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第十九話 屋根を見上げる人

 朝起きて、まず最初に物置部屋を見に行った。


 昨日も桶を置いた場所。古い床板の上。天井の染みの下。


 そこには、夜の間に落ちた水が、ほんの少しだけ溜まっていた。

 桶の底に薄く光る水。

 それを見た瞬間、私は小さく息を吐いた。


「……やっぱり。」


 雨は降っていない。なのに水が数日続けて落ちている。

 つまり、屋根か天井裏のどこかに、前の雨で入り込んだ水がかなり溜まっているということだ。


 これは、単なる一度きりの染みではない。

 この家のどこかが、確かに傷んでいる。


 私は天井を見上げた。


 物置部屋の天井板は古く、端の方に少し歪みがある。

 その一部が、じんわりと濃い色になっていた。


 嫌な湿り方だった。

 目を逸らしたくなる。

 だが、逸らしても水は止まらない。


 私は桶を持ち上げ、外へ捨てに行った。

 朝の空は曇っていた。

 まだ降ってはいないが、雲は厚い。

 森の葉も、この先の雨に備えるかのようにどこか静かだった。


 鳥除けの鈴が、ちりん、と小さく鳴る。

 その音だけはどこか明るい。

 不揃いな古布が風に揺れ、小さな芽たちは今日も無事に並んでいる。


 昨日、柵も直った。鳥除けもある。畑の守りは強くなった。


 それなのに、今度は屋根だ。


 暮らしは、問題を一つ片づけると、すぐ次の問題を出してくる。

 しかも今回の相手は、屋根である。


 高い。

 危ない。

 見えない。

 そして、たぶん高くつく。


 私は腕を組んだ。


「……まずは外から確認ね。」


 そう呟いて、物置の外へ回った。


 この家は、森の斜面に沿うように建っている。

 正面から見ると小さな古家だが、裏手に回ると屋根の角度や壁の傷みがよく分かる。


 私は物置部屋の位置を思い出しながら、外壁を見上げた。


 苔。

 色褪せた木枠。

 古い瓦。


 雨樋らしきものは一部歪んでいる。

 屋根の端に、濃く湿ったような跡があった。


 あれだろうか。

 いや、違うかもしれない。


 下から見上げても、よく分からない。

 けれどもっと近くで見れば分かるかもしれない。


 私は周囲を見回した。


 物置の壁に、古い梯子が立てかけてある。借りた時からそこにあったものだ。

 灰色に古びた木の梯子。少し苔がつき、足元の一本は乾燥してひび割れている。


 私は梯子を見た。

 屋根を見た。

 もう一度、梯子を見た。


「……駄目ね。」


 自分で言った。


 偉い。これは偉い。

 私は今、とても偉い判断をした。


 この梯子で屋根に登るのは絶対に危険だ。

 たとえ私がどんなに向こう見ずな性格だとしても、命までそうさせてはいけない。


 転落したら、畑仕事も針仕事も終わりである。


 私は梯子から一歩離れた。

 その時、坂の下からマーサの声が聞こえた。


「レベッカ、屋根かい?」


 振り返ると、マーサが籠を持って歩いてくるところだった。

 今日は針仕事の布を持ってきてくれたのだろう。


「おはようございます。はい、物置部屋の雨漏りが続いていて。」


「やっぱりねえ。」


 マーサは家の裏へ回り、屋根を見上げた。

 目を細め、壁を見て、雨樋を見て、軒先を見た。


「こりゃ、素人が触るもんじゃないね。」


「私もそう思いました。」


「偉い。」


「ありがとうございます。」


 素直に嬉しい。

 こういう時、褒められると心が救われる。


「ただ、職人を呼ぶとなると、お金がかかりますよね。」


「かかるね。」


「ですよね。」


「でも、放っておくともっとかかるよ。」


「ですよね……。」


 分かっていた。

 分かっていたが、言われると胸が重くなる。


 屋根の修理。

 一体どのくらいかかるのだろう。


 ローレンスに相談すれば、職人を紹介してくれるかもしれない。

 しかし、それでも費用が痛いことに変わりはない。


 私は小さく唸った。


「節約したいですが、家が傷むのは困ります。」


「その通り。」


「でも、相場が分かりません。」


「ローレンスに聞くのが早いね。変な職人を連れてこられても困る。」


「はい。」


 私は頭の中で予定を組み替えた。


 今日は畑の見回り。

 鳥除けの鈴の確認。

 マーサの針仕事。

 そして、ローレンスの店へ行って、屋根職人について相談する。


 忙しい。

 新生活は常に忙しい。


 その時、森の道から馬の蹄の音がした。

 静かで、規則正しい音。

 私は反射的にそちらを見た。


 来た。

 今日も来た。


 黒馬の手綱を引き、ヴィルヘルムが森の道から姿を現した。


 曇り空の下、彼は深い灰青色の外套をまとっていた。濃紺より淡く、銀より暗い、不思議な色だ。

 今日の空によく似合っている。

 ……それがまた、腹立たしい。


 こちらは雨漏りで頭を抱えているというのに、監視役殿下は今日も一切の隙なく整っている。

 古い物置の湿った壁の前に立つ私とは、たいへんな落差である。なぜか非常に負けた気持ちになった。


 ヴィルヘルムは柵の外で足を止めた。

 黒馬を木陰に繋ぎ、その首を一度撫でる。黒馬が小さく鼻を鳴らした。

 その手つきが相変わらず柔らかくて、私はもう何度目になるか分からない見ないふりをした。


「おはようございます、レベッカ嬢。マーサ殿。」


「おはようございます、面倒な知り合い殿下。」


「おはようさん、殿下さん。」


 マーサはすっかり慣れた様子で返した。

 慣れないでほしい。

 しかし私も、自然に面倒な知り合い殿下と呼んでしまっている。


 よくない。

 とてもよくない。


 ヴィルヘルムの視線が、私たちの背後へ向いた。


 物置の壁。

 古い梯子。

 濃く湿った軒先。


 彼の顔から、すっと余分なものが消える。

 これはいつもの、確認する目だ。


「雨漏りですか。」


「それも見れば分かりますか?」


「状況から、おそらくそうかと。」


「監視が細かいですね。」


「確認です。」


「外向きには?」


「……見守り、でしょうか。」


「まだそれを採用しているのですか。」


「違うのですか。」


 私たちのやり取りにマーサが横で笑いをこらえていた。

 私は一旦言葉を切ってため息をついた。別に笑わせるつもりでやっているのではない。この人と話しているとなぜかいつもこうなってしまうだけだ。心外すぎる。


「物置部屋に水が落ちています。先日から少しずつ。外から見てもよく分かりませんが、屋根か雨樋のどこかが傷んでいるのだと思います。」


 ヴィルヘルムは柵の外から屋根を見上げた。

 勝手には入ってこない。


 彼はいつも、私の引いた線の外に立つ。そして、そこから見える限りのものを見てしまう。

 それが少しだけ、頼もしいような、腹立たしいような。


「近くで見ても?」


「外からなら。」


「裏手へ回ります。」


「敷地には入らないでください。」


「承知しました。」


 ヴィルヘルムは柵の外を回り、家の裏手が見える位置へ移動した。私とマーサも内側から移動する。


 彼は屋根を見上げた。

 ただ見上げるだけなのに、姿勢が綺麗だった。


 顎の角度。

 外套の肩にかかる曇り空の光。

 ……整った横顔。


 私は慌てて屋根を見た。


 屋根。

 今は屋根。


 けっして横顔ではない。


「雨樋が歪んでいます。」


 ヴィルヘルムが言った。


「やはりそこですか。」


「そこも、です。屋根の端の瓦が数枚ずれているように見えます。」


「瓦。」


「軒先の下に水の跡があります。おそらく、雨樋だけでなく屋根材の隙間からも入っています。」


 私は屋根を見上げた。

 そう言われると、そんな気がする。

 しかし、はっきりとは分からない。


「よく見えますね。」


「距離がありますので、断定はできません。」


「珍しく慎重ですね。」


「屋根は危険です。誤った判断で登るべきではありません。」


 彼の声は静かだった。

 しかし、はっきりしていた。


 私は古い梯子をちらりと見た。

 ヴィルヘルムの視線も、私に続いて同じ梯子へ向く。


「……その梯子は使わないでください。」


「まだ何も言っていません。」


「考えたのでは?」


「……少しだけ。」


「絶対に使わないでください。」


 二度目の声は、低かった。

 いつもの淡々とした声とは少し違う。


 私は思わず彼を見た。

 ヴィルヘルムは真っ直ぐ梯子を見ていた。


 古い木。

 苔。

 ひび割れた足。


 そして、屋根。


「その梯子で屋根へ登れば、途中で割れる可能性があります。地面も湿っている。滑ります。絶対に使わないように。」


 いつもの静かな声ではなく、硬く厳しい声だった。

 私が梯子から落ちることを想像したのだろうか。

 たったそれだけで、この人の声は、こんなにも硬くなったのだろうか。


 確かに監視役である彼の最たる目的は、私の身の安全確認だ。

 しかし、妙に不思議な気持ちになった。


「分かっています。登りません。」


「本当に?」


 疑われた。

 いや、私のこれまでの歩みを考えれば、疑われても当然なのかもしれないが。


「私も少しは学習します。」


「はい。」


「今の返事は何ですか。」


「安心しました。」


 ヴィルヘルムは真顔だった。

 これでは怒りづらい。

 私は開きかけた口を静かに閉じた。


 マーサが横から言った。


「殿下さんの言う通りだよ。梯子は使わない。屋根職人を呼ぶ。」


「はい。」


「ローレンスに聞けば、まともな職人を紹介してくれるだろうさ。」


「今日、行ってきます。」


「一人で?」


「はい。ローレンスさんですし。」


 私がそう答えると、なぜかヴィルヘルムがこちらを見た。

 何か言いたそうな気配。

 私は嫌な予感がして先に言った。


「同行は不要です。」


「まだ何も言っていません。」


「言う前に止めました。」


「雨が降りそうです。」


「降る前に行きます。」


「道がぬかるんでいるかもしれません。」


「昨日も歩きました。」


 ヴィルヘルムは更に言い募った。


「屋根の件で気が急いている時は、足元の確認が疎かになります。」


「あなたは私の足元まで監視対象にするのですか。」


「危険回避です。」


「不要です。」


 私も負けじと言い返す。

 マーサがとうとう笑った。


「もう見守りのためでいいんじゃないかい。」


「よくありません。」


「でも、頼りになることもあるだろう。」


「私は子どもではありません。」


 むしろ彼より一つ年上だ。

 なんなら前世では三十年以上生きている。

 一体何を心配されることがあるのか分からない。


 ヴィルヘルムは真面目な顔で会話を聞いていた。

 なぜこの人は、こういう時に余計な口を挟まないのだろう。

 こういうときこそ挟めばいいのに。


 いや、挟まれたら挟まれたで腹が立つだろうけれど。

 私は深く息を吐いた。


「とにかく、屋根には登りません。そして今からローレンスさんに職人を紹介していただきに行ってきます。」


「前者には同意します。」


 ヴィルヘルムは頷き、もう一度屋根を見上げた。

 風が吹き、外套の裾が揺れる。


 古い家。

 苔の生えた軒。

 歪んだ雨樋。

 曇り空。


 その下に立つ、気品ある王子。


 やはり不思議な光景だった。

 彼はこの家に似合わない。

 あまりにも整いすぎている。


 ――それなのに最近、この家に問題が起きるたびに、彼はそこにいる。


 畑。

 柵。

 鳥除け。

 市場。

 そして屋根。


 私の生活の端々に、面倒な知り合いの影が増えている。


 それが、やはり気に入らない。


「レベッカ嬢。」


「……何ですか。」


「これから雨が降ります。職人が来るまで、物置部屋には濡れて困るものを置かない方がいい。」


「それくらい分かっています。」


「天井の染みが広がるなら、部屋の扉を開けて湿気を逃がしてください。ただし、夜は閉めた方がいい。冷えます。」


「はい。」


「桶は一つでは足りないかもしれません。」


「桶はこれから増やします。」


「布を敷くなら、濡れたまま放置しないでください。床が傷みます。」


「……はい。」


 正しい。

 全部正しい。

 非常に、腹立たしいほど、正しい。


「あなたは屋根職人ですか?」


「違います。」


「では、なぜそんなに細かいのですか。」


「古い建物の雨漏りに関する修繕記録を読んだことがあります。」


「……また記録。」


「はい。」


 この人は、本当に何でも読んでいる。

 王宮に置かれた質子。

 自由に行ける場所は限られ、できることも制限されていた。

 やはりその時間のほとんどを、彼は本や記録を読むことで埋めていたのだろうか。


 薬草園の管理記録。

 雨漏りの修繕記録。

 そんなものまで。


 私は少しだけ、彼の王宮での孤独を想像してしまった。


 想像してから、すぐにやめた。

 同情してはいけない。

 いや、同情ではない。

 理解も、今はまだしたくない。


「机上の知識ですね。」


「はい。」


 彼はやはり素直に認めた。


「実際の修理は職人に任せるべきです。」


「そこは正しいと思います。」


「ありがとうございます。」


「褒めてはいません。」


「はい。承知しています。」


 いつものやり取り。

 けれど、少しだけ空気が穏やかだった。


 雨漏りの不安は消えていない。

 屋根の修理費も不安だ。

 だが、少なくとも次に何をすべきかは分かった。


 登らない。

 職人を呼ぶ。

 濡れて困るものを移す。

 桶を増やす。

 湿気を逃がす。


 不慣れな私でも。

 ひとつずつ。

 ひとつずつなら、できる。


 マーサが籠から布を取り出した。


「レベッカ、今日ローレンスのところへ行くなら、ついでにこれも届けておくれ。あの人に頼まれてた繕い物だよ。」


「分かりました。」


「殿下さんは?」


 マーサがわざとらしくヴィルヘルムを見る。

 ヴィルヘルムは静かに答えた。


「必要であれば、道中を確認します。」


「つまりついていくんだね。」


「監し……。」


 彼は言いかけて止まった。

 私が見たからだ。


 ほんの少しだけ間が空く。


「見守りです。」


「違います。」


 私は即座に言った。

 マーサが笑った。


「じゃあ、面倒な知り合いの散歩だ。」


「散歩ではありません。」


 ヴィルヘルムが真面目に否定する。


「では、何ですか。」


 私が尋ねると、彼は少しだけ考えた。


「危険回避を目的とした、道中の確認です。」


「長いです。」


「すみません。」


「……やっぱり、面倒な知り合いで結構です。」


「承知しました。」


 なぜそこで、少し納得したような顔をするのか。

 私はまた調子が狂った。


 結局、私は彼を連れてローレンスの店へ向かうことになった。

 マーサの繕い物を籠に入れ、屋根職人の紹介を頼むためのメモを持つ。

 黒馬は家の柵の外に繋いでいく。


 ヴィルヘルムは、やはり一定の距離を取って後ろを歩いた。

 市場ほど人は多くないが、街へ向かう道ではやはり目立つ。


 私は振り返らずに言った。


「距離。」


「取っています。」


「もっと。」


「確認可能な範囲で。」


「あなたの存在感は、距離では薄まりません。」


「……それは、どうすれば?」


 もう難しい気がする。

 私は何も言えず口ごもった。


 ローレンスの店に着くと、彼は帳簿から顔を上げ、私の顔を見るなり言った。


「雨漏りかい?」


「なぜ分かるのですか?」


「あの家を借りた人が、曇りの日にそんな顔で来たら、だいたい雨漏りだよ。」


「なるほど。」


 実に経験豊富である。

 私は物置部屋の状況を説明した。


 天井の染み。

 夜の水滴。

 桶一つ分にも満たない水。

 屋根の端と雨樋の歪み。


 ローレンスは腕を組んで頷いた。


「職人を呼んだ方がいいね。変なところへ頼むと高くつくから、私から声をかけておくよ。」


「ありがとうございます。費用はどのくらいでしょうか。」


「見てみないと分からないね。簡単な補修ならそこまでではないが、屋根材を替えるなら少しかかる。」


 少しかかる。その言葉に胸が重くなる。

 しかし、仕方ない。

 家を守るためだ。


「お願いします。」


「明日か明後日、できるだけ早く一度見に来させる。きみは絶対に屋根に登るんじゃないよ。」


「はい。今日は何度も言われています。」


「言われるってことは、それだけ登りそうな顔をしてるんだよ。」


「そんなにですか。」


「そんなにだね。」


 私は少し落ち込んだ。顔。どこへ行っても顔か。

 王妃教育で完璧鍛えた筈の私の表情筋は、一体どこへ消えてしまったのだろう。


 そこへ、店の少し離れた場所にいたヴィルヘルムが静かに言った。


「梯子も危険な状態でした。」


 ローレンスが彼を見る。

 そして、にやりと笑った。


「面倒な知り合いさんも、ちゃんと見てるねえ。」


 私は頭を抱えたくなった。


「その呼び方、広がっているんですか。」


「市場は鍋より早く話が煮えるって、マーサが言ってなかったかい?」


「言っていました。」


「じゃあ、そういうことだ。」


 終わった。

 私の面倒な知り合いという表現は、どうやら街に広がりつつあるらしい。


 ヴィルヘルムは特に否定しなかった。

 なぜ否定しない。

 私は彼を見た。


「不本意ではないのですか。」


「あなたがそう呼ぶのであれば。」


「私が呼ぶのであれば?」


「外向きの表現として、問題は少ないと思います。」


「……問題は少ない。」


 あくまで実務的な判断だった。

 私は少しだけ肩の力が抜けた。


 そうだ。

 この人はそういう人だ。


 私が深く考えすぎているのがいけない。


 ローレンスが繕い物を受け取り、職人への伝言を書いてくれた。


 帰り道、空が少し暗くなっていた。

 風が湿っている。雨は近いかもしれない。


 ヴィルヘルムは少し後ろを歩きながら、空を見上げた。


「降るかもしれません。」


「急ぎます。」


「走らないでください。」


「分かっています。」


「道が滑ります。」


「それも分かっています。」


「籠を持ちましょうか。」


「結構です。」


「軽いのですか。」


「軽くはありません。」


「では。」


「自分で持ちます。」


「……分かりました。」


 彼は引いた。

 ただし、歩く速度を少し落とした。


 先日もそうだった。

 私が荷物を渡さないと、彼は無理には奪わない。

 ただ、こちらに合わせる。


 その距離感が、少しずつ分かってきている自分がいる。

 ……それが困る。


 森の家へ戻る頃、雨粒が一つ頬に当たった。

 冷たい。

 見上げると、灰色の雲がさらに低くなっている。


「降ってきましたね。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは柵の外で黒馬の手綱を解いた。

 私は門の内側に入り、振り返る。


「今日の確認は終わりですか。」


「はい。職人を呼ぶ算段もできました。」


「あなたが呼んだわけではありません。」


「はい。ローレンス殿です。」


「分かっているなら結構です。」


 雨粒が少し増える。

 ヴィルヘルムの外套の肩に、小さな点が落ちた。

 彼は気にする様子もない。


「雨が強くなる前に、お帰りください。」


 私が言うと、彼は一瞬だけ目を瞬いた。


「はい。」


「風邪をひくと、見守りに支障が出るのでは。」


 言ってから、しまったと思った。

 見守り。監視ではなく。外向きの言葉としてでもなく。

 自分で言ってしまった。


 ヴィルヘルムの目元が、ほんの少しだけ動く。


「はい。支障が出ます。」


 そして真面目に答える。

 私は慌てて顔をそらした。


「では、お早く。」


「承知しました。」


 彼は馬にまたがった。

 雨の中でも、その動作は変わらず美しかった。


 外套が揺れ、淡い金髪に小さな雨粒が光る。黒馬が静かに向きを変えた。


「レベッカ嬢。」


「何ですか。」


「物置部屋の桶は、夜に一度確認してください。ただし、濡れた床で滑らないように。」


「はい。」


「灯りを持つ時は、片手を空けて。」


「はい。」


「梯子には触れないでください。」


「しつこいです。」


「すみません。」


 謝るが、表情は真剣だった。

 私は小さく息を吐いた。


「触れません。」


「約束ですか。」


 ――約束。

 その言葉に、少しだけ心臓が引っかかった。

 私は馬上の彼を見上げた。


 青い瞳が、雨の中で静かにこちらを見ている。

 まっすぐで、少しだけ強い目。


 監視役が「約束ですか」と言う。

 義務の人間が、「約束」という言葉を選ぶ。


 なぜ「確認しましたか」ではなく。

 なぜ「約束ですか」なのか。


「……約束、します。」


 私がそう言うと、ヴィルヘルムはゆっくり頷いた。


「ありがとうございます。」


 そしてなぜそこで礼を言うのか。

 分からない。

 分からないが、胸が少し落ち着かなくなった。


「今夜の雨はかなり激しくなるかもしれません。また明日、確認します。」


 一体何を確認するつもりなのだろう。

 家の状態か。

 畑か。

 それとも、私が梯子に触れていないかか。


 ヴィルヘルムは軽く頭を下げ、黒馬を進めた。

 雨の森の道へ、濃い外套と黒馬が遠ざかっていく。


 私は見送らないつもりだった。

 だが、雨のせいで道が滑らないか気になった。

 それだけだ。


 私はそう自分に言い訳しながら、彼の背中が木々の間に消えるまで見ていた。


 家に入ると、物置部屋の桶をもう一つ増やした。

 床に古布を敷き、濡れて困る紙束や布包みを廊下へ移す。

 天井の染みは、朝より少しだけ濃くなっている気がした。


 外では雨が降り始めている。


 鳥除けの鈴が、ちりん、と鳴る。

 雨漏りの桶が、ぽつり、と鳴る。


 私はその二つの音を聞きながら、暖炉に火を入れた。


 今夜は、少し忙しくなりそうだ。

 でも、とにかく、梯子には触れない。


 ――約束したから。


 そう思った瞬間、自分が約束という言葉を妙に意識していることに気づき、私は慌てて薪をくべた。


「……ただの安全確認よ。」


 誰に言うでもなく呟く。


 外の雨は、少しずつ強くなっていた。

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