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第二十話 雨の日の客人

 夜の雨は、思っていたより強かった。


 最初は、静かな雨だった。

 屋根をそっと撫でるような音。森の葉を濡らす、柔らかな音。

 鳥除けの鈴が時々ちりんと鳴り、物置部屋の桶がぽつりと鳴る。


 その二つの音を聞きながら、私は暖炉のそばで静かに針仕事をしていた。

 マーサから預かった小さな繕い物だ。


 ほつれた端を閉じ、弱った縫い目を補い、布の傷んだところに当て布をする。古いものをまたこれからも使っていくための補修。

 華やかな刺繍ではない。人に見せるための手仕事でもない。

 けれど、こういう作業は嫌いではなかった。


 糸を通す。

 布を合わせる。

 一針。

 また一針。


 雨音。

 鈴の音。

 桶の音。


 そうしているうちに、少しずつ心が落ち着く。


 ……はずだった。


 夜半を過ぎた頃、雨の音が変わった。


 さああ、ではない。

 ざあ、でもない。

 ばらばらと、無数の小石が屋根へ落ちてくるような激しい音だった。


 風も出てきた。

 窓が、かたがた、と鳴る。

 鳥除けの鈴が、ちりん、ちりん、と忙しく鳴り始めた。


 私はそこで針を止めた。

 なんだかとても嫌な予感がした。


 針を針山に刺し、ランプを持って立ち上がる。

 物置部屋へ向かうと、扉の向こうから水音が聞こえた。


 ぽつり。

 ぽつり。


 ではない。


 ぽた、ぽた、ぽた。


 扉を開けた瞬間、音はもっとはっきりした。

 桶の底に水が落ちる間隔が、さっきよりずっと短い。


 私はランプを掲げ、暗い天井を照らした。

 天井の染みが明らかに広がっている。


 昨日より大きい。

 しかも、最初の場所だけではない。少し離れた天井板の継ぎ目にも、水がにじんでいた。


「……増えてる。」


 唖然として思わず呟いた。


 私は急いで桶をもう一つ持ってきた。

 朝にヴィルヘルムに言われて増やしておいたものだ。


 いや、正確には、言われたからではない。

 私が、必要だと思ったからだ。

 ……そういうことにした。


 桶を置く。古布を敷く。

 濡れて困る紙束や布包みを廊下へ移す。

 床板に水が染み込まないよう、古布を折りたたんで置く。


 私は何度も物置部屋と台所を行き来した。


 雨はさらに強くなる。

 屋根を叩く音が、部屋の中まで響く。

 風が鳴る。古い家が、ぎしり、と音を立てる。


 怖くない。

 怖くないわ。


 私は暗い家の中を歩きながら、必死に自分に言い聞かせた。


 これは古い家だ。少しくらい音がする。

 雨漏りも、今のところ物置部屋だけ。

 それも桶で受けている。布も敷いたし、床も拭いている。


 大丈夫。

 私は対応できている。


 そう思った時だった。


 台所の隅で、ぽつん、と音がした。

 私は固まった。


 今のは。

 物置部屋ではない。


 台所だ。


 ゆっくり振り返る。

 暖炉から少し離れた壁際。棚の横。

 床板の上に、小さな濃い点ができていた。


 ぽつり。

 もう一滴、落ちる。


「……そこも?」


 台所。

 そこは困る。


 物置なら、濡れて困るものを移せばいい。

 でも台所には、鍋も食材も火もある。


 暮らしの中心に水が落ちてくるのは、困る。

 とても困る。


 私は急いで小さな器を置いた。


 上を見ると、天井板の継ぎ目が少し濡れている。

 暖炉からは離れていた。

 火に直接水が落ちる場所ではない。


 それだけは幸いだった。


 けれど、もし雨がさらに強くなったら。

 もし別の場所からも落ちてきたら。


 私はしばらく立ち尽くした。

 胸の奥が、きゅっと縮む。


 大丈夫。

 大丈夫。

 一人でできる。

 私はここで暮らすと決めた。


 誰かが用意した安全な宿には戻らない。領主館にも行かない。誰かに全部守ってもらう生活には戻らない。


 ――だから、これはすべて私がどうにかする。


 私は布を取り、台所の床を拭いた。


 物置部屋。

 ぽた、ぽた。


 台所。

 ぽつん、ぽつん。


 鳥除け。

 ちりん、ちりん。


 窓。

 がたがた。


 音が増えていく。

 家のあちこちから、私を急かすように音がする。


 私はランプを持って、天井を見上げた。

 そして、玄関脇に立てかけてある古い梯子が目に入った。


 今朝、触れないと約束した梯子。

 あれで屋根に登るつもりはない。

 ぜったにに、ない。


 でも、軒下なら。

 外へ出て、少し見上げるだけなら。

 どこから水が流れているか確認するだけなら。


 私は梯子に近づきかけた。


 その瞬間、低い声が頭の中で響いた。


 ――梯子には触れないでください。

 ――約束ですか。


 足が止まった。

 自分でも驚くほど、ぴたりと止まった。


「……触れないわよ。」


 誰もいない玄関で、私は小さく言った。


「約束したからじゃないわ。危ないからよ。」


 そう。

 危ないから。

 それだけだ。


 私は梯子から離れ、桶の代わりになるものを探しに行った。



 その夜は、長かった。


 何度も桶を確認し、布を替え、床を拭いた。

 台所の雨漏りは大きくならなかったが、止まりもしなかった。

 物置部屋の桶には、水が少しずつ溜まっていく。


 眠ろうとしても、音が気になって目が冴えた。


 私はとても疲れていた。


 雨漏りの不安。

 家のあちらこちらから響く音。

 そして、外の嵐のような雨。


 ――なんで、こんなことをしているのだろう。


 冷たく濡れた布を持ち、急かすような音に溢れた部屋の中心に、ふ、と立ち尽くした時。

 ざあっと、胸の奥へ波のような不安が押し寄せてきた。


 自分がこんなことをする意味はあるのだろうか。

 ただ意地を張って。

 誰にも頼らないふりをして、他人の手を煩わせて。

 惨めな姿で、濡れた床を拭いている。


 そう思った瞬間、私は唇を噛んだ。


 違う。

 決めたではないか。


 もう、周りや過去に振り回されない。

 誰かに価値を決められるのではなく、自分で生きていくのだと。


 これは、そのための暮らしだ。


 惨めだからしているのではない。

 意地だけでしているのでもない。


 私が、私の足で立つためにしていることだ。


 けれど、頭ではそう思っても、胸の奥に溜まった不安は消えなかった。


 疲れているからだ。

 きっとそうに違いない。


 こんなことを考えるなんて、疲れているからだ。


 その時、突如ごおっと今までで一番強い風が吹いた。


 家全体が、みしりと軋む。

 壁なのか、屋根なのか。

 古い木が悲鳴を上げるような音に、心臓が跳ねた。


 もしかして、台所の水が増えていたらどうしよう。

 私は焦って立ち上がった。


 だが、一歩踏み出した瞬間、濡れた布の端に足を取られた。


「っ!」


 体が大きく傾く。

 次の瞬間、私は床に手をついていた。

 置いていた水受けに腕が当たり、ぱしゃり、と音を立てて水がこぼれる。


「あ……。」


 濡れた床。

 倒れた器。

 散った水。


 体から力が抜けた。


 しばらく、私はその場に座り込んだまま動けなかった。

 早く拭かないと。

 立ち上がって、床を拭いて、もう一度台所を見に行って。


 頭の中には、やるべきことが次々に浮かんでいる。

 それなのに、足が動かない。


 遠くで雷鳴が響いた。

 低く、重く、腹の底にまで届くような音。


 びくりと体がすくんだ。


 嵐の夜。

 冷たく響く雷鳴。

 それは、忘れたはずの記憶を、無理やり引きずり出した。


 幼い頃、母は私が望まないことをした時や、期待に応えられなかった時、公爵家の旧棟の一室に私を閉じ込めることがあった。


 そこは長く使われていない部屋だった。

 冷たく、埃っぽく、家具には白い布がかけられていた。

 扉を閉められると、窓から入る薄い光だけが頼りになる。


 閉じ込められる時間は、母の気分で決まった。

 短い時もあれば、長い時もあった。


 幼い私にとって、その部屋はとてつもなく恐ろしい場所だった。


 その日、私はなぜ母を怒らせたのか、もう覚えていない。

 ピアノを一音間違えたのかもしれない。

 家庭教師の質問に、うまく答えられなかったのかもしれない。


 泣いて縋った。

 謝った。

 いい子になるから、と何度も言った。


 けれど、その日は許されなかった。

 そして、その日は嵐だった。


 外では風が唸り、雨が窓を叩き、雷が何度も鳴った。

 古い窓枠が揺れるたび、私は部屋の隅で耳を塞いだ。


 怖い。

 出して。

 ごめんなさい。

 もうしないから。


 暗い部屋の中で、私はただ泣きながら震えていた。


 翌日、扉が開いても、母は何も言わなかった。

 心配する言葉もなかった。

 抱きしめられることもなかった。


 ただ、次の予定に遅れないよう支度をしなさい、と言われただけだった。


 私は愛情が欲しかった。

 ただ、こちらを見てほしかった。


 けれど、それを欲しがることすら、いつの間にか恥ずかしいことになっていた。


「……本当に、一体何をしていたのかしら。」


 床に座り込んだまま、私は呟いた。


 そして今も。

 一体。

 何をしているのだろう。


 口に出せない感情が、落ち続ける雫のように胸の中へ溜まっていく。


 ぽつり。

 ぽつり。


 桶の音がする。


 ちりん。

 ちりん。


 鳥除けの鈴が鳴る。


 私は濡れた床の上で、しばらく動けなかった。


 ――でも。

 私は濡れた手を見た。


 あの部屋には、鍵がなかった。

 私の手に、扉を開ける力はなかった。


 けれど今は違う。


 この家の鍵は、私が持っている。

 扉も開けられる。

 窓も開けられる。

 火もつけられる。

 水も捨てられる。


 誰かに閉じ込められているのではない。

 私は、自分でここにいる。


 震える手で布を引き寄せる。

 こぼれた水を拭く。

 器を起こす。

 もう一度、水受けを置く。


 たったそれだけのことに、ひどく時間がかかった。

 それでも、動けた。

 ひとつずつなら、まだ動ける。


 そうしているうちに、朝は来た。


 窓の外が少しずつ白み、雨音が弱まり、森の鳥が一声鳴いた時、私はようやく大きく息を吐いた。


 床を拭く。

 水を捨てる。

 布を替える。

 台所を見る。

 物置を見る。


 ひとつずつ。

 ひとつずつなら、まだできる。


 私は自分にそう言い聞かせながら、冷えた手で濡れた布を絞った。


 暖炉に火を入れ直し、湯を沸かす。

 眠い。

 とても眠い。

 でも、寝ている場合ではない。


 今日は職人が来るかもしれない。

 来ないかもしれない。

 ローレンスからの返事も待たなければならない。


 湯気の立つ湯を見ながら、ぼんやりした頭で予定を考える。


 その時、森の道から馬の蹄の音が聞こえた。

 静かで、規則正しい音。


 私は少し緩慢な動きで窓の外を見た。


 雨上がりの朝。

 庭はしっとり濡れている。


 鳥除けの古布は水を含んで少し重そうだが、まだ立っている。

 柵も無事。

 畑の芽も、おそらく今のところ倒れてはいない。


 そして、森の道から黒馬とヴィルヘルムが現れた。


 今日も来た。

 こんな朝にも。


 濃い外套の肩には、まだ雨粒が残っている。

 黒馬の脚にも泥がはねていた。


 ヴィルヘルムは柵の外で馬を止めると、いつものように黒馬の首を撫でた。

 その仕草を見て、私はなぜか少しだけ力が抜けた。


 安心したわけではない。

 ただ、いつものものが来たと思っただけだ。


 面倒な知り合い。

 監視役。

 見守りなどという変な言葉を、外向きの表現として採用しかけている男。


 その男が、雨上がりの朝にまた来た。


 私は玄関へ向かった。

 扉を開けると、湿った空気が入ってくる。


 ヴィルヘルムは柵の外からこちらを見た。


「おはようございます、レベッカ嬢。」


「おはようございます、面倒な知り合い殿下。」


 しまった。声が少しかすれた。

 自分でも分かった。


 ヴィルヘルムの目が、すぐに細くなる。

 いつもと同じ、確認する目。


 だが今日は、いつもより早かった。


「眠っていませんね。」


 挨拶の次にそれか。本当に気が抜ける。

 私は慌てて眉を寄せた。


「開口一番、失礼ですね。」


「顔色が悪い。」


「雨漏り対応で少し寝不足なだけです。」


「少しではありません。」


「見すぎです。」


「確認です。」


「外向きには?」


 ヴィルヘルムは少しだけ黙った。


「……今は、その余裕がありません。」


 低い声だった。

 私は言葉に詰まった。


 ヴィルヘルムは柵の外から家を見た。


 物置の軒先。

 台所の方の壁。

 外へ出した濡れ布。

 水を捨てた桶。


 彼の視線が、それらを順に追う。


「台所にも落ちましたか。」


「なぜ分かるのですか。」


「濡れた布の量と置き方が、物置の分だけではない。」


「……本当に見すぎです。」


「入って確認しても?」


「駄目です。」


 即答した。

 ヴィルヘルムは黙った。


 私は一瞬、言いすぎたかと思った。

 けれどここは私の家だ。私は小さく溜息を吐いた。


「……家の中には入れません。」


「承知しました。」


 彼はあっさり頷いた。でも立ち去らない。

 当然のように、柵の外から家を見ている。


 一歩も踏み込まない。

 けれど、一歩も退かない。


 その距離感が、今朝は妙に疲れた胸に引っかかった。


 本当は、一人で全部対応できると言いたい。

 けれど、昨夜の雨漏りは怖かった。

 物置だけでなく、台所まで水が落ちた。床も濡れた。桶も足りなくなりかけた。


 今も眠くて、頭が本当に重い。


 家の中は片づけ途中で、人に見せられる状態ではない。

 でも、屋根の状態は確認しなければならない。

 職人が来るまでに、濡れて困るものをさらに移さなければならない。


 ヴィルヘルムは柵の外にいる。

 入らない。

 私が駄目だと言えば、ちゃんと止まる。

 そのことだけは、もう分かっている。


 私は深く息を吸った。


「……玄関までなら。」


 自分の声が、小さく聞こえた。

 ヴィルヘルムの表情が、ほんのわずかに変わった。


「よろしいのですか。」

「玄関までです。敷居を越えて、すぐの場所まで。台所にも物置にも入らないでください。見るだけです。」

「承知しました。」

「本当に?」

「はい。」

「勝手に奥へ入ったら、追い出します。」

「承知しています。」


 私は門の鍵を開けた。

 ヴィルヘルムは黒馬を柵の外の木陰に繋いだ。馬の首を一度撫で、それからこちらへ歩いてくる。


 雨上がりの庭。


 濡れた草。

 鳥除けの鈴。

 直したばかりの柵。


 その中を、彼がゆっくり歩いてくる。


 外套の裾が濡れた草に触れる。靴に泥がつく。

 それでも、彼は少しも嫌そうな顔をしない。


 玄関の前で、ヴィルヘルムは足を止めた。


 私を見る。

 確認を待っている。

 私は扉を開けた。


「そこまでです。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは敷居を越えた。

 初めて、彼が私の家の中に入った。

 ほんの玄関先。

 扉一枚分。


 それだけなのに、家の中の空気が少し変わった気がした。

 背の高い彼が立つと、狭い玄関が急に小さく見える。


 濃い外套。

 淡い金髪。

 雨の匂い。

 外の冷気。


 そして、王宮の空気をどこかに残した気配。


 この古い家に、まるで似合わない。

 似合わないのに、彼は静かに立っていた。


 言われた通り、それ以上進まない。

 本当に一歩も。


「……本当に止まるのですね。」


 思わず言うと、ヴィルヘルムは私を見た。


「止まるように言われましたので。」


「あなたは、時々とても律儀ですね。」


「時々。」


「……いつもではありません。」


「……承知しました。」


 そこでまた真面目に答える。

 私は少しだけ笑いそうになった。


 だが、すぐに物置部屋の音がした。

 ぽつり。

 まだ落ちている。


 ヴィルヘルムの視線が、音の方へ向いた。

 だが、足は動かさない。

 私が台所にも物置にも入らないでと言ったからだ。


「音が増えています。」


「物置と、台所の隅です。」


「台所にも。」


「小さいものです。」


「小さくても、床に染みると傷みます。」


「布を敷きました。桶も置きました。」


「見ても?」


「……ここからなら。」


 私は少し体をずらし、玄関から台所の隅が見えるようにした。


 かなり遠い。

 しかし、背の高いヴィルヘルムには見えるらしい。

 彼はわずかに首を傾け、台所の天井と床を確認した。


「火から離れているのは幸いです。」


「はい。」


「ただ、台所の棚は少し移した方がいい。壁を伝って落ちる可能性があります。」


「分かりました。」


「物置は?」


「桶を二つ置いています。」


「床に布は?」


「敷いています。」


「濡れた布はすぐ外へ?」


「出しました。」


「梯子は?」


「…………触っていません。」


 ヴィルヘルムの視線が私へ戻った。


「約束を守ってくださったのですね。」


 その言い方が妙に静かで、私は少しだけ戸惑った。


「危ないからです。」


「はい。」


「けっして約束したからではありません。」


「はい。」


「……でも、触っていません。」


「ありがとうございます。」


 また礼を言った。

 なぜ礼を言うのか。


 梯子に触らなかったのは私の安全のためで、彼のためではない。

 なのに、その「ありがとうございます」が、胸に少しだけ残ってしまう。


 私は咄嗟に顔をそらした。


「とにかく、職人が来るまではなんとかします。ローレンスさんが今日か明日には連絡をくれるはずです。」


「それまでの応急対応が必要です。」


「分かっています。」


「桶はあと二つありますか。」


「小さいものなら。」


「台所の棚を移すなら、手を貸します。」


「結構です。」


 即答した。

 ヴィルヘルムはやはり引いた。


「承知しました。」


 本当に引く。

 決して無理に入らない。

 手伝うと言う。

 でも断れば止まる。


 その距離感が、昨夜の雨で疲れた心には少しだけありがたかった。

 ……認めたくはないけれど。


 私は棚を見た。


 重い。見るからに重い。

 大きな棚ではないが、中身を出さなければ動かせない。


 眠い頭で一人でやるには、少し面倒だ。

 けれど、頼めば彼は台所まで入ることになる。


 それはまだ早い。

 いやいや。早い、という言い方も変だ。彼を入れる予定は今後もけっしてない。


「中身を出せば動かせます。自分でやります。」


「では、重いまま動かさないでください。」


「はい。」


「足元が濡れているなら、先に拭いてください。」


「はい。」


「眠い時は、判断が遅れます。」


「……はい。」


「少し休んでください。」


 その最後の言葉だけ、少し違って聞こえた。

 命令ではない。

 確認でもない。


 ただ、低く静かな声だった。


 私は口を開きかけ、閉じた。


「休む余裕はありません。」


「少しでも。」


「雨漏りがあります。」


「桶が受けています。」


「台所にも落ちています。」


「火から離れています。」


「……職人が来るかもしれません。」


「来るまでは休めます。」


「……。」


 全部、正しい。

 腹立たしいほど正しい。

 私は反論できなくなった。


 ヴィルヘルムは玄関先に立ったまま、淡々と言った。


「今すぐ倒れる状態ではないでしょう。ですが、万が一あなたが倒れれば、状況は悪化します。」


「それは……実用的な休息ですね。」


「はい。」


「あなたは本当に、優しいのか冷たいのか分かりません。」


 言ってから、しまったと思った。

 ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。


「優しくはありません。」


 静かな声だった。

 胸に小さな棘が刺さる。


 私は何も言えなかった。つい、あの夜のことを思い出してしまったから。


「私は、必要だと思うことを言っているだけです。」


「……それが時々、人を助けます。」


 気づけば、そう言っていた。


 ヴィルヘルムが顔を上げる。

 青い瞳が、少しだけ揺れた。


 私はすぐに視線を逸らした。


「時々です。」


「はい。」


「……いつもではありません。」


「承知しました。」


 なぜか、彼の声が少しだけ柔らかかった。

 私はますます落ち着かなくなった。


 その時、玄関の外からマーサの声がした。


「レベッカ、いるかい! 雨漏りどうだい!」


 助かった。

 私は心からそう思った。


「います!」


 扉を開けたままだったので、マーサは玄関先に立つヴィルヘルムを見て、目を丸くした。

 それから、にやりと笑う。


「おや、ついに家に上げたのかい。」


「玄関だけです。」


 私は即座に言った。


「そこまでです。台所にも物置にも入れていません。」


「はい。玄関までです。」


 ヴィルヘルムまで真面目に補足した。

 マーサは目を丸くしたあと、声を出して笑った。


「二人そろって、何をそんなに律儀に説明してるんだい。」


「大事なことです。」

「大事なことです。」


 今度は私とヴィルヘルムの声が重なった。

 マーサはさらに笑った。


 私は顔が熱くなった。

 ここは重なる必要はない。

 全くない。


「まあいい。職人の件だけどね、ローレンスが手配してくれたよ。今日の午後、見に来るってさ。」


「本当ですか!実は台所も雨漏りが始まってしまって……」


 私は思わず声を上げた。

 よかった。

 かなり早い。

 胸の重さが少しだけ軽くなる。


「ただし、雨が残るなら、屋根には登れない。外から見て、応急処置の段取りだけになるかもしれないね。」


「それでも助かります。」


「うん。で、台所も漏れたって?」


「はい。隅だけですが。」


「見せな。」


 マーサは当然のように家へ入ろうとした。

 私は一瞬だけ迷い、それから頷いた。


「お願いします。」


 マーサは近所の女性であり、家の事情も知っている。

 ヴィルヘルムとは違う。

 その線引きは、自分でもよく分かっている。


 マーサは靴の泥を落として、台所へ入った。

 もちろんヴィルヘルムは玄関先から動かない。


 私はその場に残る彼を見た。


「……あなたは、そこで――」


「はい。」


 言う前に答えた。

 そして本当に動かない。

 背の高い王子が、古い家の玄関先で、濡れた外套のまま立っている。


 少し申し訳ないような気持ちになる。

 でも、入れるわけにはいかない。

 入れたくない。


 そう思う一方で、濡れたまま立たせるのもどうなのかと思う自分がいる。


 非常に面倒だ。

 自分の心が。


 マーサは台所の隅を見て、天井を確認し、床を踏んだ。


「今のところは大丈夫だね。棚は少し動かした方がいい。中身を出せば、あんた一人でもいけるだろうけど、今日は寝不足だろ?」


「少しだけです。」


「嘘だね。」


「……じつはかなり。」


「正直でよろしい。」


 マーサは棚の中身を次々に出し始めた。

 私も手伝う。


 皿。

 小鍋。

 乾燥豆。

 塩。

 油。

 木匙。


 それらを机の上に移す。


 玄関先のヴィルヘルムは、まっすぐ前を見ている。

 だが、たぶん全部見えている。


 手伝えない場所で、手を出さずに立っている。

 その姿が、なぜか少しだけ不憫に見えた。


 不憫。

 誰が。

 ヴィルヘルムが。


 私は自分の思考に驚いた。


 面倒な知り合いを不憫に思う必要はない。


「よし、少し持ち上げるよ。」


 マーサが言った。

 私は棚の端を持った。

 中身を出しても、それなりに重い。


「せーの。」


 少し動く。

 床が湿っているので、滑らせながら移す。


 ぎぎ、と木が軋む。


「あと少し。」


「はい。」


 私が力を入れようとした時、玄関先から低い声がした。


「足元。」


 私は反射的に足を見る。

 濡れた布の端を踏みかけていた。

 そのまま力を入れれば、滑ったかもしれない。


 私は足をずらした。


「……ありがとうございます。」


「いいえ。」


「でも見すぎです。」


「はい。」


 認めた。

 マーサが笑いながら言った。


「玄関からでも役に立つねえ。」


「本当に面倒です。」


「便利だよ。」


「……便利だから面倒なのです。」


 棚は無事に移動できた。

 台所の雨漏り箇所から少し離し、床の水も拭く。


 これでひとまず安心だ。

 私は少し腰を伸ばした。


 眠気と疲れで、体が重い。


 マーサは私の顔を見て、きっぱり言った。


「レベッカ、あんた少し横になりな。」


「でも。」


「職人は午後。今やれることはやった。三十分でも寝る。」


「しかし。」


「返事。」


「……はい。」


 勝てない。

 マーサには勝てない。

 私は渋々頷いた。


 その時、玄関先のヴィルヘルムが言った。


「私は外で待ちます。」


「待たなくて結構です。」


「職人が来るまで、屋根の外側を確認しています。」


「雨が降っています。」


「小雨です。」


「濡れます。」


「問題ありません。」


「問題あります!」


 思わず言ってしまった。


 ヴィルヘルムが私を見る。

 マーサも私を見る。


 私は一瞬で後悔した。


「……見守りに支障が出ると困る、という意味です。」


「はい。」


 ヴィルヘルムは静かに頷いた。


「では支障が出ない範囲で対応します。」


 そういうことではない。

 ……いや、そういうことにしておく。


 マーサが何か言いたそうに笑っている。

 私は見ないふりをした。


 ヴィルヘルムは玄関から外へ出た。

 外套の肩に小雨が落ちる。


 彼は黒馬のそばへ行き、荷から布の覆いを取り出した。

 それを黒馬にかけ、濡れた首筋を軽く撫でる。

 ……自分は少し濡れているのに、馬を先に雨から守る。


 私は窓越しにそれを見てしまった。

 見てしまったことに気づき、すぐに寝台の方へ向かう。


 寝る。

 私は寝るのだ。


 面倒な知り合いが馬に優しいところなど、今考える必要はない。


 寝室へ向かう前、私は玄関近くで一度だけ振り返った。

 扉は半分開いている。


 その向こうで、ヴィルヘルムが外から屋根を見上げていた。

 灰色の雨の中、濃い外套をまとい、淡い金髪に雨粒を受けながら。

 古い家の屋根を、真剣に見上げている。


 その姿は、やはりこの家には似合わない。

 けれど、なぜか不思議と頼もしかった。


 私はそれを認めたくなくて、小さく呟いた。


「……ただの雨漏り確認よ。」


 そして、寝室へ向かった。


 三十分だけ眠ろう。

 そう思って横になった。


 雨音が遠くなる。

 鳥除けの鈴が、ちりんと鳴る。

 桶が、ぽつりと鳴る。


 外では、面倒な知り合いが屋根を見上げている。

 私が引いた線を、一歩も越えずに。

 それなのに、すぐそこにいる。


 その距離が、なぜか少しだけ、眠りに落ちる前の私を安心させた。


 昨晩からの胸の痛みが、少しだけ軽くなった気がした。

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