第二十一話 往復四時間の監視
三十分だけ眠るつもりだった。本当に、そのつもりだった。
けれど目を開けた時、部屋の中の光は少し変わっていた。
雨音はまだ続いているが、眠る前より少し弱くなっている。
鳥除けの鈴が、遠くでちりんと鳴った。呼応するように物置部屋の桶が、ぽつり、と鳴る。
私は寝台の上でしばらく瞬きをした。
体が重い。頭の奥がぼんやりしている。
けれど、胸のあたりにあった冷たい塊は、ほんの少しだけ小さくなっていた。
眠れたのだ。
少しだけでも。
――久しぶりに、夢を見なかった。
そのことに気づいた瞬間、体の重さとは別のところで、小さく息が抜けた。
私はゆっくり起き上がった。
寝台の横に掛けていた外套へ手を伸ばし、肩に羽織る。
昨夜はほとんど眠れなかったせいで、体はまだ夢と現実の間にいるようだった。
「……どのくらい寝たのかしら。」
窓の外を見る。
雨はほとんど止みかけていた。
庭の草は濡れ、鳥除けの古布は水を含んで少し重そうに揺れている。柵も立っている。
私はほっと息を吐いた。
次に、物置部屋へ行く。
桶はいっぱいではない。だが、底には確かに水が溜まっていた。
台所の隅の器にも、少し水が落ちている。
棚はマーサと動かしたので、濡れる心配はひとまずない。床も、今のところ大丈夫そうだ。
私は濡れた布を替え、桶の位置を少し直した。
ひとつずつ。
ひとつずつなら、まだ動ける。
昨夜、濡れた床に座り込んだ時は、もう何もできないような気がした。
でも朝は来た。少し眠った。今、私はまた動いている。
それだけで十分だ。
台所へ戻ると、マーサが鍋を覗いていた。
「ああ、起きたかい。」
「すみません。どのくらい眠っていましたか。」
「一時間ちょっとだね。」
「そんなに。」
「足りないくらいだよ。」
マーサは当然のように言った。
「湯は沸かしておいた。何か口に入れな。」
「ありがとうございます。」
「顔色、少しましになったね。」
「……そうでしょうか。」
「少なくとも、さっきよりは人間に戻った。」
「私は何だったのですか?」
「雨漏りに魂を吸われた亡霊。」
「ひどい。」
思わず笑ってしまった。
笑えるくらいには、少し戻ってきている。
私は湯を器に注ぎ、乾いたパンを少しだけ食べた。胃が驚いている。
昨夜からまともに食べていなかったことに、今さら気づいた。
マーサが台所の隅を見た。
「職人は午後遅くになるってさ。雨が弱まってから来る。屋根には登れないかもしれないけど、外から見て応急の段取りはつけてくれるだろう。」
「助かります。」
「それまで、あんたは無理に動かない。」
「はい。」
「返事だけじゃないよ。」
「……はい。」
マーサには逆らえない。私は素直に頷いた。
そこで、ふと気づいた。
玄関が静かだ。
先ほどまで玄関先に立っていたはずのヴィルヘルムの姿がない。
帰ったのだろうか。
それならそれでいい。雨も降っているし、彼にも仕事があるだろう。
いや、そもそも毎日、彼は何をしているのだろう。
私は湯を飲みながら、窓の外を見た。
そして固まった。
いた。
庭の外。柵の向こう。ヴィルヘルムは、まだそこにいた。
黒馬のそばに立ち、外から屋根を見上げている。
雨は弱まったとはいえ、まだ細く降っていた。
彼の外套の肩は濡れている。淡い金髪にも、小さな雨粒がついていた。
黒馬にはまだ革の覆いがかけられている。
自分は濡れているのに。相変わらず、馬には優しい。
私は器を置いた。
「……まだいる。」
「ああ、いるね。」
マーサは驚いた様子もなく言った。
「ずっとですか。」
「ずっとだよ。あんたが寝てる間、屋根を見上げたり、雨樋を見たり、馬の様子を見たりしてた。」
「帰ればいいのに。」
「そう言うなら、自分で言っといで。」
マーサは少し意地悪く笑った。
私は気まずくなって口を閉じた。
正直、少しだけ胸がざわついた。
濡れている。
ずっと外にいた。
私が眠っている間も。
なぜ。
監視だから。
確認だから。
面倒な知り合いだから。
そう並べてみても、どれもぴったりこない。
分からない。
……分からないことが増えるのは、好きではない。
私は玄関へ向かった。扉を開けると、小雨の冷たい空気が入ってくる。
ヴィルヘルムがこちらを見た。
「起きたのですね。」
「起きました。」
「少し顔色が戻りました。」
「……見すぎです。」
「確認です。」
いつものように言い返そうとして、私は途中で止めた。今はそのやり取りをする気力が少し足りない。
「雨が弱まっています。職人が来れば、外からの確認はできるでしょう。」
「マーサ殿から聞きました。午後遅くになるそうですね。」
「はい。」
「あなたは、まだいるつもりですか?」
「職人が来るまでは。」
「なぜですか。」
「屋根の状態を、職人に説明できるようにしておいた方がよいかと。」
「ローレンスさんもマーサさんもいます。」
「はい。」
「もちろん私もいます。」
「……はい。」
「あなたがいる必要はありません。」
言ってから、少しきつかったかもしれないと思った。
だが、ヴィルヘルムは表情を変えなかった。
「……必要がなければ、離れます。」
「離れるなら、帰ってください。」
「……今ですか。」
その問い方が、少し引っかかった。
「はい。雨も降っていますし、お仕事もあるでしょう。」
何気なく言った。本当に何気なく。
けれど、ヴィルヘルムは一瞬だけ黙った。
なぜだろう。その沈黙が、妙に長く感じられた。
「仕事は、戻ってから行います。」
「戻ってから?」
「はい。」
「ここで何かしているわけではないのですか。」
「ここでは、あなたの確認だけです。」
「では、戻ってから執務を?」
「はい。」
私は眉をひそめた。
戻ってから。
どこへ。
近くの詰所だろうか。街の宿だろうか。
そういえば私は、彼がどこから来て、どこへ帰っているのか、ちゃんと聞いたことがなかった。
いつも当然のように現れる。朝、黒馬と一緒に。
そして、当然のように帰る。
だから、あまり深く考えていなかった。
「どちらに戻るのですか。」
「公爵領館です。」
「公爵領館?」
「はい。」
――公爵領館。
私はその言葉を、少し遅れて理解した。
ここは、もうエルセリア王国ではない。
十五年前にエルセリア王国とアインシュヴァルドの間で始まった戦争は、当初こそ大国アインシュヴァルドの圧勝に見えた。
しかし、同国に飢饉と疫病が重なり、戦は長期化した。
これ以上続けても互いに被害を増やすだけだと、勝敗を決さぬ形で和平が結ばれた。
その時、人的担保としてエルセリア王国は自国の第二王子を差し出した。
そして、同じだけの担保を要求した。アインシュヴァルドは最後まで渋ったと聞いている。
けれど結局、当時八歳だった第三王子ヴィルヘルムを差し出した。
期限は十年。
王子の誕生日の翌日が、和平条約の成立日であり、終戦記念日でもある。それくらいのことは、王妃教育の中で嫌というほど覚えた。
だから、分かる。
ヴィルヘルムは、十年ぶりに自国に戻ったばかりなのだ。
本来なら、王都へ戻っていてもおかしくない。
いや。
戻っていなければ、おかしい。
「殿下。もしかして、一度も王宮へ戻られていないのですか。」
ヴィルヘルムは黙った。
その沈黙だけで、答えは分かった。
「……仕事はこちらでもできますから。」
帰っていないのだ。
十年も帰れなかった故郷に。
戻っていない。
「兄が立太子した後、私は跡継ぎのいないエルヴァルト公爵家に養子として入ることが決まっています。」
「それで?」
「現公爵から、少しずつ仕事を引き継いでいます。」
「ここは、エルヴァルト公爵領なのですか。」
「はい。西端です。」
なるほど。
私が追放先として運ばれてきたこの街は、エルヴァルト公爵領だったのか。
地図を確認する余裕もなかった。
借りた家の屋根と床と畑のことで頭がいっぱいだった。
だから、考えなかった。
考えなかったけれど。
この人は、私がこの街へ到着してすぐにやって来た。
それから、毎日この家まで来ている。
毎日。
「……王室の仕事は?」
「書簡で対応できるものは、こちらで。」
「多いのでは?」
「長らく不在にしていましたので、そう多くはありません。」
ヴィルヘルムの視線が、ほんの少し落ちた。
これは嘘だ。
私は確信した。
領地経営を引き継ぎながら、第三王子としての仕事も並行している。暇なはずがない。
暇なはずがない人が、毎日ここへ来ている。
「……公爵領館は、ここからどのくらいですか。」
ヴィルヘルムは更に少しだけ視線を伏せた。
「馬で一刻ほどです。」
私は瞬きをした。
なんだろう。聞き間違えただろうか。
いや、聞き間違いに違いない。
「一刻……二時間?」
「はい。」
「片道?」
「はい。」
雨音が、急に遠くなった気がした。
私は扉の前に立ったまま、ヴィルヘルムを見た。
彼はいつも通りの顔をしている。
濡れた外套。
雨粒のついた金髪。
静かな青い目。
何でもないことのように、馬で二時間、と言った。
「では、あなたは……毎日、片道二時間かけてここへ来ているのですか。」
「はい。」
「帰りも?」
「はい。」
「往復四時間?」
「そうなります。」
「そうなります、ではありません!」
私は思わず声を強くした。
マーサが台所の奥で気配を消したのが分かった。
絶対に聞いている。
しかし今は気にしていられない。
「往復四時間もかけて、何をしているのですか。」
「監視です。」
「外では言わない約束です。」
「ここは外です。」
「そういう問題ではありません!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ヴィルヘルムは少しだけ目を見開いた。
私は胸がどきどきしていた。怒りなのか、驚きなのか、分からない。
往復四時間。
毎日。
雨の日も。芽の日も。柵の日も。市場の日も。今日も。
私が眠っている間、外で屋根を見上げていた時間まで含めれば、一体どれだけ。
「あなた、馬鹿なのですか。」
口から出た。
かなり失礼だった。
でも止まらなかった。
ヴィルヘルムは少し考えた。
「合理的ではない自覚はあります。」
「自覚があるなら、なぜやめないのですか。」
「必要だと判断したからです。」
「何が必要なのですか。私の畑の芽を見ることが? 柵を見ることが? 鳥除けを見ることが? 雨漏りの屋根を見ることが?」
「はい。」
「はい、ではありません。」
「レベッカ嬢。」
「何ですか。」
「あなたがこちらで生活を始めてから、危険箇所は複数ありました。」
「古い家ですから。」
「一人では対応が難しいものもありました。」
「マーサさんもローレンスさんもいます。」
「はい。だからこそ、近隣との関係が良好であることも確認しています。」
「それも監視ですか。」
「はい。」
淡々と答える。
淡々と。
まるで報告書の項目を読み上げるように。
けれど、往復四時間だ。
毎日。
それは、報告書だけで済む距離ではない。
私は混乱した。非常に混乱した。
「あなたは、カイエン殿下に命じられているから、そんなことをしているのですか。」
ヴィルヘルムの表情が、ほんのわずかに変わった。
「要請は、あります。」
「では、命令で。」
「ですが、確認頻度までは命じられていません。」
私は言葉を失った。
「……では、あなたの判断で?」
「はい。」
「往復四時間を?」
「はい。」
「毎日?」
「可能な限り。」
可能な限り。
その言葉が、胸の奥で妙に重く響いた。
私は扉の縁を握った。冷たい木の感触で、少しだけ現実に戻る。
「なぜ。」
やっと出た声は、小さかった。
ヴィルヘルムはすぐには答えなかった。
雨粒が彼の外套の肩を濡らしていく。
黒馬が静かに鼻を鳴らす。
鳥除けの鈴が、ちりん、と鳴る。
少しの沈黙のあと、ヴィルヘルムは言った。
「あなたが無茶をするからです。」
私は目を瞬いた。
「私が?」
「はい。」
「無茶など。」
「しました。」
即答だった。
「雨漏りの日に梯子へ近づきました。」
「……触っていません。」
「約束したので。」
「違います。私が危ないと判断したからです。」
「……はい。」
「それに、畑も柵も、生活に必要なことです。」
「必要なことを、限界を越えて行うことがあります。」
「……。」
「あなたは、自分が疲れている時でも、やるべきことを優先します。」
「当たり前です。」
「倒れれば、やるべきこともできなくなります。」
先ほども聞いた言葉だ。
正しい。
正しいが、腹立たしい。
それ以上に、今は少し苦しい。
「だから、あなたは毎日往復四時間かけて、私が倒れないか見に来ているのですか。」
「……その表現は、正確ではありません。」
「では、正確には?」
ヴィルヘルムは目を伏せた。
ほんの少しだけ、困ったように。
「分かりません。」
私は唖然とした。
「分からない?」
「はい。」
「自分でしていることなのに?」
「はい。」
この人は時々、自分でも分からないことをする。
畑の芽を見に来た時も、そうだった。
――私にも、正確には分かりません。
あの時と同じ。
私は深く息を吸った。
雨の匂いが胸に入る。
「……あなたは、本当に会話がしづらい方ですね。」
「よく言われます。」
「でしょうね。」
少しだけ、力が抜けた。
怒っていいのか。
呆れていいのか。
困ればいいのか。
分からない。
ただ、往復四時間という事実が、胸の中に重く沈んでいる。
私が昨夜、濡れた床の上で座り込んでいた時。この人はまだ公爵領館にいたのだろうか。
朝になって、雨の中を馬で二時間走ってきたのだろうか。
私の顔色を見て、眠っていないとすぐに気づいたのだろうか。
――それを全部、監視という言葉で片づけるのか。
私は喉の奥が詰まった。
「仕事に支障は出ないのですか。」
「調整しています。」
「調整で済む距離ではないでしょう。」
「執務の一部は夜に回しています。」
「夜に?」
「はい。」
「では、あなたもあまり眠っていないのでは?」
「問題ありません。」
「問題あります。」
また言ってしまった。
今度は、言ってからすぐ気づいた。
ヴィルヘルムもこちらを見る。
雨の中で、青い目がわずかに揺れた。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「監視に支障が出るとあなたが困る、という意味です。」
「はい。」
「心配しているからではまったくありません。」
「……はい。」
少しだけ、彼の声が柔らかかった。
私はますます落ち着かない。
その時、マーサが台所の奥から出てきた。
完全に聞いていた顔だった。
しかも、少しだけ真面目な顔をしている。
「殿下さん。」
「はい。」
「あんた、毎日そんな距離を来てるのかい。」
「はい。」
「馬が可哀想だね。」
そこか。
私は思わずマーサを見た。
ヴィルヘルムは真面目に頷いた。
「日によって馬を替えています。一頭に無理はさせていません。」
「ならいい。」
「そこですか、マーサさん。」
「馬は大事だよ。」
「それはそうですが。」
少しだけ空気が緩んだ。
マーサは私を見た。
「レベッカ。」
「はい。」
「あんたは、まず湯を飲みな。」
「今ですか。」
「今だよ。驚いた時は温かいものだ。」
マーサには逆らえない。
私は小さく頷いた。
ヴィルヘルムはまだ外にいる。
濡れたまま。
往復四時間の男が。
私は台所へ戻りかけ、足を止めた。
湯。
湯を飲む。
私が。
でも。
玄関の外を振り返る。
ヴィルヘルムは、玄関の外に立っている。
外套は濡れている。髪も少し濡れている。
それでも、静かに立っている。
出すべきか。
いや、出す必要はない。
彼は勝手に来ている。監視だと言っている。面倒な知り合いだ。
でも。
往復四時間。
雨。
寝不足。
――調整しています。
私は深く息を吐いた。
「……お湯を。」
小さく言った。
ヴィルヘルムがこちらを見る。
「はい?」
「お湯を、飲みますか。」
言ってしまった。
マーサの眉が上がる。
ヴィルヘルムの表情が、ほんのわずかに止まる。
私は慌てて続けた。
「外で。玄関先で。茶ではありません。ただのお湯です。雨に濡れていると、見守りに支障が出るのでしょう。」
ヴィルヘルムはしばらく黙っていた。
それから、とても静かに言った。
「いただいても?」
「出すと言っているのですから、飲んでください。」
「ありがとうございます。」
その一言が、いつもより深く聞こえた。
私は顔をそらした。
「ただの湯です。」
「はい。」
「特別な意味はありません。」
「はい。」
「あなたが倒れたら、馬が困ります。」
「馬が。」
「そうです。」
「承知しました。」
なぜか、彼の目元がほんの少しだけ和らいだ。
私は逃げるように台所へ戻った。
マーサがにやにやしている。
「何ですか。」
「いや、馬は大事だねえ。」
「馬が、大事なのです。」
「そうだねえ。」
私は無視して湯を器に注いだ。
温かい湯。
ただの湯。
茶葉も入っていない。砂糖も蜜もない。それでも、湯気が立つ。
私は器を持って玄関へ戻った。
ヴィルヘルムは、私が言った通り玄関先から奥へ入らずに待っていた。
濡れた外套のまま、背筋を伸ばしている。
私は器を差し出す。
彼は両手で受け取った。
手袋は外していた。
長い指が、陶器の器を包む。少し冷えた指先に、湯気が触れる。
「熱いです。」
「はい。」
「気をつけてください。」
「はい。」
「落とさないでください。」
「はい。」
「……返事ばかりですね。」
「飲んでも?」
「どうぞ。」
ヴィルヘルムは器に口をつけた。
ただの湯を、まるで儀式のように静かに飲んだ。
なぜ、ただの湯をそんなに丁寧に飲むのか。
王宮で高価な茶を飲んでいた時よりも、よほど慎重に見える。
一口飲んで、彼は器を少し下げた。
「温かいです。」
「湯ですから。」
「はい。」
「感想がそのままですね。」
「……安心、します。」
私は言葉を失った。
安心。
ただの湯で。
古い家の玄関先で。雨漏りの音がして、床に布が敷かれていて、私は寝不足で、彼は濡れていて。
そんな状況で。
ヴィルヘルムは、安心します、と言った。
胸の奥が変なふうに揺れた。
私は顔をそらした。
「……それは、よかったですね。」
「はい。」
「飲んだら、少しは雨の当たらないところにいてください。職人が来るまで外に立ち続ける必要はありません。」
「では、玄関の外の軒下にいます。」
「中ではなく?」
「中へ入る許可は、玄関先までです。」
律儀。
本当に律儀。
私はため息をついた。
「今も玄関先です。」
「はい。」
「そこにいて構いません。ただし、奥へは入らないでください。」
言った。
言ってしまった。
ヴィルヘルムの手が、器を持ったまま一瞬止まる。
「よろしいのですか。」
「濡れたまま外に立たれると、こちらが落ち着きません。」
「ご迷惑を。」
「そうです。迷惑です。だから中で湯を飲んでください。玄関先で。」
「承知しました。」
彼は、ほんの少しだけ頭を下げた。
私は扉を半分閉めた。
外の雨音が少し遠くなる。
玄関先には、ヴィルヘルムが立っている。
器を両手で持ち、ただの湯を静かに飲んでいる。
マーサが台所からこちらを見て、何とも言えない顔で笑っていた。
「何ですか。」
「いや。進歩だねえ。」
「……雨漏り対応です。」
「そうだねえ。」
「見守りに支障が出ると困るだけです。」
「そうだねえ。」
完全に信じていない。
私は顔が熱くなり、台所へ戻った。
雨はまだ降っている。
職人は午後に来る。
物置の桶はまだ鳴っている。
問題は何一つ片づいていない。
それなのに、玄関先に湯を飲む面倒な知り合いがいるだけで、昨夜より少しだけ、家の中の空気が冷たくない気がした。
私はそのことに気づかないふりをして、濡れた布をもう一枚絞った。
往復四時間。
その言葉だけが、頭の中でゆっくり回り続けていた。
監視にしては。
義務にしては。
罪悪感にしては。
――往復四時間は、あまりにも遠い。
遠すぎて、その距離の正体に名前をつけるのが、私は少しだけ怖かった。




