった。
歪んではいるが、ちゃんと鳴る小さな鈴たち。
指でつまんで揺らすと、ちりん、と控えめな音がした。
澄んだ音ではない。少し歪んでいる。
けれど、その不揃いな音が、今の私には妙に愛おしかった。
完璧でなくても役に立つ。傷物でも、音は鳴る。
――私の暮らしに、とてもよく似合っている。
玄関を開けると、材木屋の若い店員が荷車から板を下ろしていた。
「ここでいいですかい?」
「はい。ありがとうございます。柵の近くに置いていただけますか。」
「へい。」
板は思っていたより重そうだった。
端材とはいえ、しっかりした木だ。市場で見た時は、これなら持ち帰れるかもしれないと思ったが、実際に運ばれてくると、自分で持ち帰らなくて本当によかったと思う。
そこは素直に、あの面倒な知り合いの助言に感謝すべきかもしれない。
……いや、違う。材木屋の店主に感謝するべきだ。
私はそう結論づけた。
店員に運び賃を払い、板の枚数を確認する。
一本、二本、三本。柵の補修には足りるはずだ。ただし、私が使いこなせれば、の話である。
私は板を見下ろした。
板も沈黙している。柵も沈黙している。畑の芽も、もちろん沈黙している。
しかし、なぜか全員が私に「できるの?」と問いかけているような気がした。
「……やるわよ。」
私は小さく言った。
その時、坂の下からマーサの声がした。
「お、届いたね。」
顔を上げると、マーサが大きな籠を抱えて歩いてくるところだった。
籠の中には、布切れや細い枝、古い紐が入っている。鳥除け作りの道具だろう。
「マーサさん、ありがとうございます。」
「いいってことよ。芽が出たなら守らないとね。そういやあんた、昨日は市場でずいぶん目立ってたらしいじゃないか。」
私は固まった。
「もう噂になっていますか。」
「市場ってのは、鍋より早く話が煮えるんだよ。」
「嫌な場所ですね。」
「便利な場所でもある。」
マーサはにやりと笑った。
「綺麗な男が距離を取ってついてきてたって、パン屋の娘が言ってたよ。」
「同行者ではありません。」
「分かってるよ。面倒な知り合い、だろう?」
「そうです。」
私は少し口ごもった。
それでも、それ以外に言いようがない。
「いやあ、面白い男だねえ。」
「面白くありません。面倒です。」
「そういうことにしとこうか。」
マーサは軽く笑いながら、籠を地面に置いた。
それから、畑の芽を見に行く。小さな緑は、昼の光を受けて少しだけ濃く見えた。
「うん。悪くない。雨で流れてないし、鳥にもまだやられてない。」
「まだ、ですか。」
「鳥は早いよ。だから今日作る。」
マーサの言い方は、いつも実用的だ。
不安にさせるのではなく、次にやるべきことを示してくれる。
私はその明快さが好きだった。
「はい。お願いします。」
「まず、支柱を立てる。高すぎなくていい。布が風で揺れるくらい。鈴は多すぎると近所迷惑だから、少しだけ。」
「近所迷惑。」
「森の鳥より、近所の人間を敵に回す方が面倒だよ。」
「覚えておきます。」
鳥除けにも社交がある。暮らしは本当に奥が深い。
私たちは、まず畑の端に細い枝を立てることにした。
マーサが持ってきてくれた枝は、庭に落ちていたものよりずっとまっすぐだった。
さすがだ。どこから見つけてくるのだろう。
彼女は枝を地面に差し、私に押さえるよう言った。私は両手で枝を支える。
「もっと。斜めになってる。」
「え、こちらですか?」
「逆。そうそう。もう少し。」
「はい。」
「力を入れすぎない。土が崩れる。」
「はい。」
「返事だけは立派だね。」
「王妃教育で鍛えました。」
言ってから、また余計なことを言ったと気づいた。
……こちらに来てから、どうも頭と心のねじが緩みすぎている気がする。
マーサが片眉を上げる。
私は咳払いした。
「……冗談です。」
「便利な冗談だね。」
「最近、便利な言葉が増えました。」
「そりゃいいことだ。」
マーサはそれ以上追及しなかった。ありがたい。
私たちは枝を立て、紐で固定し、そこに古布を細く裂いたものを結んでいった。
赤、黄、薄青、白。
どれも色褪せた布ばかりだが、風に揺れると意外と可愛い。
王宮の飾り布とはまるで違う。高価でもない。均一でもない。
けれど、畑の上でひらひら揺れると、まるで小さな祭りの旗のようだった。
「……可愛い。」
思わず声が出た。
マーサが笑う。
「鳥除けに可愛さを求めるのかい。」
「どうせなら、見るたび嬉しい方がいいです。」
「そりゃそうだ。」
私は布の端に小さな鈴を結んだ。
ちりん。
風が吹くと、鈴が鳴る。
ひらひら。
ちりん。
布と鈴が、畑の上で小さく揺れる。
私は胸が弾んだ。
これは良い。かなり良い。私の畑らしくなってきた。
まだ畝は一つだけ。芽も小さい。柵は応急処置のまま。庭は草だらけ。
それでも、鳥除けが立っただけで、ここが少しだけ「暮らしのある畑」に見える。
私は立ち上がり、少し離れて眺めた。
「どうでしょう。」
「いいんじゃないかい。鳥が嫌がるかは分からないけど、あんたは喜んでるね。」
「喜んでいます。」
「なら半分成功だ。」
「半分?」
「残り半分は鳥に聞きな。」
なるほど。鳥除けの評価は鳥次第。実に当然である。
私たちが二本目の支柱を立てようとしていた時、森の道から馬の蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
聞き慣れたくなかったはずなのに、最近はもう、その音だけで誰が来たのか分かってしまう。
私は顔を上げた。
やはり、ヴィルヘルムだった。
黒馬の手綱を引き、森の道からこちらへ歩いてくる。
濃紺の外套の裾に、わずかに草の露がついている。
淡い金髪は整えられているが、森の風で一筋だけ額にかかっていた。その一筋を、彼は指先で軽く払う。
何でもない仕草。ただ髪を直しただけ。なのに、妙に目を引く。
長い指。整った横顔。
青い瞳がこちらを向いた瞬間、私は慌てて視線を鳥除けへ戻した。
見ていない。私は支柱を見ていた。
断じて、額に落ちた金髪を払う仕草など見ていない。
ヴィルヘルムは柵の外の木陰に黒馬を繋ぐと、馬の首を一度だけ撫でた。
黒馬は安心したように鼻を鳴らす。
その手つきが相変わらず柔らかくて、私はまた見なかったことにした。
「こんにちは、レベッカ嬢。マーサ殿。」
「こんにちは、面倒な知り合い殿下。」
反射的に言ってしまった。
ヴィルヘルムが瞬きをした。
マーサが笑いをこらえきれず、肩を揺らした。
「……それが、外向きの呼称になったのですか。」
「外向きには言いません。あなたがいないところで言います。」
「今、私はいますが。」
「では失敗しましたね。」
「……承知しました。」
何を承知したのか。私にも分からない。
ヴィルヘルムは柵の外で足を止めた。
昨日までと同じく、勝手には入ってこない。
その律儀さが、最近少しだけ分かってきた。
彼は線を引く。
私が引いた線を、少なくとも形としては守る。
そのうえで、必要だと思えばぎりぎりまで近づいてくる。
……たいへん厄介だ。
「鳥除けですか。」
「見れば分かります。」
「はい。」
「では、本日の確認は完了ですね。」
「畑の状態と柵の状態も確認します。」
「外からどうぞ。」
「では。」
ヴィルヘルムは柵の外から鳥除けを眺めた。
色褪せた布と、小さな鈴。風でひらひら揺れ、時折ちりんと鳴る。
彼の端正な顔と、この手作り感あふれる鳥除けは、なかなか不思議な組み合わせだった。
「良いと思います。」
ヴィルヘルムが言った。
私は少し意外で、彼を見た。
「分かるのですか。」
「風で動きますし、音も鳴る。位置も畝に近すぎない。」
「机上の知識ですか。」
「半分は。」
「残り半分は?」
「見た印象です。」
見た印象。
この人がそんな曖昧なことを言うのは珍しい。
マーサが面白そうに目を細めた。
「殿下さん、鳥除けを褒めるとはね。」
「機能的です。」
「そこかい。」
「それに。」
ヴィルヘルムは少しだけ視線を布へ向けた。
色褪せた布が風に揺れる。
ちりん、と鈴が鳴る。
「……畑が、明るく見えます。」
私は言葉に詰まった。
そんなことを、この人が言うとは思わなかった。
機能的。位置が良い。音が鳴る。そこまでは分かる。
でも、明るく見える、と。
傷物の鈴と色褪せた古布で作った、不揃いな鳥除けが。
明るく見える。
「それは、褒めているのですか。」
「おそらく。」
「おそらく?」
「褒め慣れていません。」
真顔で言う。
マーサがとうとう声を出して笑った。
私はどう返せばいいのか分からなくなった。
褒め慣れていない。
それは分かる。
王宮でも、彼はいつも言葉が足りなかった。たまに褒める時だけ、妙に不意打ちだった。
――今日の髪は、よく似合っています。
その記憶が、また胸の奥をかすめる。
私は慌てて鳥除けの紐を結び直した。
ちりん。
鈴が鳴る。
「ありがとうございます。機能的で、明るく見える鳥除けを目指します。」
「はい。」
「そこで真面目に頷かないでください。」
「すみません。」
この人と会話していると、本当に調子が狂う。
マーサは二本目の支柱を持ち上げた。
「レベッカ、こっちを立てるよ。」
「はい。」
私は支柱を支えようとした。
しかし、枝が思ったより長い。
私の身長では、上の方に布を結ぶのが少し難しい。
背伸びをする。届かない。もう少し。つま先立ち。
ぐらり。
「危ない。」
低い声と同時に、柵の向こうからヴィルヘルムの手が伸びた。
支柱の上部を、外側からすっと押さえる。
彼は柵の中には入っていない。けれど、長身のおかげで、外側からでも支柱の高い位置に手が届いていた。
長い腕。外套の下の、確かな力。
彼がほんの少し支えただけで、ぐらついていた支柱がぴたりと止まる。
私はつま先立ちのまま固まった。
「……届くのですね。」
「はい。」
当たり前のように答える。
腹立たしい。
背が高い。
分かっていたけれど、こういう時に実感すると、なんだか腹立たしい。
それに、その手は今、支柱越しに私と同じものを支えている。
距離が縮まったわけではない。柵が間にある。
でも、方向としては、同じ支柱を、同じ目的で支えている。
「少し低く立て直します。」
「いいえ、この高さで大丈夫です。鳥除けなら、このくらいの方が目立つでしょう。」
「では、結びます。支えていてください。」
「はい。」
私は布を枝に結んだ。
ヴィルヘルムの手は、支柱を押さえたまま動かない。
長い指が柵の向こうで静かに、しかし確実に支えている。
気にしてはいけない。これは作業。ただの作業である。
私は布を結び終え、鈴をつけた。
ちりん。
風が鳴らす。
「できました。」
「手を離します。」
「はい。」
ヴィルヘルムが支柱から手を離す。
鳥除けは少し揺れたが、倒れなかった。
古布がひらひらと踊る。鈴が鳴る。
私は少し離れて眺めた。
「……良いですね。」
今度は自分で言った。
鳥除けは、畑の小さな旗のようだった。
不揃いで、手作りで、少し歪んでいる。けれど、確かにそこに立っている。
――私の芽を守るために。
――傷物の鈴が、歪んだ音でちゃんと鳴っている。
それがなぜか、今の私にとても大事なことのように思えた。
完璧でなくても、鳴る。立てるなら、それでいい。
マーサが満足そうに頷いた。
「いいじゃないか。これで少しは鳥も警戒するだろう。」
「はい。」
「午後に風が強くなったら、鈴の音を確認しな。うるさすぎたら一つ減らす。」
「分かりました。」
私は鳥除けを見て、胸が温かくなった。
家を掃除した日。火を入れた日。種をまいた日。芽が出た日。
そして今日、鳥除けを立てた。
少しずつ、私の暮らしに印が増えていく。
ヴィルヘルムが柵の外から言った。
「柵の板は届きましたか。」
「届きました。」
「確認しても?」
「外からなら。」
「はい。」
彼は柵の外を回り、昨日応急処置をした場所へ向かった。
マーサと私は、板を持って裏手へ回る。
ヴィルヘルムは相変わらず敷地の外にいた。だが、柵の外からでも補修箇所は見える。
彼は支柱と板を見比べた。
「板は使えます。長さも足ります。」
「それはよかった。」
「ただ、今すぐ本格的に直すなら、支柱を一度起こす必要があります。」
「大仕事ですか。」
「一人では危ないです。」
私はすぐにマーサを見た。
マーサは腕を組む。
「今日は鳥除けだけにしときな。板を打つのは明日でいい。焦ると怪我する。」
「でも、柵が。」
「応急処置は効いてる。明日、私の息子を呼ぶよ。力仕事ならあの子がいる。」
「息子さんが?」
「ああ。木槌くらいは扱える。」
私はほっとした。
ヴィルヘルムに頼らずに済む。
そう思った瞬間、少しだけ胸の奥が引っかかった。
何だろう。
なぜそこで引っかかるのか。
私はその感覚に気づかないふりをした。
ヴィルヘルムは何も言わなかった。
ただ、柵を見ている。口を挟まない。マーサの判断を尊重している。
それが分かった。
「では、今日は鳥除けの確認までですね。」
「はい。」
ヴィルヘルムは頷いた。
「今日の確認は終わりました。」
「ようやくですか。」
「はい。」
「では、お帰りください。」
「その前に一つ。」
「まだ何か。」
ヴィルヘルムは、私の手元を見た。
「紐で指を擦っています。」
私は自分の指を見た。
確かに、鳥除けを結ぶ時に少し赤くなっていた。
また気づく。
本当に細かい。
「大丈夫です。」
「軟膏を。」
「使います。」
「はい。」
「買ったものですから。」
「はい。」
また、その返事。
私はため息をついた。
ヴィルヘルムは軽く頭を下げた。
「では、失礼します。」
彼は柵の外の木陰へ向かった。
黒馬は、彼の姿を見つけると小さく鼻を鳴らした。
ヴィルヘルムは手綱をほどき、その首筋をそっと撫でる。
それから、鐙に足をかけ、流れるような動作で馬上に身を移した。
歩いている時でさえ品がある人だと思っていたが、馬上のヴィルヘルムは、さらに遠い人に見えた。
王宮の絵画から抜け出したような、気品ある王子。
それでいて、さっきまで私の鳥除けを支えていた手と同じ手で、馬の首を撫でている。
私は見送らないようにしようと思った。
思ったのに、気づけばその背中を見ていた。
途中で、ヴィルヘルムがふと振り返った。
目が合う。
私は慌てて鳥除けの鈴を直すふりをした。
ちりん。
鈴が鳴る。
彼は何かを言うでもなく、ほんの少しだけ頭を下げ、黒馬とともに森の道へ消えていった。
馬の蹄の音が、少しずつ遠ざかる。
マーサの声が横から飛ぶ。
「見送らないんじゃなかったのかい。」
「鳥除けの位置を確認していました。」
「森の道の方を?」
「風向きです。」
「便利な風だねえ。」
私は黙った。
勝てない。
マーサには勝てない。
午後は、鳥除けの位置を少し調整し、鈴の数を一つ減らした。思ったより音が響いたからだ。近所迷惑になってはいけない。
その後、私はマーサから鳥除けの紐の結び方を教わり、板の補修は明日に回すことにした。
夕方、家の中へ戻ると、指が少しひりひりしていた。
私は机の端に置いていた軟膏の小瓶を見た。
監視役から買い取ったもの。腹立たしいほどよく効く小瓶。
蓋を開け、少しだけ指に塗った。薬草の匂いがする。
ひんやりして、痛みが和らいだ。
「……買ったものだから。」
誰に言うでもなく呟く。
そう。私は買った。受け取ったのではない。だから使う。何も問題はない。
暖炉に火を入れ、豆と野菜のスープを作る。
外では、鳥除けの鈴が時々鳴っている。
ちりん。
ちりん。
森の風に揺れる、歪んだ小さな音。
私は鍋をかき混ぜながら、窓の外を見た。
夕暮れの畑。不揃いな鳥除け。小さな芽。応急処置された柵。
――その全部が、少しずつ私の場所になっていく。
そこに、面倒な知り合いの手が少しずつ混じっていることは、たいへん気に入らない。
でも、今日の鳥除けは一人では作れなかったかもしれない。
マーサと、少しだけヴィルヘルムの手も借りた。
それでも、これは私の畑だ。
私の芽だ。
私の鳥除けだ。
傷物の鈴でも、歪んでいても、音は鳴る。
私はそれを確認するように、鍋を混ぜた。
その時、ぽつり、と小さな音がした。
雨ではない。
天井の方。
私は顔を上げた。
もう一度。
ぽつり。
物置部屋の方からだった。
私は木べらを置き、そっと物置部屋へ向かった。
薄暗い部屋の隅。天井の染み。
そこから、小さな水滴が落ちていた。
先日の雨が、どこかに残っていたのだろうか。あるいは、屋根の傷みが思ったより深いのか。
私はしばらく、その一滴を見つめた。
「……雨漏り。」
小さく呟く。
そういえば、家を借りる時に少し聞いていた。
物置部屋に、雨の日だけ水が落ちることがある、と。
少し。
たしかに、今は少しだ。
けれど、もし次に強い雨が降ったら。
寝室は大丈夫だろうか。
台所は。
暖炉の近くは。
胸に小さな不安が広がる。
私は急いで古い桶を置いた。
ぽつり。
水滴が桶の底に落ちる。
小さな音。
今日作った鳥除けの鈴とは違う、不安な音だった。
私は窓の外を見た。
夕方の空には、また雲が増えていた。
鳥除けは立った。
芽は守られている。
だが今度は、屋根だ。
暮らしは、問題が一つ解決するたびに、次の問題を差し出してくる。
私は深く息を吐いた。
「……負けないわよ。」
外では、鳥除けの鈴がちりんと鳴った。
物置では、雨漏りの桶がぽつりと鳴った。
二つの音が、森の家の夕暮れに小さく重なった。




