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第十八話 直された柵と雨漏りの音

 生活に悩みは尽きない。なすべきことも尽きない。


 翌朝、私は物置部屋の桶を確認していた。

 桶の底には、夜の間に落ちた水がほんの少しだけ溜まっている。

 床を濡らすほどではない。けれど、天井の染みは確かにそこにあった。


 昨日の夕方、ぽつり、と鳴った音。

 鳥除けの鈴とは違う、不安な音。


 私は桶の位置を少し直し、物置部屋の扉を開けて湿気を逃がした。


「……今日は柵。屋根はその次。」


 声に出して決める。

 雨漏りをすぐにでも何とかしたい気持ちはある。正直すぐにでも一体どこから漏れているのか屋根を見る方法を考えたい。

 けれど暮らしは、気になるものから順に全部触っていたら、どれも終わらない。

 それはここ数日で理解できていた。


 だから今日は柵だ。


 昨日、マーサが息子を呼ぶと言ってくれた。

 材木屋から届いた板もある。釘もある。木槌もある。

 そして、畑には小さな芽がある。


 私は畑の前に立ち、鳥除けを見上げた。

 傷物の鈴と色褪せた古布で作った鳥除けは、朝の光の中で、思っていたよりずっとよく見えた。


 赤。

 薄青。

 黄色。

 白。


 どれも王宮の飾り布のような鮮やかさはない。

 けれど、風にひらひら揺れると、小さな祭りの旗のようだった。


 ちりん。

 鈴が鳴る。


 澄んだ音ではない。少し歪んでいる。でも、ちゃんと鳴る。


「悪くないわね。」


 悪くないどころかとても良い。私の畑らしくなっている。

 私は腕を組んで頷いた。


 鳥除けの下では、小さな芽たちが今日も無事に並んでいる。

 昨日より少しだけ背が伸びている気がした。


 気がするだけかもしれない。でも、そう見えるならそれでいい。


「あなたたち、今日は柵を直すからね。」


 芽は返事をしない。けれど、風に揺れた。


 かわいい。

 とてもかわいい。


 構いすぎると嫌われる、とマーサに言われたばかりだが、見たいものは見たい。

 私はそっとしゃがみ込んで、しばらく芽を眺めた。


 その後、裏手の柵へ視線を向ける。


 鳥除けは立った。芽も無事。

 ……なら、次はやはり柵だ。


 昨日届いた板は、家の横に積んである。

 端材とはいえ、思ったよりしっかりした木だった。重さもある。


 ヴィルヘルムの応急処置のおかげで柵はまだ倒れていないが、いつまでも枝と紐だけで支えておくわけにはいかない。

 小動物が畑に入れば、芽が危ない。


 つまり、今日の最優先事項は柵の本格補修である。


 私は板を見た。

 木槌を見た。

 釘を見た。


 それから、自分の手を見た。


「……できるかしら。」


 できる。

 たぶん。

 いや、できるようにならなければならない。


 何事も最初から上手くいくわけではない。

 井戸水を汲むのもそうだった。火起こしもそうだった。畑もそうだった。


 柵だって、きっと同じだ。


 私は木槌を手に取った。なかなかずっしりくる重さだった。

 ……これは、思ったより重い。


 先日ヴィルヘルムが何でもない顔で扱っていたせいで、もう少し簡単なものかと思っていた。

 やはりあの人の手が大きくて、力があっただけかもしれない。腕にもしっかりとした筋肉がついていたし……。


 私はそこまで考えて、慌てて木槌を見つめ直した。


 いけない。

 木槌に集中だ。

 腕ではない。

 手でもない。

 今は木槌である。


 その時、坂の下からマーサの声が聞こえた。


「レベッカ、起きてるかい。」


「起きています。」


 顔を上げると、マーサがこちらへ歩いてくるところだった。

 隣には、十五、六歳くらいの少年がいる。

 背は私より少し高いくらい。日に焼けた顔に、少し癖のある茶色の髪。肩には工具袋を担いでいた。


「この子がうちの息子のトマだよ。力仕事なら使える。」


「トマです。よろしく。」


 少年は少し照れたように頭を下げた。


「レベッカです。今日はよろしくお願いします。」


 私も頭を下げる。

 トマは私の家と畑をぐるりと見回し、鳥除けの方で少し笑った。


「いい鳥除けですね。」


「ありがとうございます。」


「ちょっと曲がってるけど。」


「そこは味です。」


「味。」


 トマは明るく笑った。とても素直そうな少年だ。

 マーサが彼の背中を軽く叩く。


「口より手を動かす。まず柵を見るよ。」


「はいはい。」


 私たちは裏手の柵へ回った。

 応急処置された支柱は、前より少しだけ安定している。

 とはいえ、本当に一時しのぎだ。


 斜めに当てられた枝。

 きっちり結ばれた紐。

 真っすぐ打たれた釘。


 私は改めて見て、少しだけ感心した。

 あの短時間で、よくここまで支えたものだ。しかも柵の外から。


 腹立たしい。

 有能なのが腹立たしい。


「殿下さん、応急処置は上手いね。」


 マーサが言った。


「そうですね。」


 私は渋々認めた。


「悔しそうだね。」


「悔しいです。」


「正直でよろしい。」


 トマが私とマーサの様子を見て、不思議そうに首を傾げた。


「殿下さんって、この前の人ですか。すごく綺麗な人って母さんが言ってた。」


「マーサさん。」


「事実だろう?」


「事実かどうかと、息子さんに伝える必要があるかは別です。」


 マーサは悪びれずに笑った。

 トマは興味深そうに森の道を見た。


「今日も来るんですか。」


「来なくて結構です。」


 私は即答した。

 しかし、言った瞬間だった。

 森の道の方から、馬の蹄の音が聞こえた。


 静かで、規則正しい音。

 聞き慣れたくないのに、もう聞き分けられるようになってしまった音。

 私は思わず額に手を当てた。


「……来ましたね。」


「来たねえ。」


 マーサは楽しそうだ。


 やがて、黒馬の手綱を引いたヴィルヘルムが森の道から現れた。

 彼は今日も濃い色の外套をまとっている。

 朝の光に淡い金髪が静かに光り、すっと伸びた背筋は少しも乱れていない。

 黒馬を引き、涼しい顔でこちらへ向かっている。

 まるで近くを散歩していて、たまたま寄っただけのような顔だ。


 この人がどこから来ているのか、私はまだ深く考えたことがなかった。


 領主館か。

 街の宿か。

 近くの詰所か。


 どこにせよ、毎朝あまりにも当然のように現れるので、そういうものだと受け入れかけている自分がいる。


 いけない。

 監視に慣れてどうする。


 ヴィルヘルムは柵の外で足を止めた。

 黒馬は静かに鼻を鳴らす。


「おはようございます、レベッカ嬢。マーサ殿。」


「おはようございます、面倒な知り合い殿下。」


 私が言うと、ヴィルヘルムは一度だけ瞬きをした。


「おはようございます。」


 訂正しない。

 もう慣れたのだろうか。

 ……そこは慣れないでほしい。


 マーサが笑いながら手を振った。


「おはようさん、殿下さん。今日は柵を直すよ。」


「そのようですね。」


 ヴィルヘルムの視線が柵へ向く。すぐに状態を確認する目になった。

 感情は薄い。

 けれど、見る場所が的確すぎる。


 支柱の根元。

 昨日の釘の位置。

 横木の傾き。

 届いた板の長さ。

 私とマーサとトマの手元。


 おそらく、すべてを一瞬で見ている。


 怖い。

 監視という言葉がとても似合う。


「今日はマーサさんとトマさんに手伝っていただきますので、監視役殿下の出番はありません。」


 私は先手を打った。


「承知しました。」


 そして素直に引いた。

 意外だった。

 いや、彼は最近、私がはっきり拒めば一応引く。ただし帰らない。


 ヴィルヘルムは柵の外に立ち、黒馬の手綱を近くの木へ結んだ。

 それから、柵の外からこちらを見る。


 ……やはり今日も帰る気はないらしい。


「今日の確認は終わったのでは?」


「柵の補修が安全に行われるか確認します。」


「見守りですか。」


「……外向きには、そうですね。」


 私たちの様子を静かに見ていたトマが、そこで目を輝かせた。


「あなたが、応急処置したんですか。」


「はい。」


「外からやったんですよね。」


「可能な範囲で。」


「結び方、見てもいいですか。」


 トマはヴィルヘルムが縛った応急処置の結び目を覗き込む。

 ヴィルヘルムは少し意外そうに、けれど丁寧に頷いた。


「どうぞ。」


 トマは紐の結び目を見て、感心したように口笛を吹きかけたが、マーサに睨まれてやめた。


「これ、ほどく時はどうするんですか。」


「こちらを引けば緩みます。」


 ヴィルヘルムが柵の外から指を伸ばし、結び目の一部を示す。

 トマが真似して触れる。


「あ、本当だ。きついのに、ちゃんとほどける。」


「一時的な固定なので、外せる必要があります。」


「なるほど。」


 トマは素直に感心している。

 私はそれを少し複雑な気持ちで見ていた。

 あの王宮の氷の王子が。冷たい四角四面の言葉しか言わない監視役が。なんと近所の少年に紐の結び方を教えている。


 何だこの光景は。

 平和すぎる。


 つい先日まで断罪だの国外追放だの監視だの言っていたのに、今は柵の結び目の話をしている。

 ……人生は知らぬうちにおかしな方向に進むものだ。


「レベッカ、まず支柱を起こすよ。」


 マーサの声ではっと我に返る。


「はい。」


 私たちは作業に取りかかった。


 まず、応急処置の枝と紐を外す。

 トマが支柱を支え、マーサが根元の土を少し掘る。私は板と釘を準備する。


 支柱は思っていたより重く、根元はかなり緩んでいた。

 雨のあとで土が柔らかくなっているせいだろう。


 私は板を持ち上げようとして、少しよろけた。


「重っ。」


「板だからね。」


 マーサが当たり前のように言う。


「市場ではもう少し軽く見えました。」


「市場では何でも少し軽く見えるんだよ。財布もね。」


「……名言ですね。」


「覚えときな。」


 私は板をどうにか運び、柵のそばに置いた。

 ヴィルヘルムは柵の外に立ったままだ。


 手を出さない。

 けれど、見ている。

 ものすごく見ている。


 私が板を持つたび、わずかに指が動く。手を出したいのだろうか。言外の言葉をひしひし感じる。


 しかし、出さない。

 なぜなら私が頼んでいないから。

 それが分かって、少しだけ調子が狂う。


 前の彼なら、必要と判断しました、と言って勝手にやったのではないだろうか。

 今もやはりそういうところはある。


 でも最近は、少しだけ待つ。

 私が拒むと、止まる。


 それをどう受け止めればいいのか、正直まだ分からない。


「レベッカさん、釘。」


「あ、はい。」


 トマに言われ、私は釘を差し出した。

 トマが木槌を振るう。

 かん。釘が打たれる軽く響いた音が鳴る。

 少し斜めに入った。


「あ。」


「もう少し左。」


 マーサが言う。


「分かってるよ。」


 トマはやり直す。

 かん。

 今度は少しまっすぐになった。


 私はそれを真剣に見ていた。

 釘をまっすぐ打つだけでもこんなに難しいものなのか。


 先日、ヴィルヘルムは何でもない顔で打っていたから、もっと簡単なものかと思っていた。

 そう考えて、また少し腹が立つ。


 本当に何をやらせてもそつがない。

 隙がない。


 ――いや、全てではなかった。


 褒めるのは下手だ。

 人との距離感も下手。

 言葉選びは壊滅的だし、監視を見守りと言い換えるくらいには不器用だ。


 そう思うと、少しだけ気が楽になった。


 完璧な人間などやはりいないのだ。

 うんうん、と心の中で私は納得した。


「あ。釘、曲がった。」


「抜いて打ち直しだね。」


 マーサが言い、トマが釘抜きを探そうと工具袋をまさぐる。

 その時、柵の外からヴィルヘルムの声がした。


「木を割らないよう、少し角度を変えた方がいい。」


 トマが顔を上げる。


「こうですか。」


「いえ、もう少し下です。木目に沿って打つと割れます。」


「木目?」


 ヴィルヘルムは柵の外から板を指した。


「こちらに筋が通っています。その方向に力が逃げるので。」


 トマは目を丸くした。


「よく見えますね。」


「見れば分かります。」


 出た。

 また嫌な言い方。

 私は思わずヴィルヘルムの方に向き直り言った。


「殿下、それは嫌な言い方です。」


 ヴィルヘルムが少し目を瞬かせてこちらを見る。


「すみません。」


 マーサが吹き出した。

 トマも笑った。

 ヴィルヘルムだけが真面目な顔をしている。


 なんだか、少しだけおかしかった。


 作業は少しずつ進んだ。

 支柱を起こし、板を当て、釘を打つ。

 緩んだ根元に土を入れ、足で踏み固める。

 横木をもう一本添える。紐で補助する。


 私は板を押さえたり、釘を渡したり、土を運んだりした。地味だが結構忙しい。

 トマは思ったよりよく働いた。マーサは相変わらず指示が的確だった。

 ヴィルヘルムは外から見ているだけのはずなのに、時々短く助言を入れる。


 それがまた、腹立たしいほど正しい。


「その板は反対向きの方がいい。」


「なぜですか。」


「反りが外側に出ています。内側に向けると支柱から浮きます。」


「……本当だ。」


 トマが感心する。

 確かに的確な指摘だった。


「この釘は少し長い。」


「短いと抜けませんか。」


「この板の厚みなら、長すぎると裏に出ます。」


「なるほど。」


 マーサも頷く。


「殿下さん、現場にいても案外使えるね。」


「案外。」


 ヴィルヘルムが小さく繰り返した。

 一瞬少しだけ困ったような顔をしていた気がする。


 私は笑いそうになった。

 だが、すぐに口元を引き締める。


 笑ってはいけない。

 この人は監視役だ。

 面倒な知り合いだ。

 少し板に詳しいだけの、面倒な知り合いだ。


 しかし、昼前になる頃、問題が起きた。


 一番傾いていた支柱が、どうしても起こしきれない。

 トマが引き、マーサが押し、私が板を支えたが、角度が戻らない。


「もう少しなんだけどね。」


 マーサが息を吐く。


「根元が深く沈んでいますね。」


 私は土で汚れた手袋のまま、額に滲んだ汗を拭った。


 春先の朝とはいえ、力仕事をすると暑い。

 支柱は重い。土は湿っている。板も釘も、思ったより扱いが難しい。


 トマがもう一度腰に力を入れながら両手で力を込める。だが、支柱はわずかに戻っただけで止まった。

 マーサが眉をひそめる。


「もう一人、力がいるね。」


 空気が止まった。

 私たち三人の視線が、自然と柵の外へ向く。

 ヴィルヘルムがそこに立っていた。


 濃紺の外套。

 手袋をはめた手。

 涼しい顔。


 何も言わない。


 けれど、視線はこちらを見ている。

 出番を待っていたのかもしれない。


 しかし、自分からは言わない。

 私が口を開くのを、ただ静かに待っている。


 私は唇を結んだ。


 頼りたくない。

 できれば頼りたくない。


 しかし、支柱は倒れかけている。

 芽を守る柵だ。

 意地で壊しては何の意味もない。


 マーサが私を見た。


「レベッカ。」


「……分かっています。」


 私は深く息を吸った。

 それから、ヴィルヘルムを見た。


「ヴィルヘルム殿下。」


「はい。」


「柵の修理を、手伝っていただけますか。」


 言った。

 言ってしまった。

 頼んでしまった。

 私が。


 ヴィルヘルムは一瞬だけ、目を伏せた。

 次に顔を上げた時には、いつもの無表情だった。


「承知しました。」


 彼は黒馬の近くへ行き、外套を外した。鞍にかける。

 白い手袋も外す。

 それから、シャツの袖口に手をかけた。


 私は見ないようにしようと思った。

 思ったのに、見てしまった。


 彼は手首のボタンを外し、布を肘の下まで丁寧に折り上げる。

 作業のための準備だ。


 外套を脱いで袖をまくると、王宮では想像のつかなかった姿になる。

 書類を持って立っていた人ではなく、泥の庭で力仕事をしようとしている、一人の青年だ。

 細身に見えるが、腕に力がある。


 その事実が、隠れていただけで、ちゃんとそこにある。


 私は慌てて支柱を見た。

 支柱。

 今は支柱である。


「入っても?」


 ヴィルヘルムが確認してきた。

 彼は勝手に入らない。


 私の家の敷地に。

 私の庭に。

 私の許可なしには。


 そのことが、なぜか少しだけ胸に引っかかった。


「……柵のところまでです。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは門を開け、中へ入った。


 足運びは静かだった。泥の多い場所を避け、畝には近づかず、最短で柵へ向かう。

 近づくと、やはり背が高い。

 外套を脱いでいるせいで、肩幅もはっきり分かる。


 トマが小さく「でか」と呟いた。

 マーサが肘でつつく。

 私は聞こえなかったふりをした。


 ヴィルヘルムは支柱を確認し、手の位置を決めた。


「トマ殿は根元を。マーサ殿は板を押さえてください。レベッカ嬢は、少し離れて釘を持っていてください。」


「私も押さえます。」


「危険です。」


「私の柵です。」


「だからこそ、直す間は無事でいてください。」


 私はぐっと言葉に詰まった。

 正論だ。

 たいへん腹立たしい正論だ。


「……では、釘を持ちます。」


「お願いします。」


 私は釘を持って少し離れた。

 ヴィルヘルムが支柱に手をかける。


「合図で起こします。」


 その声は、いつもの報告書のような声ではなかった。

 短く、落ち着いていて、人を動かす声だった。


 トマの表情が少し引き締まる。

 マーサも頷く。


「一、二、三。」


 三で、支柱が動いた。


 ヴィルヘルムの腕に力が入る。

 肩が動き、背中の布がわずかに張る。

 荒々しい声は出さない。ただ、静かに力を込める。


 重い支柱が、少しずつ起きていく。


 トマが根元を支え、マーサが板を押さえる。

 私は釘を握りしめたまま、息を止めて見ていた。


「今です。」


 ヴィルヘルムが言う。

 トマが土を詰める。マーサが板を押さえる。


「釘を。」


 私は慌てて近づき、釘を差し出した。

 ヴィルヘルムは受け取る時、やはり私の指に触れないようにした。

 その細かさが、また少し不思議だった。

 これだけ力を込めて支柱を起こす手が、私の指一本には決して触れない。


 ヴィルヘルムは木槌を受け取り、板を仮固定する。


 かん。

 かん。

 かん。


 乾いた音が森に響いた。


 先日より近い。

 先日より力強い。


 木槌を振るたび、まくった袖の下で腕の筋が動く。

 額に一筋の金髪が落ち、こめかみに汗が滲む。それでも姿勢は崩れない。


 柵を直しているだけなのに。

 泥のついた庭で、釘を打っているだけなのに。

 ……なんて腹立たしいのだろう。


 私は慌てて視線を板へ戻した。


 板。

 今は板である。


 トマがぽつりと言った。


「殿下さん、力ありますね。」


「最低限です。」


 ヴィルヘルムは釘を打ちながら答えた。


「それで最低限なら、俺の立場がないなあ。」


「トマ。」


 マーサが笑いをこらえながら注意する。

 ヴィルヘルムは一瞬だけトマを見た。


「あなたの方が、土地に慣れています。私は力の入れ方を間違えれば、木を割ります。」


「そうなんですか。」


「はい。今も少し危ない。」


「えっ。」


 トマが慌てる。

 ヴィルヘルムはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 本当に、ほんの少し。


 笑ったのかもしれない。


 私は見てしまった。

 見てしまって、胸が変な跳ね方をした。


 この人は、こんな顔もするのか。

 いや、しないわけではない。王宮にいた頃も何度か見た。


 とても薄い笑み。

 すぐ消える、雪の上に落ちた光のような表情。


 私は、それを昔からなぜか覚えていた。

 覚えていたことに気づき、胸が少し痛んだ。


 忘れてしまえばよかったのに。


「レベッカ嬢。」


「はい?」


「釘をもう一本。」


「あ、はい。」


 ぼんやりしていた。

 いけない。

 私は慌てて釘を渡した。


 作業はさらに続いた。


 支柱を固定し、横木を打ち直し、板を当てる。

 トマが土を踏み固め、マーサが全体の歪みを見る。

 ヴィルヘルムは、力仕事と判断が必要なところだけ手を出し、それ以外は一歩下がった。


 出しゃばらない。

 だが、必要な時は確実に動く。


 それがまた、少しだけ悔しかった。

 頼りになる、と思ってしまったから。


 昼過ぎ、ようやく柵の補修が終わった。


 完全な新品ではない。板の色も不揃いだし、支柱も古い。

 けれど、朝よりずっとしっかりしている。

 押してもぐらつかない。

 小動物が簡単に入り込める隙間も減った。


 ――私の畑を守る柵になった。


 私はその柵を見て、胸がいっぱいになった。


「……できましたね。」


「できたね。」


 マーサが言う。

 トマも満足そうに頷いた。


「これならしばらく大丈夫だと思います。」


「ありがとうございます、トマさん。マーサさん。」


「いいってことよ。針仕事の礼もあるしね。」


「いえ、本当に針仕事以上に働いていただきました。」


「じゃあ、今度また別の仕事を頼むよ。」


「もちろんです。」


 私は笑った。

 それから、ヴィルヘルムを見た。

 彼は木槌を置き、袖を戻そうとしていた。


 手には土がついている。

 額には汗。

 外套を脱いだまま、白いシャツの袖をまくり、少し泥のついた靴で立っている。


 王宮の完璧な王子ではない。

 私の畑の柵を直した青年だ。


 私は、その姿から目を離すのに少し苦労した。


「ヴィルヘルム殿下。」


「はい。」


「……ありがとうございました。」


 今度は、はっきり言えた。

 ヴィルヘルムの手が止まる。

 彼は私を見た。


「お役に立てたなら、何よりです。」


 監視区域の補修です、と言わなかった。

 監視対象の生活環境です、とも言わなかった。


 ただ、お役に立てたなら、と。


 私は少しだけ戸惑った。


「今日は、監視とは言わないのですか。」


 つい聞いてしまう。

 ヴィルヘルムは一瞬だけ黙った。

 それから、静かに答えた。


「面倒な知り合いとして、手伝いました。」


 私は言葉を失った。

 マーサが横で肩を震わせている。

 トマは意味が分からないながらも、なんとなく面白そうにしている。


 私は顔が熱くなるのを感じた。


 恥ずかしい。

 何なのだ。意趣返しか。


 たしかに私がそう呼んだ。

 だったらこれは私のせいなのか。

 でもなぜ今よりにもよって、その言い方を選ぶ。


「……そうですか。」


「はい。」


「では、面倒な知り合いとして、今日はもうお帰りください。」


「承知しました。」


 ヴィルヘルムは袖を戻し、手袋をはめた。

 外套を羽織ると、さっきまでの土と汗の気配はほとんど隠れてしまった。

 また、気品ある王子に戻る。


 ……それがなぜか少し惜しい。


 私はその気持ちをすぐに打ち消した。


 惜しくない。

 別に惜しくない。


 柵が直ったのだから、それでいい。


 ヴィルヘルムは黒馬の手綱を解いた。

 馬の首を撫でる。その手つきは、相変わらず柔らかかった。


 トマが小さく言った。


「馬もかっこいいな。」


「本当にねえ。」


 マーサが頷く。

 私は何も言わなかった。


 馬もかっこいい。

 馬も。


 そこは認める。

 馬は悪くない。


 ヴィルヘルムは馬にまたがった。

 その動作は、柵を直して汗をかいた後とは思えないほど滑らかだった。

 鐙に足をかけ、体を軽く持ち上げ、鞍へ収まる。


 背筋が伸び、手綱を持つ指が整う。

 濃紺の外套が風に揺れる。


 馬上の彼は、やはり遠い人に見えた。


 ついさっきまで、同じ柵に触れ、同じ土で手を汚していたのに。


 不思議だった。


「また確認に来ます。」


「来なくて結構です。」


「柵の状態を確認する必要があります。」


「直したばかりでしょう。」


「だからこそです。」


「……面倒な知り合いですね。」


「承知しています。」


 ヴィルヘルムは軽く頭を下げ、森の道へ向かった。

 黒馬の蹄の音が遠ざかる。


 私は、今度こそ見送らないつもりだった。

 けれど、やはり少しだけ見てしまった。


 濃紺の外套が木々の間に消えるまで。


 マーサが横から言った。


「見送ってるね。」


「柵の強度を確認しています。」


「森の道で?」


「風向きです。」


「昨日もそんなこと言ってなかったかい。」


「気のせいです。」


 マーサは笑った。

 トマはまた不思議そうに私たちを見ている。

 私は腰に片手を当ててごほんとわざとらしく咳払いし、直った柵へ向き直った。


「とにかく、柵は直りました。」


「そうだね。」


「鳥除けもあります。」


「あるね。」


「芽も無事です。」


「無事だね。」


 私は深く息を吸った。

 今日も、生活が少し前へ進んだ。


 自分一人ではできなかった。マーサとトマがいてくれた。

 そして、面倒な知り合いも。


 それが少し悔しい。

 けれど、直った柵を見ると、やはり嬉しかった。


 私は畑の前へ行き、小さな芽を見た。


「守りが強くなったわよ。」


 芽に向かって言う。

 鳥除けが、ちりん、と鳴った。

 柵は、前よりしっかり立っている。


 森の風が吹く。

 家の白い壁に、朝の光が当たっている。


 私は短い髪を耳にかけ、少し笑った。


 この家は、まだ古い。庭も荒れている。物置の天井には、雨漏りの染みもある。

 やることは山ほどある。


 でも今日、柵が直った。


 ――少しずつ手を入れれば、変わっていくのだ。


 その実感が嬉しかった。


 その日の夕方、私はマーサから借りた道具を片づけ、トマに少しばかりの礼を渡した。

 マーサには、次の針仕事を引き受ける約束をした。


 家に戻ると、指に少し擦り傷ができていることに気づいた。

 紐を引いた時に擦ったのだろう。


 畑仕事をしていると、やはり手が荒れる。

 私は机の上の軟膏を見た。


 監視役から買い取った小瓶。

 いや、面倒な知り合いから買い取った小瓶だ。


 私は蓋を開け、少しだけ指に塗った。

 ひんやりとした感触。


「……よく効くのが、また腹立たしい。」


 誰に言うでもなく呟く。

 それから暖炉に火を入れ、野菜と干し肉の煮込みを作り始めた。


 外では、鳥除けの鈴が時々鳴っていた。


 ちりん。

 ちりん。


 森の風に揺れる、歪んだ小さな音。

 私は鍋をかき混ぜながら、窓の外を見た。


 夕暮れの畑。

 不揃いな鳥除け。

 小さな芽。

 直った柵。


 少しずつ私の場所になっていく。

 そこに、面倒な知り合いの手が少しずつ混じっていることは、たいへん気に入らない。


 でも、今日の柵は一人では直せなかった。

 それは認めるしかない。


 私は木べらで鍋を混ぜた。


 その時、物置部屋の方から、ぽつり、と音がした。

 昨夜と同じ音だった。


 私は木べらを置き、確認に向かった。


 薄暗い部屋の隅。

 天井の染み。


 そこから、小さな水滴が落ちている。

 昨日より少しだけ、水滴の間隔が短い気がした。


「……やっぱり、屋根ね。」


 小さく呟く。


 柵は直った。

 鳥除けも立った。

 芽も守られている。


 でも今度は、屋根だ。

 問題が一つ片づくと、暮らしは次の問題を差し出してくる。


 私は古い桶の位置を整え、深く息を吐いた。


「……負けないわよ。」


 外では、鳥除けの鈴がちりんと鳴った。

 物置では、桶がぽつりと鳴った。


 二つの音が、森の家の夕暮れに小さく重なる。


 どちらも、私の暮らしの音だ。

 この暮らしは、誰かに作られたものではない。


 ――私が、自分の手で作っているものなのだ。


 心配事は多いはずなのに、私の口元は自然と微笑んでいた。

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