第二十話 雨の日の客人
夜の雨は、思っていたより強かった。
最初は、静かな雨だった。
屋根をそっと撫でるような音。森の葉を濡らす、柔らかな音。
鳥除けの鈴が時々ちりんと鳴り、物置部屋の桶がぽつりと鳴る。
その二つの音を聞きながら、私は暖炉のそばで静かに針仕事をしていた。
マーサから預かった小さな繕い物だ。
ほつれた端を閉じ、弱った縫い目を補い、布の傷んだところに当て布をする。古いものをまたこれからも使っていくための補修。
華やかな刺繍ではない。人に見せるための手仕事でもない。
けれど、こういう作業は嫌いではなかった。
糸を通す。
布を合わせる。
一針。
また一針。
雨音。
鈴の音。
桶の音。
そうしているうちに、少しずつ心が落ち着く。
……はずだった。
夜半を過ぎた頃、雨の音が変わった。
さああ、ではない。
ざあ、でもない。
ばらばらと、無数の小石が屋根へ落ちてくるような激しい音だった。
風も出てきた。
窓が、かたがた、と鳴る。
鳥除けの鈴が、ちりん、ちりん、と忙しく鳴り始めた。
私はそこで針を止めた。
なんだかとても嫌な予感がした。
針を針山に刺し、ランプを持って立ち上がる。
物置部屋へ向かうと、扉の向こうから水音が聞こえた。
ぽつり。
ぽつり。
ではない。
ぽた、ぽた、ぽた。
扉を開けた瞬間、音はもっとはっきりした。
桶の底に水が落ちる間隔が、さっきよりずっと短い。
私はランプを掲げ、暗い天井を照らした。
天井の染みが明らかに広がっている。
昨日より大きい。
しかも、最初の場所だけではない。少し離れた天井板の継ぎ目にも、水がにじんでいた。
「……増えてる。」
唖然として思わず呟いた。
私は急いで桶をもう一つ持ってきた。
朝にヴィルヘルムに言われて増やしておいたものだ。
いや、正確には、言われたからではない。
私が、必要だと思ったからだ。
……そういうことにした。
桶を置く。古布を敷く。
濡れて困る紙束や布包みを廊下へ移す。
床板に水が染み込まないよう、古布を折りたたんで置く。
私は何度も物置部屋と台所を行き来した。
雨はさらに強くなる。
屋根を叩く音が、部屋の中まで響く。
風が鳴る。古い家が、ぎしり、と音を立てる。
怖くない。
怖くないわ。
私は暗い家の中を歩きながら、必死に自分に言い聞かせた。
これは古い家だ。少しくらい音がする。
雨漏りも、今のところ物置部屋だけ。
それも桶で受けている。布も敷いたし、床も拭いている。
大丈夫。
私は対応できている。
そう思った時だった。
台所の隅で、ぽつん、と音がした。
私は固まった。
今のは。
物置部屋ではない。
台所だ。
ゆっくり振り返る。
暖炉から少し離れた壁際。棚の横。
床板の上に、小さな濃い点ができていた。
ぽつり。
もう一滴、落ちる。
「……そこも?」
台所。
そこは困る。
物置なら、濡れて困るものを移せばいい。
でも台所には、鍋も食材も火もある。
暮らしの中心に水が落ちてくるのは、困る。
とても困る。
私は急いで小さな器を置いた。
上を見ると、天井板の継ぎ目が少し濡れている。
暖炉からは離れていた。
火に直接水が落ちる場所ではない。
それだけは幸いだった。
けれど、もし雨がさらに強くなったら。
もし別の場所からも落ちてきたら。
私はしばらく立ち尽くした。
胸の奥が、きゅっと縮む。
大丈夫。
大丈夫。
一人でできる。
私はここで暮らすと決めた。
誰かが用意した安全な宿には戻らない。領主館にも行かない。誰かに全部守ってもらう生活には戻らない。
――だから、これはすべて私がどうにかする。
私は布を取り、台所の床を拭いた。
物置部屋。
ぽた、ぽた。
台所。
ぽつん、ぽつん。
鳥除け。
ちりん、ちりん。
窓。
がたがた。
音が増えていく。
家のあちこちから、私を急かすように音がする。
私はランプを持って、天井を見上げた。
そして、玄関脇に立てかけてある古い梯子が目に入った。
今朝、触れないと約束した梯子。
あれで屋根に登るつもりはない。
ぜったにに、ない。
でも、軒下なら。
外へ出て、少し見上げるだけなら。
どこから水が流れているか確認するだけなら。
私は梯子に近づきかけた。
その瞬間、低い声が頭の中で響いた。
――梯子には触れないでください。
――約束ですか。
足が止まった。
自分でも驚くほど、ぴたりと止まった。
「……触れないわよ。」
誰もいない玄関で、私は小さく言った。
「約束したからじゃないわ。危ないからよ。」
そう。
危ないから。
それだけだ。
私は梯子から離れ、桶の代わりになるものを探しに行った。
その夜は、長かった。
何度も桶を確認し、布を替え、床を拭いた。
台所の雨漏りは大きくならなかったが、止まりもしなかった。
物置部屋の桶には、水が少しずつ溜まっていく。
眠ろうとしても、音が気になって目が冴えた。
私はとても疲れていた。
雨漏りの不安。
家のあちらこちらから響く音。
そして、外の嵐のような雨。
――なんで、こんなことをしているのだろう。
冷たく濡れた布を持ち、急かすような音に溢れた部屋の中心に、ふ、と立ち尽くした時。
ざあっと、胸の奥へ波のような不安が押し寄せてきた。
自分がこんなことをする意味はあるのだろうか。
ただ意地を張って。
誰にも頼らないふりをして、他人の手を煩わせて。
惨めな姿で、濡れた床を拭いている。
そう思った瞬間、私は唇を噛んだ。
違う。
決めたではないか。
もう、周りや過去に振り回されない。
誰かに価値を決められるのではなく、自分で生きていくのだと。
これは、そのための暮らしだ。
惨めだからしているのではない。
意地だけでしているのでもない。
私が、私の足で立つためにしていることだ。
けれど、頭ではそう思っても、胸の奥に溜まった不安は消えなかった。
疲れているからだ。
きっとそうに違いない。
こんなことを考えるなんて、疲れているからだ。
その時、突如ごおっと今までで一番強い風が吹いた。
家全体が、みしりと軋む。
壁なのか、屋根なのか。
古い木が悲鳴を上げるような音に、心臓が跳ねた。
もしかして、台所の水が増えていたらどうしよう。
私は焦って立ち上がった。
だが、一歩踏み出した瞬間、濡れた布の端に足を取られた。
「っ!」
体が大きく傾く。
次の瞬間、私は床に手をついていた。
置いていた水受けに腕が当たり、ぱしゃり、と音を立てて水がこぼれる。
「あ……。」
濡れた床。
倒れた器。
散った水。
体から力が抜けた。
しばらく、私はその場に座り込んだまま動けなかった。
早く拭かないと。
立ち上がって、床を拭いて、もう一度台所を見に行って。
頭の中には、やるべきことが次々に浮かんでいる。
それなのに、足が動かない。
遠くで雷鳴が響いた。
低く、重く、腹の底にまで届くような音。
びくりと体がすくんだ。
嵐の夜。
冷たく響く雷鳴。
それは、忘れたはずの記憶を、無理やり引きずり出した。
幼い頃、母は私が望まないことをした時や、期待に応えられなかった時、公爵家の旧棟の一室に私を閉じ込めることがあった。
そこは長く使われていない部屋だった。
冷たく、埃っぽく、家具には白い布がかけられていた。
扉を閉められると、窓から入る薄い光だけが頼りになる。
閉じ込められる時間は、母の気分で決まった。
短い時もあれば、長い時もあった。
幼い私にとって、その部屋はとてつもなく恐ろしい場所だった。
その日、私はなぜ母を怒らせたのか、もう覚えていない。
ピアノを一音間違えたのかもしれない。
家庭教師の質問に、うまく答えられなかったのかもしれない。
泣いて縋った。
謝った。
いい子になるから、と何度も言った。
けれど、その日は許されなかった。
そして、その日は嵐だった。
外では風が唸り、雨が窓を叩き、雷が何度も鳴った。
古い窓枠が揺れるたび、私は部屋の隅で耳を塞いだ。
怖い。
出して。
ごめんなさい。
もうしないから。
暗い部屋の中で、私はただ泣きながら震えていた。
翌日、扉が開いても、母は何も言わなかった。
心配する言葉もなかった。
抱きしめられることもなかった。
ただ、次の予定に遅れないよう支度をしなさい、と言われただけだった。
私は愛情が欲しかった。
ただ、こちらを見てほしかった。
けれど、それを欲しがることすら、いつの間にか恥ずかしいことになっていた。
「……本当に、一体何をしていたのかしら。」
床に座り込んだまま、私は呟いた。
そして今も。
一体。
何をしているのだろう。
口に出せない感情が、落ち続ける雫のように胸の中へ溜まっていく。
ぽつり。
ぽつり。
桶の音がする。
ちりん。
ちりん。
鳥除けの鈴が鳴る。
私は濡れた床の上で、しばらく動けなかった。
――でも。
私は濡れた手を見た。
あの部屋には、鍵がなかった。
私の手に、扉を開ける力はなかった。
けれど今は違う。
この家の鍵は、私が持っている。
扉も開けられる。
窓も開けられる。
火もつけられる。
水も捨てられる。
誰かに閉じ込められているのではない。
私は、自分でここにいる。
震える手で布を引き寄せる。
こぼれた水を拭く。
器を起こす。
もう一度、水受けを置く。
たったそれだけのことに、ひどく時間がかかった。
それでも、動けた。
ひとつずつなら、まだ動ける。
そうしているうちに、朝は来た。
窓の外が少しずつ白み、雨音が弱まり、森の鳥が一声鳴いた時、私はようやく大きく息を吐いた。
床を拭く。
水を捨てる。
布を替える。
台所を見る。
物置を見る。
ひとつずつ。
ひとつずつなら、まだできる。
私は自分にそう言い聞かせながら、冷えた手で濡れた布を絞った。
暖炉に火を入れ直し、湯を沸かす。
眠い。
とても眠い。
でも、寝ている場合ではない。
今日は職人が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
ローレンスからの返事も待たなければならない。
湯気の立つ湯を見ながら、ぼんやりした頭で予定を考える。
その時、森の道から馬の蹄の音が聞こえた。
静かで、規則正しい音。
私は少し緩慢な動きで窓の外を見た。
雨上がりの朝。
庭はしっとり濡れている。
鳥除けの古布は水を含んで少し重そうだが、まだ立っている。
柵も無事。
畑の芽も、おそらく今のところ倒れてはいない。
そして、森の道から黒馬とヴィルヘルムが現れた。
今日も来た。
こんな朝にも。
濃い外套の肩には、まだ雨粒が残っている。
黒馬の脚にも泥がはねていた。
ヴィルヘルムは柵の外で馬を止めると、いつものように黒馬の首を撫でた。
その仕草を見て、私はなぜか少しだけ力が抜けた。
安心したわけではない。
ただ、いつものものが来たと思っただけだ。
面倒な知り合い。
監視役。
見守りなどという変な言葉を、外向きの表現として採用しかけている男。
その男が、雨上がりの朝にまた来た。
私は玄関へ向かった。
扉を開けると、湿った空気が入ってくる。
ヴィルヘルムは柵の外からこちらを見た。
「おはようございます、レベッカ嬢。」
「おはようございます、面倒な知り合い殿下。」
しまった。声が少しかすれた。
自分でも分かった。
ヴィルヘルムの目が、すぐに細くなる。
いつもと同じ、確認する目。
だが今日は、いつもより早かった。
「眠っていませんね。」
挨拶の次にそれか。本当に気が抜ける。
私は慌てて眉を寄せた。
「開口一番、失礼ですね。」
「顔色が悪い。」
「雨漏り対応で少し寝不足なだけです。」
「少しではありません。」
「見すぎです。」
「確認です。」
「外向きには?」
ヴィルヘルムは少しだけ黙った。
「……今は、その余裕がありません。」
低い声だった。
私は言葉に詰まった。
ヴィルヘルムは柵の外から家を見た。
物置の軒先。
台所の方の壁。
外へ出した濡れ布。
水を捨てた桶。
彼の視線が、それらを順に追う。
「台所にも落ちましたか。」
「なぜ分かるのですか。」
「濡れた布の量と置き方が、物置の分だけではない。」
「……本当に見すぎです。」
「入って確認しても?」
「駄目です。」
即答した。
ヴィルヘルムは黙った。
私は一瞬、言いすぎたかと思った。
けれどここは私の家だ。私は小さく溜息を吐いた。
「……家の中には入れません。」
「承知しました。」
彼はあっさり頷いた。でも立ち去らない。
当然のように、柵の外から家を見ている。
一歩も踏み込まない。
けれど、一歩も退かない。
その距離感が、今朝は妙に疲れた胸に引っかかった。
本当は、一人で全部対応できると言いたい。
けれど、昨夜の雨漏りは怖かった。
物置だけでなく、台所まで水が落ちた。床も濡れた。桶も足りなくなりかけた。
今も眠くて、頭が本当に重い。
家の中は片づけ途中で、人に見せられる状態ではない。
でも、屋根の状態は確認しなければならない。
職人が来るまでに、濡れて困るものをさらに移さなければならない。
ヴィルヘルムは柵の外にいる。
入らない。
私が駄目だと言えば、ちゃんと止まる。
そのことだけは、もう分かっている。
私は深く息を吸った。
「……玄関までなら。」
自分の声が、小さく聞こえた。
ヴィルヘルムの表情が、ほんのわずかに変わった。
「よろしいのですか。」
「玄関までです。敷居を越えて、すぐの場所まで。台所にも物置にも入らないでください。見るだけです。」
「承知しました。」
「本当に?」
「はい。」
「勝手に奥へ入ったら、追い出します。」
「承知しています。」
私は門の鍵を開けた。
ヴィルヘルムは黒馬を柵の外の木陰に繋いだ。馬の首を一度撫で、それからこちらへ歩いてくる。
雨上がりの庭。
濡れた草。
鳥除けの鈴。
直したばかりの柵。
その中を、彼がゆっくり歩いてくる。
外套の裾が濡れた草に触れる。靴に泥がつく。
それでも、彼は少しも嫌そうな顔をしない。
玄関の前で、ヴィルヘルムは足を止めた。
私を見る。
確認を待っている。
私は扉を開けた。
「そこまでです。」
「はい。」
ヴィルヘルムは敷居を越えた。
初めて、彼が私の家の中に入った。
ほんの玄関先。
扉一枚分。
それだけなのに、家の中の空気が少し変わった気がした。
背の高い彼が立つと、狭い玄関が急に小さく見える。
濃い外套。
淡い金髪。
雨の匂い。
外の冷気。
そして、王宮の空気をどこかに残した気配。
この古い家に、まるで似合わない。
似合わないのに、彼は静かに立っていた。
言われた通り、それ以上進まない。
本当に一歩も。
「……本当に止まるのですね。」
思わず言うと、ヴィルヘルムは私を見た。
「止まるように言われましたので。」
「あなたは、時々とても律儀ですね。」
「時々。」
「……いつもではありません。」
「……承知しました。」
そこでまた真面目に答える。
私は少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに物置部屋の音がした。
ぽつり。
まだ落ちている。
ヴィルヘルムの視線が、音の方へ向いた。
だが、足は動かさない。
私が台所にも物置にも入らないでと言ったからだ。
「音が増えています。」
「物置と、台所の隅です。」
「台所にも。」
「小さいものです。」
「小さくても、床に染みると傷みます。」
「布を敷きました。桶も置きました。」
「見ても?」
「……ここからなら。」
私は少し体をずらし、玄関から台所の隅が見えるようにした。
かなり遠い。
しかし、背の高いヴィルヘルムには見えるらしい。
彼はわずかに首を傾け、台所の天井と床を確認した。
「火から離れているのは幸いです。」
「はい。」
「ただ、台所の棚は少し移した方がいい。壁を伝って落ちる可能性があります。」
「分かりました。」
「物置は?」
「桶を二つ置いています。」
「床に布は?」
「敷いています。」
「濡れた布はすぐ外へ?」
「出しました。」
「梯子は?」
「…………触っていません。」
ヴィルヘルムの視線が私へ戻った。
「約束を守ってくださったのですね。」
その言い方が妙に静かで、私は少しだけ戸惑った。
「危ないからです。」
「はい。」
「けっして約束したからではありません。」
「はい。」
「……でも、触っていません。」
「ありがとうございます。」
また礼を言った。
なぜ礼を言うのか。
梯子に触らなかったのは私の安全のためで、彼のためではない。
なのに、その「ありがとうございます」が、胸に少しだけ残ってしまう。
私は咄嗟に顔をそらした。
「とにかく、職人が来るまではなんとかします。ローレンスさんが今日か明日には連絡をくれるはずです。」
「それまでの応急対応が必要です。」
「分かっています。」
「桶はあと二つありますか。」
「小さいものなら。」
「台所の棚を移すなら、手を貸します。」
「結構です。」
即答した。
ヴィルヘルムはやはり引いた。
「承知しました。」
本当に引く。
決して無理に入らない。
手伝うと言う。
でも断れば止まる。
その距離感が、昨夜の雨で疲れた心には少しだけありがたかった。
……認めたくはないけれど。
私は棚を見た。
重い。見るからに重い。
大きな棚ではないが、中身を出さなければ動かせない。
眠い頭で一人でやるには、少し面倒だ。
けれど、頼めば彼は台所まで入ることになる。
それはまだ早い。
いやいや。早い、という言い方も変だ。彼を入れる予定は今後もけっしてない。
「中身を出せば動かせます。自分でやります。」
「では、重いまま動かさないでください。」
「はい。」
「足元が濡れているなら、先に拭いてください。」
「はい。」
「眠い時は、判断が遅れます。」
「……はい。」
「少し休んでください。」
その最後の言葉だけ、少し違って聞こえた。
命令ではない。
確認でもない。
ただ、低く静かな声だった。
私は口を開きかけ、閉じた。
「休む余裕はありません。」
「少しでも。」
「雨漏りがあります。」
「桶が受けています。」
「台所にも落ちています。」
「火から離れています。」
「……職人が来るかもしれません。」
「来るまでは休めます。」
「……。」
全部、正しい。
腹立たしいほど正しい。
私は反論できなくなった。
ヴィルヘルムは玄関先に立ったまま、淡々と言った。
「今すぐ倒れる状態ではないでしょう。ですが、万が一あなたが倒れれば、状況は悪化します。」
「それは……実用的な休息ですね。」
「はい。」
「あなたは本当に、優しいのか冷たいのか分かりません。」
言ってから、しまったと思った。
ヴィルヘルムは少しだけ目を伏せた。
「優しくはありません。」
静かな声だった。
胸に小さな棘が刺さる。
私は何も言えなかった。つい、あの夜のことを思い出してしまったから。
「私は、必要だと思うことを言っているだけです。」
「……それが時々、人を助けます。」
気づけば、そう言っていた。
ヴィルヘルムが顔を上げる。
青い瞳が、少しだけ揺れた。
私はすぐに視線を逸らした。
「時々です。」
「はい。」
「……いつもではありません。」
「承知しました。」
なぜか、彼の声が少しだけ柔らかかった。
私はますます落ち着かなくなった。
その時、玄関の外からマーサの声がした。
「レベッカ、いるかい! 雨漏りどうだい!」
助かった。
私は心からそう思った。
「います!」
扉を開けたままだったので、マーサは玄関先に立つヴィルヘルムを見て、目を丸くした。
それから、にやりと笑う。
「おや、ついに家に上げたのかい。」
「玄関だけです。」
私は即座に言った。
「そこまでです。台所にも物置にも入れていません。」
「はい。玄関までです。」
ヴィルヘルムまで真面目に補足した。
マーサは目を丸くしたあと、声を出して笑った。
「二人そろって、何をそんなに律儀に説明してるんだい。」
「大事なことです。」
「大事なことです。」
今度は私とヴィルヘルムの声が重なった。
マーサはさらに笑った。
私は顔が熱くなった。
ここは重なる必要はない。
全くない。
「まあいい。職人の件だけどね、ローレンスが手配してくれたよ。今日の午後、見に来るってさ。」
「本当ですか!実は台所も雨漏りが始まってしまって……」
私は思わず声を上げた。
よかった。
かなり早い。
胸の重さが少しだけ軽くなる。
「ただし、雨が残るなら、屋根には登れない。外から見て、応急処置の段取りだけになるかもしれないね。」
「それでも助かります。」
「うん。で、台所も漏れたって?」
「はい。隅だけですが。」
「見せな。」
マーサは当然のように家へ入ろうとした。
私は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「お願いします。」
マーサは近所の女性であり、家の事情も知っている。
ヴィルヘルムとは違う。
その線引きは、自分でもよく分かっている。
マーサは靴の泥を落として、台所へ入った。
もちろんヴィルヘルムは玄関先から動かない。
私はその場に残る彼を見た。
「……あなたは、そこで――」
「はい。」
言う前に答えた。
そして本当に動かない。
背の高い王子が、古い家の玄関先で、濡れた外套のまま立っている。
少し申し訳ないような気持ちになる。
でも、入れるわけにはいかない。
入れたくない。
そう思う一方で、濡れたまま立たせるのもどうなのかと思う自分がいる。
非常に面倒だ。
自分の心が。
マーサは台所の隅を見て、天井を確認し、床を踏んだ。
「今のところは大丈夫だね。棚は少し動かした方がいい。中身を出せば、あんた一人でもいけるだろうけど、今日は寝不足だろ?」
「少しだけです。」
「嘘だね。」
「……じつはかなり。」
「正直でよろしい。」
マーサは棚の中身を次々に出し始めた。
私も手伝う。
皿。
小鍋。
乾燥豆。
塩。
油。
木匙。
それらを机の上に移す。
玄関先のヴィルヘルムは、まっすぐ前を見ている。
だが、たぶん全部見えている。
手伝えない場所で、手を出さずに立っている。
その姿が、なぜか少しだけ不憫に見えた。
不憫。
誰が。
ヴィルヘルムが。
私は自分の思考に驚いた。
面倒な知り合いを不憫に思う必要はない。
「よし、少し持ち上げるよ。」
マーサが言った。
私は棚の端を持った。
中身を出しても、それなりに重い。
「せーの。」
少し動く。
床が湿っているので、滑らせながら移す。
ぎぎ、と木が軋む。
「あと少し。」
「はい。」
私が力を入れようとした時、玄関先から低い声がした。
「足元。」
私は反射的に足を見る。
濡れた布の端を踏みかけていた。
そのまま力を入れれば、滑ったかもしれない。
私は足をずらした。
「……ありがとうございます。」
「いいえ。」
「でも見すぎです。」
「はい。」
認めた。
マーサが笑いながら言った。
「玄関からでも役に立つねえ。」
「本当に面倒です。」
「便利だよ。」
「……便利だから面倒なのです。」
棚は無事に移動できた。
台所の雨漏り箇所から少し離し、床の水も拭く。
これでひとまず安心だ。
私は少し腰を伸ばした。
眠気と疲れで、体が重い。
マーサは私の顔を見て、きっぱり言った。
「レベッカ、あんた少し横になりな。」
「でも。」
「職人は午後。今やれることはやった。三十分でも寝る。」
「しかし。」
「返事。」
「……はい。」
勝てない。
マーサには勝てない。
私は渋々頷いた。
その時、玄関先のヴィルヘルムが言った。
「私は外で待ちます。」
「待たなくて結構です。」
「職人が来るまで、屋根の外側を確認しています。」
「雨が降っています。」
「小雨です。」
「濡れます。」
「問題ありません。」
「問題あります!」
思わず言ってしまった。
ヴィルヘルムが私を見る。
マーサも私を見る。
私は一瞬で後悔した。
「……見守りに支障が出ると困る、という意味です。」
「はい。」
ヴィルヘルムは静かに頷いた。
「では支障が出ない範囲で対応します。」
そういうことではない。
……いや、そういうことにしておく。
マーサが何か言いたそうに笑っている。
私は見ないふりをした。
ヴィルヘルムは玄関から外へ出た。
外套の肩に小雨が落ちる。
彼は黒馬のそばへ行き、荷から布の覆いを取り出した。
それを黒馬にかけ、濡れた首筋を軽く撫でる。
……自分は少し濡れているのに、馬を先に雨から守る。
私は窓越しにそれを見てしまった。
見てしまったことに気づき、すぐに寝台の方へ向かう。
寝る。
私は寝るのだ。
面倒な知り合いが馬に優しいところなど、今考える必要はない。
寝室へ向かう前、私は玄関近くで一度だけ振り返った。
扉は半分開いている。
その向こうで、ヴィルヘルムが外から屋根を見上げていた。
灰色の雨の中、濃い外套をまとい、淡い金髪に雨粒を受けながら。
古い家の屋根を、真剣に見上げている。
その姿は、やはりこの家には似合わない。
けれど、なぜか不思議と頼もしかった。
私はそれを認めたくなくて、小さく呟いた。
「……ただの雨漏り確認よ。」
そして、寝室へ向かった。
三十分だけ眠ろう。
そう思って横になった。
雨音が遠くなる。
鳥除けの鈴が、ちりんと鳴る。
桶が、ぽつりと鳴る。
外では、面倒な知り合いが屋根を見上げている。
私が引いた線を、一歩も越えずに。
それなのに、すぐそこにいる。
その距離が、なぜか少しだけ、眠りに落ちる前の私を安心させた。
昨晩からの胸の痛みが、少しだけ軽くなった気がした。




